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谷崎潤一郎の細部にまで達する表現の拘りを変わらず愛でたくなる。

昨年末の話だ。図書館から年末年始に読もうと予約していた本が多く届いた。自分の中で心の落ち着きを取り戻し、ゆっくり読書をしたい欲求に溢れている。

谷崎潤一郎の「陰翳礼讃」を味わった。日本家屋にこんなにも陰影による工夫がされていたのかと今さらながらに大切にするべきだと感じた。当たり前にストレスなく感じていた時間や空間は、誰かが創り上げた時間と空間だと思わされた。

生活には「闇」が付いてくる。

その「闇」に美を感じ追求した長い時間が、陰影を楽しむということに変化した経過を知れた。細かく描写される生活美を読み、本来嗜んでいた「闇」の時間を失っていることに気付いた。

この作品は、陰影が及ぼす時間の経過やそこで生活し、日々を味わう工夫の美しさを感じる。積み重ねた時間から味わう楽しみを設計してきた人達のどこか遊び心と実用、そしてゆとりを感じる。それは決して不便ではなく、むしろ今とは違う豊かさが確実に存在していた。

その遊び方を知って生活するのと、何も知らないで生活するのでは、存在時間の濃密さが違うのかも知れない。

そこには、現在とは違う夜の「闇」の価値が存在し、見えないものを浮き上がらせる粋な時間の価値が存在していたことを忘れてはならない。それをこの当時の時代から忘れ去られる事を危惧している事が尤も深いところのような気がする。

この本の中で使われる
「雅味(がみ)」━━風雅な味わい。

それを当然のように文章からも味わえる。
文章からも美を感じさせるのはやはりすごい。

谷崎潤一郎は、やっぱり自分が好きなものに対する表現が美しい。それは細部にまで達する。図らずも読んでいる私も普段と変わらずの読書スピードなのに、どこか余韻を楽しむように引き算しながら読んでいた。してやられる。

拘りを持つこと、それは好きなものに表現の限界を感じないこと、そして第三者がそれを好きになってくれるように綴ること。傲慢ではなく表現に優しさすら感じてしまう。

時間をかけて愛でて良いのだと感じた。

私は、ここにきてどうして谷崎潤一郎が描く女性が好きなのかに気付いた。知っていたが気付いた。

改めて私と同じように女性が好きだからだ。

女性の内面を描くより、女性そのものが愛でる対象だからだ。

谷崎潤一郎は、間違いなく自分が表現する女性が一番美しく女性らしく女性であると表現している。それは、女心という内面性とは別の話だ。そして自分が表現する女性を越えてみろと言わんばかりだ。

時を越えて気付いてしまいました。

私は、私が思う理想の女性を描く表現に妥協してはならない。どこまで好きか挑戦しなければならない。

ここまで書いてさらに気付いた。

谷崎潤一郎が思う日本家屋や陰影の美。そして谷崎潤一郎の拘りそのものが、女性に対する暗喩だとしたら。

私は陰翳礼讃しなければならない。

なんのはなしですか

大好きです。谷崎潤一郎。まだまだ、どこまでもも求めます。谷崎潤一郎を知れてから私の文学への探求の道は始まりました。まだ一年足らずです。

私の読書に道を示してくれてありがとう。

いつか私も誰かの想像を越える女性を艶やかに表現したいと思う。

結果、陰翳礼讃の内容とは関係なくいつもの通り谷崎潤一郎と私の女性論になってしまったことをお詫びしたいが、他に女性論を交わせる人もいないので時を越えて今後も語らせていただきたい。

私と谷崎潤一郎や三島由紀夫との女性の物語はこちら。

そろそろ誰かに怒られるかもしれない。

願わくば、それが女性なら雅味かもしれない。

本年もよろしく楽しく皆様から学ばせていただき、自分への探求をやめずに進みたい。明日が誕生日だ🎂躍年が始まる。

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