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大江健三郎の一つの出口にあたる作品を読み、私の出口は入り口かもしれないと思ふ。

大江健三郎27歳の長編作品「叫び声」を読んだ。これは、以前いだいた本からだ。大江健三郎が描く青春の鬱屈は、こうなるかと考えた。

その心の叫び声を表現するのに、こういう物語になるのかと感じていた。「生は性」であると最近聞いて納得していたが、こんなに近くて遠い「生は性」が、間違いなく存在していて、それが確かに青春だったなと感じながら、自分の想像を簡単に越える表現力と、それを描く世界観が面白くて悔しい。

読む人が読めば、その性的描写に目を背けたくなるかも知れないが、物語としての世界を成立させるのに決して邪魔にならないで存在している。やはり、「生は性」なのだ。

冒頭のサルトルの引用から始まり、ひとつの恐怖の叫び声をきくとその叫びを自分の声だったかと疑うとある。

声にならない叫びに、自然と共鳴出来ていた時間を思い出した。それは絶対に、誰かの声をきちんと聞こうとしていた。それを自分の青春時代だというのなら、今確実に終了している事を自覚した。

いつの間に、人の叫びを聞かないフリを上手に、そして聞いているフリを巧みに出来るようになってしまったのだろうか。

どこで自分は磨り減って、どこで救いを求めてどこで恢復したのか。きっかけを探る「鍵」を忘れてしまっている自分が悲しくなった。

私は、大江健三郎が使用する「恢復」に少し精神めいた物を感じる。「回復」ではない、「恢復」にすがりたくなる気持ちで読んでしまう。

死とは、自分の肉体を他人の手にひきわたすという感覚だった。医師と看護婦、あるいは神たち、悪魔たちに、そして結局は虚無に、虚無のまた虚無に。

大江健三郎「叫び声」より

全体を通しての一貫した、鬱屈が転換していき、動いていくことにより救いを探して訴えてくる。実際起きた事件を導入している部分もあるみたいだが、大江健三郎は、現実と虚構の狭間の世界で、真実を求めている作家だと私は考えているので、襲ってくる文字を素直に体感すれば良いだけだと思う。

「生は性」だが、性から生に救いがあるのかは、不確かだ。何もない事を訴えているようにも感じた。

真裏は死だと。

肉体的な、死、精神的な、死。受け入れるのか抗うのか物語は、ずっと叫んでいる。その青春時代の鬱屈を知るのに今たどり着いて悔しい。それが、一番の感想かも知れない。

だが、当時の自分がこういう感情に気付けたはずもない。

出会いなんていつでも「今」だと最近教えてもらった。その通りだと思った。こういう気持ちに恢復出来て幸せだと思おう。

要するに、然るべき時期に読めなかったという、一種のやるかたない思いだろう。

現に青春にある者が、それも自分が内面において衰弱し、病んでいることを自覚している者が、恢復を目指して青春を書いた小説、というべきであるように思われます。

巻末、「著者から読者へ」より

自分に向き合って、その苦悩を人へ向けて昇華させる事が出来てまた、次へ向かう。

大江健三郎自身が「叫び声」を書きあげるまでの数年間を自ら人生の難所と表現している。「叫び声」を書くことで、やっと当の人生の難所を乗り切りえたと、あらためて自覚したことを思い出すと綴っている。

その苦悩の一端を、作品を通して知れる喜びにより、自分への「恢復」としたい。追える喜びをこのまま連れ立っていきたい。そしてこう言いたい。

なんのはなしですか

これからが私の青春のはず。


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