見出し画像

新感覚!解決しないミステリー小説 ロンドの旅Part1ロンドの旅 全編

Part1 ロンドの旅 
Chap1 ニューヨークの事件

1.探索

ニューヨーク郊外で3人は1人の女性を待っていた。

七分袖のジャケットにTシャツとハーフパンツ、革靴を合わせた男性と、シンプルなワンピースを着た少女2人は、全身をまっさらな白色で揃えている。さらに、肩まであるストレートの金髪と金色の瞳はこの3人に共通していて、いささか異彩を放っていた。

 初めまして。

腰まである黒髪ストレートの女性は、黒い無地のTシャツにデニムの装いで、ハイヒールをコツコツ鳴らしながらまっすぐ3人の席へ向かい、立ち止まった。

 初めまして。こんな広くて混雑したカフェでも、すぐにわかったんですね。

 あなたたち、とっても目立つからすぐに分かったわ。電話でもそうだったけど、日本語は大丈夫そうね。

色白で細身の女性は、長い髪をサラッとかき分けながら椅子を引いた。筋の通った高い鼻は日本人離れしている。

 ははは、目立ってますか。私は半分日本人ですからね。子供たちも一時期日本に
いたことがありますから、少しは話せますよ。

 少し?私は何語でも上手に喋るわよ!

 …。

 遅くなりましたが、幸引(こうひき)ロンドです。そして、長女のメライ、次女のバルカ。2人とも、挨拶しようか。

 初めまして、私はメライ。お会いできて光栄ですわ。

 …。

 バルカも挨拶できるかい?

 …。

少女は表情を変えず、静かに長身の女性を見上げていた。

 幸引さん、大丈夫ですよ。メライちゃん、バルカちゃん、よろしくね。

女性は飲み物を注文したあと、少し苦い表情を見せた。

 ふー、今日は本当に暑い。夏は嫌いだわ…。

 そうですか。私は結構好きですよ。寒いより暑いほうが性に合います。

微笑を浮かべそう言い放つと、ストローに口をつけた。

 こんな暑い日にしっかりジャケットを着込んでるもの。よほど寒がりなのかしら。

そのあとすぐに彼女はキリッとした面持ちに変わった。

 さて…最初に確認だけど、本当にあなたたちが夫を殺した犯人を探してくれるのよね?

 はい。ただ、お話ししたとおりですが、条件があります。

 そうね。あなたの奥さん、つまりこの子たちのお母さんには国際指名手配がかけられている。しかも、私の夫を殺した犯人の可能性がある…という認識で合ってるかしら。

 はい。間違いありません。事件の概要をお聞かせいただき、妻の犯行であるかを判断させてください。もし別人の犯行であれば、たとえどんな状況であれ、我々は事件から手を引きます。勝手で申し訳ないですが、一刻も早く妻を見つけ出したいので、ご理解いただければ助かります。

 …もし本当にあなたの奥さんが犯人だったら、その家族のあなたたちにお願いするのは気が引けるけどね。でも、それ以上に私は犯人を見つけたい。ところで、どうやって犯人が奥さんか別人かを判断するわけ?

早く喋りたくて落ち着きを失っていた少女が満を持して口を開いた。

 星の数!星の数で判断するのよ!

 星の数?

まったく理解できず、反射的にそのまま言葉を返した。

 ふふふ…メライ、それじゃまったく伝わらないじゃないか。

 わかってるわよ!星は難易度を表してるの。私が解けるのは星2つまで、バルカは1つ。私たちが探している人物は、著名人が被害者の事件現場周辺で毎回目撃されているわ。そして、もう一つの共通点はすべて最高ランクの"星3つ"であるということ。だから、とても難解かつ世界中に報道されるような事件をこうして捜査してるってわけ。

早口であることも相まり、理解が追いつかず、すかさず疑問を口にした。

 と…解けるって、あ、あなたたちまだ小学2,3年生くらいでしょ?どういうこと?

 娘たちは物心ついた時から事件資料を見て犯人像や犯行方法を考えるようになったんです。まあ私たちの仕事の影響もあるかも知れません。

 小学生が仕事?電話で話したときはちゃんと聞けなかったけど、あなたたちは何者なの?

 それでは、改めまして…

そう言いながら、胸ポケットに手を伸ばした。

 私はエピソードという会社の副社長を務めています。まあ会社と言っても数人なんですけどね。社長は妻が務め、この子たちにも手伝いをお願いしています。

 事件コンサルタント…

その肩書きを眺めながらつぶやいた。

 はい。ビジネスとして、クライアントへ事件解決のご提案をしています。警察の捜査よりも先に真相に辿り着きたい、迷宮入り事件を解決したい、事件化されない事件を捜査したい…など、様々な事情を抱えた方々からオファーをいただいてきました。

 ふーん、警察でも探偵でもない、「コンサルタント」か。いろんな職業があるものね。

 はは…そうですね。ただ、いまは専ら妻の捜索に明け暮れていますので、ほぼ休業中ですが。

数秒間の沈黙を経て、話は本題へと向かっていった。

 じゃあ、コンサルタントさん…正直あなたたちを完全に信用はできないけど、夫の事件、早期解決をお願いしますわ。

 ええ、今回は私からのお願いですので、ビジネスではないですし、犯人特定までのお約束はできませんが、無償でお受けします。では、詳しいお話をお聞かせいただきましょう。

 わかったわ。じゃあ何から話せばいいかしら。

 では、思い出すのはおつらいでしょうが、事件や旦那さんに関することについて、どんな些細なことでも構いません。報道以上の情報を含めできるだけ詳しく、あなたの知っていることをすべてを教えてください。

一瞬表情が曇ったが、すぐに持ち直した。

 了解。知っていることをすべて話すわね。

こうして、事件の概要が語られた。

2.日課

朝食は必ずトーストとコーヒーと決まっていた。複数の新聞を一通り読み、同じ時刻に出かけるのが十数年間の朝のルーティンであった。験担ぎでもあり、たとえ体調が悪くても、旅行をしてても、同じ行動をとることにこだわった。これはおそらく、一度決めたことを生涯やり続けた、いまは亡き父の影響だろう。

ワインが大好きで、若いときにソムリエの試験に合格した。その後もワインの勉強を欠かすことはなかった。父親から受け継いだ小さなワイン製造・販売会社の事業からはじまり、多角経営で会社を大きくした。この経営手腕は世界で評価され、最も影響を与える人物にも幾度か選出されるほどであった。

幼少時代は、両親の英才教育で勉強漬けの毎日だった。これが奏功し兄弟全員が高学歴を修め、それぞれに会社経営や弁護士、医師など多方面で活躍している。年に数回はみなで両親の墓参りや旅行へ行くなど、良好な関係を築いていた。

周囲では人柄の良さが有名で、会社経営は順風満帆、子供はいなかったが、夫婦関係も円満で幸せな毎日を送っていた。休日には趣味のワインやコーヒーをはじめ、グルメやジョギングなどを楽しんだ。

ただ、その日はなぜか少しソワソワしていて落ち着きがなかったが、いつものようにハグをして彼を見送った。…それが最後の姿となった。

会社の駐車上で車を降りて執務室へ向かうまでの僅かな隙に背後から射殺され即死した。遺体が見つかったのは同日午前11時ごろ。最後に食べたと見られる前夜の夕食の消化具合、死斑などその他解剖結果から、撃たれたのは10時ごろと見られた。

監視カメラに不信な人物は映っておらず、社内セキュリティに詳しい社員の犯行が疑われたが、特定に至らなかった。現在、有力な容疑者は不在のままである。

当日の彼の行動は、自宅を出たあと通り道の骨董品店でソーサーを購入したことが確認されている。遺留品のビジネスバッグの中に入っており、店主が来店と購入を証明した。特におかしな様子はなかったという。

他には、財布、鍵、ノートパソコン、筆記用具、手帳、新聞、ビジネス書のほか、小さな陶器の破片が見つかったが、当日購入したソーサーに破損は確認されていない。また、金品が盗られた形跡はなく、指紋や足跡など、犯人に繋がる手がかりは確認されなかった。ただし、私用のスマートフォンが見つからなかったため、犯人が持ち去った可能性が高いと見られている。

妻が知る限りでは、仕事でもプライベートでも彼の周辺でトラブルはなく、警察の捜査は難航している模様である。

3.自署


 これで私の知っていることは全部よ。

 ありがとうございました。

 …あさごはん

初めて口を開いた。

 バルカ、やるじゃない

負けるものかと、かぶせ気味で割って入った。

 ねえ、警察は朝ごはんについて何か言ってた?

 朝ごはん?

また理解が追いついていない様子だ。

 死亡推定時刻が10時ごろってことは、朝は生きていたっとことだし、あなたは間違いなく家から出かけて行く彼を見送ったのよね。つまり、ルーティンで、朝ごはんは必ず食べているはず。それなのに、なぜ最後の食事は夜なのかしら?

 あ…たしかにそうね。そう言えばルーティンのことは警察に話してなかったわ。

 なんで?

 特に理由はないけど…そんなに重要なことなのかしら。

 そうね、たぶん重要。

 たぶん?

 いまの話だけじゃ確証はないって意味。ちなみに、その日だけ十数年のルーティンをしなかった理由があるはずだわ。

 理由…その理由が事件に関係あるってこと?

 まだ推測だけど、関係は深いと思うわ。朝ごはんのルーティンは、コーヒーも込みよね?

 そうね。必ず決まったお店のパンとコーヒーがセットだった。出張でも旅先でも、冷凍したり、食器を持参したりして色々工夫してたわね。自宅だったらコーヒーは必ず豆から挽いていたわ。

 そこまでのこだわりがあるのになぜ食べなかったのか…もう分かるわよね。

 …! なるほど。コーヒーね。

 そう。十数年ぶりに朝ごはんを食べない日に、毎日使っていたソーサーを新調した。これは偶然とは思えないわ。少し様子がおかしいとも言っていたし。そして気になるのは、破片…ね

父親は微笑を浮かべながら2人のやり取り静観していた。一方、少女は眠っているかのように目を閉じてじっとしている。

 ほかの遺留品もそうだけど、破片はいま警察が調べていて、私の手元には何もないわ。

 ねえ、もしかしてその破片って割れたソーサーの一部じゃないかしら?つまり、大事に使っていたソーサーが何かの理由で破損してしまい、その日はルーティンをやめた。

 まさか…そんな…

 何か心当たりがおありのようですね。

久しぶりに口を開けた。

 ええ…。理由は分からないけど、夫が愛用していたソーサーを犯人が持っていった可能性が高いってことよね。

 はい。
 うん。

しばらくの沈黙を破り、一言だけつぶやいた。

 あのソーサーには確か…

同時にスマートフォンを取り出し、画像データの検索を始めた。夫とクラウドで共有していたため、ここ数年間の写真を確認することができるようだ。

 あったわ、これね。

それはソーサーの裏側の画像だった。溝の部分に何やらサインらしきものが書かれている。その画面を映したまま、テーブルの上に置いた。

 それは…誰かのサインですか?

 そうよ。この国で有名なワインソムリエの、ね。夫は彼の大ファンだったの。仕事で関わったことがあって、その縁で自宅へお招きしてね。その時に書いてもらったのよ。毎日使えるものがいいって言ってね…たしか、それから朝食のルーティンが始まったような気もするわ。

当時を懐かしんでいるような雰囲気を醸しながら、経緯を説明した。

 ほう、それは興味深いですね。メライ、バルカ、これからどうしようか?

 ワインソムリエのファンがサイン入りのソーサー欲しさに殺害した…とか、あとは。。

 そむりえ

 そうだね。メライの言うとおりだけど、引っかかるところは多い。もし仮説があってるとしたら、ソーサーがバッグの中に入っていたことを犯人はどうやって知ったのか?そもそも、なぜ持ち去ったのか?ただ、これ以上の手がかりはいまの僕らにはなさそうだ。思い切って、彼に会って話を聞くことも必要なのかも知れないね。

 ちょっと待って。あなたたちは知らないかも知れないけど、超有名人の彼にはそう簡単には会えないはずよ。

 …そういうときは、「親会社」にお願いしてみます。

左手の人差し指を立て、少しドヤっとしながら自信満々な笑みを見せた。

 親会社?

 ええ。実は弊社は完全子会社でして。親会社に全面的にサポートをしてもらってるんですよ。

 へー…もし本当に会えるならすごいことね。私も話を聞いてみたいわ。警察もノーマークな彼が何かを知っているのか。

 わかりました。それでは今日はこれで失礼し、後日ご連絡差し上げます。

4.懐疑

4人はオフィス街にある喫茶店にいた。

 ほんとにアポイントが取れたなんて…。あなたの言う「親会社」はよほど強いコネクションをお持ちのようね。

 ふふ。まあ、そんなところです。

ニッコリと満面の笑みで答えた。

 今日はソーサーにサイン書いた人物へ話を聞きにきました。

 ええ…そうね。

少し俯き加減で呟いた。

 ただし、分刻みで仕事が予定されていて話せる時間は15分程度と言われています。

 そう、じゃあ要点を絞って話をしましょう。

 はい。1つ目はサインについて。2つ目は当日の彼の行動について。この2点を確認したいと思っています。

 いいわ。話は任せるわね。

 わかりました。2人もよくソムリエさんの話を聞いておいてくれ。

 うん、わかったわ。

 …。

 それでは、行きましょうか。

受付で彼の名を告げると、広い応接室に通された。彼はソムリエとして一躍有名になり、その後は動画配信、タレント業、ワイン会社の経営など幅広く活躍している。この建物の規模や立地からも、世界有数の成功者であることが窺えた。ノックのあと、入口から沈痛な面持ちの男性がやってきた。

 お待たせしました。

 大変ご無沙汰しています。

 奥さん、この度は、、なんと言ったらいいか…。非常に残念です。

 はい…。1日も早く犯人が見つかればと、日々思っています。あの日、夫と3人で楽しく談笑したのが昨日のように思い出されます。

 そうですね。時が経つのは本当に早いものです。さあ、どうぞ、皆さんお掛けください。コーヒーとジュースも淹れ直しましょう。

タイミングよく、新しいコーヒー3つとジュース2つが運ばれてきた。

 とても濃くてほどよい苦味もあって、本当においしいコーヒーですわね。

 お口にあって良かったです。私はこのコーヒーが大好きで、ここ何年間は毎日2,3杯は飲んでますよ。

 そうなんですか。あとで銘柄をお伺いしたいくらいですわ。

 はい、喜んで。あとで差し上げますよ。

 ありがとうございます。…さて、本日はゆっくりお話することがかなわないと聞いてますので、早速本題に入らせていただきますわね。

 そうなんです。せっかくお越しいただいたのに申し訳ありません。このあとも仕事がありまして…あと10分ほどしたら出発しなくてはならないのです。

 わかりました。ご紹介が遅れましたが、事件の早期解決のため、こちらのコンサルタントの方に捜査を依頼しました。ここからは、彼からお話をしてもらいたいと思っています。

 ご挨拶が遅れました。エピソードの幸引ロンドと申します。こちらは娘のメライ、バルカです。本日は大変ご多用のところ、お時間をいただきありがとうございます。

 初めまして、私はメライ。お会いできて光栄ですわ。

 …。

 どうも初めまして。可愛らしいお嬢さんたちだ。御社からのご依頼とあらば断れないでしょう。もちろん、奥様にお悔やみを申し上げたい思いもありましたしね。それにしても、事件コンサルタントとは…

笑顔で握手を交わしたあと、不可思議そうな表情で肩書きを眺めていた。

 親会社より本日のアポイントをお願いしました。私は子会社の人間で、クライアントからご依頼のあった事件の早期解決をご提案させていただいております。

 なるほど。そして、今回のクライアントである奥様より依頼を受け、私に話を聞きにいらしたということですね。

 はい。話が早くて助かります。それでは、まずお聞きしたいのは、旦那さんのソーサーにサインしたことを覚えていますでしょうか?

 ソーサー?…えー。あー、思い出しました。もう十数年前でしょうか。あの日はだいぶ楽しい時間を過ごさせてもらいました。そして、酔った勢いで、サインを書いたのです。その頃はいまほど名が知られていませんでしたが、旦那さんはとても喜んでくれましてね。良い思い出ですよ。

 そうでしたか。実はそのソーサーが事件当日旦那さんの持ち物から奪い去られた可能性があるのです。何かご存知ないでしょうか。

 まさか…。犯人は私のファンだとか、そういうお話でしょうか。

 はい。その可能性もありますが、まだわかりません。ちなみに事件当時はどちらにいらっしゃいましたか。

 やはりそういうことを確認されるんですね。事件がいつ起きたのかは報道で確認しました。幸い仕事の取材を受けていたので、事件現場に近づいていないことは証明できます。後ほど、秘書から証拠をご提供しますよ。

 ありがとうございます。とても助かります。それにしても用意周到なお方だ。まるでこの状況を想定していたかのようですね。

 これはこれは。歯に衣着せぬモノ言いですね。なにかお気に召さないことでもありましたか?気になることがあるなら聞いてください。なんでも答えますから。

 失礼しました。私の悪いところが出てしまいましたね。それではお言葉に甘えて。このあとはどのようなお仕事で?

 そんなことですか。事件に関係することかと思いました。このあとはすぐ近くのスタジオでワインのテイスティングを披露する番組の収録があります。答えになっていますか?

 はい。十分です。本日は事件解明のためにご協力くださってありがとうございました。

口角を上げ、白い歯を見せた。

 お役に立てたのなら良かったです。1日も早く犯人が捕まることを祈っています。奥様、難しいとは思いますが、どうか気を落とさず。私にできることがあればなんでも言ってください。できる限りのご支援をさせてもらいます。お約束のコーヒーも証拠と一緒に秘書からお受け取りください。それでは。

脚をブラブラさせながら明らかに不満そうな表情の子、それとは対照的に、じっと一点を見つめ表情を変えず微動だにしなかった子は、男が去ったあと口を揃えた。

 コーヒー!
 こーひー

5.仮面

 コーヒー?

もはやお決まりのバックトラッキングだ。

 そうよ。このあとテイスティングの仕事があるのに、濃くて苦いコーヒーをがぶ飲みするし、毎日2,3杯も飲んでるなんて、なにか怪しいわ。

そう言うや否や、驚異的なスピードでスマホ操作をし始めた。

 たしかに…でもなんで彼はそんなことを。よほど自分の舌に自信があるのかしら。

 そうですね。これだけの情報ではなんとも言えません。濃くて苦いコーヒーを毎日飲むソムリエなんて存在しないとは言い切れないですしね。ですので、実際に見てみましょう。

 まさか、スタジオ収録に行くってこと?さすがの「親会社」さんもそこまでは…

 もう手配済みよ。行きましょう。

 さすがメライ。仕事が早いね、ありがとう。じゃあ行こうか。

秘書から事件当日のスケジュールや取材を受けた記録のコピーを受け取り、4人はビルを出た。すぐにタクシーへ乗り込み、収録現場へ向かった。到着後、関係者との話を済ませるとスタジオのスタッフエリアへ通された。

 ここでしたら自由にご覧いただいて構いません。当然ですが、これから収録が始まりますので中には立ち入らないようお願いします。

 はい、わかりました。ご無理を聞いていただきありがとうございます。2人ともしばらく静かに待てるね。

 そんなの当たり前よ!子ども扱いしないで!

 はは。ごめん、ごめん。悪かったね。

それから数十分後、収録が始まった。

 おや?

 あれ?あの人は顔を出さないの?

 ご存じないんですね。いつの頃からか、ご本人の希望で声だけの出演になったんですよ。昔はどちらかというと目立ちたがりな方で露出も多かったんですけどね。理由はよくわかりません。

 そうでしたか。それは取材などカメラが回ってなくてもですか?

 はい。私は直接取材をしたことはないので聞いた話ですが、メディアに出る仕事では、声だけの出演を徹底しているようです。

 ほう…そうですか。

 じゃあ、ますます怪しいじゃない!

 え?怪しいとは?

 失礼。こちらの話です。ところで、もしご存知あれば伺いたいのですが…

 はい。あーそれは…いくつかありますね。

 お手数をおかけしますが、もしよろしければ、ご確認いただきこちらへお電話いただけるでしょうか。

 わかりました。調べて連絡しますね。

 ありがとうございます。
 奥さん、それではお暇しましょう。

 え?もういいの。わかったわ。

 この度はお取り計らいありがとうございました。責任者の方にもよろしくお伝えください。それでは失礼します。

 そうですか。お気をつけて。先ほどの件は、本日中には電話できると思います。

6.照合


4人はスタジオを後にすると、最初に待ち合わせをしたカフェへ向かった。辺りはすっかり闇に包まれていた。

 ふう。ここは賑やかですが、なんか落ち着く雰囲気ですね。

 気に入ってくれて良かったわ。お店の人とは昔から知り合いでよく使っているの。

 そうでしたか。コーヒーも美味しくて僕も行きつけにしたいですよ。

 ねえ、早く本題に入りましょうよ。

黙って大人の世間話を聞いていたが、我慢の限界だったようだ。

 うん、そうだね。
 …おっ、来たかな。

左耳に受話口を当てた。

 幸引です。先ほどはどうも。…。

 …。

 はい。Rougeblossom、beat、Ground BARですね。わかりました。すぐに調べてくださりありがとうございました。それでは…はい、失礼します。
 メライ。いまのを調べてくれるかい。

 もうやってるわよ。

 ありがとう。
 奥さん、いまから私が言うとおりにやってみてください。犯人を特定する手がかりが得られるはずです。警察には協力してくれるよう、連絡をしておきます。そして、残念ですが、私たちはここでこの件から手を引かせていただきます。

 …?!つまり犯人はあなたの奥さんではなかったってことね。犯人が分かったの?

 はい。本来であれば最後までお付き合いしたいのですが、決め手は奥さん自身で見つけていただければと思います。私たちの仮説を話します。

最初は半信半疑だったが、説明を聞いてくうちに自然と納得ができた。

 わかったわ。やってみる価値はありそうね。でももしあなたの仮説が間違っていたらどうする?

 そのときはまた呼んでください。どこにいてもすぐに駆けつけますから。

左手の人差し指を立て満面の笑みをこぼす姿はつい最近も見た。彼の揺るぎない自信を表す時のポーズなのだろうか。

 ありがとう。あなたたちにはお世話になったわね。

 いいえ、本来なら最後までお付き合いしたいところですが、申し訳ありません。

 いいのよ。奥さん…お母さん早く見つかるといいわね。

 ええ。ありがとうございます。それではこちらで…

 ちょっと待って。最後に、ただの興味本位で聞くわね。あなたたちはいつも同じ服装なの?

 ははは、たしかに気になりますよね。毎日きちんと着替えてますからご安心ください。仕事着として、会社から毎日新品が支給されるんですよ。3人ともこれが気に入ってましてね。

 …そう。よほどお金持ちな会社なのね。引き留めて悪かったわ。それでは、さようなら。

 さようなら。2人とも挨拶しようか。

 ばいばい!あともう少しだから頑張ってね!

 …。

 メライちゃんも、バルカちゃんもありがとう。バイバイ。

7.見立


数日後、3人はニューヨークを後にした。

 メライ、このジェット機はどこに向かっている?

 ソウルよ。例の政治家の事件を追うわ。それにしても、行き先もわからずよく乗りんだわね。ま、いつものことか。

食事や飲み物はもちろん、ソファやテーブル、ベッドまで完備しており、長時間の移動も快適に過ごせそうな空の旅で、"打合せ"か始まった。

 ふふ。君たちを信じてるからね。ところでメライせんせい、次の星は?

 三つ星の確率は12%だそうよ。一つの確率が62%、二つが26%ね。これもどこまでに当てになるのかしら。本当に私の見立てのほうが精度が高いかもね。

 うん。この前の事件ではメライのお手柄で成果を得たようなものだ。それにしても、12%の案件しか当てがないとは。"上"も苦労しているようだね。

 そのようね。あ、ニューヨークの事件、お店に飾ってあったサインとソーサーの写真のサインとの照合が終わったみたいね。予想どおり一致しなかったそうよ。

 では、立証に一歩近づいたね。彼にはいつの頃からかゴーストがいた。世間に知られないよう、過去に書いたサインをこの世から消すために犯行に及んだというところかな。

 …いずれにせよ、私たちはもうこの事件をこれ以上追う必要ないわ。切り替えましょう。

 君から出した話題じゃないか。しかし、メライはドライだなぁ。一体誰に似たんだか…。

およそ小さい子供との会話とは思えないようなやり取りが一段落したところで、喉を潤した。もう一人の少女はじっと窓の外を見つめている。

 さあ?もう本題に入っていいかしら。

 そうしよう。今回のクライアントは?

