【前半】ローマ精神医療の旅
時間軸がまたしても前後するが、ローマでどの遺跡、美術館よりも楽しみにしていた「サンタ・マリア・デッラ・ピエタ」(Santa Maria della Pietà)跡を訪ねたので、前半・後半に分けてたっぷりと書いていきたい。
5月下旬〜6月上旬:アメリカ
6月中旬〜7月上旬:シンガポール
7月上旬〜7月中旬:マレーシア(クアラルンプール&マラッカ)
7月中旬〜7月下旬:シンガポール
8月上旬〜8月中旬:ローマ
↑今回は、この時のことについての記事8月中旬〜:シンガポール
ローマ、永遠の都。
永遠に食べ続けられるように、胃腸薬の品揃えが豊富だった。
イタリアと日本、それぞれの精神医療
日本のソーシャルワーカーに取って、イタリアは「精神科病院を廃止した国」として非常にユニークな存在感を放っている。
※以下、近代的な意味での精神医療施設としての名称を「精神科病院」で統一。
「自由こそ治療だ」(La libertà è terapeutica)
「近づいてみれば誰1人まともな人はいない」(Da vicino nessuno è normale)
という力強いメッセージを目にしたことのある方も少なくないだろう。
法律によって精神科病院を廃止し、地域で完結するサポートシステムを構築する
——「理想的だが、日本では考えられない」と感じる方は多いだろう。「精神科病院大国」として名高い日本の精神医療の実態を見れば、さもありなん。すなわち、
世界の精神科病床のおよそ2割(OECD加盟諸国にある精神科病床の4割)が日本に集中
国内の精神科病院の8割、精神病床の9割(84%ともいわれる)は民間病院
精神科特例
(医師は一般病床の1/3、看護師・准看護師は2/3の配置数で良いと規定)長期の社会的入院
(2022年医療施設調査・病院報告では、精神病床の平均在院日数は277日)隔離、拘束の実態
入院患者の高齢化
(2018年には、全入院患者に占める65歳以上高齢者は6割を超えた)地域で暮らすクライエントが不安定になったり、激しい症状を呈した時は、入院ありきの支援になりやすい
精神科病院がなくなるとソーシャルワーカーの食いぶちもなくなる(切実)
といった、人権の制約・侵害が起こりやすい構造が維持されているためだ。
ちなみに、患者団体や、精神障害者の権利擁護団体から「強制入院の濫用」と言われている「医療保護入院」という入院形態の縮小の話は、いつの間にか消えてしまい、改正精神保健福祉法の運用が既に開始されている。
イタリアにおいて、メンタルケアや生活支援を当たり前に地域生活の中で受けられる体制は、どのようにして実現されたのだろうか。第 180 号法(いわゆるバザーリア法)成立の経緯はここでは割愛するが、イタリアの精神科病院の起源は「癲狂院」(Manicomio)に遡る。「狂人を世話する場所」という意味だが、当然看護的な側面と、管理・拘束的な側面が強く、近代的な意味での医療の場ではなかった。イタリアでも、「狂人は社会から隔離しておけばいい」という考えが長く続いており、浮浪者や乞食、外国人と一緒に収容されていた。その歴史を少しだけ覗いてみたい。
※イタリアでも、例外的に強制的医療介入(TSO、trattamento sanitario obbligatorio)が発動される場合がある。その場合、総合病院内に設置された15床以内の「診断と治療のための精神医療サービス」(SPDC、Servizio Psichiatrico di Diagnosi e Cura)とで行われる。総合病院内にあるが、病院の管轄ではなく地域の精神保健サービスの管轄である。
精神科病院サンタ・マリア・デッラ・ピエタ(Santa Maria della Pietà)の歴史
ローマ市内北西部、モンテ・マリオ(Monte Mario)に位置するこの精神科病院は「イタリア半島で最初の、精神障害者を収容する施設」で、20世紀後半に至るまで「存続していた。
その原点は遥か昔、「ローマ、アルマ・チッタの貧民、外国人、狂人の救護施設」(l'Hospitale de' poveri, forestieri et pazzi dell'Alma Citta di Roma)が、サンタ・カテリーナ・アイ・フナーリ教会(Chiesa di Santa Caterina dei Funari)に建設された1548年まで遡る。
