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『昔人の訪れ』

 一
 
「わが殿は、つかれていらっしゃるのではないだろうか?」
 丹波亀山城の天守二階にあるうす暗い「納戸の間」で、ふたりの武士が家老より命じられた武具の手入れに勤しみながら、うわさ話に興じていた。
「そりゃあそうだろう。殿は、かの太閤殿下の甥御にして、亀山十万石を治める大名とはいえ、まだ齢は十になって間もない。
 それなのに、夜ごと太閤殿下とお近づきになりたいと考える大名たちから酒宴の誘いを受けてばかりいるのでは……。
 酒が嫌いではないとはいえ、お疲れになるのも至極当然というものじゃろう」
 と、もうひとりの武士は、鏑矢を磨きながらこたえた。
「馬鹿もの! その『疲れる』ではないわ!
 知らぬのか? どうやら殿は、なにやら妙な物の怪(け)にとりつかれておいでのようなのじゃ」
「な、なにを無礼な!」
 相方の語った意外な言葉に、話を聞いていた男は思わず作業の手を止めて叫んだ。
「そんな話が殿やご家老の耳にでも入れば……おぬし、切腹ものだぞ!」
「大きな声を出すな。だが、この話、御城下ではかなり有名な話なのだそうだ。
 なんでもわが殿は、どれほど宴で酒を飲まされた後でも、ご就寝前には必ずひとりでもう一度杯を傾けなさるのが習わしになっているようなのじゃが……、そんな時、いつもなにやらぶつぶつと独り言を申しておるようなのだ」
「独り言くらい誰でもいうだろう。ましてや多少酔いも回っておるのならば、特段不思議なことでもあるまい」
「いや、それがただの独り言ではなく、まるで誰かと熱く語り合っているようなのだとか……。
 しかも、時には激高して声を荒げることもあるようなのだ。
 不思議に思って、お側にお仕えしている小姓たちが、そっと殿の様子を見に行っても……もちろん、殿のほかに誰もいるはずはない。
 それなのに、わが殿は……、薄暗い部屋の中、一点だけを見つめ、なにやらぶつぶつと話をしているらしい……」
 聞き手の男は目を丸くして、ごくりと唾(つば)を飲み込んだ。語り手の男が話を続ける。
「見えているんだよ、殿には……
 なにやら怪しげな物の怪の姿が……」
「おいおい、やめろよ。薄気味悪い」
「いや、これはどうやら本当のようなのだ。お側に仕える小姓や女たちが何人も目撃しているというのだ」
 語り手の武士が、しっとりと、そして熱心に怪異について語り出したことで、半信半疑だったもうひとりの武士のほうも、徐々に乗せられてきたようだ。
「城の中には戦に散ったたくさんの御霊(みたま)が彷徨(さまよ)っているというからな。
 しかし、先年、小田原の役を制し、天下は太閤秀吉殿下が治めることとなった。今さらわが殿にとりついたところで、もはやどうなるものでもあるまいて」
 