 クライアントは被害者自身。だけど、生前に支払いを済ませているようだから、仕事ってことになるわね。

 ほう。久しぶりの仕事か…。たまには稼げという"上"の意向かな。しかし、自分で自分を殺した犯人探しを依頼するなんて、日頃から身の危険を感じていたいうことか。

 どうだかね。政治家の世界は大変なのかしら。じゃあ私は休むわ。

 うん。ゆっくりしてくれ。バルカも眠かったら寝るんだよ。

 …。

2人は仲良くベッドがあるほうへ歩いて行った。気付けば、外は漆黒に包まれていた。

 さて、僕も休むとするか。それにしても…ソナタ、君は一体どこにいるんだ。

その後、サインの照合を契機に彼の周辺に捜査が及んだ。当日仕事をしていたというアリバイはゴーストによるもので、自身は現場で被害者を殺害したことが明らかになった。事件前夜、誤って割ってしまったので新調するソーサーにまたサインを書いて欲しいという趣旨の連絡があった。その瞬間サインの存在を思い出し、慌てて電話越しに破損したソーサーを渡すよう求めたが、被害者は応じなかったのだ。やむを得ず、彼はサインの依頼に応じるフリをして、被害者と会社で合流することを提案し、その際、破損したソーサーも持参するよう付け加えた。あとは既知の情報どおりである。加害者、被害者ともに世界的な著名人であり、さらにはゴーストの存在が明るみになったため、この顛末が各国で大きく取り上げられたことは、想像に容易い。こうして、犯人のなんとも身勝手な動機により引き起こされたニューヨークの事件は解決へと至った。

Part1 ロンドの旅 
Chap2 プサンの事件

1.遺言


 ここまで豪華絢爛な伝統家屋を拝見したのは初めてです。

瓦葺きの立派な屋根がとても芸術的だ。中は特有の建材を加工しすぎず自然のまま遇らうことで、見た目が美しく、さらに通気性も抜群である。板の間と床暖房がバランスよく組み込まれていて、夏は涼しく冬は暖かく過ごせる構造だという。

 旦那様の家系はこの周辺をおさめていた名家でしたので、敷地の広さや建物の大きさはもちろん、装飾や家財道具、置物に至るまですべてが一流品ですわ。

 そうでしたか。政治家として大きな成功をされていても、ここまでの邸宅に住まうこと
は中々難しいですよね。

 ねえ、例の書斎はどこなの?

世間話を好まない少女は一刻も早く本題に入ろうとしていた。

 もう少しで着きますよ。それにしても、お子さんまで韓国語がお上手なんですね。

 ええ。小さい頃、一通りの言語を教えたらすぐ習得しまして。我が娘ながら、有能なものです。話は変わりますが、これだけお広いと日々のお手入れが大変ですね。

 はい。もう何十年も毎日やっていますので、慣れましたけどね。…着きました。こちらが書斎でございます。

中に入ると被害者が愛用していたというデスクの上に置かれたビジネスバッグが目に入った。四方の壁は本棚で埋め尽くされ、書物が隙間なく詰まっている。

 これまた壮観ですね。一生書物には困らなそうだ。

 旦那様は幼少からよく書斎にこもっていて、ここにあるものは一通り読破されたと仰っていました。

 ほう。それは素晴らしい。しかもジャンルごとによく整理されてますね。…おぉ、これは僕が読みたかったやつだ。これも…。

広々とした部屋を壁に沿って歩き、興味のあるタイトルがあると立ち止まった。

 ねえ!何しに来たの?!

 メライ、ごめんごめん、そんなに大声を上げなくてもいいじゃないか。

 ふん。…ところで、ご家族は1人もいないのね、皆さん忙しいのかしら。

 ええ…。旦那様は仕事熱心で、あまりご家族との交流はあまりされない方でした。奥様も、独立されたお子様たちも、葬儀では涙一つなく淡々としている印象でした。私からはあまりこんなことを話すべきではないのですが。

 ただ、あなたは信頼されていたようですね。依頼文には、あなたに聞けばすべて分かるとしか書いていません。

 旦那様が幼少の頃から仕えていましたから。歳も近いですし、使用人の身分に相応しくない表現ですが、馬が合うといいますか、昔はよく取り留めないことを話していましたよ。

 そうですか。今回のことは、お気の毒でした。

 …旦那様からいただいた最期の仕事でもありますから、私に協力できることがあればなんでも言ってください。

 ありがとうございます。心強いです。では、早速ですが、事件の概要をできるだけ詳しく教えてください。

2.知己

出張で帰りが翌晩になると、朝出掛けに使用人へ告げた。しかし、深夜になっても帰宅せず、携帯にかけても応答はない。予定変更は当然あるが、これまで自宅へ連絡を入れないことがなかったので不審に思った。秘書へ確認したところ、事務所には来ておらず、出張とは聞いていたが誰も行き先を知らされていなかった。その翌朝、ソウルの山で遺体で発見されたと警察から一報があったのだ。死因は絞殺で、何者かに殺されたと見られている。

手帳にその日の出来事を日記のように書き残す癖があった。発見の前日には、ソウルで登山をしたと記されていた。その際、なんらかのトラブルに巻き込まれたと警察は予測し、周辺を捜査中である。近くにあった盗難車で入山したようだが、自宅を出た後の経緯はいまだ定かではない。

やり手であったが、危ない橋を幾度となく渡ってきた。目的を果たすためには手段を選ばないタイプで、敵が多かった。おそらく、長い間常に身の危険を感じており、もしもの時のため、事件コンサルタントへ捜査を依頼していたのだろう。警察は、主人に恨みを持つ人物を洗い出しているが、対象者が多く時間がかかっているようだ。

伝統的な名家の一人息子として、代々の政治家一家として、数知れない重圧で押し潰されそうになった。親に決められた道以外に進みたいと強く思った時期もあったが、許されるわけがないと、飲み込んだまま青春時代を過ごした。一族の力で特別視されるうち、自分は何をしても許されると思い込み、次第に一般的な価値観を失っていく。国民のためではなく、自分のために仕事をするようになり、気付けばかつての仲間からも家族から完全に孤立していた。使用人だけがただ唯一の拠り所になり、主人はすべてを託してこの世を去った。彼女はそれに応えようと、専門家に協力し、事件の全容が明らかになることを望んだ。

ただ一つ、主人の仕事以外の功績を挙げるなら、2人の子どもを政治の道へ進ませなかったことかも知れない。両親からの絶大な妨害に合うも、これだけは譲らず、子供たちが好きなことをやらせた。きっと、自信の二の舞を演じさせたくないという親心であり、良心の呵責とも言える。

3.撞着

にっき

 うん。興味深いね。
 遺留品は警察から戻ってきたのでしょうか。

 はい。旦那様が最期まで持っていたバッグとその中身は、そのままこのデスクに置いてあります。

 それでは、中を拝見させていただきたいのですが。

 大丈夫です。奥様の許可は得ていますし、旦那様からは御社に全面的に協力するよう言われていますので。ですけど、大変失礼ながら、私は事件コンサルタントというご職業を初めて知りました。あのご主人様がとても信頼されていて、正直驚きましたわ。自分で申し上げるのもお恥ずかしいですが、私以上に信頼を得ている存在がおられるなんて。

 ふふ。親会社が聞いたら喜びそうです。あくまで我々は子会社の人間でして…ただし引き受けたお仕事はきちんと完遂しますので、ご安心ください。それではバッグを失礼しますね。

いつものように、自分の立場を具体的に述べた。少女がサッと手を出し調査を始めると、外周を隈なく確認し、中に入っているものを取り出した。

 これが日記ね。

他には、スマホ、新聞、万年筆、ハンカチ、財布、カギがあった。それは本革のカバーに覆われたB5サイズのバインダーノートで、とても分厚かった。仕事のメモ帳兼簡単な日記として使っていたようで、2年分の出来事が1日1ページずつ毎日記されていた。遺体が発見された17日は見開き右側のページ、最後に自宅から出掛ける姿を見た16日は左側のページ、その裏のページには15日という具合である。

 ふむ…ここが事件前から遺体発見までが記された箇所のようですね。ご主人はこの時期毎年よく登山をされていたのですか?

 はい。ご主人様はお一人でソウルの山を登られるのがお好きでした。お時間ができたときはよく行かれていましたよ。

 では、今年も去年も、その前の年も行かれていたんですね。

 そうですが、それが犯人への手がかりになるってことですか?

日記には以下のように記されていた。

(見開き左ページ)
14日晴れ
今晩の会食で来期の主要な人事がすべて確定した。ソウルの会場へ向かう途中の虹は美しかった。

(見開き右ページ)
15日雨
朝からひどい雨で一日中降り続いていた。少し肌寒い。

(見開き左ページ)
16日晴れ
今日はいつものソウルの山を登り、良い運動になった。天気も良く心地よかった。

(見開き右ページ)
17日
[以降白紙]

 にじ
 虹!

4.相反


 何か分かったのですか?

 まだ、仮説ですけどね。メライ、1年前の同じ日はどうなってる?

15日晴れ
あそこに行くのは何年ぶりだろうか。たまには昔を思い出しながらのんびり向かうとしよう。

16日晴れ
指定の場所で待ったが誰も来ない。帰宅する。

 こう書かれているわ。

 そうか。

 で、いま調べたけど、やはり実際の天候は逆のようね。

 逆?

 うん。「朝虹は雨、夕虹は晴れ」という諺があるわね。これは、夕方虹が出ていれば翌日は晴れの確率が高いということを表している。科学的な根拠もある。そこに違和感があったってわけ。そして、この手帳はリングノート。ページの入れ替えは簡単にできちゃうわ。今年の14日が虹、15日が雨ってなってるけど、調べたところ今年の15日は晴れ。そして、手帳では去年の15日が晴れになっている。つまり…今年と去年の15日、16日のページをすり替え、1年前の16日に書かれていたソウルの山へ遺体を運んだ、若しくはそこで殺された可能性があるかも…って思ったのよ。

 な、何ですって!では、ご主人様は15,16日はどこにいたのでしょうか。

 うーん、「指定の場所」だけでは特定のしようがありませんね。

 ん?これは…。鉛筆かシャーペンはあるかしら?

 お、いいものを見つけたね。

 あ、はい。こちらをお使いください。

 メライ、これは証拠品だ。新たな事実が分かるかも知れないから、あとで警察に再提出が必要になるだろう。僕らが何も手を加えてないことを証明するために写真と、念のため動画に残しておこう。

 そうね。じゃあ私が撮影するからこれよろしく。

 わかった。

同意すると共に、手帳の隅をペンで塗りはじめた。すると、3文字の言葉が浮かんだ。

 ナ、イ、ル

 どういう意味だろう。

 ナ、ナイル!まさか…。

 何か心当たりがおありで?

 確信はないのですが、ご主人様が幼少のころ、ご家族で年に何回か別荘に行かれていました。使用人も身の回りのお世話で同行したのですが、ご主人様と私はそこを「ナイル」と呼んでいたのです。別荘が韓国最長の川のほとりにあったかはなのですが、2人だけの暗号というか、お互い子供でしたので、ふざけていたんです。すっかり忘れてましたが、いま思い出しました。

 それは調べてみる価値がありそうです。ご案内いただけますか?

 は、はい。わかりました。奥様にご連絡を入れ、他の使用人たちへ事情を話してきますので少々お待ちください。距離がありますので、そのつもりで準備をお願いします。

 わかりました。できれば別荘に入る許可を取っていただき、鍵を持参してもらえれば助かります。

 そうですね。奥様にお願いするようにします。

5.親子


4人は搭乗すると、手配していた窓際の2席と、3人席の通路側と真ん中に腰をかけた。

 あの、先ほどは気が動転してそれどころではなかったのですが、一つどうしても気になることがございまして…お聞きしてもよろしいでしょうか?

 ええ、もちろん。

 お子さまたちはまだ小学生になったばかりのように見受けますが、語学が堪能なだけでなく、大人にも勝るほど頭がとても良いので、何だかとても不思議で…

 お褒めに預かりありがとうございます。そうですね、私が言うのもなんですが非常に優秀なんです。親会社には教育プログラムがありまして、それを小さいころから受けさせてたのも影響しているかも知れません。

 そうなんですか。お子さまにも教育をしてくださるなんて、とても家族思いの会社なんですね。

 ええ…まあそんなこところです。

自慢げに話す時の癖なのか、左手の人差し指を立てる仕草を見せながら答えた。

 メライ、君の見解はどうだい?

 …星3つの気配はないわね。"あの人"の仕業とは思えないわ。

 僕も同感だ。それにしても母親に対してあの人はないだろう?

 なに?"ママ"とでも呼べって言うの?

 いや…そうとは言ってないけどね。

1人だけ事情を知らない者は、明らかに複雑な何かがあると察するも、それ以上の勘繰りは控え、聞かなかったことにしようと胸を押さえ静かに深呼吸した。しかし、完全にスルーすることも不自然と思い、口を開いた。

 奥様の捜索はどのくらいされているのですか?

 かれこれ、2年になります。バルカはまだ幼稚園に通っていました。

 長いですね。早く再会できることを祈っています。

 ありがとうございます。ただ、本当に彼女が犯人だったらと思うと…私が一番信じなければいけないのは、よく分かっているつもりなんですけどね。

 きっと、複雑な感情ですよね。会いたいけど、真実を知るのが怖い…。す、すみません!使用人の身分で、こんな話を。

 とんでもありません。ご主人にとってはそうでも、私たちとしてはクライアントも同然です。そもそも、人はみな平等ですし、職業によって優劣を決めるものではない、私はそう思います。

 はい…そう言っていただけて、嬉しいです。ぜひ一緒に犯人を見つけていただきたいと思いますので、よろしくお願いします。

 もちろんです。こちらこそよろしくお願いします。

一笑して応えた。

6.証言

現地に辿り着いたが、別荘地のせいか人の気配がない。効率よく情報を得るべく、二手に分かれて調査することにした。

 じゃあメライ、別荘の中を頼むよ。

 分かったわ。
 行きましょう。

 はい。
 では、周辺の確認はお願いします。

 わかりました。
 バルカ、僕らは目撃者を探しに行こう。

 …。

しばらく周囲を歩いたが成果はなく、あたりは暗くなっていった。

 聞き込みと言っても、誰もいないな。

 …。

 このまま誰も見つからなければ、この辺りの土を持ち帰り成分を調べ遺留品と照合するか、若しくは…

 ひと

 ん?あ、向こうに誰かいるね!よし、話を聞いてみよう。

娘を抱き上げ、猛スピードで駆け出した。相手は牛歩のごとくゆっくりと進んでいたためすぐに追いついた。

 あの、すみません。お尋ねしたいことがありまして、お時間よろしいでしょうか。

前に回り込み、娘を下ろすとともに問いかけた。あれほど俊敏に動いたにも関わらず、呼吸の乱れが一切ないのは、やや不気味だ。

 おお、びっくりした。はて、何用ですかな?

 驚かせてしまい、すみません。僕らは16日にここで何が起きたかを調べてます。失礼ですが、この辺りにお住まいでしょうか?

 ああ、仕事を引退してからは、ほとんどこっちで過ごしてるよ。君は探偵か何かか?警官には見えないが…

 ええ、ある意味ではそれに近い仕事かも知れません。

口角を上げ、白い歯をこぼして答えた。正確に職業の説明をし始めると、理解を得られるまでにある程度の時間を要することは何度も経験した。いつしか、特に必要のないときは訂正せず、相手の認識に合わせるようになっていた。

 そうかい。えーと、16日って言うと…あの日か。

 あの日と言いますと?

 あの有名な政治家先生の別荘に何十年ぶりに車が停まってた日だよ。

 あなたが仰る政治家、別荘、車はこの写真のとおりで間違いありませんか?

 うむ、間違いない。数日前のことを忘れるほどまだボケとらんよ。

 貴重な情報をありがとうございます。この政治家さんとはお知り合いで?

 何十年も前はよく家族で来てたからね。別荘も近かったし、何度かお邪魔したこともあるよ。

 そうでしたか。当日はご本人とお話しは?

 いや、ワシが見たのは車が停まっていたことだけで、人は見てないな。

 車を見たのは何時ごろか覚えてらっしゃいますか?

 うーん、たしか朝散歩していたときだな。

その時の状況やほかに気になることなどを聞き、老人と別れた。さらに周辺を歩き、何軒か訪ねるも不在で、これ以上の有力な情報はなかった。

 バルカ、あちらの状況も気になるしそろそろ戻ろうか。

 …。

7.平穏


分厚いドアを開けると、人が十分に生活できそうなスペースの玄関が出迎えた。無人の館とは思えないほど、隅々まで手入れが行き届いている。

 定期的に人が入っているのかしら。

 はい。ご家族がいつでもお使いになれるよう月に一度、清掃を入れております。

少女はずかずかと上がり込み物色を始めた。

 私が来るまでもなかったようね。

目線の先には新聞紙が横たわっていた。

 16日の夕刊ですね。

ダイニングチェアに座り込み、いつものように高速でタブレット操作を始めた。

 あの、捜査はもう終わりでしょうか?

 ええ。2人を待つことにするわ。

 わかりました。それでは、お飲み物でも。ジュースはお好きですか?オレンジとぶどうがあったはずです。

 コーヒーがあればブラックでお願いできるかしら。

 飲み物まで大人なのですね。わかりました。お待ちください。

スマホの着信音が鳴った。

 メライよ。…ええ…ええ。そろそろここを出ることになると思うわ。次の事件の候補をお願い。

しばらく話し電話を切ったあと受信したメールには、いくつかの事件の概要が書かれていた。それぞれの事件名の横には1〜3つの星マークが付いている。少女は縦に1回だけスクロールし、タブレットを閉じた。

 手がかりになりそうな事件がないわね…こんなに難航するなんて…。

そう呟いたタイミングで食器を運ぶ音が聞こえ、だんだん近づいてきた。

 お待たせしました。

 ありがとう。暇だし雑談でもする?

 そうしましょうか。

 あなたとご主人様の関係が気になるわね。

 ふふ…そんな変な関係ではないですよ。ただのよくある主人とメイド。それだけです。

 それにしては、あなたのことを随分と信頼しているようね。

 そう見えますか?私はただ仕事をまっとうしているだけなのですが。でも、一つ言えることは、共に過ごした時間だけは…長いかも知れませんね。

 過ごした時間か…。まだ数年しか生きてない私には理解できなそうね。

 あなたはとても賢い方ですから…他人の数十年の経験すらも、その知識と能力で補えそうな気がします。

 うーん、そういうものもあれば、そうじゃないものもあると思うわ。

 ほら、やはりよく分かってらっしゃいます。

取り留めがなく、何気ない会話が少女には新鮮だったのか、珍しく会話に夢中になり、あっという間に辺りは暗くなっていった。

8.追憶


インターホンが鳴った。

 はい、いま開けますね。

2人が入ってきてすぐ、お互いの捜査結果を報告しあった。

 じゃあメライ、警察と"上"に連絡を頼む。

 わかったわ。

 警察?このあとの捜査はどうなるのですか?

 はい。結論を申し上げますと、私たちはこちらでこの事件から手を引かせていただきます。しかし、ご主人様にきちんとお代を頂戴していますので、私たちの代わりに親会社が最後まで対応いたします。ご安心ください。一度ソウルへ戻り、連絡をお待ちいただければと思います。

 あなたたちには、やるべきことがありますもんね…わかりました。きっと、事件はもうすぐ解決するんですよね?

 ご理解に感謝します。ええ、事件の解決をお約束しますよ。"事件コンサルタント"として。それでは、行きましょう。

 はい。

事件当日の監視カメラの映像で、犯人と思われる男が主人の車でソウルの山へ向かってる姿が確認された。車内に主人の姿がなかったことから、別荘で身動きのできない状態にされ、トランクか後部座席に乗せられたと考えられた。そして、犯人はソウルの山で遺体を遺棄したと見られ、映像の解析結果や別荘付近の足跡などから捜査は急速に進展し、やがて犯人は逮捕された。いくつもの様々な前科がある現在無職の人間であった。

主人は15日に自身の車で別荘へ向かい一泊し、翌日食事に出かけた際、夕刊を購入した。犯人が指定した16日の夜まで待つも誰も現れないことから、例の手記を綴ったが、不審に思った主人は念のため"ナイル"の文字を悟られないよう残した。案の定、自宅へ帰ろうと別荘を出たところで犯人に襲われたのだった。犯人は手記を処分することを考えたが、1年前のページとすり替えることで逆手に取り、捜査の撹乱を企てた。結果として、それが仇となり早期解決に至った。

しかし、主人は犯人と面識がなく、指示どおりにわざわざ出向く理由もない。手記の存在を知っていることや、ページをすり替えるという狡猾な犯人像と、逮捕された人物がマッチしないことにも大きな違和感がある。これらの要因から、彼は実行犯すぎず、黒幕がいるのではないかとの推論が立ち、親会社と警察は連携してさらに捜査を続けた。最終的に、主人と敵対する派閥の政治家にたどり着き、真犯人が逮捕され、この事件はようやく本当の終幕を迎えたのだった。

このとき使用人は、目を覆い静かに天を仰ぎ、小さな声で感謝の言葉を述べ、すぐに仕事に戻った。

9.光明

次の事件を数日間選定していたが、星3つどころか最大で星1.5と、難航していた。

彼女を探し出すためだけに親会社が開発したこのシステムには、彼女のあらゆるパーソナルデータやこれまでの言動がインプットされている。そして、各国で発生した著名人が被害者の事件情報は発生都度、自動でアップデートされる仕組みである。彼女に関するデータと事件のデータを掛け合わせ、彼女が関わっている可能性をAIが計算して"星の数"という形で見える化しているのだ。

しかし、星1〜2の事件がほとんどで、今のところそれらに彼女が関わっているケースはない。ある意味、精度が高いと言えるかも知れないが、このシステムに頼った捜査方法ではどうしても受動的にならざるを得ない。星2.5以上の事件発生を待つほかなく、それ以外の手がかりを追えないことが、この仕組みの最大のデメリットと言える。

3人は滞在場所近くのカフェにいた。

 プサンの事件、捜査が進んでいるようね。

 珍しいじゃないか。メライが手を離れた事件に興味をもつなんて。そう言えば、ニューヨークでもそうだっかな。

 それだけ暇ってことよ。"星の数"とか"上"の指示を待つだけなんて退屈だわ。

 僕も同感だよ。早くソナタを見つけ出したいのにね。しかし、16日の夕刊が別荘に置きっぱなしになっていて、あまりにも杜撰だったね。

 その時点で、"あの人"の事件ではないと確信したわ。まあそこまで辿り着けたのも使用人のおかげ。主人は使用人に対して、全幅の信頼を置いていたったことね。彼女と2人で別荘で話したけど、あの良い噂がない主人のことを、彼女もまた信頼しているように感じたわ。

 そうだね。警察だけでもいずれ事件は解決していたと思うけど、ここまで早く核心に近づけたのは彼女がいたから…2人の厚い信頼関係の賜物ってとこかな。

そんな会話をしながら、3人は簡単に食事を済ませて店をあとにした。

 このままだと頭も体も鈍っていくばかりだなぁ。

彼らの能力であれば、自分たちだけで事件を追うほうが捜査が進みやすいと思っているのだろう。しかし、親会社からの指示が彼らを縛り、勝手な行動を取らないよう監視されていた。この状況も含め、いよいよストレスが溜まってきたのか、愚痴が多くなってきたようだ。

3人の前方から、大きめのショルダーバッグを下げた人物が歩いてきた。目深に被ったキャップとマスクで人相はまるで分からないが、背が高く逞しい体格をしていることが分かる。

 こんにちは。突然すみません。ソウル駅へ行きたいのですが、迷ってしまいました。どうやって行けば良いか知っていますか?

 流暢で、澱みない日本語で話かけられた。声の雰囲気から、年配の男性であると推測される。

 この道を真っ直ぐ15分ほど歩けば駅がありますので、電車一本でソウル駅まで行けますよ。

いつものようにほがらかな笑みを浮かべながら、親切に道案内した。

 ありがとうございます。大変助かりました。それでは。

 いえいえ。それでは。

3人は歩き出した彼の後ろ姿をじっと見つめていた。

 にほんご
 罠?
 追うよ!

10.追跡


 僕はホテルをチェックアウトして荷物を持ってくるから、2人は彼の尾行を頼む。すぐに追いつくよ。

 …罠かも知れないわよ?

 そうだね。でも、ソナタを探し出すと決めたときからリスクがあることは承知しているよ。やばくなったら僕1人で何とかするから、2人は何かあったらすぐ逃げてね。

 ふん…パパは自分の心配だけしていればいいわよ。

 ふふ。心強いね。じゃあ頼んだよ。

そう聞こえたかと思うと、すでに姿はなかった。2人は一定の距離を保ちながら、彼を追った。駅の入口に着いたのでそのまま構内に入るかと思いきや、停車していた車に乗り込んだ。

 バルカ、タクシーで追うわよ。

 …。

2人はタクシーに乗り込み、前の車を追うよう指示した。

 ソウル駅へ行くわけではなさそうね。方向が違うわ。パパはどう?