1550年、コロンナ広場(Piazza Colonna)に移動。
Hospitaleという名前ではあったものの、あくまでも寝る場所や食事、介護を提供する場であって、近代的な意味での医療の場ではなかった。ちなみに、Hospitaleは、元々エルサレムをはじめとする聖地への巡礼者をもてなす宿泊施設のこと。後に、貧者や病人のケアを行うようになっていった。
1561年、ローマ法王庁によって「サンタ・マリア・デッラ・ピエタ癲狂院」(Manicomio Santa Maria della Pietà)が開設された。
1725年、教皇ベネディクト13世は、精神病者のための収容施設であるサント・スピリト収容院(Arcispedale di Santo Spirito)と統合し、当時市の中心部から遠く離れたルンガラ通りに施設を移転した。
18世紀後半までは、近代的な意味での「精神科病院」は存在しなかった。狂気はペストや結核のような伝染病と同じく、唯一の対処法は「隔離」であり、治療法は知られていなかった。
イタリア半島の一部を所有していたフランスなど各国で、社会制度改革が起こったいわゆる「フランス時代」(1809〜1814年)以降の時期に、イタリアの癲狂院や収容院は、浮浪者や乞食など見捨てられた者を世話し介護するそれまでの「Hospitale」から、あるタイプの「病気」を受け入れ、特定のやり方で治療する臨床の場所へとシフトしていった。サンタ・マリア・デッラ・ピエタでも、鎖や足かせの代わりに拘束衣が導入された。また、1812年に初めて、収容者の戸籍上の情報に加えて、各々の医療的・臨床的な特徴を一覧にしている。
1848年に亡命先のガエタからローマに戻ったピウス9世は、初めて聖職者でなく「精神科医」(alienista)のジョヴァンニ・グアランディ(Giovanni Gualandi)をサンタ・マリア・デッラ・ピエタの院長として指名した。
(それまでは、教会の聖職者が病院の監督を担っていた)
グアランディは、医療記録(カルテ)に加えて、入院患者の転帰に関する統計と「道徳療法」(terapia morale、作業療法の起源)の原則を導入した。
しかし、サンタ・マリア・デッラ・ピエタの社会防衛的な性格に変化はなかった。
ローマ法王庁がイタリア王国に併合された後、サンタ・マリア・デッラ・ピエタの管理は、第2代国王ウンベルト1世による1894年の勅令により、ローマ県に委託された。1907年からは、ローマ県を管轄するラツィオ州に委ねられた。1909年、アルベルト・チェンチェッリ(Alberto Cencelli)上院議員の主導により、現在サンタ・マリア・デッラ・ピエタの位置するモンテ・マリオで新築工事が始められた。1914年、当時ヨーロッパで最大といわれる約1,000床のサンタ・マリア・デッラ・ピエタ州立精神科病院(Manicomio Provinciale di Santa Maria della Pietà)が誕生した。
約 130 〜150ヘクタールの敷地内にはパビリオン(棟)が左右対称に配置され、管理棟等を含む建物全41軒のうち、そのうち 24軒が「入院パビリオン」(入院棟)であった。上記のイラストを見ると非常に分かりやすいが、左右対称に、それぞれ男性患者エリアと女性患者エリアに分けられていた。この明確な区別は1970 年代まで続いたという。患者は病状別にではなく、振る舞いのタイプ(「静か」「興奮中」「騒々しい」「不潔」「危険」等)と管理の必要性にしたがって選別されていた。
それぞれのエリアで患者の生活が完結するように設計されており、薬局はもちろん、セントラルヒーティングシステム、キッチン、洗濯室、手術室、霊安室も敷地内に完備。更には教会、修道女の部屋、鍛冶屋や大工の作業場、発電所、ベーカリー、パスタ工場、食肉処理場も備わっている。正に「精神病院村」という呼び名がぴったりの様相だ。厚い生け垣と金属製のフェンスで囲われた、もう1つの世界。
