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夏子の冒険、アサミのごんぼ

【一応読書記録】
或る昼下り、アサミがキムチチゲをすすりながら、
「あたくし、済州島でホームステイする。」
といい出した時には彼は「また始まったか」とため息をつき、チゲから立つ湯気ばかりが小さな食堂の壁にかけられたテレビの液晶をゆらゆらと曇らせていた。
アサミは27歳である。子供の時分から「ゴンボほり」の異名を持ち、どんなに痛い目に遭おうとも、自分がこうと決めたことは絶対に曲げない頑固娘であった。
「ゴンボほり」とは北海道弁で、意地っ張り、とか、駄々っ子、といった意味である。

アサミは在学中も就職後も、男性から言い寄られるということは一度もなかった。彼女が男たちを昆虫学者のような目で観察したにもかかわらず、である。
葉虫のような男がある。ゴミムシダマシのような青年がある。オオキノコムシのような学生がある。灰色瓢箪象虫のような青白い顔をした医者の卵がある。
そんな男たちはみな、アサミには見向きもせず通り過ぎ、アサミのまわりに集まるのは本物の虫だけで、男の姿を見たものはいなかった。

アサミが日本男児に失望し、隣国のヘラクレスオオカブトのような海兵隊出身の屈強な男の目の奥に燃える炎に心を溶かされ、「あたくし、韓国にお嫁に行く。その前に、一年間あちらに住む。」と日本を飛び出したのが、27歳の春のことだった。
アサミは、ヘラクレスオオカブトの生まれ育った国の文化に馴染むために、ありとあらゆることを体験しようとした。

彼女が済州島でホームステイしようとしたのは、WWOOF(ウーフ)という機関を通じて、農場体験をしながら現地の人たちと交流した知人の話を聞いたことがきっかけだった。
同じく日本から来た留学生と、都会で過ごすのではわかり得ない体験を求めて、発心した。

…そこでそう言い出したアサミの隣には、口を一文字に結んだヘラクレスオオカブトがいた。古ぼけた食堂の煤けたガラスからさし入る旭の光線が、しずかに上るチゲの湯気を目立たせていた。

「안돼. 시골엔 이상한 놈들이 많아.너무 위험해.」
(だめだ、変なやつもいるんだから危険だよ)

ヘラクレスオオカブトが言った。
しかし、反対するとますます固執するアサミは、彼の忠告を無視して着々準備をすすめ、その月の末─それは隣国に行って2ヶ月目のことだった─には、ひとり飛行機に乗り、済州島へと降り立っていた。

WWOOFから言い渡された住所を頼りに到着したのは、広大な農園にぽつんと佇む一軒の民家だった。一面棘棘しいパイナップルの葉が飛び出した田畑に囲まれたステイ先の敷地には、人ひとりが悠々と入れる大きさの伝統的な味噌壺が所狭しと置かれていた。
アサミがこれから一週間を過ごすのは、平屋の伝統家屋を改造した昔ながらの味噌醸造所で、50代の女性が一人で営んでいた。

室内にも壺がいくつも置かれており、外からは民家のように見えていたその家屋の中は壁などが取り払われ、倉庫のようなガレージのような、発酵した豆のにおいの漂うがらんどうの空間が広がっていた。
到着したのが夕方だったので、醸造所の案内が済むとすぐに女主人とともに近くの麺屋さんで夕食を摂った。近く、と言っても車で10分は行かねばならず、日が沈んで初めて気がついたが、醸造所の周囲は田畑に囲まれ、目を凝らしても明かり一つ見当たらなかった。

食後、女主人は醸造所で彼女を降ろし、自分は車に乗って家へと帰っていった。アサミは、周囲に何もない畑の真ん中にある夜の醸造所に一人取り残されてしまったのだ。
舞踏会でも開けそうなほど広々とした醸造所には、薄いせんべい布団が一組。チリチリとかすれる蛍光灯の明かりの下、布団の上にそろそろと上がる。いくつかある窓にカーテンはなく、ただただ真っ暗闇が見えている。ということは、向こうからは彼女の姿が丸見えのはずだ。流し台からぴちゃんぴちゃんと水の雫音が聞こえる。時折、ぶーんと羽虫か何かが傍らをかすめる。

その時になって、ヘラクレスオオカブトの言葉が脳裏をよぎる。
「何年か前に、田舎の農場で女の人が暴行されて惨殺された事件があったんだ。だから、そんなところに一人で行くのは止めたほうがいい。」

彼女は急いで立ち上がり、全ての外につながる扉、窓の戸締まりを確認する。照明を点けていると何かに守られているような安心感を覚えるが、一方では外から誰かに見られているような落ち着きのなさを感じる。かと言って、真っ暗にする勇気も起きない。
目に見えるもの、耳に聞こえるもの、肌に触れるもの、全てに敏感になり、じっとしていられなくなったアサミは、とうとう携帯電話を手に取り、ヘラクレスオオカブトに泣きついた。

「あたくし、帰りたい。一人でここにいるのが怖い」
「だから言っただろう。明日の朝、すぐにそこを出るんだ。」
「でも、一週間のお約束なのに…。」
「そんなこと言っていられないだろう。本当に君って人は、怖がりなくせにわからず屋なんだから。いいね、『こんなところにいられない』ってすぐに帰ってくるんだ。」

まんじりともせず朝を迎えたアサミは、WWOOF事務所へ連絡し、その場をすぐに撤収してヘラクレスオオカブトの元へと向かった……はずもなく、同じ済州島内の別家庭へと滞在先を変え、残りの日程を小学生のいる一般家庭で彼らと一緒に韓国語を勉強して過ごしたのだった。

なんのはなしですか

やはりアサミはゴンボほりだったが、
「あたくし、やっぱり農場でホームステイする。」とは二度と言わなかったし、結局は「あたくし、韓国にお嫁に行く。」ともならなかったはなし。

夏子の冒険。
三島由紀夫の書いた異色の恋愛コメディ。

これを読んだ読書のお仲間から、「行動力決断力に秀でて天真爛漫な夏子がアサミに似ている」という嬉しくも私の身の程に合わない素敵なお言葉をいただきました。

当時の札幌市内の様子や北海道各地の地名が何度も登場し、全編ほぼほぼ北海道が舞台のストーリーに、道産子として引き込まれずにはいられません。
そして、愛らしくもエキセントリックな夏子独特のキャラクターが要所要所でピリリとスパイスになって、ほんっとうに面白かった。
最後の数ページは、「あららららら…」と頭を抱えてしまいましたが。

夏子が私に似ているかどうか…に関しましては「頑固な性分だけちょっと似てるかな」というところでしょうか。
私は男たちを虜にしたことがありませんし、空気を読みすぎてワガママが言えない損な性格なので、むしろ夏子から学びたい、と思ったのでした。

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