 じーぴーえす

 OK。私たちの端末のGPSを手がかりにこっちに向かってるようね。

3人は空港にいた。どうやら、彼は飛行機に搭乗するようだ。すぐに同じ便のチケットを手配し、保安検査を済ませた。

 またあの国へ行くことになるとはね。

 ああ…意外と早かったよ。

 なによ?こうなることが分かっていたような言い方ね。

 ふふ。どうだろうね。ところで、このことは"上"には言ってないよね?

 当然よ。こんな勝手な行動をしたらすぐに止められるわ。まあGPSで監視されてるから、気付かれたらすぐに追っ手が来るでしょうね。機能を無効化しても、いつか見つかるのは同じことね。

 まあいいさ。向こうに着いて落ち着いたら、僕から事情を説明するよ。ソナタを探し出すためにやっていることだしね。ただ、のんびり話をしていたら、彼を見失ってしまうかも知れない。まずは追跡に専念しよう。

 たしかに、この韓国で私たちの風貌を見て、ためらいなく日本語で話しかけてきたことに違和感はあるわ。でも、それだけで彼が"あの人"に繋がっていると確信が持てるわけ?

 さすが、メライ!鋭い!

 …バカにしてるの?

 いつもの冗談だよ。すぐにネタバレしたらつまらないかなと思ってね。

 パパ…そういうのが一番寒いわよ。

 相変わらずメライは厳しいな。じゃあ、そろそろ行こうか!久しぶりの日本へ。

Part1 ロンドの旅 
Chap3 東京の事件

1.恩師


空港を出るとすぐにタクシーへ乗り込み目的地へ向かった。運転手へ行き先を告げた途端、着信音が鳴り響いた。

 先生、ありがとうございました。3人も入国したようです。突然こんなお願いをしてすみませんでした。

 気にするな。君のお願いなら断れないよ。ワシは君ら家族がまた幸せに暮らせることを誰よりも願っているしな。

 …いくらお礼をしてもしきれませんね。

 それはワシも同じさ。人はこうやって助け合って生きていくものだと思うよ。

 そう…ですね。それでは、最後までお付き合いお願いします。

 ああ、わかった。

電話を切ったあとは、無意識だった。目を瞑り、自然とこれまでの人生を振り返っていた。彼らとの出会い、共に過ごした日々の思い出、別れと再会が目まぐるしく映像と共に蘇った。

 これが、走馬灯か…。何とも不吉なもんだ。

そう呟いたとき、ホテルの前でタクシーが止まった。

 先生!長旅お疲れさまでした。

 ああ。

待ち構えていた男にそう答えると、降車しまっすぐエントランスへ向かった。何人もが深々と頭を下げながら彼を出迎えている。

 先生、どうぞこちらへ。

1人の男性が彼を案内した。結婚披露宴などでもよく使われるという、煌びやかで広大なパーティー会場へと導かれ、壇上に上がった。彼の名が高らかに紹介されると、けたたましい拍手がしばらく続いた。

 このような日本で最も栄誉ある賞を受賞できたのは…

お決まりのスピーチを終えると、祝賀会が始まった。

 大変ご無沙汰しています、先生。

 おお、来たか。お姉ちゃんも大きくなったな。妹もとても可愛らしいじゃないか。君ならいとも簡単に見抜き、ここに来ると思っていたよ。

 先生も人が悪い。ソウルで身を明かしてくださればいいものを。

 悪かったよ。お互い色々事情があるからな。この意味はわかるだろう。

 ええ…おっと、遅れてしまいました。メライ、バルカ、先生に挨拶を。

 初めまして。父が大変お世話になっています。長女のメライと申します。

 …。

 メライは赤ん坊の時に先生に一度お会いしていて、バルカは今日が初めてだね。

 時が経つのは早いものだね。さて、君とはゆっくりと話したいのだが、見てのとおり今は私のパーティーの最中でそれがかなわない。だから明日の夜、マスターの店に来てくれないか。

 わかりました。久しぶりにマスターと会うのも、先生とお話しするのも楽しみにしています。

 ああ、じゃあまたな。

2.旧友


3人は会場を後にした。タクシーに乗り込み行き先を告げた。

 いや〜久しぶりだったなあ。

 ずるいわ!もともと誰だか分かっていたってわけね。

少女はずっと溜め込んでいたイライラを露わにした。いつもは優雅にプライベートジェットで旅をしていたが、単独行動だったのでそうもいかない。しかも、エコノミークラスしか予約が取れず、出国前から機嫌の悪さは絶好調であった。

 悪い、悪い。僕の耳は一度聞いた声は忘れないからね。素人が多少声色を変えたところで同じことだよ。

左手の人差し指を立てながら、満面のドヤ顔を見せた。

 もうその自慢、何度目?同じこと何回も言うなんてパパももうオジサンね!

 おいおい、オジサンって、僕はまだ…。

 そんなことはどうでもいいわ。さっきの色んな事情って何かしら。おじいさんとおじさんが、国を跨いで追いかけっこする理由を教えてもらえる?

これでもかと不満を込めた言い回しで、語気鋭く詰め寄った。

 わかったよ。僕が悪かった。ちゃんと話そう。

タイミングが良いのか悪いのか、着信音が鳴った。

 どうやら、こっちの説明が先みたいだね。
 …はい。

 やあ、ロンド。君が出るなんて珍しいじゃないか。

 自分のせいで娘が叱られるっていうのに、黙って見ている親なんて最低だろ?

 ほう。何か叱られることをした心当たりでも?

 んー。人に会いに行っただけ…だからなぁ。

 そうやってまたはぐらかすんだな。まあ久しぶりに先生と会えて良かったじゃないか。ところで、捜査は進んでいるのか?

 まずまずかな。

 成果を出せば今回のことは不問にするよう、私から言っておこう。だが何もなしでは、さすがの私でもどうしようもない。頑張れよ。

 親会社様からの応援メッセージ、痛み入るよ。

 はは、相変わらずの口ぶりだな…元気そうでなによりだ。じゃあ。

黙ってそのまま終話ボタンを押した。

3.店主


翌日、3人は都内のバーに向かっていた。

 ところでメライ、入国前の空港からGPSはずっと無効化しているだろうね。

 ええ。かわいい娘はちゃんとパパの言いつけを守っているわよ。でもほんとにこのままで大丈夫なの?

 ふふ。いい子だ。あいつが何とかすると言っているなら大丈夫だろう。その点だけは信用できるからね。先生には迷惑をかけたくないから、もう少し通信は切っておくことにするよ。

店の前でタクシーを降りた。街の様子は変わっているものの、この建物は当時の装いのままであった。ノスタルジックな気分に浸りながら階段を下りドアを開けると、昔馴染みの人物が目に入り、思わず声が大きくなった。

 マスター、久しぶり!

 おお、ロンド!先生から来るとは聞いていたけど本当に来たな。

 ふふ、相変わらずだね。紹介するよ、僕の娘メライとバルカだ。

 初めまして。メライです。父がお世話になっています。

 …。

 かわいいお嬢さん達だね。今日は貸切にしたから、狭いところだけどゆっくりしていってくれ。

扉を開く音が聞こえた。

 マスター、邪魔するよ。

 お久しぶりです、先生。相変わらずお忙しそうで。

 まずまずだよ。奥さんは元気かい?

 ええ、お陰様で。

 それは良かった。
 ロンド、今夜はゆっくり話したかったのだが、そうもいかなくなってね。伝えたいことだけ言いに来たんだ。

 そうでしたか。久しぶりにお話をとことんお聞きしたかったのですが。あ、先生とマスターに一応これを。改めて自己紹介です。

胸ポケットからカードケースを取り出した。彼らは差し出されたそれを受け取り、まじまじと眺めた。

 話には聞いていたが、"事件コンサルタント"なんて本当に君にピッタリの職業だな。なあ、マスター。

 ええ。もしなんかあったらロンドにお願いしちゃおうかな!

 もちろんいいけど、僕の仕事は高いよ〜。

時には冗談を言い合い、3人は再会を噛み締めた。腰をかけてしばらくすると、飲み物と軽食が運ばれ、会食が始まった。そして雑談も程々に、早速本題に入った。

 あの時は驚きましたよ。先生自ら私たちに話しかけてくるなんて。

 ワシを使うやつなんて、あいつくらいのもんだよ。

 "あの人"…ね。

 ああ。きちんと説明してなくて悪かった。ソナタに頼まれた先生は僕らと接触した。日本語で話しかけてもらうことで違和感を演出し、僕が万が一声色だけで気づかないときの保険をかけた。きっと目的は、僕らをこの国へ誘導することだ。

 つまり、"上"にバレないよう私たちを誘き寄せるため、先生を使ってこんな手の込んだことをしたってことね。でも、なぜこの国ななかしら。

 ああ。それは今日先生に聞きたかったことの一つだよ。

 ほう。これはすごい。まだ小さいが、君に似て、頭の回転が驚くほど早いな。ロンドとメライの予想どおりだよ。ワシは彼女から頼まれて、君たちに話しかけた。

 …それで、なぜこの日本へ?彼女について何か聞いてますか?

 ワシは彼女の言うとおりにしただけで、何も聞かされてないんだよ。力になれなくてすまんな。

 やはり、そうですか。話してしまっては先生に迷惑がかかますからね。彼女らしいです。

 そうだな…。じゃあ、ワシからもいいかい?

 ええ。もちろん。

4.言伝


グラスを傾けるとカランと心地良い音が鳴った。喉を潤すと、ゆっくりと口を開いた。

 昔はこの店でよく語りあったな。彼女と君はとてもいいコンビだった。一方で、ワシには光と闇、表と裏。そんな風に映る瞬間もあり、何とも不思議な感覚だったよ。まさに表裏一体と言ったところか。切っても切れない関係なんだろう。

 …突然どうされました?昔話なんて、らしくないですね。

 ああ、最近なぜか過去のことが頭をよぎることが増えてな。悪いことの前触れかも知れん。

 先生がそんな迷信のようなことを信じるなんて意外です。ずっと第一線を走ってこられたんですから、たまには骨休めをしてはいかがですか?

 いい提案だ。たまには妻孝行しないとな。

 ええ。ぜひまた奥様にもお会いさせてください。

 おう、そうだな。アイツも喜ぶ。この歳になって、改めて家族の大切さが身に染みるよ。家族ってのは誰か1人が欠けても喪失感は大きい。全員でfamilyだからな。ワシは1日も早く彼女と君たちが再会できることを祈るよ。

 ありがとうございます。また皆でこの店で語り合いたいですね。

 ああ。その時には、久しぶりにチェスでもやりたいな。

 いいですね。よくやりましたね。実はマスターはかなりの腕前で…。

 最近やってないから鈍ってるかもな!練習しておくよ。

 メライとバルカも得意だし、トーナメントできそうだな。

 まあ私に勝てる人はいないと思うけどね。

 はっはっはっ。お見事。すごい自信だ。あれはオープニングが肝心。多少駒を犠牲にしてでも思い切りよくいかんとな。ゲームの行く末は、どの戦術を選択するかで決まる。

 たしかに、先生は攻めのチェスがお好みでしたね。

 そうだ。そして、彼女も…な。最初に首根っこを押さえられてしまうから、彼女には一度も勝った覚えはないよ。

 ええ…。僕もです。

 本当はもっと早く帰るつもりだったが、楽しくてつい昔話を長くしてしまった。ゴールまで伝えられたことだし、それじゃあ、ロンド、メライ、バルカ、もう行くよ。
 マスターも今日はありがとな!代金はここに置いておく。

 はい!またいつでも来てくださいね!

 今日は本当にありがとうございました。彼女を見つけ、また、日常を取り戻します。

 …ああ。最後に、ワシからの餞別だ。そして、彼女からのメッセージでもある。

胸ポケットの財布から1万円札を手渡した。

 手を出してくれ。

 先生、お金なんて受け取れませんよ。

 はっはっはっ。君にしては、勘が働かないなんて珍しいな。

 めっせーじ。

 そのとおり。賢い子だ。

 これが…メッセージ?

 まあ見てみろ。

2つに折られていたそれを手に取り表面を上にして開いた。透かしの部分になにやら文字が書いてある。

 blot llA

 ブロットじゅういち…アンペア?

5.訃報

右手を差し出すと、老人もそれに応じた。お互い力強く握りしめ、軽くハグを交わしたあと、3人で外の通りまで見送った。

 先生、何か弱気になったな。少し心配だ。

いつになく真剣な面持ちで小さく呟いた。

 それにしても、何なの?あのメッセージは。

 "上"に気づかれずに自分の居場所を伝えるための暗号だろう。これを解き明かしたとき、彼女に会いに行くことができるんだと思う。

 そんなの分かってるわ!"blot llA"が何を示しているのか、分からないってことよ。

 うん…僕にもまだ分からないが、彼女のことだ。きっと僕らにだけ分かるヒントをくれているはずだ。

店主へ挨拶をして彼らもバーを後にした。そして翌日の昼ごろ、耳を疑うニュースが飛び込んできた。

 ねえ、この人って…。

 せ、先生。

3人は沈黙し、その報道を聞き入った。

 …一昨日には授賞式で久しぶりに公に姿を現した矢先の出来事でした。警察は殺人事件と見て捜査を進め、さらに詳しく状況などを調べています。
 それでは次のニュースです。…

 もしや、僕らに関わったから先生は…。

そう呟いたとき、事件コンサルタントの名刺に書かれている電話番号への着信が入った。スピーカーに切り替え、応答した。

 はい。エピソードの幸引です。

 ロンドくん、久しぶりね。

 その声は…先生の奥様!

 お見事。さすが、相変わらずね。

 奥様、報道を拝見したのですが、内容は本当なのでしょうか?

 ええ…ついさっきのことで私もまだ整理がつかないのだけれど、今朝警察の方がいらして、分かっている範囲で経緯を聞いたわ。

 お悔やみ…申し上げます。

 帰宅した後、あなたと久しぶりに会ったことやこの連絡先のことを聞いたわ。そして、もし自分がいなくなったら、代わりにあなたへ伝えてほしいことがあると言われたの。主人は…死期を悟っていたのかしら。

 昨日お会いした時はそんなことは何も…。ただ、以前の先生とはどこか違う雰囲気を感じていました。どことなく、不安げな様子を。

 少し前から、何かに追われているような気がするって言っててね。警察にも相談してたし、ボディガードも付けていたのよ。それなのに…。

娘へ目配せし、タブレットを確認するよう促した。画面を見た彼女は、珍しく驚きの表情を隠せなかった。父親はそれに気付いたが、平然を装い会話を続けた。

 そうでしたか…。

 それでね、こんな時なんだけど必ず伝えるように言われてたから、すぐにあなたへ電話したの。…そのまま伝えるわね。

 はい。お願いします。

 「情報は君の手元に揃っている」と「私の事件は決して君たちのせいじゃない。君のやるべきことに集中してほしい」これが、主人が残したメッセージよ。

 揃っている…?!奥様、ありがとうございました。何かが掴めそうです。先生は最後まで僕のことを思い、自分に危険が迫っているにも関わらずメッセージを残してくださいました。本来なら私のこの手で犯人を探し出し、事件解決をしたいのですが、先生の厚意を無駄にはできません。必ず、彼女を探し出します。

 そう、それは良かった。きっとあなたたちは再会できるって主人も言っていたし、私も今日この電話で確信したわ。捜査は警察に任せて、あなたはあなたのやるべきことをやってちょうだい。頑張ってね。

 はい。

終話ボタンを押した数秒後、答えに辿り着いた。

6.異変


3人は出発の準備に取り掛かっていた。

 どうやら暗号が解読できたようね。

 うん。多分、これが最後の旅になると思う。

 最後?じゃあ次の目的地で"あの人"と決着をつけるってことかしら。

 決着…か。ある意味ではそうかも知れない。ところで、先生の事件、星はいくつだい?

 それがね…82%の確率で星2.5なの。

 そうか。やはり。

 やはり?まさか、予測していたとでも言うの?

親子はそれから口を噤んだ。いつもの2人の痛快なやり取りはそこにはなく、釈然としない空気が3人を包み込んだが、無言で荷造りを終えタクシーへ乗り込み、滞在先を後にした。

 さて、この移動中にもう1つはっきりさせておこう。

 もう1つって?

 そうる

 そう。先生はソウルで僕たちの居場所をなぜ知っていたのか?だよ。

 …。

 どうしたメライ、さっきからやけに無口になって。体調が優れないのかい?

 …ええ。少しだけ。

 珍しいな。戻って休もうか?

 いいえ。大丈夫よ。それより、続きを聞かせて。

 分かった。いまからある人物へ電話をかける。スピーカーで話すから2人は聞いていてくれ。

 きこえる

 ごめん、そうだな。バルカの聴力なら十分聞こえるけど、メライもいるし、長くなるだろうからスピーカーにさせてもらうよ。

少女はバッグから通信機器が詰まったポーチから電話を取り出し、手渡した。彼は静かにそれを受け取り通話を始めた。

 やあ。僕だ。

 これまた珍しい。お前から私に用事なんてな。

 僕もこんなに早くまた君と話すことになるなんて思わなかったよ。…なんてね。実はすぐこうなるとことを想定していたんだ。

 どうした。昔の友人が恋しくなったか。

 ふっ。そんな素敵な動機ならいいんだが。

いつも明るく朗らかな彼だが、この旧友と接するときだけは顔つきや声のトーンが明らかに違い、口調もやや好戦的になる。娘たちも当然それを察していた。

 質問だ。先日君が電話してきたとき、なぜ僕が先生と会っていたことを知っていたんだい?

 それはお前がそう言っていたからだよ。

 見くびらないでくれ。あのとき僕は"人に会いに行った"と言っただけだ。

 そうだったか?どちらにせよ、居場所はいつでもGPSで筒抜けだからな。たしか私は先生のセレモニー会場から出てきた直後にお前へ電話したんだ。先生と会っていたと気づかない方が不自然だろ。

 何を言っている。君らしくもない。GPSは入国前から無効化しているよ。

 …さすが、用意周到だな。たしかにあれは失言だったよ。

 君は、ソナタと裏で繋がっていることを認めるんだな?

 ああ。

 これは、"上"への反逆行為だぞ?分かっているのか?

 もちろんだ!私も、そしてソナタも命懸けなんだよ。

7.攻防

会話の途中で目的地に到着した。少女の容体がよくならないため、この日は周辺のホテルで1泊することになった。

 メライ。どんどん顔色が悪くなっているよ。やはり病院で診てもらおう。

 だから平気だって。少し寝ればすぐ治るわ。

 分かった…でも何かあったらすぐに言うんだよ。僕とバルカはあっちの部屋であいつとの話を再開するから、メライはベッドで横になっていてくれ。

 …ええ。

最上階のスイートルーム以外は満室で、3人では使いきれないほどの部屋数とスペースがあった。彼女を寝室のベッドに寝かせ、2人はリビングの大きいソファへ腰をかけた。柔らかすぎず硬すぎず、何とも心地よい感覚だったが、いまはゆっくりしている場合ではない。ポケットに入れていた電話の通話ボタンを押した。

 さて話の続きだ。一刻も早く"上"に謝罪することをおすすめする。もう手遅れかも知れないが…。君がその気なら、僕が間に立ってもいい。

 その必要はない。私はもう離脱した人間だ。

 …離脱か。そんなことで"上"との縁が切れないことぐらい、君なら分かるだろう?

 言ったはずだ。私たちは命を賭けて戦おうとしていると。

 そこまで"上"が憎いか…。

 ロンド、いい加減目を覚ますんだ!いつまでこんなことを続ける?昔のお前なら私たちの先頭に立ち、一緒に戦ったはずだ!!

 …何のことだい?よく…分からないよ。

その時、恩師が言っていた"闇"がまるで全身に纏わりついてるように見えた。いつもの彼からは想像もつかない、凍てつくほど冷めた表情を覗かせている。幼い娘はそれでも動じることはなく、いつもどおりただ静かに目を瞑っていた。

それからしばらく通話状態のまま、お互い何も喋らず黙り込んだ。元々の才能に加え、この静寂でより聴力が研ぎ澄まされたからなのか、何かに気付いた彼女は、ゆっくりと紙とペンを手に取り文字を書き父親に見せた。

"おおぜい"

彼は無言のまま笑顔で彼女の功績を称えた。そして、ポケットから取り出したもう一台の通信端末を渡した後、同じ紙にサッとメモを書いた。彼女はそれを確認するとポケットへしまい、すぐに端末操作を始めた。

8.対峙

このまま黙っていても埒が明かないな。僕は早くソナタに会いに行かなくてはならないんだ。話を進めようじゃないか。

 私は、お前が心を入れ替えてくれればそれだけでいいんだ。

 ん〜、何のことかサッパリだよ。

白い歯をこぼし、朗らかな笑顔のいつもの彼に戻りつつあった。

 さあ、はっきりさせよう。君はソナタと組んでいることを認めたが、正確には「組んでいた」じゃないのかい?

 …なぜ、そう思う?

 時系列で話していくよ。まず君はGPSを使いソウルで僕らの居場所を彼女に伝え、僕らのもとへ先生を仕向けた。そしてこの国へ誘導しまた先生を使って、僕らへ例の暗号を渡した。ここまではまだ君たちは仲間だった。

 ほう。それで?

 そのあと、ハプニングが起きた。先生の事件だ。星は高確率で2.5だった。ここで僕はある矛盾に気付いたんだ。僕に暗号を渡し次の場所へ誘導している一方、先生の事件を引き起こしこの国へ留まらせようともしている。両方がソナタの仕業と考えるのは不自然…つまりどちらかが別の人間、いや、"君たち"が企てたフェイクではないかとね。

 フェイクねぇ。ソナタからの暗号がお前の手元にあるのも事実、先生の事件が報道されたのもまた事実だ。いくら"上"でも報道機関を操り偽情報を流すことなんてできないさ。

 そうだね。そうなると何がフェイクなのか?暗号?いや…先生が自分の身に危険が迫っているのを気づいていながら、命懸けで僕に残してくれたメッセージだ。ソナタからの直接の依頼だろう。であれば、答えは…

 ほし

 そう。星の数だ。

 …ははは。星の数は"上"からの情報だろう?そんなもの私がどう操作する?

 そうだな。この作戦はもう1人協力者がいなければ成立しない。もう、分かるね。

 …めらい

 ああ。彼女は"上"との連絡係をやってくれていた。僕は彼女を信じ任せていたから、自分の端末は持っていても一切触ることはなかった。だが彼女は"上"との連絡用端末だけではなく、君とソナタ…いや正確には君との連絡用にもう1台端末も持っていたんだ。外観の見た目が"ほぼ"同じものをね。そして、先生の奥様と僕の電話中、君は彼女へ星2.5の偽情報を流すよう指示した。僕らは捜査のためここに残ると踏んだが、奥様からの言葉により僕は出国を決意し、君の思惑とは外れてしまったけどね。

寝室のほうから足音が聞こえ、こちらへ近づいてきた。

 "あの人"と結婚してからパパはおかしくなったのよ!

 来たか、メライ。体調はどうだい?

9.逃走


 少し休んだら良くなったわ。…さすがにパパを騙し続けるのは限界があるわね。でもいつから?

 ソナタを探すこの旅を始めた時から、端末のことは気づいていたよ。いくら同じ機種で同じ色のものを使っていても、細かな傷の大きさ、位置、数までまったく同じにすることはできないからね。あと、この国に着いてから、メライは僕の言うとおり素直にGPSを切っただろう?ソウルでは通信を切ったらすぐ"上"にバレてしまうと懸念していたのに、不自然だと思った。通信を切らないよう誘導した別の理由があるんじゃないか、ってね。

 たしかに不審かも知れないけど、それだけで私が内通者だと確信できたわけ?