 二
 
 丹波亀山城主・羽柴秀俊は、その夜も近隣の国人たちからの接待を受けた後、ひとりで寝所に籠り、酒を嗜んでいた。杯を重ねるごとに、その視線は宙を泳ぎ、やがて一点を見つめ、なにやら激しい声をあげだした。
「知れたこと! なによりも忠義を尽くすことこそが、武士として当然の務めではないか!」
 武具の手入れをしていた武士たちの言葉は、嘘ではなかった。羽柴秀俊には見えていたのだ。あちらこちらに傷を負い、血まみれになった落ち武者の姿が……。
 その怨霊が身に着けていたのは、紅糸縅(べにいとおどし)の上等な具足であったが、あちこちの糸は擦り切れ、右の肩には矢が刺さったままになっている。
 髻(もとどり)がほどけたざんばら髪は乱れに乱れ、額や頬には泥や血しぶきが固まって巨大な瘡蓋(かさぶた)のようになったものが、いくつもこびりついていた。大きく見開かれた目は血走り、特に右目はほとんど真紅に染まっていた。さらに、生気を失って紫色になった唇にはザクロの実のような赤黒い血糊(ちのり)が、べったりとついている。
 そしてその怨霊は、射るような強いまなざしで秀俊を見据えながら、口元には薄笑みを浮かべ、なにやら挑発の言葉を語っている。その声は、聞き取りづらくかすれていたのだが、なぜか秀俊の耳には、はっきりと届いた。
 怨霊は、こう語っていた。
「むろん、『忠義』を尽くすことが悪いわけではない。
 しかし、もし、貴殿が主君と仰ぐ者が、人の上に立つ器ではないとわかったなら……それでも貴殿はあくまで『忠義』を尽くすというのか?」
 囁くような怨霊の挑発を耳にした秀俊は、また一口酒を喉に流し込み、少しばかり声を荒げた。
「無論だ!
『君、君たらずといえども、臣以(もっ)て臣たらずんばあるべからず』
 というではないか! 
 かの文宣王(ぶんせんおう)も
『君のためには忠あって、父のためには孝あれ』
 ということをおっしゃっているではないか!」
 秀俊のこの言葉を聞くや否や、怨霊はにやりと笑い、こう返した。
「しかしな、文宣王、すなわち孔子の言葉にはこうもあるぞ。
『其(そ)の身正しからざれば、令すと雖(いえ)ども従わず』
 すなわち、正しくない為政者のいうことなどには誰も従わないのが世の常なのではないのか?」
「くどい! 私は、そのような小人どもとは違う。
『恩を知るを以て人という』
 とも巷間、語られているではないか! 
 ましてやわが主君太閤秀吉殿は、天下を泰平ならしめた大人物である。しかも、私の実の叔母を正室として娶り、私のような者を養子にもしてくれた!
 主君として『忠』、養父として『孝』を尽くすのに、なんの憚(はばか)りがあろうか!」
 激高し酔いも回ってきた秀俊の顔はますます赤く染まっていく。怨霊の青白き首とは、美しくも妖しい対照をなしていた。
「では再び問おう。
 孔子の理想としていた周の国の武王は、どうやってその国を建てた?
 主君たる殷(いん)の紂王(ちゅうおう)を滅ぼして、自分の国を建国したのではなかったか? そして、主君を裏切った武王は、人々から謗(そし)られたか? 
 否(いな)。それどころか、周の武王は聖王としていまだに深く崇められているではないか!」
 問い詰められ、秀俊は言葉に詰まった。
 確かに「徳を失った君主を廃することは、天の命に従った行為だ」とする「易姓革命」の思想は、古くから語り伝えられている。
 幼い秀俊も、そういった思想があることは十分承知していた。
 だが、それを認めることは、秀俊にはできなかった。彼は精一杯の虚勢を張ってこう答えた。
「しかしながら、わが主君太閤殿下は殷の紂王とは違う。貧しき家から身を起こし、自らの腕だけで世を平らげ、この日本(ひのもと)に泰平をもたらしたではないか!」
