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生活を丁寧に感じる事は、時代を経過しても時が戻る事を向田邦子から学んだ。

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眠る盃
父の詫び状

先日、私の読書友達から問い合わせがあった。

「開高健と向田邦子が貸出中で借りる事が出来ませんでした」

私は先日、開高健と向田邦子はいいと講釈したばかりだった。

「時代が私を追いかけ始めたね」

その友人にこう答えた以来、なぜだか返事がない。

向田邦子。久しぶりに読みたくなった私は、読書メモを振り返った。

エッセイというものを、初めて読んだのかも知れない。自分が考えるエッセイと、なんというかまあ、全然感じ方が違ったのである。 残っている文章には、時間と生活が息づいていて、はっきりと情景が浮かぶ。私は難しい言葉で心の内を綴るのは苦手である。 その時代に生きていた訳ではないのに、はっきりそこにいる様に感じる。凄く素敵な文章だ。

宝石のようなメモを書き残している木ノ子氏

これは、拙い伝え方だが私が最初に向田邦子に出会い「父の詫び状」を読了した時の感想だ。



向田邦子に感じたエッセイの描き方を振り返りたくなった。それは今自分が自分の生活を丁寧に描いてみたいと感じているからかも知れない。

久しぶりに手に取った向田邦子は、それはそれは向田邦子だった。平成を見る事もなく去った彼女だが彼女の文章はやはり生きているように感じる。脚本家という肩書きを持つ彼女は、描く映像を文字にするのが上手かったのだろうか。

そもそも脚本には、小説や本には描かれないト書きというものが存在する。それは、登場人物の動作や行動を指示する部分のことをいう。演者はそれを読み心理状況を把握したり、スタッフはその情景に即した場所をロケハンし見つけたりする。

最初からその技術が備わっていたのかどうかは知らないけれど、物語を映像として他人に客観的に伝える事を常に考えていたのだと思う。だから向田邦子のエッセイは端的で映像が伝わるのに、力が抜けた素直な文章なのだと私は思う。


解説で山田太一が向田邦子は自分の書いたシナリオなんて捨てちゃう捨てちゃう。と言っていたのを、とんでもないと反対を唱えたと書いていた。それでも向田邦子は「いいの、私は」と苦笑いしていたとある。

私は、向田邦子の本音までは把握出来ないけれど彼女の文章からは執着をしない潔さを感じる。それは人に読ませる為の物語だったのかも知れないけれどしっかり生きているよ。と当たり前の日常を丁寧に書いているからサッと抜けていく心地好さを持っているのだと思う。

それは、彼女の意図に反してやはり残るものだと思う。そこにあった生活を映像としても想像させてくれる文章はいつの時代に読んでも楽しく寄り添ってくれるからだ。

さて、私はというとしっかりあなたに影響されて自分の気持ちの動きを丁寧に落とす事を今している。私は、向田邦子に丁寧さを教わり須賀敦子に読み手に想像させる余白を教わり本を読んでいる。

私に芽吹く気持ちや移ろいは、書くことを続ける事で形になるのだろうか。それはどっちでもいいことだけど、書くことを続ける事で楽しくある今は、

ビールを美味しく飲む理由が一つ増えた事を喜ぶべきだと自分に言い聞かせている。毎日が物語の中にいると教えていただきありがたい。

一つ一つを丁寧に表現することは、自分の表現に繋がる気がします。心の変遷を辿るのはなかなか難しいが、私は発信することを恐れなくなった。暮らしを表現想像させる事は私にとって必要な事だからだ。また読むだろうなぁ。向田邦子。

だからね。読書楽しき毎日である。

なんのはなしですか

日々の読書に感謝と、ふざけた毎日を。









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