 いや、一つ一つの出来事は仮説に過ぎない。確定している情報がすべて揃ってることなんて、ほとんどないからね。ただその仮説や不確かな情報をパズルのピースのように繋ぎ、確かなものにしていけば、やがてパズルは完成するんだよ。ただ今回はここまでの状況が揃っていればメライから"自白"してもらえることを期待して、証拠がないまま僕の推理を投げかけたのは事実だね。

 私とメライはお前とソナタを会わせたくないという共通の思いがあった。だから協力していたんだ。だが、ソナタは私たちの思惑を察し、お前にだけわかる方法で自分の現在地を伝えたってわけさ。

 私は"あの人"のせいでパパがおかしくなったと思ってる。

 私はソナタの安全のためだ。我々は今彼女を失うわけにはいかない。ソナタはお前をいまでも信用しているが、私にはそうはできない。

 …2人の考えはよく分かった。だが僕はソナタに会わなければならないんだ。

 残念だが、それはかなわない。

その瞬間、部屋中に潜んでいた者たちが一斉に飛び出しロンドとバルカを取り囲んだ。2人は顔を見合わすと、ゆっくりと目を瞑った。

 なあ、2つ、お願いがあるんだけど。

 …ははは。こんな状況でよく言えるな。

 君は僕を信用していなくても、僕は君を信用しているからね。1つ、メライをしばらく預かってほしい。2つ、メライと一緒に先生の事件解決を頼む。

 1つ目については最初からそのつもりだ。お前を捕らえ、メライとバルカは私が責任を持って保護し、何一つ不自由はさせない。2つ目は…まずは自分の身の心配をしたらどうだ?

 パパ…

 メライ、君は僕の娘だ。必ずまた家族みんなで暮らそう。絶対に迎えに行く。

その言葉を合図に小柄な黒いスーツの1人の女性が入口から現れ、同時に部屋の灯りが消えた。父親は次女を抱え上げると闇に乗じて包囲網を掻い潜り、部屋を後にした。その際、次女は入口付近にポケットに入れたメモを丸め投げ落とした。女性は2人を追いかけようとする者たちを次々に薙ぎ倒し、行手を阻んだ。

 ちっ…この展開を読まれていたか。"上"へ連絡したようだな。メライ、その電話を持って一旦私のところへ。

 分かったわ。

彼女は電話をバッグへ詰めるとゆっくりと入口に向かって歩き始めたが、何かに気づき立ち一度立ち止まる。そこには丸まった紙切れが落ちていた。

 これは…

"⭐︎3"

10.出立


彼女はその場で"上"の端末を開いたが何をしても画面は真っ暗で、起動すらできなくなっていた。恐らくこれまでの一部始終が伝わったため、"上"が遠隔操作で利用不能にしたのだろう。それを確認すると入口へ向かった。

 そこ、退いてくれる?

女性は表情を変えず無言で道を開けた。

一方、彼は部屋を出た途端、次女を下ろし手を繋いでのんびりと歩いていた。きちんとチェックアウトをして、外で待つ車に乗り込みんだ。運転手は先ほどとは別の小柄な黒いスーツの女性である。

 君、報告を頼めるかい?僕らは先生の事件を捜査する、と。あと、最寄りの駅まで送ってほしい。

女性は無言で頷いた。

 ありがとう。

駅に着くと車を降り荷物を下ろして女性の車を見送った。

 "あのひと"

 うん。今のは僕の"上"へのフェイクだよ。すぐにバレると思うけどね。ソナタとはどうしても"上"抜きで話がしたいんだ。

 …。

 まだ小さい君を世界中連れ回し、負担をかけて本当にすまない。メライにあんなことまでさせてしまったのも僕の責任だ。次の場所で彼女とは決着をつけて、この旅を終わらせる。長旅になるから今夜はホテルでゆっくり休んで、明日の朝旅立つよ。

 …。

2人はタクシーに乗り込んだ。到着するとすぐにルームサービスで簡単に食事を済ませ、寝支度を整えた。

 バルカ、今日は疲れただろうからゆっくり休んでくれ。おやすみ。

 …。

長女と離れ離れになった悲しみや寂しさから、2人は寄り添うようにしてベッドへ入った。次女は父親がいる安心感ですぐに眠りにつくことができた。いくら訓練されてるとはいえ、今日の出来事は幼女には精神的なショックが大きい。父親は幼い我が子の寝顔を見ながら、光と闇の狭間で揺れ動く自分を感じつつ、微睡んでいった。

翌朝、次女は目が覚めるとムクッと起き上がった。

 おはよう。

 …。

父親にベッドから下ろされ、共に洗面所へ向かい、顔を洗った。

 朝食を摂りながら、暗号の答えと旅の目的地の話をしようか。そしたら出発だ。あ、結論だけ先に言っておくね。ソナタは、ラトビアで待っている。

 …。

11.代償


朝食もルームサービスで、トースト、目玉焼き、ベーコン、サラダと、父親はホットコーヒー、娘はホットミルクを注文した。水を飲みバターを一塗りドレッシングを一周させたあと、話し始めた。

 今回の暗号はどこから手をつければいいのか。それは奥様の「情報は君の手元に揃っている」がヒントになった。そこで先生と会ったあの晩の不自然なやり取りが過ぎった。実は、これを順番に紐解いていくと答えに辿り着くことができるんだ。

 …。

父親が適当な大きさにちぎったトーストを小さな手で一切れずつ口に運び、時にはミルクを飲みながら耳を傾けた。

 違和感は、先生の口から聞いたことのない"昔話"から始まる。まずは、"光と闇"、"表と裏"、"表裏一体"だ。ここら連想されるのは…

 All told

 そう。バルカ、やるじゃないか。先生から渡された1万円札の透かしに書かれた"blot llA"は、"ブロット11アンペア"ではない。これを裏返し光に当てて読むと"All told"。"全て話した"の他に、"全てを合わせる"という意味もある。そして、次に家族の話が出た。先生は普段日本語を使うが、あえてfamilyと言っていたことに違和感があったし、"誰か1人欠けても喪失感が大きい"という言い回しもヒントだった。ここから導き出される答えは、familyをAll told…つまり家族を全て合わせるということだ。

 …。

 …バルカ、初めて君に伝えることになるが、実はソナタにも前の旦那さんとの子供がいるんだ。男の子が1人ね。その子は現在"上"の施設で訓練を受けていて、僕もほとんど会ったことがない。こんな形ですまないけど、君の義理の兄ということになる。

 …。

だから、僕ら家族を全て合わせるという指示であれば、答えは5。先生はソナタの居場所を聞いていないと言っていたし、僕しか持っていない情報がないと解けない暗号にして、徹底的に他者の介入を排除したんだろう。"上"やメライたちに邪魔されず、僕だけと話すため。

 …。

娘は表情を変えず同じように自分のペースでゆっくり食事を続けていた。父親も少々話疲れたのか喉を潤し、目の前の食事に手をつけた。

 話を続けるよ。そのあと、唐突にチェスの話題が始まったね。"オープニングの戦術"の話だ。チェス用語では"ギャンビット"だけど、これにはいくつか種類がある。ここでのヒントはさっきの5と、先生の話にあった"駒を犠牲にする攻めの一手"という言葉。familyのfと合わせるとf5…ギャンビットの中には1つだけ駒をチェス盤のf5に進めるものがある。滅多に使われることはない超攻撃的な一手だよ。そして、その答えが次の行き先を示しているんだ。

 ぐれこかうんたー

 うん。そして、またの名を"ラトビアン・ギャンビット"だ。だから最初に言ったとおりソナタはラトビアで待っている…だがこれだけだとどこに行けば良いか分からない。

 じけん

 当たり!"上"の端末をここへ置いて行く前に星の数を調べよう。僕の解読が合っていればきっとラトビアにもあるはずなんだ。高確率で星3つの事件が。

久しぶりに左手の人差し指を上に向け、これでもかと爽やかな笑顔で渾身のドヤ顔を披露したと思ったら、すぐさま端末を操作し、各国の事件の星を調べ始めた。

 …おかしな現象が起きているな。先生の事件を含め100%星3つと表示されている事件が10件以上もある。これまで星3つの確率が低いとされていた事件も、途中で判定が変わったんだ。この短期間で同時にこんなことが発生するとは。まさか、ソナタが"星システム"のカラクリに気付き、撹乱しているのか…。

 …。

 やはりあったよ。ラトビアにも100%星3つの事件が。食事が終わったら準備をして出発しよう!この部屋は10泊分確保して、"上"との通信端末はここに置いていく。少しでも自由に動ける時間を稼ぐんだ。

メライたちはロンドの依頼どおり東京の事件捜査を開始した。"上"の協力がないこともあるかも知れないが、彼女たちの能力をもってしても、犯人の手がかりは何も見つからず、事件は未解決のままであった。

Chap4.へ続く

Part1 ロンドの旅 
Chap4 ユールマラの事件

1.羨望


ある子供は幼い頃からゲームのプログラミングが得意だった。主人公を操作して、仲間を集め敵を倒し装備を充実させ、彼らを成長させながら物語を進めていくロールプレイングゲームというジャンルの作品は特に秀でていた。

やがて、大人になりSNSが流行し始めると自作のゲームを動画で実況配信するようになる。視聴者はこれまでプレイしたことのないゲームの世界観やストーリーに釘付けとなり、瞬く間に各国にファンができ、一躍世界的に有名なインフルエンサーとなった。その後、ゲーム自体の秀逸さだけではなく優れた実況力も高く評価され、さまざまな言語のテロップをつけたことでさらに世界中へ広まり、登録者数は異例のスピードで5,000万人を突破した。

そんな中、告知がない限りは基本的に毎日していた配信が突如止まった。トップスターとなったいまでも、撮影から編集、配信まで自分1人でやっていることは本当に驚きなのだが、それゆえ突然の停止は顕著にその異変を明らかにする。事務所社長はすぐさま電話をかけ、その後何度かけ直してもが応答はないため、直接自宅を訪れインターホンを鳴らすも一向に返事はない。

家族や友人を当たったが誰も行方を知るものはいなかったので、社長は家族と共に警察へ相談し、行方不明者の届出を提出することとなった。いまや国一番の有名人であるため、混乱を避けるべく非効率的ではあるが失踪の事実を公表せずに捜査が進められている。しかしながら、1週間が経過した今でも有力な情報はなく、このまま進展がなければ目撃情報に期待し公表することも余儀なくされている。

どんなに人気者でもアンチは必ずいるし、成功を妬む者もいるだろう。逆に好きすぎてストーカーとなったり誘拐したりと、職業柄、無限の可能性があるためこの線で犯人像を割り出すのは困難である。なお、ずっと家でプログラミングに熱中していて引きこもりがちであったため交友関係は多くなく、今のところ過去にトラブルらしいトラブルに巻き込まれたという事実は報告されていない。そのため、最後に接触したと思われる人物を突き止め、その時点以降の動向を追うという方法で手がかりを得ようとしているが、思うように進展はしていないようだ。

2.空虚


首都から公共交通機関を使い30分ほどで目的地へ着いた。ここは暖かくとても過ごしやすい。2人は久しぶりの海を目の前にして波の音を聞きたくなったのか、チェックインを済ませるとすぐに砂浜へ出向いた。時には手を繋ぎ、時には子を抱き抱え、波と風と砂を踏む音を感じながら散歩を楽しむ。衣類の支給は途絶えたので洗濯が日課になった。白い洋服と、彼らの髪型、髪色、瞳はいつもと変わらずお揃いである。

ただ一つ違うことと言えば、愛するもう1人の家族がここにいないことだ。彼らは訓練により身も心も常人の何倍も強い。それでも、各々彼女への思いは強く、ずっと3人で旅をしてきたことでより絆が深まっていたため、あの時無理にでも連れて行けば良かったと柄にもなく後悔の念を抱いていた。心情だけではない。彼女の負けん気の強さや誰とでも対等に渡り合う気量に加えて、"上"との円滑な通信や次の目的地の選定・移動の手配など、この過酷な旅にはもはやなくてはならないとても頼りになる存在であった。

彼女を失った彼らをここまで来させた原動力は紛れもなくソナタである。妻に会い旅を終わらせて、また元の平穏な生活に戻れることを願い、この地に赴いた。しかし、父親と次女の思惑は同じではなかった。父親は妻の無実を信じ濡れ衣を晴らす方法を探すことが目的であったが、次女は長女と同じく義母を疑っているのだ。

なぜ2人の賢い幼女たちは、そこまで彼女へ辛辣な目を向けるのか。それはまたあとで語るとしよう。いまはここで起きた事件を追う彼らを見守り、一緒に謎を解明してほしい。きっとこれまで以上に難解で不思議な出来事を目の当たりにする。だがそれも物語の始まりに過ぎない。彼らの旅はどこへ向かいどこで終わるのか、最後まで見届けてみてはいかがだろうか。

3.配慮


一般的には非公開でも、"星システム"はしっかりユールマラの事件を認識し、星の数が判定された。これも"上"のコネクションによるものだろうか。2人は長旅の疲れを癒すと、行動を起こした。"上"のコネクションはしばらく使えない。馴染みがなく知り合いは誰一人いない異国の地での捜査および捜索は心細くもあるが、彼らは類い稀なる優れた知恵と極めて豊富な知識、そして一通りの言語や武術などを使いこなす多数のスキルを持ち合わせている。

 さぁて、そろそろ行こうか。少しのんびりし過ぎたかな?

 …。

幼い我が子の体調や精神面を最優先に考え、本来は到着すると同時に動き始めたいところであったがそうはせず、浜辺や街を歩き当地の食事を堪能し、きちんと睡眠をとった。深刻な雰囲気はできるだけ出さず、我が子のストレスを最小限にするよう努めた。ただ、彼の頭はこれからのプランの組み立てのため、常にフル回転である。まずは事件の詳細を知るであろう人物とのコンタクトを図りたい。警察からの情報収集が難しいことは明らかであるため、職場か家族を当たるか…。いずれにせよ、公表されていない事件のことを知っている理由をきちんと説明できなければ、犯人の関係者と疑われ警察に通報されるリスクがあることは間違いない。もちろん"上"のことを話すわけにはいかないので、納得感がある別の言い訳を模索していた。

 やはり、家族よりこっちの方が話を聞きやすいかな。アポなしで会ってくれるか分からないけど、行くしかない。

そう呟くと2人はこの観光地にいくつか聳える高層ビルの中の1棟へ入った。ロビーは開けていて、中心には降り口が見えないほど長いエスカレーターが昇りと降り1台ずつ並んで設置されていた。搭乗すると被害者の所属事務所総合受付がある3階まで輸送してくれるようだ。彼らは即座にそれに乗り込んだ。

 SNS事業でだいぶ儲かってるようだね。立派な建物だ。

降りて真っ直ぐに受付へ向かった。3人の美女が横並びで座っている。左と真ん中は接客中だったので右の受付に足を運んだ。金髪でポニーテール、目がまん丸で大きく、瞳は澄んだ青色、まつ毛はマスカラで黒々としている彼女は20代前半と見受けられる。

 いらっしゃいませ。

 こんにちは。僕はこういうものです。社長さんにこの名刺を渡していただければお分かりになると思いますのでお願いできますか?

 かしこまりました。確認いたしますのでそちらにお掛けになってお待ちくださいませ。

 分かりました。

壁際にある同時に何十人もが腰掛けられそうな巨大なソファに座って待つことにした。

 これで社長さんに引っ掛かってくれると手っ取り早いんだけどね…。

いつものとおり、娘は無言で目を瞑り静かにしている。手遊びをすることも、頭や顔を無意識にいじることもなく、まるで美しい人形のようにただじっとしていた。父親は頭の中で今後のプランの組み立てを続けている。そうして30分ほど経過した時、さっきの受付の女性が歩み寄ってきた。

 幸引(こうひき)ロンド様と、お連れ様でございますね?

 はい。

4.万全


 ぜひご面談をとのことですので、ご準備が整いましたらご案内させていただいてもよろしいでしょうか?

 ええ。ご案内をお願いします。
 バルカ、行こう。

娘の手を取り女性の後に付いてセキュリティゲートの前まで進んだ。そこには肩甲骨ほどまである黒髪ロングヘアの女性が立っている。アジア系の顔立ちで黒い細身のスーツと高いヒールがよく似合っていた。

 こちらの者がご案内させていただきます。

 幸引様、ご案内いたします。このカードでゲートをお通りください。

 分かりました。よろしくお願いします。

2人は受け取ったゲストカードを首から下げると、ゲートに翳した。そのまま通過して黒髪の女性と共に高層階行きのエレベーターへ乗り込んだ。オフィスビル用にしては広めの鉄カゴは高速で上昇し、気圧の変化を感じて間もなく目的階に到達した。扉の向こうは広大なエレベーターホールだ。

 ここで乗り換えていただきます。

 承知しました。

2人は手を繋いで付いて行く。エレベーターを出て右に少し歩くと行き止まりだった。辺りは薄暗く床と壁は黒で統一されている。外は温暖な気候なのだが、ここはヒンヤリとしていて上着を羽織っていてもやや肌寒い。女性は立ち止まり、2人のほうへ振り返った。

 この先のことは他言無用でお願いします。

 もちろんです。守秘義務は必ず守るとお約束しますよ。

ビジネスライクな笑顔はもはや彼の代名詞だろう。よく目の奥が笑っていないと言うが、まさにそんな感じだ。女性はポケットから別のカードを取り出すと壁に翳した。一見カードリーダーや扉らしきものなく、変わらず目の前はただの黒い壁だが、ウィーンと鍵が開く音が辺りに響く。これを合図に女性が壁を手で押すと大人がしゃがんでようやく通れるであろうサイズの扉が開いた。

 狭くて恐縮ですが、こちらからお願いします。

2人の大人はしゃがみながら、1人の子供はそのまま歩いて通過し、向こうに見える大きな扉に向かってさらに足を進めた。到着するとさらに別のカードキーを取り出し壁に翳す。解錠され、女性は左手で扉の取っ手を持って手前に引き、右の手の平を室内へ向け2人を誘導した。

 幸引様、どうぞこちらへお入りください。この後は中にいる社長秘書がご案内いたします。

5.痕跡


エレベーターホールや通路とは異なり中は煌々としていた。少し先には受付らしきものがあり、肌は白く髪は金髪ショート、明るめのグレーのスーツに身を包み、黒のストレートチップを履いた男性が1人佇んでいる。2人は彼の場所まで向かった。

 こんなに厳重なセキュリティは一体何のために…なんだか異様だな〜

 …。

歩きながら小声で呟いた。室外とは一変して壁紙や扉は白基調で明るい。気温もほどよい温度に保たれていた。社長の趣味なのか、このだだ広い空間には大きな観葉植物が随所に配置され、壁には数々の名画がかけられている。

 ようこそお越しくださいました。

 こんにちは。突然のご訪問をご容赦ください。

 とんでもございません。社長はぜひ幸引様とお会いしたいと申しております。どうぞこちらへ。

付いていくと目の前には生体認証の装置が見える。男性は立ち止まり、自分の静脈、指紋、虹彩を機械に認識させると、すぐ脇の扉が無音で開いた。そのまま彼と共に部屋を進むと、いかにも重役の個室らしい豪勢で立派な木製の扉にたどり着く。その前で立ち止まり、5回コンコンコンコンコンと彼がノックすると、中に入れという声が聞こえた。指示を確認してから、彼は明らかに重たそうな扉の取っ手を両手で持ち、静かに開けた。

 どうぞお入りください。

 失礼します。

豪華絢爛、絢爛豪華。室内の様子を表すにはまさにピッタリの言葉だ。内装すべてが金一色、彼が身につけている衣服は綾羅錦繍、飾られている絵画や置かれている家具は億はくだらない代物である。エレベーターを降りてからというもの、ずっと不思議な空間が続き、まるで異世界に迷い込んだような気分だ。ツッコミどころは満載だが本来の目的を見失ってはならない。単刀直入に話しすぐ本題へ入ろう。

 おお、よく来てくださった幸引さん。待っていましたよ。鍛鋸(かのこ)さんには大変お世話になりました。

 …ま、まさか、ソナ…弊社の社長とお話に?

6.機転


 ええ、てっきりご存知かと。まあまあ立って話すのも疲れてしまいますからどうぞお掛けください。

身につけている装飾品同士がぶつかり、歩くたび耳につく音色を奏でていた。小柄だが恰幅がよく、声の通りは十分すぎるほどだ。パーマを当てているのか茶色っぽいフサフサの髪はクルクルと巻いている。3人は黄金に輝くソファに腰掛けると、秘書はタイミング良くコーヒー2つとオレンジジュースを提供し退室した。

 どこまでご存知か分かりませんが、失踪したうちの社員のことで相談に乗ってくださってね。今日と同じようにここに座ってお話しさせてもらいました。

 そうでしたか。大変失礼しました。鍛鋸からこちらへお伺いするよう命ぜられたのですが、詳しい引き継ぎがされておらず、誠に恐縮ですが改めてその経緯をお聞かせ願えるでしょうか。

あまりに予想外の出来事につい口から出てしまった言葉を打ち消すがごとく、取り繕うのに必死だった。いくら訓練されてるからと言ってもやはり人間。咄嗟に判断できないこともあるだろう。しかし、彼女の指示で来たことを装うのが情報を最も引き出しやすいことにすぐに気付いた。そう考えると、ソウルからずっと手のひらで踊らされ誘導し続けられてる気がしなくもないが、邪魔を入れずに話し合うための彼女なりの配慮であるだろうから、あえて作戦に乗るのも悪くはない。ソファに腰をかけるまでの数秒で彼の頭はこんな風に回転していた。

 御社の親会社さんとは昔からご縁がありましてね。失踪から数日間進展がなかったので相談したんですよ。そうしたら鍛鋸(かのこ)さんからうちの会社に電話をもらったのでお越しいただきまして。

 そうでしたか。どのようなお話を?

 それが、私から事件のあらましの後に、"昔の事件"の話をしたところで、あとは幸引副社長が対応すると仰られ、帰られたのです。

 不躾ながら、その"昔の事件"は大変興味深い。二度手間になって申し訳ないのですが、もう一度お話しいただければ助かります。

 わかりました。しかしこれは我が社にとってレピュテーションリスクが非常に高い事件です。御社だから言いますが、私のコネクションを使い報道規制をひいていますので、ご他言はお控えください。

 もちろんです。僕らは警察や弁護士、検察官でもありません。守秘義務を必ず守るとお約束します。

こうして"昔の事件"が語られた。

7.奇策


いまから数年前、社長は2人の常務のどちらかを後継者に据えようと考えていた。専務に昇格させ、経営手法や人脈などを少しずつ伝承するつもりだ。しかし、2人はどちらも優秀で甲乙つけ難い。そこで"ゲーム"をして勝った方を後継者にすることとした。もちろん遊びではなく、彼らの能力をきちんと推し量ることができる"ゲーム"である。

舞台は会社が最も力を入れている新プロジェクト。その開発には社内のリソースだけでは足りずSEを一部外注化することとなっている。条件は会社の認定企業であることと、会社の試験でLANK分けされた超一流SEであること。認定企業は4社あり、企業ごとに一人当たりの提示年額は異なる。社長がロンドたちへ向けて書いた企業ごとの単価表は以下のとおり。

Companys   LANK3      LANK2     LANK1
GOLD           35,000     20,000    10,000
SILVER         55,000     35,000    25,000
KNIGHT       50,000     30,000    20,000
LANCE         45,000     25,000   15,000
※数字は一人当たりの年額単価(千円)
※4人全員同じ企業へ発注しなければならない

また、今回必要なSEは4人。LANK3が2人、LANK2,1が1人ずつである。提示は4人まとめた場合の金額のため、2人は○社、もう2人は○社など、複数社に分けて発注することはできない。

A常務はGOLD社(4名合計100,000千円)、B常務はLANCE社(4名合計130,000千円)を選択し、各々価格調整に入った。GOLD社は値下げ交渉には応じなかったがLANCE社は4名合計110,000千円までの値下げを約束した。だが、GOLD社に及ばないため同社が内定、A常務の勝利が濃厚となる。

しかし、正式発注を目の前にしてトラブルが起きた。GOLD社のLANK3社員2名が同じ車で移動中に事故に見舞われ長期入院が必要となったのだ。GOLD社にLANK3の社員はこの2名しかいない。焦ったA常務は慌ててSILVER、KNIGHT両社へ並行して価格交渉に入るがLANCE社の金額を下回ることができなかった。そのため、価格だけではなく品質や納期など総合提案で勝負するも、その場凌ぎのプレゼンテーションでは社長の心には響かなかった。

このままLANCE社に決まりB常務が後継者の座を射止めると誰しもが疑わなかった矢先、A常務は"奥の手"を使いB常務に大逆転勝利したのである。

8.虚勢


一通り話し終えると喉を潤した。時折見せるジルコニアの綺麗な歯列もまた彼の成功を物語る。自分を必要以上に大きく見せた経験は誰しもあるだろう。周りによく見られたい、すごいと思われたいという感情は、多寡はあれど人間の性。理性でコントロールしたところで、ないものにはできない。周りにどう見せるかだけの話だ。隠すことが美徳だと思う人、あえてひけらかし笑いにする人、心から自分は他者より優れてると信じ自慢する人。多種多様であるが、目の前に座る人物は常人のそれを遥かに超越していた。この特殊な装飾を施した部屋が最たる例であり、ここに至るまでに目にしたインテリアや建物の内装、そして極めて堅牢なセキュリティ。そのすべてが、彼の自己顕示欲を極限まで満たす。

 さあて、幸引さんA常務がどう難局を乗り越えたか分かりますかな?ちなみに鍛鋸さんは即答で正解でした。

このニンマリ顔からクイズの出題者の立場を楽しんでいることが容易に分かった。わざわざソナタがすぐ答えられたという情報を伝えることで闘争心を焚き付けてこの"ゲーム"をより盛り上げる魂胆だ。だがその目論見は一瞬で崩れた。

 てんしょく

 一般的なコンプライアンスと"ゲーム"のルールを遵守していることが前提だとしたら、SILVER社もしくはKNIGHT社のLANK3社員をGOLD社へ転職させる…とか、ですかね〜

 ご名答!ノーヒントでよくぞお気づきに。やはり御社は優秀な人材しかいないようだ。こんなに小さなお嬢さんまで。

 …。

この部屋は少し寒い。きっと主が暑がりのため気温を低く保っているのだろう。それでも彼はハンカチを片手にしばしば顳顬から頬にかけて垂れる汗を拭う場面が見られた。体温調節なのか、将又冷や汗なのか。もしそうなら、何か後ろめたいことを隠しているのか。見た目はいくらでも着飾り偽ることはできても、人間の本質はそうはいかない。親子はこうした一つ一つの反応から対面する相手の心理を読み解く訓練も受けてきた。きっと、これまでの一連の動きから何かを察しているのだろう。

 ただ、それ自体は合法かも知れませんが、乱暴なやり方ではありますね。その転職が本当にご本人が望んだことであればまだ良いのですが。転職させた方法によっては、必ずしも良策とは言えないでしょう。

 ええ…このA常務の"奇策"がのちに弊社の存続をゆるがす大きな事件を引き起こす契機になったのです。当時の関係者はこの事件をこう呼びました。-------"成銀事件"と。

9.偽装


 なるほど、SILVER社(銀)からGOLD社(金)に転職した(成った)…将棋で使う用語だ。

 はい。こうしてA常務は後継者争いに打ち勝ち、私は彼を専務に昇格させました。それから数ヶ月、新プロジェクトは軌道に乗り、すべてが順調に進んでいるように見えたのですがね。

 事件が起きたんですね。

 自殺したんですよ。GOLD社へ転職したLANK3社員のうちの1人が。理由は過労で精神的に追い詰められたためでした。彼の遺品には手記があり、転職してから心を病むまでの経緯が詳しく書かれていましてね。GOLD社は低賃金で長時間労働を強いることを知っていたため何度も断ったが、A常務はSILVER社に圧力をかけ彼の居場所を奪い、転職せざるを得ない状況に追い込まれたこと、転職後にGOLD社では冷遇を受け、激しくイジメられていたことなど。そしてこれが報道されると、弊社とGOLD社は世間から著しくバッシングされました。

カチ、カチ、カチ、カチ、カチ。静寂が時計の針音を際立たせる。出題者の立場を楽しんでいたかと思えば一転、真顔で事件のあらましを語っていた。何が本当の彼なのか。超一流の経営者とはいくつもの状況、いくつもの立場、いくつもの相手に応じて演じ分ける。いや、大勢の人の上に立つ者になるには、自身を演じ分けることが条件の1つに含まれているのかも知れない。

 その後、A常務は?