 秀俊のいうことも誤りとはいえまい。太閤秀吉は、天下を統一し戦国の世を終わらせた。それは功績として崇められこそすれ、暴君として裁かれるような行いではない。
 少なくとも天下統一のなされた翌年に当たるこの年、天正十九年の段階では……。
「ふふ。ならば聞こう。その太閤殿下とやらは、どうやってこの世を治めた? 
 秀吉なんぞは、ただの織田家家臣だったはず。そして、信長公が亡くなった当初は、信長公の孫、三法師(さんぼうし)殿を跡継ぎにするといい放っていたのではなかったか?
 どうだ? いつの間にか織田家をないがしろにし、その覇権を奪い取ったのが、秀吉だったのではないのか?
 主君である織田家に対する真の裏切り者は、秀吉ではないか! そんな者に忠義を尽くす必要などあろうはずがない!」
 怨霊の声は高まり、寝所中に響いた。ただし、その声を聞くことができたのは、羽柴秀俊ただひとりである。
「秀吉こそが、主君織田家に対する真の裏切り者である」
 そういい切った怨霊に対し、秀俊の心は強く反発した。しかし、言葉にはならなかった。
 確かに信長公が亡くなったのち、代わってその地位についたのが秀吉であった。その当時、信長公の子も孫も、まだ存命であったにもかかわらずである。
 唇を震わすばかりで、言葉にできない秀俊に対し、また静かな笑いを浮かべ、怨霊は重ねてこう述べた。
「そうだ。そなたにもわかったであろう。秀吉めが忠義を尽くすのに値する人物ではないことが……」
 怨霊の言葉は徐々に小さくなった。
 そして、その姿も、徐々に闇に溶けるように消えていった。
 後には静寂だけが残った。
 もっとも、寝所のそばに控えていた秀俊の小姓たちにとっては、元々静かな夜だった。時折、狂ったように闇に向かって叫び出す主君秀俊の声を除けば……。
 こんな夜が、秀俊が丹波亀山の地を拝領してから何度もあった。
 無論、初めて怨霊が現れた時には、秀俊も驚きの声を上げた。そして、その声に驚いて寝所に入ってきた小姓たちには、怨霊の姿が見えないことも、すぐにわかった。
 若くして常に酒ばかり飲んでいた秀俊であるから、酔ってなにか幻を見たのだろうと本人も思い、周囲の者もそう思った。
 しかし、それからも、何度も怨霊は現れた。
 二回目からは秀俊は声を上げなかった。どうやらこれは幻ではない、とも早くに悟った。そして、この落ち武者らしき怨霊がいったい何者なのかを見極めようとした。酒のせいもあったのかもしれないが、肝(きも)は据わっているほうだった。
 しばらくの間、怨霊はなにも話しかけなかった。薄笑みを浮かべ、秀俊の顔を眺めてはすぐに消えていった。
 そんな夜が何度か続いたのち、やがて怨霊は、秀俊だけに聞こえる声で語りはじめた。
 怨霊は、秀俊に恨みを持っているわけではなさそうだった。祟りをなすような気配ではなかった。ただひたすらに、
「忠義とは?」
「為政者のあるべき姿とは?」
 といった、儒学者か、軍学者のような話を熱く語った。そしてやたらに、
「秀吉は天下人たりうるのか?」
 といったことばかりを話す。しかも、怨霊とは思えぬほど、論理的に諭すのだ。
 この怨霊の正体は詳しくわからないが、おそらくは豊臣秀吉に恨みを抱いて死んでいった雑兵のひとりであり、それゆえ秀吉の親族である秀俊のもとに夜な夜な現れるようになったのだろう。とはいえ、直接恨みがあるわけではない秀俊にまで祟りをなそうという気などはなさそうだ。
 だったら、直接秀吉のもとに現れればよいのだが、それをしないところを見ると、ひょっとすると、この怨霊は丹波亀山の地で亡くなり地縛霊と化した武将の怨霊なのかもしれない。
 
