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あの日を振り返る

こんにちは。Mr.チキンです。
今日は、私の人生で忘れることのできない。
欠かすことのできない一日です。
東日本大震災で被災された方、今も不便な思いをされている方に
お見舞いを申し上げます。
私自身も、福島県で被災しました。今でも、除雪車が家のそばを通って揺れると、当時のことを思い出して眠れなくなります。
今も震災は続いています。今日はその日のことを、勇気を出して綴ってみたいと思います。
※震災後の建物の様子を撮影した写真がいくつか掲載されています。
 心が辛くなってしまう方は読むのをおやめください。

あの日

私は福島県で特別支援学校に採用されました。
その年は私の初任の年でした。
3月11日、翌日は担当している子の誕生日パーティの日です。
小学部の児童は下校していたので、私は先輩教諭と廊下で打ち合わせをしていました。
すると、緊急地震速報のアラームが鳴りました。
先輩の携帯からも鳴っており、遠くからも鳴っています。
でも、前日まで緊急地震速報がやや多めに鳴っていて、その都度そこまで大きな地震が来ていなかったことから、完璧に油断をしていました。
すると、次の瞬間、大きな揺れが来ました。
天井の配管が大きく揺れ、校舎のきしむ音が響き、換気用の窓やドアが枠ごと外れました。
私は思わず外に出ました。

「何やっているんだ!学校に戻れ!」

外に出ると、40代の教諭が私の方に向かって叫びます。

「何やっているんだ!学校に戻れ!子ども助けろ!」

若かった私は、その言葉をずっと忘れないでしょう。
これが教員の職責の重さなのだと感じました。
他の職業も同じなのかもしれませんが、教員は自分の命よりも先に守るべきものがあるのだと感じ、真っ先に外に逃げた自分を恥じました。
その日は雪がチラホラ舞う日でした。
体育館は四隅が破損しており、倒壊の恐れがあるため、
教員で大きなブルーシートを持ち寄り、その中に子どもたちを入れて暖を取りました。

体育館は幸いにも耐震工事をしていました。それでもこれだけの破損がありました。

錯綜する情報

教員は携帯電話を職員室に置いてきていました。
余震が続く中、教員が数名でヘルメットをかぶって職員室に戻り、
携帯電話を持ってきました。
各地の震度、津波の情報、被害の規模…
正確な情報はまだあまり無く、とにかく自分の住んでいる地域が震度6強に該当しているということだけが分かりました。
ただ、今の現状が数値として分かるということは、その分落ち着くことができました。

おそらく今は道路の状況もかなり壊滅的で、保護者の迎えも難しい状態だろう

と言うことが分かりました。
実質、仕事の都合で迎えに来ることが難しかった生徒がいたので、独身だった私は、教務主任とともに校舎で子どもの安全を守りながら一泊しました。

校舎内点検

校舎内は大変なものでした。
職員室の状態ですが、職員室の引き出しは重さがあります。
書類をたくさん入れる方が多いです。
すると、地震の揺れで引き出しが飛び出し、
その重みで机の脚が折れるのです。

職員室の主任の席に、背面の棚が落ちてきています。
もし、ここに人が座っていたら・・・考えるだけで恐ろしいです。

また、校舎内の防火扉が倒れてきた箇所もありました。
大人が数人で持ち上げても重いほどのものでした。
子どもがいたらと考えるとぞっとします。

図書室
理科室

すべての教室がこのような感じで、破滅的な被害を受けていました。

近隣の道路の様子

道路は大きく陥没していました。
地面が隆起してしまっていたため、車の走行が不可能な道路がたくさんありました。

下の写真は私の通勤道路の様子です。
塀が壊れており、道路にはみ出しています。
このような倒壊は、そこまで珍しいものではありませんでした。
道路の状況がこのようなものだったので、子どもたちの登校はしばらくの間不可能でした。(福島県の場合は原子力発電所の事故の影響もありました。)

余震が続く中、独り身の私は万が一のことを考えると恐ろしくて、窓の傍で靴を履いて寝ました。大きな揺れで倒壊したときに、すぐに外に出られるようにするためです。

教務主任の仕事

教務主任は私の尊敬する人でした。
時系列は覚えていませんが、2日間ほど、教務主任が私の家に泊まり込みました。
新しい仮設校舎の設計図を書いていたのです。
「仕事に向き合うというのはこういうことなのか」と、教務主任の背中を見ながら考えました。

今に生かす

今回、写真をたくさん使いました。
これは、私にとってリスクの高いことだと考えたうえでのことです。
ただ、この実態を知っていただいたうえで、震災に備えること、
自分の命や子どもの命を守ることに生かしていただきたいと考えました。
私はその時に防災教育の校務分掌に携わっていました。
震災後には、トランシーバーを買いそろえ、もしもの時に備えるようになりました。また、避難訓練のあり方について、勤務する自治体が変わった今も進言するようにしています。それが当時を生きていた人間の使命なのかもしれません。
あれから11年が経ちました。
風化されることの無いよう。教訓を語り継いでいけたら…
では、またね~


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