 …ある日突然消えてしまったんです。書き置きも、伝言も何もなく。きっと精神的な耐えられなくなったのでしょう。そのことが明るみに出ると弊社への誹謗中傷はさらにエスカレートしました。だから私は彼が消えたタイミングで昼夜を問わず火消しに奔走し、すべての人脈と膨大な資金を使い、何とか報道規制をすることに漕ぎ着け、ギリギリ会社を存続させることができた。

 つまり、今回の事件にその常務が関わっているかも知れない。そう、仰りたいのですね。

 ええ。我が国ではもちろん、世界的な人気者で圧倒的なインフルエンサーに成長し、かつ弊社の稼ぎ頭である人物が突然いなくなった。幸引さん、それにね。あり得ないんですよ。たとえば誰かに誘拐されたんだとして、不可能なんです。一部の人間にしかね。

幼女は相変わらず微動だにしない。ただ黙って大人たちの問答に耳を傾け、考察を繰り返す。短時間でありとあらゆる可能性を出しては潰すことができるのは紛れもなく才能であり、"上"の訓練だけではなく、彼女自身の努力の賜物だ。この集中力は彼女の武器の一つであり今後の成長の大きな糧となることは言うまでもない。

人間の集中力は続かないとよく耳にする。しかし、人類の1%にも満たないが、高い集中力を長時間持続し人知を超える成果を出す者もいる。当然、彼らはビジネスやアート、スポーツなど各界で著しい実績を残すのだが、良からぬ分野でその力を発揮する者がいるのもまた事実だ。

極めて優秀な事件コンサルタントがいるということは、大いに狡猾な犯罪者も存在する。光と闇、太陽と月、天使と悪魔、物事には必ず裏と表、表と裏があることはゆめゆめ忘れないでおこう。

10.隠匿


 なぜそこまで言い切れるのです?

 ここまで来られて体感されたと思いますが、弊社のセキュリティは一般的なオフィスビルよりもかなり強固であることはお分かりでしょう。そして、その人気者は…この中で生活していたんですよ。

 ほう…つまり、誘拐事件だとしたら、犯人はセキュリティを突破できる内部の人間である可能性が高いということですね。

 はい。ただ警察にこの話をしても、元常務はすでに社員ではなくカードキーや生体認証も突破しようがないので無関係であるとの見解でして。

 それは私も同じです。元常務を疑っている特別な理由がおありのようですね。

 …まず、このビルはエリアが3つに分かれています。事務所エリア、社長室エリア、居住エリアとね。事務所エリアの入退は社員なら誰でも権限を持ちます。社長室エリアの権限は私と、幸引さんをここまで案内した男だけです。うちの人気者は社長室エリアの権限はありませんが、居住エリアの権限があります。逆に私と男はここに住んでいるわけではないので、その権限はないのです。

 居住エリアの権限を持つのは1人だけ…特別待遇ですね。

 理由は簡単です。その人気者は弊社の大株主なんですよ。私は元常務の一件で失墜した信頼を取り戻すため、絶対的なインフルエンサーを擁立することを思いつきました。こうしてSNS 事業によって得た収益で株式を保有させ、他社からの買収を免れた。期待以上の成果を残してくれましたが、私が目にかけた人物がまたもやトラブルに巻き込まれるとは…"歴史は繰り返す"どうやら迷信ではなかったようだ。

 察するに、元常務が居住エリアの元住人だったというこでしょうか。

 おぉ!さすが事件コンサルタントだ。そのとおり。実は弊社の手違いで元常務の生体認証を削除していなくて、居住エリアに入ることができてしまうことが判明したんですよ。

社長の態度は分かりやすい。自信満々のときはハッキリものを言うが、そうでない時は聞いてもいないことまで喋り、尋常じゃない量の汗をかく。貧乏を揺りをしながら顔の一部を覆ったりする仕草も目立つ。このやり取りのどこに事実ではないことが含まれているのか。まずはその矛盾を紐解く必要がありそうだ。

11.黒幕


 うそ

透き通った金色の瞳で真っ直ぐ前を見つめている。親子2人の毛髪と目。社長が身につけるもの。外に出れば目立って仕方ないのだが、この部屋では同化して違和感がない。むしろ馴染んでいるし、慣れてしまうとこれが普通であるかのように錯覚すらする。

 ん?おじさんは、う…嘘なんて言ってないよ。なんでそう思うんだい?

絵に描いたように狼狽えているのだが、このあからさまな矛盾に気づいていないのか、この態度は演技なのか。何とも不思議な感覚に苛まれるのだが話を前に進めるしかない。

 生体認証のお話ですが、警察の見解と社長が仰ることは矛盾しています。元常務の情報は削除されているのか残ったままなのかどちらでしょうか。

 …残ったままです。

 ではなぜその重要な事実を警察に黙っているのですか?本気で事件を解決したいなら情報は隠さずすべて報告すべきでは。

 会社のため。生体情報を削除しなかったことも、そもそも元常務が失踪したことも、世間からは当然我が社の責任と見られる。本当に元常務の仕業だったなら、確実に終わりだ。私にはこの会社しかなくてね…。大いに貢献してくれた人気者の安否よりも会社の存続を選んだんですよ。やはり私だと簡単にボロが出てしまうんだな。全部あいつの言うとおりにしておけば良かった。本当は貴方たちに直接会うことも反対されていたんです。…つくづく、私は無能だ。

口をポカンとあけて天を仰いだ。放心状態というのか、もはや焦点が合っていない。いまにも膝から崩れ落ちそうな気さえする。これまでの態度は全部が虚勢だったのだろうか。社長の言動から察するに、あの秘書の男は相当な切れ物のようだ。おそらく裏で社長を操り、経営はおろか今回の件の対応も彼の指示によるものだろう。警察などとのやりとも秘書に任せたため、生体情報を削除していなかったことも警察には気づかれずに済んだのだろう。ただ、彼が常に会社を気にかけているなら、"削除していない"というミスはそもそも起こり得ないはずだ。トラブルが起きたあとに、どうにかしてもらうような雇用関係なのかも知れない。元常務の事件の時も暗中飛躍していたと予想される。

 だいぶ疲弊されているようですが、あと2つご質問があります。まず1つ目です。僕らも居住エリアへ入ることはできますか?

コンコンコンコンコン。5回ノックが聞こえた。

12.風格


 社長、ご来客中に失礼します。ここからは私がお客様をご案内してもよろしいでしょうか。

 …あ、ああ。頼む。居住エリアだ。

 かしこまりました。

 幸引様、どうぞこちらへ。

肌は白く髪は金髪ショート、明るめのグレーのスーツに身を包み、黒のストレートチップを履いた男は表情を変えない。入室のタイミングから、3人の会話を聞いていたことが推測される。近寄ると香水?と思われる良い匂いがする。何者なのかはわからないが、人としての魅力というか、言葉を2,3交わしただけなのにこれだけ引き込まれることがあるのか。心を持っていかれるオーラがある。

 社長が仰っていた元常務が出入りしていた可能性のことです。当日の入退室の記録は当然残っているのでしょう?

 それが、居住エリアへの入退室の記録は防犯カメラの映像も含めすべて消去されていました。この事実も社長が元常務への疑いを高めた理由です。こんな芸当、外部の人間には相当難しい。元常務はいまだに社内のさまざまな者への影響力を持っていますからね。

これ以上社長を野放しにしては良くないと判断しての行動なのか。考察はさておき、社長室を出ると元のホールまで戻りエレベーターに乗った。またもや気圧の変化を感じるやいなや、到着を知らせるチャイムだ。そのまま3人は居住エリアへと足を運んだ。秘書の男は表情も変えないが、視線も変えず真っ直ぐ前を見続ける。然う斯うするうちに居住エリアの入口に到着した。ここも、カードリーダーやドアが壁の中に埋め込まれていて、セキュリティ性を高める工夫が施されている。中に入ると生体認証装置があり、秘書の生体情報を読ませると先に進むことができた。

 こちらが居住エリアでございます。ここは文字どおりプライベート空間のため、普段は社長も私も入室用のカードや生体認証の権限を持ち合わせておりません。しかし現在は警察の捜査対応のときのみ、ご家族のご許可を頂戴し、一時的に私のみ居住者様の代行としてご案内を許容いただいています。

 我々は警察ではありませんが?

 ええ。社長の"判断"です。

およそ、人が生活していたとは思えないほど何もない。壁、カーペット、ドアはすべて真っ黒。リビングと見られる空間に唯一ある家具のソファも、シャワールームも、寝室のベッドも、黒で統一されている。クローゼットにはTシャツ、ズボン、アウターが掛けられ、その下には3足のスニーカーが置かれていた。衣類も靴もやはり黒で、アウターはすべて着る者から見て左側にボタンが付いている。靴のサイズは23.5〜24.0だった。どこも掃除が行き届いていて、シャツには短いブロンドの髪が一本付いているのに気付いたが、他には塵一つない。定期的に清掃が入っているのだろう。

 居住エリアの捜査は完了しました。色々興味深いことがありましたよ。ご案内ありがとうございます。最後にもう一点お聞きしたいことがありますが、よろしいでしょうか。

 ええ、もちろん。社長から幸引様に全面的に協力するよう仰せつかっておりますので。

13.反転


3人は居住エリアを後にして、ロビーに戻る途中にある部屋へ入った。役員用の会議室と見間違えるほど立派な椅子と円形の机。10人程度座れそうだ。壁面はホワイトボードで覆われている。頭上にはプロジェクターが見えた。

 こちらへ伺う前に、行方不明となった彼のSNSを見ていて気になったことがあるのです。

 私が分かることであれば何でもお答えさせていただきます。

AIのように聞かれたことに淡々と答えるだけの男のようも見て取れるが、後ろには幾重にも折り重なる"色"が見える。とても華やかとは表現できない、どす黒く淀んだ何かだ。バルカもそれを察していた。珍しく父親の足元から離れようとせず、陰に隠れて様子を見ている。しかしながら、事件コンサルタントとして海千山千のこの物語の主人公がこれしきのことで怯むはずはない。いつものビジネススマイルと、常にフル稼働の頭脳を駆使し、対等に渡り合う。

 写真を見ると、彼はいつも同じメーカーのジーンズを履いているようですね。

 ええ。この202シリーズ、212シリーズが好みのようでして。数字が大きいと生地の色が濃くなるみたいです。しかし、それが何か?

 消息を立つ前の最後とその1つ前の投稿に明らかな違和感があるのです。

 違和感?そうですね…私は何も感じませんが。

 ----このジーンズのラベル。これは彼からのメッセージと私は読み取ります。

左手の手のひらを相手に向け、高らかに人差し指を天井の方向へピンと上げた。当然、これでもかと白い歯をこぼし、満面の笑みで。男の表情はピクリとも動かず、血管も瞳孔も筋肉の変化も感じ取れない。自分の体をここまで細部に至るまで意のままにできる理由を確認したいところであるが、いまはその時ではない。男は内ポケットのスマホを取り出して左手で操作し、右手で画面をピンチアウトした。

 ラベルですか。うーん、非常に小さいので拡大してもよく見えませんね。

失踪の前々日の投稿は社内のミーティング風景だ。彼が会議室のホワイトボードに絵を描いてるシーンを後ろから写している。ラベルは彼の左側の腰辺りに見える。色濃さから202シリーズだろう。前日は休日のようで、公園で何人かでサッカーボールのリフティングをしている写真だ。肩まである長い髪が靡いている。ジーンズは212シリーズで、ラベルもしっかり写っていた。

14.心音


 そうなんです。しかし、昨今では画像の解像度を上げることなど誰にでもできてしまいます。娘がアプリを使ってこの2点を高画質な画像に変換してくれました。それがこちらです。

 ----。ほう。これは…。

高画質の画像をピンチアウトして目を凝らしてよく見ると、違和感の正体がハッキリした。"202"の部分だけが180°回転しさらに反転しているのだ。"SOS"と読める。そして2点目は"212"が加工されていて、"SIS"になっている。ポーカーフェイスを崩さない男はほんの一瞬動揺しているようだった。聴覚が優れている娘は、微かに増えた鼓動の回数を聞き逃さない。父親のズボンの裾を引っ張る仕草で、この情報を共有した。

 "SOS SIS"…もしかしたら誰も気づかないか分からないレベルで、彼は世間にメッセージを送った。理由は恐らく、犯人よりも先にこのことに気づいた誰かに助けを求めるためでしょう。顔も名前も分からない、世界の誰かに。すなわち、そうしなければならないほど、状況は良くないということです。

 幸引(こうひき)様といい、鍛鋸(かのこ)様といい、実に面白い方々でごさいます。^_^たしかに仰るとおり、この画像はそう見えなくもありません。ただ、本当にこれが彼から世界に向けられたメッセージで、世界の誰かに助けを求めているなど、確証が持てるのでしょうか?

 いいえ。一つ一つの出来事は仮説に過ぎません。確定している情報がすべて揃ってることなんて、ほとんどないですからね。ただ、その仮説や不確かな情報をパズルのピースのように繋ぎ、確かなものにしていけば、やがてパズルは完成する…これが我が社のモットーです。

今回は満面の笑みのドヤ顔がよく出てくる。どうやら、対峙している相手が手強いほど、頻度は高まるようだ。自身を落ち着かせ、さらには鼓舞するために自然に出てくる仕草なのであろう。

 はっはっはっはっ…これは失礼しました。やはり興味深いお方です。

 お褒めに預かり光栄です。さて、本題ですが、"SIS"が"sister"の略称を意味するなら、彼には姉妹がいる可能性が高い。そして、その人物を事件の鍵を握る何か重要な情報を持っている。そう推察します。彼の姉妹について何かご存じで?

 分かりました。社長からは我々が持つ情報は何でもご提供して構わないと言われています。妹さんと弟さんが2人で住まわれているマンションへご案内しましょう。車を手配するので少々お待ちください。妹さんには、幸引さんが間もなく訪問される旨、私から一報を入れておきます。

 ありがとうございます。とても助かります。

急に協力的な態度を示したのは明らかに違和感を覚える。ここまでは男の想定内だったということだろうか。人並はずれた洞察力をもつこの親子でさえ、真意を読み切ることは困難を極めた。この男もまた、普通では考えられない境遇で、幼少の頃から訓練を積み、とんでもない修羅場をくぐり抜けてきた猛者であることは間違いない。

15.夜色


2人は車内で無言を貫いた。会社での出来事について答え合わせをしたかったが、運転手が男に会話内容を報告することを考えると何も話すことはできない。兄弟が住むマンションには車で20分ほどの距離だった。この辺りでは最も高いタワーマンションの最上階が兄弟の住まいである。運転手は車寄せに停車した。日が暮れてライトアップされた外観は、なんとも美しい。

 お近くでお待ちしております。

 ありがとうございます。助かります。

2人は降車してすぐにエントランスへ入った。

 あの衣類、そして毛髪…

 ちがうひと

 うん、そうみたいだね。

部屋番号を押してインターホンで呼びかけると、話しが通っていたのですぐに開錠された。入口にいたコンシェルジュは2人に対して深々と会釈する。彼女は住人の困り事や頼み事などを速やかに解決してくれそうだ。この住まいもSNS事業により得た巨万の富の一部であろう。すべてを享受せず妹や弟にも分け与えているところは立派である。ほどなく最上階のフロア到達し、玄関の前で呼び鈴を鳴らした。

 初めまして。幸引(こうひき)と申します。

 はい、どうぞ。

女性の声で室内へと誘われた。広々とした玄関には一足だけ靴が置かれている。家政婦のものだろうか。これを10代の若者が履いている姿は想像できなかった。そんなことを考えていると、スリッパでフローリングを擦る音が少しずつ近づいて来る。やがてブロンドの青い瞳の若い女性が現れた。ショートカットがよく似合っている。

 幸引さん、こんばんわ。兄の捜索をしてくれているのですね。ありがとうございます。

 初めまして。1日でも早く探し出したいと思っています。そのためにも、いくつかお聞きしたいことがあってお伺いしました。

目尻にシワができるほどの年齢ではないが、目と口がくっつくのではないかと疑うほど、これでもかとニッコリと、微笑む。対照的に、幼い娘は表情を変えない。父親のズボンを右手でつまみながら静かに目を瞑り微動だにしない。

 ええ。兄のためですので何でも答えます。では、こちらへどうぞ。

靴を脱ぎ、彼女の後ろを付いて行った。長い廊下の先にある扉を開けると、ダイニングとリビングが繋がった広大な空間が目に入る。1人の小さな男の子はソファに腰掛け、100インチ以上ありそうな超大画面でテレビゲームに熱中している。こちらに気付いているのか、いないかは分からない。2人は案内されるまま、10人以上で囲めそうな長いダイニングテーブルについた。カーテンのない窓からはユールマラの街並み、その向こうには広大な海を一望できる。

 お客様がいらしてるのにゲームなんてすみません。私たちは3人兄弟で、一番下の弟です。お嬢さんと同じくらいの歳でしょうか。

 とんでもありません。こちらこそ突然お伺いしまして。こちらは娘のバルカです。たしかに同じくらいに見えますね。

彼女はキッチンで飲み物の準備をしながら2人と会話を続けた。年齢にしては、流暢な世間話や客人への対応が小慣れている…小慣れて過ぎている。若干の違和感を覚えながらも、彼女が席についたタイミングで話を前に進めることにした。

 では早速ですが、確認させてください。

 はい。わかりました。

16.既視


 貴女が警察にお話しされたことは概ね社長さんや秘書さんから聞いたので今日は伺いません。僕から確認したいことは1点だけ…お兄さんが失踪前にSNSに投稿したこの2枚の写真です。よく見るとジーンズのラベルの数字だけが加工されて、"SOS SlS"と読めるのです。

 …なるほど。だから私を訪ねてくださったんですね。

 はい。貴女自身に何か助けを求めるようなことが起こっているのでしょうか。

 ----そうですね。実は、1年ほど前からずっと誰かに付き纏われているんです。兄と一緒に警察へ何度も行ったんですが何もしてくれなくて。社長さんにも相談して、その人物を突き止めようと調査したのですが、全く情報を得ることもできず、とても困っているんです。最初は民間のボディガードを雇って外出していたのですが、日に日に恐怖感が増して、いまでは家から一歩も出ることができなくなってしまいました…。

手足が震えることもなく、しっかりとロンドと目を合わせながら淡々と言葉を口にしているようにも見える。自宅は安らぎの場で、ここであれば恐怖心も和らぐということなのだろうか。

 それは大変おつらいですね。嫌なことを思い出させてしまい申し訳ありません。今回のお兄さんの失踪と何か関連はあるのでしょうか。

 そう思い、警察にも社長さんにも話しました。私がほとんど外出しなくなったから、今度は兄を狙ったんじゃないか、と。

 彼らの反応は?

 兄の住まいのセキュリティは完璧であり、私と同じく外出時はボディガードをつけていたことから、犯人像はただのストーカーまがいの人物ではないと、一蹴されました。

話は続いているが、幼女はふと椅子から降りると、一人で遊んでいる男の子の元へ向かった。皆さんは彼女が他人に興味を示すなんて珍しいと感じるだろう。しかし、彼女の目的はあくまでも捜査である。その優れた聴力で彼がいま何をしているのか察知した。そしてこの情報が、今後の自分たちの行動を決めることになる。

 しょうぎ、わかるの?

 …。

 このまえきたおねえさんが、おしえてくれたよ。かてるほうほう。しりたい?

 …。

男の子は手際良く駒を並べて見せた。

 Climbing silver.

 すごい!よくしってるね。もしかしてきみかな。おねえさんからのでんごんがあるよ。

 …。

 "ここで待ってる。"だって〜。

 …。

幼女はいつものように微動だにせず、父親の元へ戻っていった。どうやら義母が待つ場所が分かったようだ。バルカが気付いたように、皆さんもこれまでの情報とラトビアのことをほんの少し知っていれば、きっと正解に辿り着くことができるだろう。次回、いよいよ…。

17.暗示


 ここだね。

 …。

その答えにたどり着くとすぐにタワーマンションを後にした。実は、ソナタは東京の事件から2人を誘導をしていたのだ。そう。お気づきの方も多いだろうが、東京の事件の暗号とユールマラの事件の暗号はリンクしている。東京では紙幣に書かれた英文を反転することで新たなメッセージとなった。ロンドはラトビアへ向かう機内で彼のSNSをチェックしているとき、これをヒントにジーンズのラベルに気付いたのだ。そして、チェスのギャンビット(オープニング戦術)は、将棋の戦法"棒銀"が関係していることを示唆する。ソナタは2人を再会の地へと誘う言葉を男の子へ託した。"棒銀"は英語で"Climbing silver"と表す。しかし、これだけではまだ足りない。最後のヒントは社長とのやり取りの中にあった。

 この旅に欠かせない"星"と絡めるなんて、あいつも洒落たことを考えたな。

 …。

 さて、僕らの仮説が間違っていなければいつこの場に現れてもおかしくないね。まあ国際指名手配犯だし、堂々と顔を晒してお出ましとはいかないか。う〜ん…だけど普通なことが嫌いなのがあいつだよな〜。

 聞こえる。

 ん?…ま、まさか

幼い娘はモニュメントの遥か上空を見上げながら呟く。ロンドにはまだその音を聞き取ることはできなかったが察しはついた。やがて近くにいる誰もが聞こえるところまで"その音"はやって来る。黄金に輝く3つの星の近くには彼女がいるという、この旅のゴールには相応しい状況がまさに目の前にあった。

 ははは…指名手配犯とは思えない登場だなぁ。

珍しくロンドの顔は綻んでいた。いつものビジネススマイルではない。最愛の妻との再会を目前に、ポーカーフェイスを保つことができなかったのだろう。その音がギリギリのところまで近づくと、2人の目の前にハーネスのようなものが付いた梯子が降りてきた。同時に出入り口が開き、拡声器を持った女性が現れた。

 ロンド〜!バルカ〜!久しぶりね!貴方たちなら必ずここに辿り着けると思ってた!さあ、それでバルカをロンドの体に固定して、登ってきて!!