 三
 
「金吾! そなたよくも豊臣の名を辱(はずかし)めてくれたのう!」
 絢爛豪華な伏見城大広間の数段高くなった畳の上に、白き豪華な衣をまとった小柄な男が、金色の屏風を背にして座っている。眉間に深い皴を寄せたその表情は、数間(すうけん)先で畳に頭をすり付けるようにしてかしこまっているひとりの若者を睨みつけている。
 頭ごなしの非難を受けつつも、畳に額をすり付け、ひたすら恭謙の姿勢をとり続けているのは、かつての丹波亀山城主羽柴秀俊である。
 そして、その秀俊のことを通称である「金吾」と呼び捨てにし、一方的に怒鳴りつけている小柄な男こそ、天下にその名を轟かした太閤殿下こと、豊臣秀吉である。
 あれから何年もの時が過ぎた。幼かった秀俊も今や十七の歳となり、三十三万石あまりを領する大大名となっていた。居城も丹後亀山から備後三原、やがて筑前へと移った。
 その間、国内では戦らしい戦は起こらなかった。しかし、先年、秀吉は二度目の「唐(から)入り」を唱え、多くの大名らが軍を率いて海を渡った。朝鮮出兵である。この過酷な戦いに、若き秀俊も出兵した。
 自身では「奮闘した」と秀俊は思っていた。自ら率先して敵地へ踏み込み、勇ましく戦った……つもりだった。
 しかし、太閤秀吉の捉え方は違った。
「大将たるものが、自ら敵陣に乗り込むなどは軽々しい行いと心得よ。もし討ち死にでもしたら、残された兵はどうする? 
 そんな奴に大事な兵を任すことなどできぬわ!」
 そう述べた太閤殿下の姿は、以前とはすっかり変わってしまった。
 まずは、老いた。
 以前の太閤殿下は、気力と体力の塊のような人間だった。
 小さな体を常にてきぱきと動かし、まるで疲れた素振りなど見せなかった。さらに、権力を手中に収めるようになってからは、小柄な体格からは想像できないほどの威厳を放つようになった。
 しかし、その太閤殿下も、ここ数年で急激に老いた。顔からは生気が消え、座っているのもやっとという状態に見えた。増えるのは白髪と皴(しわ)ばかり。気力と体力は失せ、空っぽの威厳だけがようやく座に就いている、という状態に見えた。
 それと同時に、笑顔がなくなった。
 かつて、太閤殿下は人と接する時に笑顔を絶やさない人だった。諸大名はもちろん、庶民にまで気軽に笑顔を振りまくような人だった。そんな「人たらし」ぶりに惹かれ、多くの大名たちが臣従を誓ったのだ。豊臣が天下をとれたのは、あのくしゃくしゃの笑顔のお陰だったのかもしれない。
 しかし、最近は、その笑顔もすっかり影を潜めた。ちょっとしたことですぐ怒り、人をけなし、そのくせすぐにひとりで落ち込んでしまう。
 常に相手の気持ちを考え、人の和を大事にしていた太閤殿下が、今やまったく人の気持ちなど解さずに生きているように見える。まるで生きていくだけで精一杯で、他人のことなど気にしてはいられない、そんなふうにも見える。
 そしてなによりも、猜疑(さいぎ)心が強くなった。
 今の太閤殿下が唯一満面の笑顔を与える相手は、生まれたばかりの実子秀頼だけである。秀頼公と接している時だけは笑顔を見せ、体力も幾分回復したかのように見える。そんな秀頼公の行く末だけが、太閤殿下の懸念されるところであるようだ。
「自分の死後に天下を治めるのは、わが息子秀頼である。それを妨げようとするものはいないか? もしその可能性があるのであれば、今のうちに何者であろうと、反逆の目は摘んでおこう」
 なにをしていても、常にそんな思いが頭から離れないようだ。
 太閤殿下が、そんなふうに不安な気持ちになるのも当然なのかもしれない。主君織田信長が本能寺で命を落とした後、その子孫から天下の実権を奪い取ったのは、当の太閤秀吉自身だったのだから……。
 太閤殿下の猜疑心は肉親にまで及んだ。いや、肉親こそ実子秀頼の敵になりうると考えていたようでもあった。事実、自身の甥に当たり、太閤殿下本人から「関白」の座を譲られた豊臣秀次公は、やがて太閤殿下の怒りに触れ、死に追いやられている。
 そんな猜疑心の塊のような太閤秀吉にとって、義理の甥に当たる秀俊は、もはや要注意人物に過ぎなかったのかもしれない。
「国替えじゃ」
 太閤殿下は、秀俊の所領を没収し、半分以下の石高しかない越前国へ追いやることを決めた。
 無論、秀俊もこのような処分に納得がいったわけではない。元々「唐入り」など無謀な戦いであることはすべての大名が蔭で口を揃えて批判していた。しかし、秀俊はそれを承知で勇ましく朝鮮へと渡った。
「君、君たらずといえども、臣以て臣たらずんばあるべからず」
 そう思い、懸命に戦ったのだ。
 それなのに、その戦い方が「軽々しい行い」と評され、過酷な処分を受けることになってしまったのである。
 しかし、もし、ここで一言でも不平を漏らすようなことがあれば、「謀反の恐れあり」として、自分も秀次殿下のように命を奪われることになるだろう。秀俊にできることは、
「承知仕りました」
 と、恭しくその命を受け入れることだけだった。
 国替えを承諾する旨を告げ、頭を太閤殿下のほうに向けたその時、殿下と金屏風の間でなにかしらの影が動いた、ように見えた。
 やがてそれは、秀俊が丹波亀山城を出てからしばらくの間姿を見せなかった怨霊の姿だとわかった。
 怨霊は秀俊の顔を見つめ、口元ににやりと笑みを浮かべると、すぐに消え失せた。
「そうだ。そなたにもわかったであろう。秀吉めが忠義を尽くすのに値する人物ではないことが……」
 秀俊の頭の中に、過去の怨霊の言葉が思い起こされた。
 
