film | 世界の視え方
noteを書く頻度が月一程度に少なくなってきた。生活が充実しているともいえるし、僕自身が内省を深める時間が良くも悪くも減ったともいえる。
最近はもっぱらカメラのことばかりで、気付けば毎日カメラを携えて外出するようになった。1-2年前までは狭義の意味でのひきこもりだったということに自分でも驚きを隠せない。そして、きっと変わったのは世界の方じゃなくて、僕の方だ。
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1年程前にもカメラについて書いているので、よければ1年前の僕を感じてほしい。この頃にも書いているが、僕は基本的に「(写真を)撮影する」ことに興味がある。そして、技術的な仕組みや光学にも惹かれている。
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カメラを楽しむためには「(誰かを、何かを)撮ること」が必要だ。もちろんカメラそのものを愛でる人が居るのも確かだし、それ自身を否定することもない。カメラでカメラを撮影するという変態的なカメラへの愛を持つ人も居る(僕も)。
僕は元来、自分が写真に収められることに抵抗感が強い。自分の存在を誰かの記憶に留めておく価値なんてないと思っているし、「真実が写っている」写真に自分自身の容姿へのコンプレックスが刺激されて、とても傷付いた記憶もある。
僕は笑うのが苦手だから、カメラを構えられた状態で撮影されるとぎこちない笑顔がひどく気持ち悪く感じてしまう。誰かが何気なくスマホで撮影した写真には僕自身が自分としてちゃんと存在しているのに。
だから、友だちがポートレートを撮ってほしいと言われて嬉しくない訳がない。自分のことは嫌いだけど、他人のすてきなところはたくさん知っている僕だから撮れる写真がある。誰にだって、その人らしい表情がある。美醜とはまた違ったところだ。
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先日、大切な友人のプロフィール画像のポートレート撮影を依頼されて、僕は二つ返事で「やらせてほしい!」と応えた。心の通っている友だちだし、僕は彼が持つたくさんのすてきな笑顔や表情の特徴を知っていたからだ。
撮影条件や、シチュエーションが2日間の数時間でかなり変化したので、とにかく枚数を稼いで数打ち方式で撮影することにした。でも、結果的に選ばれたのは数打ちで撮影した写真ではなくて、僕がLeica M6 TTLでマニュアル撮影した写真だった。「僕が自分で選んだフィルムで自分で撮った」写真を選んでくれたという事実が心から嬉しかった。
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