2人は言われたとおりに梯子を登り、機内へ乗り込んだ。周囲の人々は写真や動画を撮影したり、電話やSNSの投稿をしたりと、この一部始終はあっという間に世界を駆け巡る。

 ソナタ、やっと会えたね。

 ええ。ロンド、また会えて本当に良かった。…いまは再会を噛み締める時間はないわ。行きましょう。

 ははは、相変わらずだね。わかった。

 …。

幼い娘はいつものように表情を変えず、目を瞑り、静かに佇んでいた。

18.快活


2人はヘッドホンとマイクを装着した。パイロットにはしばらくこれらを外すよう指示を出した。日は沈みかけ、ゆっくりと少しずつ暗闇が辺りを覆う。

 さて、話したいことは山積みだよ。まずは君のことだから抜かりないと思うけど念のため。バルカと僕が追っていた事件は解決してくれたのかい?

 ええ、もちろん。今回は少し驚きの事実もあったけど無事解決したわ。

 分かった。じゃあその件は安心だ。あと、いま僕らはどこに向かっているのか聞いておこう。荷物もホテルに置いたままだよ。

 ふふ。相変わらずの心配性ね。荷物はあとから送らせるから安心して。バルカもいるし、これからも快適に過ごせるようにしてるわ。

 過ごす?長旅になりそうだね。まあそれはいいとして、本題に入ろう。ソナタ、最後に家を出掛けて行ったあの日から今までの経緯を聞きたい。どうして君に国際指名手配がかかり、世界中から追われることになったのか。

 貴方たちにたくさん苦労をかけて本当にごめんなさい。ロンドと幼い子供たちに世界中を旅させることになるなんて…。私もあの頃は想像もしていなかった。

これまでの時間を埋めるように、2人の会話は途切れることなく続いた。やがて機体は減速し着陸態勢に入る。周りは山と地平線が見えるだだ広い場所に降り立つと、直ぐそばにはジェット機が待っていた。大地が剥き出しで

 よーし、着いたわね。じゃあこれに乗って戻るわよ♫

 戻るってどこへ?

 もちろん、東京よ!メライを迎えに行って、そして…。バルカ、今回の旅は広々とした機内で過ごせるからね!

 …。

彼女のペースで物事は物凄い速さで進んでいく。ロンドは久しぶりの妻のスピード感に圧倒されていた。でもこれがソナタだ。本当に長い道のりの末、やっと会えた喜びを噛み締めながら、ソナタの提案に従うことにする。3人とパイロットが機内に乗り込み、程なくして離陸した。中のテーブルには飲み物や食事がセットされている。

 食事をしながら、これまでのこと、そしてこれからのことを話しましょう。

再会してから先ほどまでの明朗な彼女とは異なり、俯き加減だ。話そうとしている内容は必ずしもポジティブなことだけではないことは想像に容易かった。

19.離別


幼女は食事をしながら何度も目を擦った。捜査の負担を背負うには彼女の肩はあまりにも小さい。出された料理をサッと口に運ぶとすぐに歯を磨いてベッドへ向かう。久しぶりに両親が口を揃え我が子に1日の終わりの挨拶投げかけた。

 バルカ、おやすみ。

 …。

2人きりになると、ソナタはロンドと離れ離れになってから今までの経緯を淀みなく語りはじめる。壮絶な旅の一部始終を聞きながら、全身の水分がすべて目から流れ落ちるかと思うほど涙が止まらなかった。間接的に彼女へ与えてしまった激しい苦痛をもう消すことはできない。自身の行いを心底悔い、打ち拉がれた。

 私たちの親友はね、口は悪いけど、ずっと貴方のことを信じているわ。今でも。メライと組んで私とロンドの再会を阻もうとしたのは彼らの優しさなの。

 僕のしてきたことは間違いだったのか。こんなに周りの大切な人たちを傷つけて…。

 貴方は"上"と自分を信じてここまできた。

 ははは…"自分を疑え"、か。君の座右の銘だ。

 自覚はないかも知れないけど、いま貴方は光と闇の狭間にいてとても危うい状態よ。いつ深い深い暗黒の闇に落ちてもおかしくない。それは、"上"のせいでもあるけど、自分に起きること、起きたことはすべて最後は自分で責任を取らなくてはならないわ。自分自身で乗り越えるしかないの。まだ涙を流せるいまなら、本当のロンドに戻ることはできるわ。

 しばらく…1人にしてくれ。

小声で呟くとスタスタとベッドルームへ向かって歩き出した。再会の喜びも束の間、2人の間には重苦しい空気が漂っている。彼女は1人外を眺めた。窓ガラスに映る自分の瞳から一筋の涙が流れているのが見える。気づかぬうちに泣いていたようだ。1人になり緊張の糸が切れたのかも知れない。過酷な逃亡生活中は一度も涙を流すことはなかったが、いまはなぜが涙が止まらない。そんな時、機内の通話装置が鳴ったので、受話器を取った。

 ソナタ…せっかく会えたのに本当にすまない。時間が欲しい。僕の心はこんなにも弱いなんて思ってもみなかった。

 ロンド、どういうこと?どこかに行ってしまうの?

その後すぐにゴォーという大きな音が機内に鳴り響いた。

 僕は…必ず帰る。

 お願い!いまの状態で1人になったら貴方はどうなるか分からないわ!!

 ソナタ、メライ、バルカ、ごめん。行ってくる。

彼女は急いで音のする方へ向かった。しかし、そこには人影はなく、あるのは開いたハッチから吹き荒れる強風だけだった。緊急用のパラシュートが1つなくなっている。なんとロンドは飛行中の機体から突然外に飛び出してしまったのだ。

20.僻見


将棋の戦術である棒銀の英語表記は"climbing silver"だ。社長が語った"成銀事件"を思い出せば自ずと答えは見えてくる。silverをgoldに置き換えると"金を登れ"---これに、この旅には欠かせない"星"を融合させる。すると、ラトビアで有名な3つの金の星を掲げる像が浮かび上がり、ロンドとバルカは再会の地へと向かったのだ。ソナタは、東京の暗号に準えることでユールマラで彼らにだけ分かるようメッセージを残し、何とか"上"の目を掻い潜り、再会を果たした。しかし、ロンドの行動はこの功績を台無しにしてしまったのだが…その行く末はこのあとの物語で。

それでは今回の事件について。ロンドがインフルエンサーの居住エリアを捜査した際、皆さんは違和感にお気づきだろうか?着る者から見て左側にボタンが付いている衣服には女性用が多い。理由は、貴族が侍女に服を着させていたことに由来しているという説もある。また、置かれていた靴も女性に多いサイズだ。そう、"彼"は男性であるという認識を持たれていたにも関わらず、居住エリアには男性用と思われる衣類や履物が見当たらなかったのだ。これらの事実から導き出される仮説は何か?それは、"インフルエンサーの性別は女"ということである。元々、ソナタとロンドは、社長がインフルエンサーの性別を特定するような呼び方をしなかったことも気になっていた。

さらには、衣服に付着していたのはSNSの画像から分かるように本人の髪型とは異なるが、"妹"と同じ短いブロンドの髪だった。なぜだろうか。これはソナタがDNA鑑定をして分かったことだが、髪はインフルエンサーのものではなく、"本当の妹"のものだった。ロンドたちが捜査に入ったときは、社長も秘書も知らない部屋に"本当の妹"は身を潜ませていたのである。

では、"今の妹"は誰か?皆さんなら、それはもうお分かりだろう。"今の妹"の応対が妙に落ち着き払っていたこともこれで説明がつく。

ソナタに見破られた姉妹は素直に認めた。姉は妹の精神が壊れていくのを見ていられなかったのだ。自分の身を危険に晒し、囮になってまでも妹を守ろうとした結果、さまざまな人間を巻き込み大きな事件となった。世界的インフルエンサーに纏わる衝撃の事実はすぐさま全世界に知れ渡り、現地警察はいよいよストーカー捜査に本腰を入れざるを得なくなった。これがユールマラの事件の顛末だ。

事件は解決したが、いくつかの謎は残った。"上"の正体、"星"のルール、ロンドの"闇"----これらは、このあと語られる旅を通して明らかとなる"エピソード"だ。

ロンドの旅Part1ロンドの旅 完

ロンドの旅Part2ソナタの旅 へ続く

Part2ソナタの旅 
Chap1 ルンビニの事件

1.悲願


朝起きるとすぐ異変に気付いた。自慢の黒髪ロングストレートがベリーショートになっている。縮毛矯正も期限切れでクシャクシャだ。だが、程なくしてそれは自身の決断だったことを思い出す。昨日、長年伸ばし続けた髪と訣別したのだ。それは決して後戻りをしないという、彼女の決意表明であった。一見穏やかにも感じ取れる日常は、少しずつ蝕まれていて、音を立てて崩れ落ちるのは時間の問題だ。いかなる分野においても絶対的に優れている自信はあるのだが、幸せを掴むセンスが欠如しているのか?まあ、それを感じる理由はまさに三者三様、十人十色、百人百葉なので一概には言えない。

こんな思いを巡らせながら、家族の元へと急ぐ。今日も自分が最後だ。いつものようにトイレと歯磨きを済ませたら、団欒の時間が待っている。夫と義理の娘たちは着替えるのだが、自分は寝巻きのまま朝食を摂る。生まれ育った環境で馴染んだ習慣は中々変わらない。そもそもどちらが良いとか悪いとか、誰にも分からないことだ。ドアを開けたとき目に入った光景は想像と寸分違わない。みな定位置に腰をかけ、各々の時間を過ごしている。

いつもと少し違うこともあった。今日からしばらくこの暮らしから離れるということだ。とはいえ、そんなに大袈裟なことではない。捜査のため長期出張に出るだけのこと。早く解決すれば、その分早く帰ることもできる。今回は久しぶりに娘たちを連れて行かず一人きりの旅。それにしても、実子ではないものの、本当に誇れる子供たちだ。自身も神の子などと持て囃されたが、その自分と同等、いやそれ以上の素質を持ち合わせている。これも"上"による特別な教育の賜物なのだろうか。なにしろ、家族に会えないことは純粋に寂しい。だから、本当の夫と、愛する息子を取り戻し、あの頃のように笑顔が絶えない5人の生活を再び手に入れる。そう決めたのだ。

2.諂諛


 おお、ソナタ。おはよう。

 おはよう。

娘たちはいつもどおり特に反応がない。黙々と食事を続けている。どこかで聞いたことがある言い回しだが、夫は七分袖のジャケットにTシャツとハーフパンツ、娘たちはシンプルなワンピース、3人は全身をまっさらな白色で揃えている。さらに、肩まであるストレートの金髪と金色の瞳も共通だ。これもいつもどおりの光景なのだが、我が家族ながら非常に美しい。

 その髪型もキュートだね。

朝から爽やかすぎる笑顔を惜しみなく撒き散らす。娘たちの塩対応とは真逆である。塩対応の対義語は神対応なのか。それはよく分からないし、夫から妻への神対応という表現も、使い方があってるのかは不明である。正しい言葉遣いの話はさておき、夫婦間の愛情は問題なさそうだ。ただし、親子間の愛情は、これからもっと育んでいく必要がある。子連れ再婚の家庭はどこも悩むのかも知れない。できる限りコミュニケーションを取ることを心がけてはいるし、愛も誠意も思いやりも心配りも目一杯注いでるはずなのだが…。ぼんやりと毎日似たような思考を巡らせながら日課のバナナと小松菜のスムージーを作り、同じテーブルを囲みながらゆっくりと飲み干す。まだ会話が覚束ないバルカはさておき、メライとは最低でも朝一言は交わすことを決めている。

 今日からしばらく私は仕事でネパールに行ってくるわ。メライはこないだネパール語をマスターしたみたいだから、困ったら電話してもいいかしら。

ムスっとした表情がさらに強張る。口の中に入っていたパンをしっかり咀嚼して飲み込むと、目を合わせず、だが力強く声を発した。

 嫌味?貴女は何十ヶ国語も話せるくせに。

このままでは、いつもどおり朝の団欒の空気が淀んでしまう。かねてより状況の改善方法を考えていたので、透かさず割って入った。

 ははは。メライだってソナタに追いつく勢いでどんどんいろんな言葉を習得してるじゃないか。このままのペースなら、ソナタも僕もすぐに追い越されるよ。

 そうね!さすがメライ。しかも言葉だけじゃなくて、理系も得意なのね。だって、世界最年少で数学オリンピック代表に選ばれたんだから♫

 …ふん。

おそらく人類史上トップクラスの天才なのだが、このなんとも言えないはにかんだ顔は子供らしさがあっていじらしい。それにしても、両親が幼い我が子をここまでヨイショする光景はなかなか見られない。だか、長女の機嫌が家全体の空気そのものなのだから、少しでもみんなが仲良く過ごしやすい環境を作りたい。そんな一心なのだろう。ただでさえ、仕事柄ずっと緊迫した状況下置かれているので、せめて我が家には安寧を求めたいはずだ。

3.試練


 さて、そろそろ出発の準備を始めようかしら。

 今回は難解な事件みたいだね。

 ええ。移動時間も長いし、メライたちを連れて行けないけど、よろしくね。

 うん。こっちのことは気にせず、捜査に集中して大丈夫だよ。

 ありがとう。

夫の変化は一見わからない。子供の時から心優しく勇敢で頭脳明晰なのは、ほとんど変わらないのだが…。最初は"上"に洗脳されていると思っていた。独自に"上"のことを調べていけばいくほど、とんでもない事実が発覚する。一個人が挑むにはあまりにも高く分厚い壁。当然、最も頼りになる夫へ真っ先に相談したのだが、これまで見たことのない顔をしたまるで別人の男に豹変してしまった。しかし、その話題が終わればいつもの最愛の夫にすぐに戻る。だから、"上"のことを否定する者に反応するよう催眠がかけられているのかと推測したのだが、そうでもないようだ。洗脳でも催眠でもなく、ロンドは"上"を信じて疑わず、このままでは、いつ家族や周りの大切な人たちを傷つけることになるか分からない。この長期出張が終わったら、しばらく会社を休業にして夫と家族とだけ向き合う時間を作り、この最優先の問題を解決させると心に決めていた。

 慣れない土地だし気をつけて行ってきてほしい。あ、そういえば、資料にはまだ目を通せてないんだけど、どんな事件なんだい?

口角と目尻がくっついていると錯覚するくらい潔い笑顔だ。ほとんどの歯が見せ、眼球が一切見えないほどの垂れ目はいつも妻の心を和ませる。朝食後のコーヒーを楽しみながら、事件の話をすることは少なくない。妻が社長、夫が副社長を務める事件コンサルティング企業"エピソード"はオフィスを持たない。持つ必要がないのだ。全世界のクライアントとは直接出向くこともあればオンラインで面談もできる。それに、社員の"ほとんど"は家族で構成されていて、このように日々コミュニケーションを取ることは容易い。"上"からの100%出資で設立してから数年間、会計上どう処理するのかは不明だが、経費もすべて負担してくれている。さらには衣食住も保障されていて、社員は事件解決だけに集中できるのだ。ただ、エピソードと同じような子会社がいくつあるのか、"上"とは一体どのような組織なのか、ほとんどが闇に包まれている。

 そうね…もしかしたら、今回はみんなに助けを求めることがあるかも知れない。

 君がそんなことを言うなんて珍しいね。

 ええ…。

こうしてソナタの口から事件の概要が語られた。

4.怪訝


妻は牛乳を買いに夜道を急いだ。風呂上がりに牛乳を飲むのがルーティンで、これがないと何をしでかすか分からない夫のためだ。これまで切らせたことはないのだが、最近かなり疲れが溜まっているせいだろう。朝から晩まで働き、クタクタになって帰宅すると膨大な家事が出迎える。この繰り返しだ。元俳優の夫は夢を諦めたあと、定職に就かず燻っている。就かないのか就けないのかも、もはやよく分からない。とにかくこの時間、周辺で唯一空いてる店で牛乳を買って急いで戻り、早く眠りにつきたい。こんなことを考えながら、見慣れた風景の中、乗り慣れた車を走らせていた。

しかし、いつもと違うことが起きた。木の影から人が飛び出してきたのだ。ほんの少し距離がありブレーキを踏むことはできたが、間に合わなかった。人は吹き飛び、ぶつかった衝撃で車の前方は破損した。急いでいたので気づかぬうちにかなりスピードが出ていたらしい。すぐに車を止め、路上に投げ出された被害者の元へ駆け寄ると共に、救急車と警察を呼んだ。妻の行動は冷静沈着そのものであり、正しかったのだが、被害者は救護の甲斐なく息を引き取った。警察は本件を事故として処理しようとしたが、強く不服を申し立てる者がいた。

被害者は世界的な舞台演出家であった。彼が有する劇団もまた、グローバルで知名度が高い。その劇団員の一人が今回のクライアントだ。事件の顛末には腑に落ちない点が多く、警察に何度も再捜査を要請するも取り入ってもらえなかったと言う。

5.仲間


 ロンド、メライ、バルカ、行ってくるわね。

 うん、気をつけて。お土産期待してるよ♪

 はーい!

他愛もない夫婦の会話、家族の団欒。これから待ち受ける過酷で長い長い旅のことなど、ここにいる4人には知る由もない。事件の概要を話し終えるといつもどおりサッと支度を済ませ出発した。娘たちは相変わらずの塩対応だが、新しい母親をすぐに受け入れられないことなど、理解に容易い。彼女たちとは、じっくり時間をかけて向き合うことにしている。今日は珍しい。"台風も逃げる最強の晴れ女"と、家族や友人たちの間では有名なのだが、出かけて程なくして土砂降りの雨となった。"上"が所有する飛行場までは車で移動するので特に問題はないのだが…。いつもと違うことが起きるのは、人によって多寡はあれど、気になるものである。最近頭の中では、事件のことよりも家族のことが大半を占めている。まずは家族のことを解決しなければ、仕事にも支障が出ると考えたのも、休業を決意した理由の一つだ。大粒の雨が車に当たる音と日常のモヤモヤが重なり、何とも居心地が悪い。こんな時は、何とかして事件のことだけを考えられるよう、意識を集中することにしている。少し前までは、捜査だけに熱中することが自然とできた。しかし、ここ最近は…。ずっと同じようなことがループして頭の中を駆け巡る。これを断ち切るため、バッグからタブレットを取り出した。無心で資料を読み返す。どうやら彼女はどんな迷宮入りの事件よりも、家族の問題を解決することの方が何倍も難しいと、痛感しているようだ。

 ソナタさん、到着です。

 ええ。

そう言いながらドライバーは車を降り、後部座席のドアを開け、トランクの荷物を取り出した。ソナタはタブレットを仕舞い、車を降りる。そこには見慣れた顔があった。

 やあ、ソナタ。

 あら、久しぶりね!なぜここに?

 たまたま仕事でね。君が来ると聞いたから顔を見ようと思って。

夫婦共通の旧友は、周りを見ながら監視カメラに映らない角度を改めて確認した。後で読めと小声で呟き、徐に小さなメモ用紙を手渡した。実は彼もまたロンドの異変に気づいており、唯一のソナタの協力者である。"上"にこちらの動きを悟られないよう、電話や電子メールのやり取りは避け、直接の会話や紙のメモを使うことにしている。今回も偶然を装っているが、彼の捜査状況を共有することになっていたので、事前に示し合わせていたのだ。目的を果たしたので必要以上の接触をしないよう、お互いすぐにその場を後にした。

6.本物


そのあとすぐにジェット機へ乗り込んだ。いつもなら即座にタブレットで事件資料を見ながら仕事に没頭するのだが、今回は旧友の調査結果を最優先で確認する。機内に監視カメラがないことは分かっているのだが、念には念を入れトイレでメモを開く。脳に刻み込むと細かく千切って水で流す…かと思いきや口に放り込んだ。"上"のことを見くびってはならない。"本物"だけが所属することができる組織。学歴、知識、経験、能力、国家資格、頭脳指数など、"上"の前ではなんら意味をもたない。"本物"かどうか。その一点のみであり世界共通の真理である。…と、"上"が定義付けているのだ。そしてソナタ自身も"上"が認める"本物"なのである。

それにしても、今回の調査結果はこれまでにも増してセンセーショナルだった。内容は、夫の元妻、つまり義理の娘たちの実母の素性と死因について。ソナタはここにロンドの"闇"の根源があると考えており、右上隅に"a"と書かれた細長い付箋に視認できるギリギリの文字で端的に報告が記されていて、今しがたそのほんどが明らかになった。もし事実であればすぐさま帰国し、夫と膝を突き合わせて話さなければならい。なぜなら、元妻を殺したのはロンドであり、すべてを"上"に処理させ自分は悲劇の寡夫かつ父親を演じ、世界中を騙し幼馴染を騙し、再婚したとあるのだ。だが、あまりにもスペースが小さいためか、その証拠や動機、殺害方法などは示されていない。信頼する旧友の調査結果を疑うわけではないが、最後まで夫を信じたい。これはこれとして受け止め、本人からもきちんと話を聞いてから判断をしよう。

…さて、ひとまず家族のことはここまでにして、仕事に取り掛かることにする。

7.俯瞰


事件のおさらいと解決の糸口を考察する。被害者は世界的な舞台演出家であり、知名度は圧倒的に高い。彼が主催する劇団のメンバーの1人は、事件の顛末には腑に落ちない点が多く、警察に何度も再捜査を要請するも取り入ってもらえなかったと言う。演出家がルンビニを訪れたのは、演劇をもっと世界中に広めるという野望ゆえであった。日常の舞台演出の仕事と並行し、芝居がもたらす人への影響の可能性を常に模索していた。至るところに劇場を作り、演劇鑑賞の文化を浸透させたい一心でとにかく行動を起こしていたのだ。

メンバーによれば、車を運転していた女の夫は演出家が以前主宰していた劇団の元メンバーだった。その妻がルンビニの地でたまたま彼を車ではねるという偶然が起きるわけがない。これが1つ目の主張。そしてもう1つは、何のために宿泊しているホテルから離れた田舎道を歩いていたのか。その理由がまったく分からないということである。つまり、元メンバーが限りなく怪しいということなのだが、何一つ主張を裏付ける証拠がなく、事故として処理された。

不審な点があるのはたしかだが、情報が足りないというのがソナタの見解だ。"上"からは、近頃連続している世界的な著名人の殺人事件という観点も含め調査せよという指示が出ている。家族の問題はこれが終わったあとに考えると決めた。これからの時間は、事件解決だけに集中しよう。

8.複眼


ジェット機が到着すると、すぐに事件現場へ向かった。そこでクライアントと合流する手筈になっている。初めて訪れた国だが迷うことはない。"上"の手配した車に乗り込むだけだ。事件の資料から移動手段に至るまで、捜査に必要なものはすべて用意されている。社員は事件を解決することだけに集中できる環境が整っているのだ。

道中は牛車や馬車とすれ違った。周りには広大な野原が広がっている。外灯がないため、夜道の運転はヘッドライトだけが頼りになりそうだ。当時の状況をできるだけ明確に想像し、目に見えている実際の景色と照らし合わせながら矛盾点を見出す。それがソナタのやり方である。

 こちらでございます。

ドライバーがそう呟き、車を止めた。ソナタはすぐに降りて辺りを調査し始める。クライアントが言うとおり、夜中にこんな何もないところで何をしていたのか?どのように行き着き何のためにここにいたのか?その理由が分からない限り、解決の糸口を掴むのは難しそうだ。現場には献花代が置かれ、たくさんの花が手向けられていた。世界的な演出家である彼を弔うため、世界各国からこの地を訪れる人が後を絶たないという。つまり、この事件の注目度は高い。ましてや、一度事故として処理されたものが覆るとなれば、メディアの格好の餌食となり、さまざまな憶測や誇張、フェイク報道が飛び交うことは容易に予測できる。もちろん事件の解決が最優先なのだが、それだけではなく、社会的な影響度合いも含め、よく考えて行動することが事件関係者には求められることになる。

9.檀那


周辺の調査を進めている最中、1台の車が近づいてきた。目の前に止まりドライバーが後部座席のドアを開けると、紺色のスーツを着た初老の男性の姿が現れ、ソナタの元へ歩み寄る。キレイなシルバーの髪はきっちり7:3に分けられ、同じくシルバーの口髭がよく似合う人物だ。背筋がピンとして堂々としている様からは、まさに"紳士"という印象を受ける。簡単に挨拶を済ますと早速事件の話を始めた。

 この事件、ソナタさんの見解は?

