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「命は順番だからね」

カナダ・ラインの電車のなかで、母からのlineを開いた。

どうにも祖母が認知症になってグループホームに入所したらしい。

僕は、母からのlineを開いたあと、どうしてか別のことを考えた。
とくに僕の心を動かすような内容でもなかったからだろう。

たまには小説でも書いてみようか。
人生で一度くらいは「転生もの」の流行にのって何か書いてみたいな。

例えば

主人公がゴリラに転生して、うほうほくらいしか話せないが、持ち前の知恵で他の雄の追随を許さず縄張りを広げたり、密漁者を罠にかけて追い払ったりする物語だ。

あるときに他のゴリラの群れを率いる雄とケンカになる。
主人公は負け知らずの知恵ゴリラだ。転生前の知恵や知識で戦術をたて果敢に戦うもどうにも、決着がつかない。
そのときに互いのゴリラが気づく。「こいつ、中身が人間だ」

みたいな話。

電車が、アバディーン・ステーションを抜け、ツワッセン・ステーションを抜け、マリンドライブ・ステーションを抜け、地下に潜り、全ての夜景を引き連れるのを辞めた。

そのときに、僕はようやく、祖母について思いを巡らせてた。

敬虔なクリスチャンで、僕を毎週土日教会へ連れて行き、真冬のボタン雪が降っているときに「洗礼」を受けさせた。


そういえば、マリンドライブ・ステーションまでの車窓から臨める夜景って、結構きれいなんだ。

ダウンタウンが霧雨のなか煙って見えて、人々がそこに一人も収まっていないっていう人工的な顔をしているわけ。

ダウンタウンは夜もとても明るい。
日本では信じられないくらいの数の街灯が短い間隔で刺さっているからだと思う。

きっと暇な神様が宇宙からこういう人の治安の道しるべになるようなものは何かないかってことに対して数億年くらい考えて街灯を編み出して、同じく宇宙から街灯を片手で投げているに違いない。

どうして、こんなに等間隔で刺すことができるのかというと、人間だってダーツがとても得意な人がいるのだから、不思議なことではないと思う。
神様なのだから当たり前だけれど。

それで、マリンドライブまでの間、はっきりと数えられる程の光量を放つ街灯が1000本くらい見れる。

僕は割と気に入っているんだけどね。

そうだそうだ。僕の祖母は琴だって弾く。
でもいつからキリスト教に入ったのかは知らない。

家に帰ってきて、シャワーを浴びた後で、母に電話をしてみた。
母と電話をするなんて考えてみたら人生で初めてのことかもしれない。

それか石器時代のときに家までの帰り道がわからなくなって、電話をかけてしまったことがあるかも。

記憶ってたまに曖昧なんだ。
いや、考えようによってはずっとぼやけているよね。
同じ波頭を叩けないオールみたいに、いつも違うものを叩いてしまう。
そんな感じ。でもそれには気づけない。
だって、そんなことを考えたらボートは進めなくなってしまうんだよ。
オールを漕ぐ手は止まって、夜の帳が落ちて、どっちに岸があるのかわからなくなって暗い海底みたいな海面で木製のボートの上で一人、恐怖のどん底。
みんなそうなりたくないから、ときには何も考えないでオールで波を遮二無二叩いて、ようやく岸にたどり着いたらそこは異国で、自分の国に帰るすべも勇気もないから、その国の新たな住人になる。また海に出て同じことを繰り返す。そことはまた異なった国に漂着するんだ。
つまり、年を重ねるとか大人になるとか、30歳になるとか50歳になるとか100歳になるってそういうことでしょう?


