来日40周年
大関こと、KONISHIKIは、1982.6.18にハワイから日本へやってきた。
その事を聞くチャンスがあった。今すぐに聞いた事をメモしなきゃいけないと思って当時書いたままをここに載せる。
18歳の大関は、本当にショルダーバッグ一つでハワイから日本にやって来た。
ママは、洋服を引っ張って泣いていたらしい。
日本語も何も喋れない。そもそも日本の事も相撲の事もほとんど何も知らない。
日本に到着して、当時、空港から出るのにお金が必要なんて事も何も知らないで、一緒に乗り合わせた方にお金をもらって何とか空港から出たらしい。
リムジンバスに乗るお金もなく、見る景色も新しいまま、一銭も持たずに日本にやってきた大関は、高見山さんから言われた、「ハコザキ」という言葉のみで、お金を借りてバスに乗ってたどり着いたらしい。
後から、大関に続いて日本にやってくる事になる、曙さんや、武蔵丸さんなどは、マスコミがもう、空港にいてちゃんと写真が残っているらしい。
大関には何も残っていないって言っていた。
大関は、高砂部屋に着いて次の日には、身支度もそこそこに名古屋へ向かう。
名古屋場所だからだ。
ここで一つ聞きたくなった。
「大関、飛行機の中では何を思っていましたか」
大関は、教えてくれた。
「そこはほんとに何も覚えていない」
「たぶん泣いていたのかな」
「でも、覚えていない」
飛行機の何時間でどれだけ覚悟したのだろう。
家族を残して18歳でどれだけ背負ったのだろう。
今とは全く違う時代。携帯もインターネットもない。
全く知らない国のましてや、国技に携わるなんて行動出来るだろうか。
大関は、この後、所要12場所。約2年の速さで新入幕している。
私は、この話を大関とテレビ電話でしていた。
会話は、身体の事、今思うことをそれとなく話しただけだが、私に直接お礼を言いたいと電話くれた日。
この日は、去年の6月18日。
来日39年のお祝いメッセージを入れた日。
そして今年は、大関の来日40周年である。
40年も日本とハワイの架け橋をして、
日本の相撲を愛して、相撲という文化を今尚、世界に発信している。
大関は、自分で日本の方達に恩返しとして、皆で楽しみたいと来日40周年プロジェクトを始めた。
全国各地で一緒に楽しい時間を祝おうと今年は色々開催される。
私は、やっぱり大関の自分で行動を起こしていき、自分の利益とかでなく、いただいた気持ちを返すために、動いて巡り巡る生き方を、心から尊敬するし、これからも追いかけ続けたい。
私達も私達にしか出来ない事を考え、今年11月に伊勢原市で大関を迎えたいと思う。
なんのはなしですか
40周年。40年の積み重ねと時間の重さは、よくわかる。
だって私は、今40歳だから。
自分に何が書けるか、何を求めているか、探している途中ですが、サポートいただいたお気持ちは、忘れずに活かしたいと思っています。