 …まだなんとも言えませんが、おっしゃるとおり偶然にしてはでき過ぎていますね。

 ええ。必ず真犯人を見つけて、先生の無念を晴らしてください。

 捜査に全力を尽くします。ここの調査は終わりました。次の目的地へ向かいましょう。

お互いの車に乗り込んだ。現場には特に不審な点は見当たらない。発生から時間が経っているし、警察では事故として処理されているため、血痕や破片なども片付けられていた。まだまだ情報が足りない。次はクライアントが疑っている張本人である、事故を起こした妻の夫と直接会う手筈だ。本来、本人と直接対面することは難しいのだが、"上"のネットワークが働けば、いまのところ不可能はない。程なくして、本人の自宅前に到着する。"家"というよりは"屋敷"という表現が相応しい。2台の車が入口の前で停まると、屋敷の扉が開き使用人の老人が姿を見せた。

10.栄光


老人は2人を案内した。壁や床などの内装には濃い茶色の木材が使われていて、時計やカーテン、生けられた花や花瓶など、どれをとっても主人のこだわりが感じられる。応接室まではいくつかの部屋を通り過ぎ、何人もの使用人とすれ違った。

 こちらでございます。

老人は扉を開け2人を中に誘導すると、座って待つよう促し会釈をして立ち去ろうとしたが、ソナタが呼び止める。

 すみません!お聞きしたいことがあります。

 はい。なんなりと。

 使用人の方がたくさんおられるようですが、事故の夜、奥さまはなぜ自ら買い物に出られたのでしょう?

 はい。旦那様はご自身が口にするものは、食材の調達から調理までをすべて奥さまに対応させたいというこだわりがあるのです。何でも、2人で助け合って生活していた若い頃の貧乏時代の気持ちを忘れないためとか。ですので、その日も使用人ではなく奥さまがお出かけになられたのです。

 なるほど…。あともう一点だけ教えてください。ご主人は毎晩牛乳を?

 ええ。夜はそのままお飲みになりますが、朝はシリアルにかけて召し上がります。これも何年続けている旦那様の日課です。

 そうでしたか。よく分かりました!ありがとうございました。

老人は話が終わると部屋を後にした。室内の真ん中には立派なレザーのソファとガラスのテーブル。壁際にはいくつもの表彰楯などが入った戸棚が置かれている。主人が俳優時代に受賞したものだろうか。ほかには、被害者である演出家のものと思われるサインが書かれた台本が何冊かあった。

 ふん…こんなものを飾ってるとはな。

クライアントの男性は、明らかに不満そうに呟いた。その表情からは、怒りと共に焦燥感のようなものが感じ取れる気がしたが、気のせいなのだろうか。室内を観察していると、扉をノックする音が聞こえてくる。老人がコーヒーを3つ持ち中に入ってテーブルへ並べながら、間もなく主人がやってくると告げた。ソファに戻り少しすると再び扉をノックする音が聞こえたので、入室を促すとともに2人は立ち上がる。いよいよ主人のお出ましだ。

11.同僚


ノックの後、ドアが開くと男性が部屋に入ってきた。

 こんにちは。この家の主人です。遠くからよくぞお越しで。

 こんにちは。エピソードのソナタです。よろしくお願いします!

笑顔で名刺を差し出すと、主人は表情を変えず無言で受け取った。

 先輩、お久しぶりですね。お元気そうでなによりです。

 ふん。お前も相変わらずだな。

 さあ、お二人ともどうぞお掛けになってください。

主人は、白髪混じりの黒髪で目鼻の彫りが深い。少し屈まなければ部屋を出入りできないほどの高身長の持ち主だ。クライアントもそうだが、やはり俳優出身というだけあり、端正な顔立ちである。

 この度はお時間をいただきありがとうございます。

 …普通は断るんですがね。御社からのオファーであればそうもいかないでしょう。

 それは身に余る光栄なお言葉です!

ソナタはロンドのようにわざわざ自分が子会社の人間だという説明はしない。相手にとっては取るにたらないことと判断しているからだ。反面、ロンドは細かいことでもきっちりと説明し、どこまでも正確さにこだわる。ソナタが大雑把なわけではないのだが、ここから彼らのキャラクターの違いが垣間見える。

 それでは早速ですが、事故が起きた日のことについて教えてください。

事件当日のことで資料との矛盾がないか本人によく確認したが特に不審な点はなかったので、その前後について話を聞くことにした。

 被害者とは以前同じ劇団でお仕事をされていたようですが、最後に連絡を取られたのはいつですか?

 んー…あ、そうだ。そこの戸棚に彼のサインが入った台本がいくつかあるでしょう。まだ未発表の作品のものもあってね。それが送られてきたときにお礼の電話をしたよ。

 それはいつごろですか?

 ちょうど、彼がこっちでしばらく活動することが決まったころ…。2,3ヶ月前かなぁ。その台本の作品について意見を求められたんで、こっちに来たら直接会おうって話してたんだけど、まさかこんなことになるとはね。

12.不審


 そうでしたか。それはお辛いですね…。もし可能ならその台本のコピーをとらせていただきたいのですが。

 …御社の上の方から、できるだけ協力するよう言われているからね。仕方ない。

 ありがとうございます。車で待たせている者に作業させますので、こちらへ呼んでも差し支えないでしょうか。

 ああ。どうぞ。

台本をタブレットでスキャンしている間、事件にまつわることを雑談や世間話をしながら一通り確認したが、特に気になる情報はなかった。

 本日はありがとうございました。最後に…私も朝食のシリアルが大好きなんです。毎朝欠かさずに食べられているんですね。

 ははは。うちの執事から聞いたんだね。うん、ここ何年も欠かしたことはないよ。出先にも持っていくくらいさ。

 ルーティンは心を落ち着かせますもんね。じゃあ事故の翌日も?

 さっき言ったかも知れないが、その日は一晩中妻と警察にいてね。まだ薄暗い早朝に着替えとかを取りに私だけ一旦帰宅して、腹が減ってたからすぐに食べたよ。

 いいですね。私も帰ったら食べようと思います!

ここまで話を聞いた所感としては、おかしな点が多いということ。まず、自分の妻が昔の同僚を車で轢いた事故がつい最近起きて、その内容について問われているにも関わらず、受け答えはまるで他人事のようだ。本人としては、あくまでも事故として完結しており、割り切っているのだろうか。次に、その渦中の台本については、"上"から送られた資料に記載はなかった。これまで重要な事実は漏れなく情報共有されていたのだが明らかに違和感がある。そして何より…。

13.脅威


ソナタとクライアントは夫の自宅を後にして、あらかじめ落ち合うこととなっていたカフェへそれぞれの車で向かった。これまでの捜査でソナタの中では"ある仮説"ができていて、車中ではその検証をするためタブレットを取り出し、撮影した"台本"を読み始める。中盤まで読み進めていくと、やはり彼女が予想していたシーンが見つかった。ここからは、証拠を提示して事故ではなく事件であることを証明しなくてはならない。"上"にはこれまでの捜査報告をすると共に、新たな協力を要請することにした。と、ここまでは順調に進んでいるように見えるのだが、ソナタの中には常に"違和感"があった。その正体を彼女も正確には掴めていないのだが、"極めて重大"であることを、直感的に気付いている。そして、この車が目的地に到着するまでには明確にし、対策を講じなければならないことも。まずは落ち着いてここまでの経緯を振り返り、"違和感"を解明していく-分かっている事実、今回の調査結果や関係者の発言…ソナタはこれらをパズルのように繋ぎ合わせ、真相に迫る。この推察がすべて的中しているのなら…ソナタをもってしても鳥肌が止まらないほど相手は巨大で、悪の根はとんでもなく深い。そして何より、愛する息子を一刻も早く救出しなくてはならないことを改めて心に誓った。

14.演出


2人は席についてすぐにホットコーヒーを注文した。クライアントの堂々とした態度や表情に変わりはなく、ソナタの推理にどこまで気付いているのかは推量れない。

 お疲れ様でした!これまでの調査結果と、私の見解をお話しますね。

 ええ。お聞かせ願いましょう。

 まず私が気になったのは牛乳です。

 牛乳?奥さんが買いに行ったという?

 はい。だって、旦那さんは翌朝牛乳をかけてシリアルを食べたって言ってたじゃないですか。なら、牛乳はあったってことですよね?使用人の方には買いに行かせないと言っていましたし、夜中に空いてる店はあの辺りにはないでしょうから、元から自宅にあったと考えるのが自然です。

 ほう。牛乳があったのに奥さんに買いに行かせた、と。その理由は?

 もちろん、事故に見せかけ奥さんの運転する車で被害者を殺害するためです。

 やはり私の考えは合っていたということですね。しかしどうやって?タイミングよく彼を奥さんの運転する車の前に立たせるなんて、できないでしょう。

 それが、これを使えばできてしまうんです!

ソナタはタブレットを取り出し台本の1ページをクライアントに見せた。そこには、今回の事故の経緯と類似したシーンが書かれている。閉店前にどうしても買わなければならないものがあり急いで車を走らせ事故を起こしてしまうという場面だ。注文したコーヒーが来たので2人は口をつけ一息つき、会話を続けた。

 たしかに今回の状況とよく似ているが、それが何か?

 被害者である演出家は、旦那さんからお礼の電話をした際、後日会う時にこの作品の意見がほしいと言っていたと聞きました。そこで、私はこの電話の会話内容に答えがあるではないかと思ったんです。

 うーん…まだ見えないが、2人の会話の内容なんてどうやって知るのでしょう?電話会社が提供してくれるものなんですか?

 はい。親会社からさっき通話データを受け取りました。いまここで聞きましょう。

15.油断


ソナタが被害者と主人の電話の録音データを再生すると、こんなやり取りが確認できた。

 あ、もしもし。先輩、いま電話大丈夫ですか?

 おう。台本は届いたか?

 ええ。ありがとうございます。よく読んでからまた連絡しますね。

 ああ、頼む。あと例の事故のシーンはよろしくな。

 はい、もちろん。準備万端です。本当に轢き殺さないように気をつけますね〜笑

 …思いっきりやってくれ。この作品の重要なシーンだ。生きるか死ぬか。こんなことはお前にしか頼めん。

 わかりました。○日○時、○○通りですね。ちゃんとブレーキを踏むから安心してください。

 ああ…じゃあよろしくな。

 ええ…。

クライアントは手を震わせながら耳を傾けた。再生が終わっても目を瞑り無言のままだ。さすがのソナタもクライアントの気持ちに寄り添い声をかけるのを躊躇うのかと思いきや、意外な言葉を投げかけた。

 あなたも…知っていたんですよね?

クライアントの表情はピクリとも動かない。ソナタの言葉に応じることもなく、黙り続けている。ソナタは畳み掛けるようにすぐに次の話を始めた。

 あなたは、主人の自宅で戸棚にある台本を見かけた時、こう言いました。"こんなものを飾っているとはな"と。つまり台本の存在を知り、この作品には今回の事故と類似したシーンがあることに気付いていながら、警察に話さなかったことになります。

ソナタはもう一度コーヒーに口をつけた時、自身の異変を感じた。抗えないほどの強烈なな眠気に襲われたのだ。意識を失う直前、クライアントが僅かにほくそ笑んでいるように見えたが、そのままテーブルに突っ伏してしまった。クライアントが無言のままその場を立ち去ると、入れ替わりに1人の黒いスーツの男がやってきてソナタを肩に乗せて運び出し、外に停めていた車に放り込んだ。

16.憎悪


主人と同じ劇団で出会った元女優の妻は、結婚後も演出家と逢瀬を繰り返していて、いわゆる不倫関係にあった。これに気付いた主人は怒りや悲しみや様々な感情が込み上げ、やがて怨恨へと変わり、妻を利用して演出家を殺害することにした。どうにかして自身は疑われることなく2人だけを陥れる方法を日々考えていたのだ。そんな最中、ソナタのクライアントから演出家が主催する劇団の新作発表を知らされる。主人は演出家へ脚本へのアドバイスと称して事前に"台本"を手に入れることができた。自身の作品に対する演出家の強い情熱をよく知っていた主人は、作中のシーンを利用すれば指示どおりに演出家を動かすことができると確信し、交通事故に見せかけた殺人計画を実行する。ソナタの指摘にもあったが牛乳は妻を買い物に行かせる口実で、主人が家の中に隠していた。

だが、これはコトの真相のほんの一部でしかない。同じく元劇団員のソナタのクライアントは、愛を誓い合った女性を主人と演出家に奪われた。そのときから自身を裏切った3人に復讐することだけを考えて生きてきたのである。つまりクライアントは、主人に気付かれぬよう彼を嗾け、今回の事件を起こした張本人なのだ。自身に疑いがかからぬよう緻密に計画を立てたのだが、予想外の出来事が起きた。主人が堂々と"台本"を戸棚に飾っていたこと。クライアントは焦った。元々、主人だけが犯人として捕まる証拠を準備しており、良いタイミングでそれとなく提示しようとしていたのだが、ソナタに"台本"の存在を知られてしまったため、主人だけでなく自身の関与にすぐに気付かれてしまう。

こんな経緯でクライアントはコーヒーに薬を盛ったのだが…。しかし、ソナタが感じている"違和感"はこれだけではない。それはこれからの旅で明らかになることだろう。

ロンドの旅Part2ソナタの旅 Chap2へ続く

Part2ソナタの旅 
Chap2 アントワープの事件

1.逆境


どのくらい眠っていたのだろう。頭がぼんやりしてまだ状況が理解できていない。右手に何か握っていることと、ベタベタしたものが付着していることに気付く。気怠さが激しく、このままもっと微睡んでいたいのだが、自身に降り掛かっている異変を看過するわけにはいかないようだ。床に横たわっていた体をゆっくりと起こし辺りを見渡すと、おそらく人間がソファの上で胸から大量の血と見られるものを流してぐったりしているのが目に入る。そして、自身が手に持っているおよそ凶器と見られる物体は刃渡り30cmほどの牛刀で、夥しい量の血が付着している。

何が起きているのかすぐには飲み込めなかったが、やがて彼女の中に1つの仮説が立てられた。ルンビニの事件での"違和感"は当たっていて、彼らの核心をついたのだ。だから自身を犯罪者に仕立て上げることで口を塞ごうとしているのだろう。しかし、殺さずにこんな回りくどいやり方をする理由はまだ分からない。とにかく生きている限り、愛する息子を何としてでも救出しなければならないし、ソナタ自身がこの世に生み出した職業"事件コンサルタント"を生業として生きることを決めた以上、これを全うせずに死ぬことはあり得ない。そして、いまや家族はロンド、メライ、バルカ…息子だけではなく、すべてを捧げるべきかけがいのない存在が増えた。

ソナタの気概は灼熱の太陽よりも迸り、ソナタの意志はダイヤモンドよりも硬く、ソナタの博愛は人間の真理を体現する。壊滅的な状況からすべてを取り戻す物語がいまここから始まるのだ。

2.記憶


いつ誰がここに来てもおかしくはない。拘束されてしまえば家族の救出は疎か、二度と自由に行動することすらできなくなる可能性もある。だが事件コンサルタントとして、殺人事件の被害者を無視し、自身の利益だけを優先して行動することは彼女の信念に反することだ。事件の解決につながりそうな情報を何とか短時間で見つけ出しこの場を速やかに去りたい。やるべきことはほんの数秒間で明確になり、直後に周辺の調査を開始した。

まずはスイッチを探して電気をつけると、白人で髪は明るい茶色、鼻が高く身長は185cm前後、ライトグレーのスーツを身に纏う初老の男性と見られる人物が息絶えていた。ソナタが手に持つ、凶器と思われる刃物は刃渡り30cmほどの牛刀で、被害者の傷口と刃の形状は一致していそうだ。血飛沫はあたりに散らばっており犯人は相当な返り血を浴びていると推測される。ここは50㎡ほどの長方形の部屋で、鏡と化粧台が設置されていること、弦楽器や楽譜が確認できたことから、音楽家などの演者が本番前の控え室として使用する楽屋と考えられる。

5分ほど調査をしているとハイヒールと思われる足音が聞こえてきた。どうやらそろそろ時間切れのようだ。凶器の特長や現場の状況は記憶したため、可能な限りでソナタ自身の痕跡を消し、あとは犯人の特定につながりそうな遺留品の"内容"をそのまま持ち出すこととする。室内にあるバッグには、スマホや手帳、財布、鍵、ハンカチなどが入っていたがスマホは顔認証のためロック解除はできない。財布に入っている身分証からこのバッグはおそらく被害者の私物であり、氏名や住所などの個人情報を入手できた。さらには、謎のメモ書きがありそこにはこう書かれていた。

"pfpp fff ppff fppf fppf"

そして、手帳をパラパラと捲り記載されている"内容"を見たまま脳に記録していく。これは"上"の人材開発の一環により後天的に得られたソナタの能力である。

3.草臥


やれることをすべて終えソナタは部屋を後にし、監視カメラの位置や周囲の足音、声などを気にしながら見つからないようこの建物からの脱出を図る。幸いなことに早朝なのか深夜なのか、人の出入りは多くないが、自分を殺人現場に放置した人物に常に監視されている可能性は拭いきれない。自身の衣服にGPSの類が付けられてないことは確認済みであるが最新の注意を払い行動するべきであろう。

ソナタの中で今後やることは明確であった。この事件の真犯人を探すと同時に、ルンビニの事件を含めた黒幕の存在を明らかにすることだ。それにしてもまずは栄養補給をすることが最優先事項である。何日間眠らされていたのかは分からないが、常に目眩がするほどフラフラでいますぐにでも倒れそうだ。途中トイレで手に付着した血液を洗い流すと共に水分だけは口にすることができたが、どこも消灯されて真っ暗で巨大な施設を、人目を憚りながら彷徨い続けるのはたとえソナタであっても骨が折れる。

満身創痍の状態で何とか出口と見られる扉にたどり着き外に出た。辺りはネオンの光で明るく照らされている。時間は分からないが人通りは少なくなく、ヨーロッパでよく見られる建築物の飲食店が軒を連ねていて、看板にはオランダ語が目立つ。どこでもいいので今すぐにでも店に入って食事を注文したいのだが金銭を一切持ち合わせていない。コトの経緯を説明することができない以上、警察や病院へ行くこともできないので飲食を諦め、捜査で得られた被害者の自宅と思われる住所に向かうこととした。語学堪能なソナタは道ゆく人に現在地と目的地へのルートを確認する。どうやらここはベルギーのアントワープのようだ。

4.邂逅


ソナタの服装はルンビニから変わらず、青色のトレンチコートにヒールのない黒色のロングブーツ、インナーのセーターは白色でパンツは黒色を身につけていた。この時期のアントワープの気温からするとやや薄着だし、歩きづらい格好ではないが徒歩で目指すには被害者の自宅と思われる場所は途方もない距離である。しかも、さっきまでの歩きやすい舗装された道とは異なり、真っ暗な畦道をひたすら進まなければならない。そして、数日間食事をしていないことによる栄養不足がソナタを肉体的にも精神的にも追い詰めていった。電話を借りてロンドへ助けを求めようとも考えたが、彼らにも危険が及ぶ可能性があることと、旧友からの報告のこともあり軽率な行動は控えることにした。そんな時、後ろからやってきた1台の車がソナタの横で停まり運転席から人が降りてきた。

 あなた、こんなところを1人で歩いて大変でしょう。

ブロンドでグリーンアイを持つ鼻の高い白人女性がソナタに話しかけた。身長170㎝ほどのスレンダーで美しい外見で、スキニージーンズがよく似合っている。

 私は…

すべてを打ち明けて助けを求めたい気持ちでいっぱいであったが、また罠かも知れない。適当にあしらい、目的地を目指して歩き続けるしかないのだ。しかしそんな気持ちとは裏腹に、急に目の前が真っ暗になりソナタはその場に倒れ込んでしまった。女性はソナタを抱き抱え車に乗せて運転席に戻りその場から離れ、自宅に着くとソナタを後ろから脇の下に腕を通して引き摺りながらソファまで移動させた。

ソナタはキッチンから聞こえてくる音で目を覚ました。コートは着ておらず毛布がかけられていて、目の前には飲み物とパンとサラダ、スープがフードカバーの中に収まっているのが見える。重い体を何とか起こすとカラッカラの身体が水分を欲しているのに気付く。そうしてボーッとしていると1人の女性の声が聞こえてきた。

 あら、ごめんなさい。起こしちゃったかしら。これはさっき作ったばかりだから良かったら召し上がって。…それにしてもあなた、死にそうな顔してるわよ。

 …あなたは?

何とか声を振り絞った。

 ああ。私はこの家の者よ。うちは代々みな音楽家をやっているわ。それよりも早く何か口にして温かいお風呂に入ったら?沸かしておいたから。

 音楽家?もしかしてここの住所は…

 ええ、そうだけどなんで知っているの?

5.寛大


 アントワープのある施設内でこの家に住んでいると見られる男性が亡くなっていたんです。私はその犯人を探しています。

 この家に住む男性は父しかいないわ。…警察に連絡しないってことは、あなたワケアリって感じね。ちょっと待って、いま父の写真を持ってくるから。

女性がその場を立ち去るとソナタは何とか起こしていた体をソファに横たえ目を瞑った。自身の著しい衰弱を感じ少しでも休息を取る。やがて女性が一冊のアルバムを手にして戻り、それを開いて男性を指差しソナタに確認を促した。

 ----正直にお伝えします。亡くなっていた男性はこの方に背格好や顔立ちがよく似ています。

 そう、それが事実なら父はもう…。----分かったわ、これから父や周囲の人に連絡を取ってみる。それと…まだ警察には連絡しないから安心して。ゆっくり食事してお風呂に入るといいわ。

 なぜそんなに良くしてくださるんですか?何も聞かず、私のことを疑いもせずに…。

 "どんな時、どんな人でも助けなさい"…父の言葉よ。じゃあ、ごゆっくり。私ので良ければ着替えは洗面所に置いたから。洗濯物はカゴに入れておいて。

 ありがとうございます。素敵な…お父さんですね。1つ教えください。彼は楽屋のような場所にいて、その部屋には楽器や楽譜がありましたら。職業は音楽家でしょうか?

 ええ。私が言うのもなんだけど、ハンガリー人の父は世界有数のチェリストよ。亡くなった母の祖国のベルギーに移住したけど、いつもどこかを飛び回っていて、遊んでもらった記憶があんまりないわ。そんな私もいつのまにか音楽家の道に進むようになっちゃったんだけどね。

 そうでしたか。世界的な著名人…ってことですね。

会話を終えると女性はその場を去っていった。ソナタはフードカバーを外し、スプーンを持ってスープを掬って口に運んだ。数日ぶりの食事は身体中を駆け巡り、全身に染み渡る。生き返った。テーブルの上のものをすぐにすべて平らげると、アツアツのコーヒーが提供された。ルンビニの事件を思い出したが、女性を信用して口をつける。一服をしつつ、ソファに置かれたさっきのアルバムに目を向け徐に手に取り、他人の写真を勝手に見るのに後ろめたさを感じつつページを捲っていった。後半は比較的最近のものと思われる写真、前半には女性の学生時代と思われる写真が納まっている。何枚か取り出してよく観察すると裏面には"○○○○ 7 14 友人宅にて"、"○○○○ 10 9 イタリア家族旅行"など、年月日(○○○○は西暦)や状況が手書きで記されていた。文字は手帳の筆跡とよく似ている。

改めて自宅を出てからこれまでの出来事を振り返り考察を始めた。ルンビニの事件で分かった事実…真犯人は妻でも夫でもなくクライアントであった。夫は妻を利用して演出家を殺害したのは明白だが、クライアントはこの夫妻を利用して演出家を殺害したのだ…そして、ここから先が重要。まだ推測の域を出ないが、彼一人の計画でソナタの身柄をアントワープの殺人現場まで運び込んだとはとても思えないし動機もない。その上には"黒幕"の存在があると考えるのが自然だ。ソナタはルンビニの事件の構造を以下と仮定した。

 第1階層:ターゲット
 クライアントが殺害したい人物。
 事件の被害者。

  第2階層:マリオネット
 自身の意思でターゲットを殺害した(する)
  と思い込んでいるが、実際はプランナーの
 策略により殺人を実行するよう仕向けられ
 ている人物。事件の実行犯。
 ※ルンビニの事件の実行犯は妻ではなく夫

 第3階層:クライアント
 プランナーへ殺人計画を依頼する人物。
 事件の真犯人。

 第4階層:プランナー
 クライアントへ殺人計画を授ける人物又は
 組織。一連の"著名人殺し"の黒幕。

6.傀儡


そして、昨今頻発している"著名人殺し"が同一人物又は同じ組織の計画なのであれば、この構造は共通しているのではないだろうか。先入観は良くないが今後の捜査では一つの可能性として頭の中に置いておくことにする。そんな思考を張り巡らせながらソナタは浴室へと移動しシャワーを浴び始めた。仮に今回のターゲットが彼女の父親だとしたら、プランナーの策略ではマリオネットはソナタ自身であり、きっとどこかにクライアントがいるはずだ。まずはこの"クライアント"を探し"プランナー"への手がかりを得ることにした。そして、なぜ自分がこのような状況に追い込まれたのかを紐解いていく…。

入浴を終えて指定のカゴに着ていた衣服を入れ、用意されていた部屋着に着替え、髪を乾かしてから元のソファに戻ると彼女が座っていた。感謝の意を伝えると小さく頷いたがさっきまでの元気はまるでなく意気消沈している。やはりあれは彼女の父親だったのだろうかと思い、しばらくそっとしておくことにした。その間も、ソナタは事件解決のために頭をフル回転させ、現場の映像を呼び覚まし脳内で再検証を開始する。いま持っている情報はここにしかない。どんな些細なことでも見落とさぬようソナタは集中していた。こうして、2人の会話がないまま少し時間が経過したころ女性のほうから口を開く。

 私、行ってくるわね。

 どちらへ?