僕の祖母もそうだったんだ。
認知症になって僕のことも忘れて異国の人になってしまった。
僕だってそう。

もう10年以上会ってないし。

老人ホームに行った母は祖母の老け込んだ姿を見てショックを受けたらしい。
そのときの写真はないのか聞いてみた。

するとすぐに送られてきた。

老けた母と更に老け込んだ祖母。

母は謎にピースをしていて(この人はいつもなんだか妙な人なんだ、気にしないで上げて)祖母は歩くこともできなくなった車椅子の上で、やせ細った腕を胸の前に持っていき、両手を合わせていた。

僕は母に、祖母は祈っているのか?と聞いた。
すると母は
祈っているんだよと言った。

祖母は死ぬその時までクリスチャンなんだ。
老人ホームではよく聖書を読んでいるらしい。
きっと、老人ホームに入る前、つまり彼女の意識の多くがまだ現実に在ったころも読んでいたのだろう。

思い出した。
お金がない祖母は、蝋燭の灯で聖書を読んでいた。
僕が小学生の頃だから20年前のことだね。
20年前から祖母はずっと同じ聖書を読んでいるんだ。

20年も前だけれどよく覚えている。
蝋燭の灯が心もとない風に揺れて、祖母のまだ若い横顔の命の影も壁のなかで揺れていた。
ふすまの奥からぼっとんトイレ特有の香りがふんわりと流れてくる。

黒電話と電話帳が置いてある背の低い棚の下に穴だらけの布団を敷いた僕は、眠っているフリをしてそんな祖母の横顔を見ていた。

テーブルには昼間どこかで取ってきたイナゴの佃煮。
一口も食べたくないと思ったけど、言わなかった。
祖母はそれを察して、少し寂しそうな顔をした。
僕は、申し訳ない気持ちになった。
なんだか、世界で一番悪いことをしたみたいに。

そして、祖母の昼間の口紅のあとがくっきりと残った珈琲の入った白いマグカップ。
祖母は、しゃっくり治しの名人で、よく道行く人のしゃっくりをそのマグカップを使って止めてあげるのだ、という話を僕にしてきて、僕はその話が大好きだった。

しゃっくりくを100回すると死んでしまうと信じ込んでいた幼い僕は、何とか祖母のやり方でしゃっくりを止めようと試みたが、しゃっくりが100回越えても止まらなくて、一人で夜に泣いたこともある。

祖母のプレゼントも懐かしい。
周りの皆がディズニー映画や他のアニメ映画のDVDを買ってもらっているときに、僕はダイソーで1000円かそれよりも安く売っている「モーゼの十戒」のDVDを買ってもらった。救いはそれがアニメだったってこと。


僕だけの祖母さ。
君の祖母じゃない。
僕だけが知っている。
僕が死んだら、今度は誰が僕の祖母のことを思い出してくれる?
悪人じゃないよ、変な人だけど、たまに思いだしたって損はしないくらいには愉快な人。

祖母はキリストの絵が飾ってあるというだけで、サイゼリヤがとても好きだったんだ。

母に年齢を聞いた。
78歳
まだ若いじゃないか。

祖母が読んでいる聖書は新約の方か旧約の方か聞いてみた
わからないと母は言った。

まったく不敬なやつだ。

母が唐突に言った。

『命は順番だからね』

僕の思考は不意に止まった。
そうか、命にも順番はあったのか。
ときにそれが崩れてしまうこともあるけれど、
そうやってつないできたのか。
人類って興味深い。

「ママが認知症になったらグループホームに入るからね」

あ、電話が来た、といって母は電話を切った。

僕はたまに気圧されてしまうんだ。
人類の果てしない旅路に思いを寄せる時や、冷え性で布団の中でも足の指が冷たく感じる時なんかに、なんだか、とてつもない大きく広い布が僕らの上にすっぽりと収まっているような感覚になる。

怖いとか、不安とか、心地よいとかでもない。
多分畏怖に近い感覚なのだと思う。
感心でもいい。

そう考えると僕の番が来るのが楽しみになる。
そうやって、僕ら旅をしてきたのだがら。
一生懸命にサルが、大陸を渡って、宇宙にまでいこうとしているのだから。

祖母はもう長くないそう、
母だって終活を始めた。
大きな川の一部になるらしい。
そこには僕とか私とか俺とかうちとかそういうのなんて一切ないんだと思う。

命の順番が緩やかに流れて温かく季節のない陽光が僕らの上でうんと揺蕩うんだと思う。




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