また、当時の精神科病院では一般的だったようだが、サンタ・マリア・デッラ・ピエタが牧場、家畜小屋を持つ農業コロニー(colonia agricola)としての姿も持っていた点は興味深い。「労働する者」として選別された患者は、作業療法(ergoterapia)として様々な手仕事や農作業に従事していた。代表的なものは機織り、紡績、衣類の仕立て、製靴、大工、印刷、畑仕事、家畜の世話など。看護師助手を務めることもあったという。といっても、実態は無論労働力搾取であった。
この大規模な「精神病院村」の収容能力は最大約2,600 床、年間3,681 人の患者数に達したという(過密状態だったという記録もある)。1936年に最後のパビリオンが建設され、1938年にはウーゴ・チェルレッティが最初の電気けいれん療法を行った。
イタリア精神医療の変容と、サンタ・マリア・デッラ・ピエタの閉院
1960年代の反施設運動、反精神医学運動、学生運動、労働者運動の連帯についてはここでは割愛する。
1968年、学生運動や労働者運動が1つのピークを迎えた時に、患者による自発的入院を導入(強制入院後、自発的入院への切り替えも含む)した第431号法(いわゆるマリオッティ暫定法)が成立した。この法律は、精神科病院の縮小、地域精神医療へのシフトも押し進めた。更に、精神科病院への入院歴が司法記録書に登録される過去の条項が削除された。
「病状評価と治療は自発的なもの」
「精神疾患に関する予防・治療・リハビリテーションの措置は、病院の外の精神医療サービスと拠点で行われる」
という、病状に関わらず全ての人が自分の生活の場所で生きる、という基本的な原則を打ち出した第 180 号法(いわゆるバザーリア法)が成立した 1978 年の時点でも、サンタ・マリア・デッラ・ピエタにはまだ 1,076 人の患者がいた。 死亡退院も数多くありながら、退院が促進された。
1999年末、精神科病院としてのサンタ・マリア・デッラ・ピエタは閉鎖された。今、敷地内の案内には「たとえ許しがたい遅滞があったとしても、ローマの精神科病院を閉鎖することは、『屈辱的な生活を送ってきた全ての人々が、病気を持ちながらも、住み慣れたローマの街に戻って生活できる』という確証となった」と書かれている。
現在も、いくつかのパビリオンは稼働している。パビリオン26はその創設以来、「精神病院村」の管理本部であったが、現在はサンタ・マリア・デッラ・ピエタの歴史的な遺産の保護と事業評価を目的として、地域保健公社(ASL、azienda sanitaria locale)によって設立された研究センターと心の研究所博物館(Museo Laboratorio della Mente)、チェンチェッリ図書館(Cencelli's Library)、アーカイブ等が入っている。
チェンチェッリ図書館は、当時の精神科医達の私財により18 世紀に設立され、ジョヴァンニ・グアランディによって組織・拡張、ピウス9 世からの寄付によって更に拡充された。アルベルト・チェンチェッリの名にちなんで命名され、現在の蔵書は10,000冊を超えている。16世紀から18 世紀までの文書を含む「中世」のコレクションと、現在も成長を続ける「現代」のコレクションとに分けられているとのこと。
また、ラツィオ州のアーカイブ管理局は1980 年代に、サンタ・マリア・デッラ・ピエタで作成された全記録の再編成と目録の作成を通じて、アーカイブを強化する取り組みを開始している。イタリアの記録管理は、文化財・文化活動・観光省(MiBACT、Ministero dei beni e delle attività culturali e del turismo)のアーカイブ総局(DGA、Direzione generale per gli archive)が所掌しているが、イタリア全土の精神科病院のアーカイブをネットワーク化することを目的として、1990年代後半にCarte da Legareというプロジェクトが発足した。このプロジェクトは、現在も進行中で、サンタ・マリア・デッラ・ピエタの文書遺産には、視聴覚アーカイブ、科学機器や工芸品のコレクション、患者によって制作されたいわゆるアウトサイダー・アート(アール・ブリュット)のコレクション等が含まれている。
次回の【後半】では、現在のサンタ・マリア・デッラ・ピエタの様子を写真と共に振り返っていく。
参考:
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