 四
 
「殿。小さき砦(とりで)ではございますが、今宵はこちらにておくつろぎください。今、杯の用意をいたしましょう」
 重臣に促され、秀俊は関ヶ原の西南に位置する松尾山の山城の一室に入った。
 厳密には、彼はこの時既に小早川家の養子に入っており、唐入りの際に名も「秀秋」と改めていた。「小早川秀秋」が、当時の正式な呼び名である。
 秀秋の国替えの話が決まってから、数か月と経たずに当の太閤秀吉が亡くなった。
 その死後は、秀吉が懸念していた通り、徳川家康が豊臣家に代わって天下を手中に収めるべく動き出した。
 その動きは、秀吉の嫡男豊臣秀頼を擁して引き続き豊臣家の天下を維持していこうとする石田三成らを刺激した。
 やがて、両陣営は一触即発の状態となり、今、続々と関ヶ原の地に両軍の兵が集まりつつあった。
 豊臣秀頼の親族でもあった小早川秀秋は、当然の如く秀頼を擁する、石田三成の軍勢(西軍)にくみしていた。豊臣家に「忠義」を尽くし、養父でもあった豊臣秀吉の恩義に「孝」の姿勢を貫く意味からも、当然のことであったといえよう。石田三成らが推戴していた秀吉の子秀頼は、秀秋にとって従兄弟でもあるのだ。
 ところが、秀秋には迷いがあった。
 豊臣秀吉の子、秀頼はこの当時、まだ八歳。天下を治める徳も、才も、まだ備わっていないのは当然のことである。
 それでは、実質的に西軍の総大将ともいえる位置にある石田三成のほうはどうであろうか? 石田の政治的な手腕には定評があった。しかし、才はあれども、徳がなかった。彼を嫌う戦国大名らの名を挙げれば、枚挙にいとまがない。秀吉子飼いの武将であった加藤清正や福島正則でさえ、「三成憎し」の一念からこの戦では徳川方にくみした。
 つまり、万が一、石田方が勝ったとしても、豊臣秀頼にも、石田三成にも天下を治める器量はない。再び世は乱れ、戦国の世に逆戻りするのは至極当然の成り行きのように思えた。
 一方、秀吉亡き後、随一の実力者となった徳川家康がこの一戦に勝てば、もはや徳川に歯向かおうとする大名などいなくなるだろう。天下は徳川のものとなり、世は再び治まるに相違ない。
 徳のない為政者に忠を尽くして再び世を乱れさせるよりも、実力者を戴き、天下泰平の世をつくりあげることに助力することこそ、「天命に即した行い」だともいえるのではないだろうか?
 このまま石田三成の軍に留まり、徳川方と刃を交えるべきか、それとも、実力者である徳川家康の軍に寝返り、徳川家のもとで大名として生きるべきか?
 実は秀秋は、徳川方(東軍)から盛んに調略も受けていた。もし、石田方から徳川方へと寝返れば、徳川は相当な恩賞を持って自分を厚遇するだろう。
 そんなことを考えながら、にわかづくりの寝所で、彼はいつものように杯を傾けていた。
 その時、太閤殿下から国替えを命じられた時以来、姿を見せなかったあの怨霊が、秀秋の前に姿を見せた。
 怨霊は、あの時と同じように、うっすらと口元に笑みを浮かべているだけで、ただ黙っていた。
 秀秋もまた、一言も語らなかった。なにもいわなくても、互いの言い分は理解できたように思えた。
 そうしてほんの数分、秀秋と沈黙のまま見つめ合っただけで、怨霊はすうっと姿を消した。秀秋は、怨霊が消えた後に残った中空の闇を見つめたまま、残りの杯を飲み干した。
「軍議を開く。主だった者を集めよ!」
 側に仕えていた侍に、こう告げた秀秋の心にもう迷いはなかった。
 陣幕が張りめぐらされた軍議の間に、続々と集まってきた重臣たちは、わが主君に対し不審の目を向けた。中には急な呼び出しに対しひそひそ不満を漏らしているものもいた。真夜中に急な軍議を開くことなど、これまでには見られなかったことだったのだ。
 当の秀秋は、しばらくの間、瞳を閉じたまま動かないでいた。
 やがて重臣たちの心もひとつとなり、主君の下知を聞こうと静まり返ったその時、満を持して秀秋は瞼を開き、重臣たちにこう告げた。
「敵は、石田方にあり!」
 
 五
 
「やはりわが殿はつかれていらっしゃったのだ」
 備前岡山城の重厚な三層六階建ての天守の納戸で、城主小早川秀秋の病気見舞いの品を整理しながら、ひとりの武将が仲間に向かってこういい放った。
「また、そんな話か。おぬしは以前もそんな話をしていたのう。あれは丹波亀山にいた頃だから、もう十年以上も前のことじゃろう」
 もうひとりの武将は、半ばあきれたような顔をして、見舞い品の整理を続けながら、こういった。
「そうじゃそうじゃ。だがな、わしはついに殿にとりついた怨霊の正体がわかったのじゃ」
「うむ、巷の噂なら、わしも存じておるぞ。先の戦でわが軍に敗れた大谷刑部の霊が、殿に祟っているとかいうのじゃろう」
 彼らのいう「先の戦」とは「天下分け目」と呼ばれた関ヶ原の戦いのことだ。結局この戦いは、小早川秀秋が石田方から徳川方へと寝返ったことで勝敗が決した。
 殊勲の秀秋は、実質的な天下人となった徳川家康より備前、美作五〇万石という多大な所領を与えられ、威風堂々岡山城へと居を移したのだ。
 ところが、その戦から二年の月日が経った頃、秀秋は病に伏せった。各地から見舞いの品が届いたが、病状はよくなる気配を見せなかった。
 世間では、秀秋の裏切りによって敗れた石田方の武将、特に直接小早川軍と刃を合わせた結果、自害することになった大谷刑部吉継の霊が祟っているのではないかと囁かれていた。
「違う、違う。大谷刑部の霊などでは断じてない。なにしろ殿に霊がとりついたのは、十年以上前、丹波亀山にいた頃なのじゃからな」
 男は、力を込めてそういい放った。
「それなら、おぬしは、なんの霊だと申すのだ?」
「まだ、わからぬのか? あの丹波亀山城を築いた武将は、いったい誰じゃ?」
「そんなのは知れたこと。かの本能寺で主君織田信長を裏切って殺した逆臣、明智光秀に決まっておろう。本能寺を攻める時も、あの亀山城から出陣したはずじゃ」
「そうじゃ。そして、その明智は、信長公を倒し、天下を手中に収めたと思ったのも束の間、先の太閤秀吉殿下によって誅(ちゅう)されたのじゃ。
 さぞや豊臣家に恨みを持って死んでいったことじゃろう」
 もうひとりの武将は、ここで初めて作業の手を止め、相手の顔をまじまじと見つめた。
「……それでは、おぬしは……明智光秀の怨霊が、わが殿にとりついたと申すのか?
 太閤殿下の縁者であるわが殿が、光秀ゆかりの亀山城主となったことを憎み、殺そうとしたと……」
「いや、光秀の怒りは、もっと深かったのかもしれん。単にわが殿にとりついて殺そうとしたというわけでもなさようだ。
 光秀の霊は、若き殿にとりついて、
『時には主君を裏切ることも正しい行いだ』
 という考えを植えつけたのではなかろうか、とわしは思う」
「だからわが殿は関ヶ原の戦いの時に、石田方を裏切って徳川方についたのだと?」
「そうじゃ、それによって今や天下は徳川のもの。豊臣の栄華は秀吉一代で終わってしまった。
 すべては明智の霊がなさしめた仕業に相違なかろう」
 そういい終えて、男はしばし遠くのほうに目をやった。聞き手の男も、ひとつため息をついて、相方と同じように遠い目をして、静かにこう語った。
「なるほど。裏切り者の怨念が次の裏切りを呼んだというわけか。くわばらくわばら。
 しかしなんだな。その裏切りによって、戦は一日で終わり、徳川が天下を治めた。以来、戦らしい戦もなく、太平の世が続いている。そして、わが殿は、肥沃な備前岡山の地に安定した所領を得た。
 豊臣方には悪いが、怨霊のお陰によって、よい方向に世の中が動いたともいえるのではないか?」
 
 ところが、それから間もなくして、羽柴秀俊改め小早川秀秋は、自らの居城備前岡山城で病没した。享年わずかに二十一歳である。
 その突然の死は、関ヶ原での裏切りから生まれた「良心の呵責」に堪えられなかったためだ、ともいわれている。
 奇しくも、秀秋が亡くなった慶長七年十月十八日は、ちょうどその二十五年前に、かの明智光秀が丹波亀山の地をあらかた手中に収めた日でもあるという。 
 

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