 父の…遺体の確認よ。

 ----わかりました。それでは私はそろそろ失礼します。

 いいえ。ゆっくりしてくれて構わないわ。

 ありがとうございます。でも私は事件コンサルタント。事件を解決することが仕事なんです。

 事件コンサルタント?そんな職業初めて聞いたわ。でも解決するって、どうやって?

 私は事件現場から立ち去る前に可能な限り捜査をしました。そこでいくつかの手がかりを見つけたのです。

 じゃあ道すがら話を聞こうかしら。外出用の服を用意するわね。

 え?でも…

 あなた、車もなくどうするつもりだったの?

 あ、たしかに、、、そうですね!

ソナタという人物は、優れた頭脳を持つ一方で少し天然なところもあるようだ。

7.予知


2人は父親と思われる男性遺体の確認のため車で病院へ向かっていた。ソナタは女性から借りた黒いセーターとジーンズに着替え、自身の青色のコートを羽織っている。女性との身長差からセーターのサイズはやや大きく、袖は少し余っている。出発してからしばらくはお互い心を落ち着かせるためか他愛のない話を交わしていたが、いよいよ本題に入る。

 …そろそろさっきの話の続きを聞かせてもらおうかな。

 そうですね…。

ソナタは含みを持たせながらも女性の提案に賛同し、自身の推理を披露し始めた。

 私は事件現場を隈なく調べそのすべてを脳内に保存しました。

 すべて保存?

 はい。私には幼少期の訓練により"カメラアイ"…瞬間記憶能力があります。

 ん〜聞いたことあるような、ないような。どんな能力なの?

 視覚に入ったものをそのまま映像として記憶して決して忘れることがないのです。便利な反面、思い出したくないことを忘れることができないという欠点もあります。

 す、すごい能力。でも忘れられないというのも酷な話ね。

 …ええ。話が逸れてしまいましたが、そこで気になったのはバッグに入っていたリングノート式の手帳です。

 手帳か。父は今も"未来"を書いているのかしら。

 はい。珍しい日記の書き方ですよね。手帳には1日1ページを使って今年の1月1日から、事件当日である昨日だけでなく今日のことまで記されていました。

 ふふふ。まだ続けてたんだ…そう、ね。きっといまだに、毎週その1週間に起こるであろうことを予想して書いてるんだと思う。私が子供のころ、ふざけて一緒に未来を予言しようとか言って遊んでてね。私が明日は?明後日は?ってしつこく聞くもんだから、一時期自分が出張でいない1週間のことを予想して書いてくれたの。父と遊んだ数少ない記憶だからよく覚えてるわ。"未来日記"ごっこね。

 そんな出来事があったんですね。それで手帳に先のことまで書かれていた理由が分かりました。私はその"未来日記"の内容に解決の糸口あると考えています。

8.暗雲


 ところで、父が書いた字はちゃんと読めた?楽譜に指揮者の指示を書き込むときのクセで、普段の文字も殴り書きなのよね。

 確かに走り書きではありますが、きちんと読みとれます。字をキレイに書ける方が早く書かために敢えて崩しているという印象です。

男性が殺害されたと思われる日、つまりソナタが凶器と見られる刃物を握らされ殺害現場に寝かされた当日、そしてその前日と翌日、翌々日の"未来日記"にはこのように書かれている。
(○○○○は西暦、(  )内の文字は日記には書かれていない)

○○○○/12/12(前日)
今日もよく練習して疲れた。
早めに休むことにする。

○○○○/12/13(当日)
娘と食事をしながら遺産相続のことなどを話した。

○○○○/12/14(翌日)
あいつは逝ってしまった。俺にもいつ何が起こるか分からない。保険や財産のことをよく見直そう。

○○○○/12/15(翌々日)
今日は久しぶりに友人と会った。たまには昔話も良いもんだ。

 待って!私は事件の日に父と会ってないし、遺産の話はしてないわ。確かに父は最近相続のことを気にしていてよく話には出ていたけど…。

 そうですか。私の中には一つの仮説があります。それを確かなものにするためいくつか教えてください。

 仮説…?もちろん、私の知っていることはすべて答えるわ。

朝はよく晴れていて、太陽の眩しい光と冬の透き通った心地の良い空気がとても清々しく、深呼吸をすれば体の悪いものがすべて吐き出され、新鮮なものに入れ替わるような気がした。しかし、アントワープの街へ近づくにつれ、辺りは暗くどんよりとした雰囲気に一変していく。まるでこれから起こる良くないことの始まりを演出しているようで不気味だ。2人は車中から見える外の様子の移ろいに負の感覚を覚えながら、休憩と気分転換のためにガソリンスタンドに寄った。売店でホットコーヒーとお菓子を購入して事件を早期に解決させるべく推理を続けた。その際、ソナタは脳内に保存した日記の記述内容を紙とペンを使い忠実に再現して女性に見せた。

 私はこの日記を見た時に未来のことが書かれている以外にも違和感を覚えたんです。まずは年月日の書き方。しかしこれはお父さんがハンガリー人という事実を知り、納得ができました。

 ええ。ハンガリーではアジアなどと同じで年、月、日の順番に書くわ。この国とは逆ね。

 はい。次に、欠かさず日記をつけるという律儀な性格である反面、敢えて字を崩した走り書きであったこと。ただそれも、職業柄のクセということで理解ができました。ですが、実は写真を見せたもらったとき…ごめんなさい!他の写真も勝手に見せていただきました。その時、新たな違和感を覚えたんです。そしてこれは有効な手がかりに繋がると考えられます。

9.対面


車に乗り込み旅を再開する2人。目的地まであと少しのところまで来ている。そして、ソナタの推理ももうすぐ一つの結論に辿り着こうとしていた。

 さっきの"新たな違和感"って?

 それは…日付の"書き方"です。

 "書き方"?

 はい。先ほど見ていただいた日記の記述は細かい部分の書き方まで忠実に再現しました。私の記憶にも鮮明に残っているので間違いありません。しかし、日記にはあって自宅にあった写真の裏側の記述にはないものがあるのです。

 日付の数字の間に書く斜めの線…

 そうです!写真の裏側の日付にはスラッシュがありませんが、日記にはありました。一般的にこういう類は無意識に習慣化されているため、同一人物が書いたとすればその表記がバラつくことは少ないのです。このことから導き出される仮説は…

 別の人が書いたってこと?

 ええ…正確には日記に犯人がある細工をしたと私は考えています。理由は、自分に疑いの目を向けられることを避けるため。つまり、日記には犯人につながる手がかりが記述されていましたが、細工をすることで自分以外の人間に容疑がかかるように仕向けた可能性があります。

 …続きが気になるけど病院に着いたわ。まずは確認をしに行ってもいいかしら。

 もちろんです。私も同行していいでしょうか?

 あなたと知り合って間もないけどなぜだか信頼感や安心感があるわ。ぜひ一緒に来て。

 分かりました。

病院の駐車場で2人は車を降りた。どす黒く重厚感のある雨雲は、大地への光を遮り日中にも関わらず辺りを闇に包んでいる。さっきまで絶え間なく続いていた会話は完全に止まり、お互いに顔をやや強張らせながら中へ入った。女性が受付に名前を告げるとほどなくして白衣を着た男性がやってきて2人を案内する。廊下を少し進んだところで白衣の男性は立ち止まり、目の前の部屋に入るよう促された。女性が扉を開けると顔に布を掛けられた遺体が横たわっていて、白衣の男性がそれを退けると女性は静かに頷き頬に一筋の涙を流した。

10.返礼


遺体の確認後、女性は病院とのやり取りを済ませソナタが待機している車に戻った。ソナタが最初にやるべきことは決まっている。女性の父親の殺害を依頼した人物"クライアント"を探し出すのだ。病院の駐車場に車を停めたまま2人は殺害現場に残された"未来日記"の考察を再開した。

 これから先、犯人に近づけば近づくほどリスクは大きくなり、危険もより大きくなります。…それでも犯人を探しますか?

 ----あなたの職業は事件コンサルタントって言ったわよね。私でも仕事の発注はできるのかしら。

 はい。でもその前に教えてください。犯人を探す理由は何ですか?

 アハハ…復讐!----とでも言うと思った?私は真実を知りたいだけよ。

明るく振る舞ってはいるが、彼女から深い悲しみが伝わる。父親を失った直後だから当然なのだが、それとは違う…いやそれ以上の何かに彼女は気づいているからなのかも知れない。ソナタは、こんな状況でも窮地を救ってくれた彼女への恩を返したい思いが強く、何が彼女のためになるかをよくよく考えている。もちろんロンドたち家族の安全確保を第一に考えなければならないし、そのためには一連の"著名人殺し"の真相究明が重要であることも分かっている。

 もしかして…あなたにはこの事件の犯人として思い当たる人物がいるのではないでしょうか?

 …どうやら瞬間記憶だけじゃなくて人の心を見抜くことにも長けているようね。

 いえ、専門分野ではありませんよ。…それでは、私の推理の続きをお話しします。あなたの頭に浮かぶ人物と合っているのか、答え合わせしましょう。

 分かったわ。

 犯人は日記にある"細工"をした可能性があることまではお話ししました。その"細工"には、日付の間に書く線…スラッシュが大きく関係します。ヨーロッパでは"日/月/年"の順に書くのが主流ですが、ハンガリー出身のお父様の日記では、アジア圏で主流の"年/月/日"で書かれていました。そしてもう一つ…音楽家であるお父様は楽譜に指揮者の指示を書き込むときのクセで、普段から文字を走り書きすることが多かった。犯人はこの二つの条件を巧みに利用し、日記に書かれている自身につながる証拠を隠した…と、私は考えています。

 う〜ん…その答えはサッパリ分からないけど、私には1人、父や私のことをよく思っていない人物が思い当たる。でもあくまでも直感で、証拠はないの。だから父の日記が手がかりになるならとてもありがたいわ。

 そうですね。それでは私の中の"答え"をお話しします。

車を病院の駐車場に停めたまま話し込んだ。女性の自宅を朝早くに出発したが、もう時刻は夕方。天気は相変わらずどんよりとしている。まるでこれからの2人の行く末を暗示しているようだ。

11.高揚


 お父様が日付を書くとき、数字の間に線を入れないことが分かっています。たとえば、12月13日であれば"○○○○ 12 13"(○○○○は西暦)となるはずですが、日記では"○○○○/12/13となっていました。このことから、私は犯人がスラッシュを書き足した…そう考えたのです。

 スラッシュを足す?犯人の目的は何?

 足したのはスラッシュだけではありません。時には数字の"1"も足した…。

 ----ま、まさか?!2月と12月を入れ替えたってこと?!

 はい、そのとおりです♫犯人は、事件が起きた12月13日、そして前後の12月12日〜15日と2月12日〜15日を入れ替えたと私は考えています!

 たとえば…

 "○○○○ 2 13"
 にスラッシュと"1"を足して、
 "○○○○/12/13"
 に細工をした。

 そして、

 "○○○○ 12 13"
 は12の"1"は元々崩して書かれているため
 "○○○○/2/13"
 と、細工せずに読むこともできる。犯人はこのいくつかの条件を巧みに利用したんです。

 他の日付にも同じ細工をして、さらに日記に収めてある1月1日からすべてのページにスラッシュを足し、"2月12日〜15日"と"12月12日〜15日"のページを入れ替えた。日記はリングノートなので入れ替えは簡単。ちょうど12日の裏に13日、14日の裏に15日のことが書かれていたこと、そして1ページに1日の出来事が書かれていたこともこの細工を可能にした要因です♫

紙とペンで実際に書いて見せながら説明をした。自身の推理を披露する時のソナタは普段にも増して明るくポジティブな雰囲気になるのは彼女のクセだろうか。女性は最初半信半疑であったが極めて論理的なソナタの話を聞いていくに連れ少しずつ"信用"のほうに心が動く。

 たしかにそこまではあり得ない話でもなさそうね。じゃあ肝心の事件当日…2月13日のページには何と書かれていたのかしら?

 はい!いまからこの紙に書きますね♫

((  )内の数字は本当の日にち、日記には書かれていない)

○○○○/2/12(12月12日、事件前日)
ゲネプロは滞りなく終わった。
今日は早く休むことにする。

○○○○/2/13(12月13日、事件当日)
コンサートの後、久しぶりにあの子と楽屋で話した。いまだにあの時のことを引きずっているようだ…申し訳ない。

○○○○/2/14(12月14日、事件翌日)
あの子をいくつかの楽団に紹介する準備を始めた。うまくいけばいいのだが…

○○○○/2/15(12月15日、事件翌々日)
クリスマス休暇中に娘と今後のことをゆっくり話すため、たまには旅行を計画することにした。すぐに行き先を決めてホテルとレストランを予約しよう。

12.休息


 や、やっぱり?!たしかに"あの子"って書いてあったのね?

 はい。間違いありません。あなたの思い当たる人物と"あの子"は同じ人物なのでしょうか?

 ええ…父はいつもそう呼んでいたわ。彼女は私の幼馴染よ。そしてずっと一緒に音楽をやってきた親友でもある。だけどたった一回のボタンのかけ違いで、もう何年も疎遠になってしまったの。

 そうですか…良ければその"経緯"をお話しいただけませんか?

 ----分かったわ。事件に関する重要なことだからね。話しを聞くってことは、事件コンサルタントとして仕事を受けてくれるってことでいいかしら?

 はい。ただし約束してください。危険なことは決してしないと。

 もちろん…父を殺した犯人を早くこの手で捕まえたいけど、私だって命が惜しいわ。

 それでは、この事件たしかにお受けします。初めにお伝えしておきますが、あなたは命の恩人ですし、私個人としても今回の犯人を追う理由があります。ですのでお金は結構です。

ちょうどそのとき社内に"グ〜"と、大きめの音が鳴り響いた。どうやら音源はソナタのようだ。朝に少し食事をしたとはいえその前は数日間飲食をしていなかったし、今はすっかり夜で相当な時間が経過していたから無理もなかった。

 アハハ!あなたといると飽きないわね。たしかに私もお腹ぺこぺこだわ。続きはレストランで話しましょう。お金はいらないって言ってたけど、いまは無一文なのよね?食事代くらいは出させてね。

女性は豪快に笑いながらエンジンをかけて車を走らせた。ソナタは赤面しつつも暗い雰囲気が少しだけでも明るくなったことに一瞬安堵したが、すぐに頭と心を切り替えこれからの捜査方針を脳内で練り始めた。そんな雰囲気を察したのか女性は特にソナタへ話しかけることもなく黙々と運転し、やがて目的地に到着した。建物内に入り高層階行きのエレベーターに乗り込む2人…どうやら下層は美術館になっているようだ。エレベーターを降りて程なくしてレストランに着くとスタッフと女性は顔馴染みらしく少し話しをしたが、神妙な面持ちであったので父親の死を報告したのかも知れない。その後、一番奥のVIPルームへ案内された。来る途中に通った店内は白を貴重とした明るい雰囲気だったが、ここは壁や天井に茶色い木材があしらわれ、わずかな間接照明だけの薄暗くとても落ち着いた印象で、三辺の大きな窓からはライトアップされたノートルダム大聖堂、アントワープの街並みや運河を一望できる。

 このレストランは雰囲気も眺めもとても素敵ですね♫

 そうね。ここは私が一番気に入っているお店。アントワープの街並みを見ながら食事をして心を落ち着かせましょう。あ、落ち着かないといけないのは私だけ、か。

 …私にも考えるべきことがたくさんあります。このような場所に招待してくださって感謝します。ありがとう。

 昨日今日はいろいろあったわ。あなたとの出会いもその一つ。なんだか不思議な縁があるようね。さあ、お腹が空いてたらせっかくの優秀な頭脳も鈍ってしまうわ。暗くて堅っ苦しい話しはやめて、今日はたくさん食べてたっぷり寝てこれからに備えましょ。

 はい!そうですね♪今日はお言葉に甘えさせていただきます!

ソナタは女性の強さに尊敬の念を抱いた。

13.恐怖


2人はレストランを後にすると翌日のための衣服や飲食物を購入して近くのホテルに向かっていた。速やかに捜査を始められるよう女性の自宅には戻らず、この日はアントワープに留まることにしたのだ。到着してチェックインを済ませ、待ち合わせ場所と時刻だけを約束して、それぞれの部屋に向かった。ソナタは久しぶりに1人でゆっくり時間を過ごすことができたのだが、蓄積した疲労によってシャワーも浴びずそのままベッドに倒れ込み即座に意識を失う。

これまた久しぶりに夢を見た。家族の夢。ロンド、メライ、バルカ、そして愛息子の5人で幸せに暮らす日常である。これまで、おそらく人と比べて刺激の強い人生を過ごしてきたはずで、それにも耐えうる訓練も積んできたつもりだが、いくら鍛えとしても体は疲れるし心のストレスがなくなることはない。こんな時見た夢が安らぎを与えてくれたことはとても嬉しかった。明け方ふと目を覚ますとそのまま寝入ってしまったことと、一筋の涙が頬を伝っていることに気付き、同時にこんなことくらいで弱気になっている自分に意外性を感じた。かつて、家族がいなかった自分1人だけのときとは明らかに異なる心の動き----。

ソナタは約束の時刻ちょうどにホテルのロビーで待っていたが、20分ほど待ってもやって来ない。不安が過りフロントを尋ねると、2部屋分のチェックアウトが済んでいて女性はすでにホテルを後にしていることが分かった。

 それと…お客様から預かり物がございます。こちらをお渡しするようにと承っております。

その紙袋には現金と、"あなたには待っている家族がいる。このお金ですぐに会いに行って安心させてあげて。今までありがとう。"と書かれたメモが入っていた。彼女は初めからソナタに頼るつもりはなく1人で"あの子"に会いに行くつもりであったのだろう。その可能性は最初から予想できたはずだった…女性は幼馴染との関係がいまに至る"経緯"を昨晩の食事中には語らなかったのだ。今日の朝、目的地に向かう車中で話すと言って…だが悔いている時間はない。女性が幼馴染に1人で会いに行くことは明らかに危険な行為だ。ソナタはすぐさまロビーにあるパソコンで"あの子"について調べ始めた。

アントワープの著名なチェリストとその娘、そして幼馴染のことに関してはいくつかの記事があった。どうやら幼馴染は女性の父親の"楽団"に所属していたようだが、先に幼馴染が、その直後に女性が退団している。詳しい経緯は分からないのだが今回の事件に関係しているのかも知れない。退団後の幼馴染に関する記事はなく、居場所につながる情報は見つからない。ソナタは現在唯一の手がかりである"楽団"を訪ねることにした。

14.猛進


楽団を運営する会社の事務所はブリュッセルにある。ソナタは女性から預かったお金で電話をかけ、適当な理由をつけてアポイントを取った。電車移動の費用もそこから捻出する。目的地までの所要時間は1時間程度だ。

ホテルを出て真っ直ぐ駅へと向かう道中、朝の冷え冷えとした空気に全身が包みこまれ僅かに思考を鈍らせる。無意識にコートのポケットに手を入れると左手に何かを掴んだが、いまはそんなことを気にしている場合ではなく、一刻も早く女性を探し出さなければならない。彼女の命に関わる問題であり、もし最悪のケースになればソナタ自身が深い深い後悔の念に苛まれることも分かっているが、一方で、すべてが罠である可能性も忘れてはならない。女性のことを疑いたくはないが、自身が放置された殺害現場からああもあっさり脱出できて今に至るまで自由の身であること、事件の重要人物である女性と道端で遭遇したこと、その女性に助けられ"クライアント"に迫ろうとしていること…まるで何者かが描いたストーリーの登場人物のような気分であり、何もかもが仕組まれているのではないかと勘繰るのはごく自然のことであろう。だが、罠であろうが仕組まれていることであろうが、ソナタはやるしかないのだ。家族を守るため、一連の"著名者殺し"の真相に辿り着く…華奢な体にはとても収まらないほどの大きく、そして強い闘志燃やし、目をバチっと見開き一心不乱に前に突き進む。

クリスマス前のアントワープの駅は賑わっていた。人々は厚手のアウターを羽織っているが、ソナタはルンビニから予期せずこの地を訪れることになったのでやや薄着だ。当の本人はそんなことは何らお構いなく、自動券売機に並びチケットを手に入れるとブリュッセル行きの電車に乗り込んだ。座席に腰をかけると昨日女性と共に購入した軽食を口にしながら、これからのことを何パターンも想定してシミュレーションを繰り返す。安全な未来はとても想像できないが----。

15.関連


ブリュッセルに到着するとソナタは一目散に楽団の事務所へ向かった。アントワープと同じくクリスマスムードが漂い人々で溢れかえる街の中をポケットで手を温めながら早足ですり抜けていく。水辺に立ち並ぶ建物の中から目的の場所を見つけると躊躇せず門戸を開いた。受付の女性へアポイントの内容を伝えたあと程なくして男性と女性が1人ずつやってきて応接室へと通される。黒革の3人掛けのソファが向かい合わせに、間にはガラス製のローテーブルが置かれていた。部屋の奥には恐らく楽団が様々な賞を獲得した証であるトロフィーや表彰盾が格納された戸棚が設置されている。名刺交換をして腰をかけると、ソナタは事件コンサルタントの説明を簡単に済ませすぐに本題に入った。

 この度はお悔やみ申し上げます。大変な時にお時間をいただきありがとうございます。

 …だ、団長の娘からの依頼と仰いましたね。か、彼女は元気ですか?

男性は心配げに問いかけた。団長の娘であり、元は同じ楽団のメンバーだったのだからごく自然な反応である。

 とても…気丈に振る舞っていました。こんなときでも私に優しくしてくれて----。すごく感謝しています。だから恩返しがしたいのです。何とか彼女を助けたい。

 う〜ん。正直私はまだ半信半疑だわ。言葉にウソはなさそうだけど、あなたは警察でもないし、当の本人の姿はない。他意はないけどね。

女性は至ってシンプルに、そしてストレートに自身の気持ちを伝えた。言っていることは尤もであり当然の思いであろう。

 そう思われるのも無理はありません。ですが時間がないのです。団長の娘さんは容疑者の元へ1人で向かっている可能性が高い…。一刻も早く合流しなければ彼女に危険が及びます。

 ----信じられないけど話は聞くわ。"容疑者"ってのは誰なの?本当にその人が犯人なわけ?

 それは…彼女の幼馴染です。

 幼馴染?ま、まさか、ウチの楽団にいた"あの子"のこと?

 ええ。まだ証拠はありませんが、私たちの捜査線上に"あの子"が浮上したのです。

 "あの子"と団長の娘が退団したとき…楽団全体に大きな影響を及ぼした"事件"があった。そのことは今回ことと関係しているのかしら。

 まだ分かりません。でも…よろしければその"事件"について教えてくれませんか?

赤いピンヒールを履いているからではなく、ナチュラルに高身長で、パーマがかった短い黒髪、肌は黒く赤縁メガネがよく似合っている20代と見られる女性は冷静かつ正確に物事を整理している様子だ。一方、色白で金髪、少しよれたスーツに身を包み自信なさげな男性は40歳前後だろうか。とにかく今は情報がほしい。これから女性が口にする"事件"は"あの子"に辿り着くための鍵を握っているに違いない。こうして、女性は"事件"について語り始めた。

16.生立


10年以上前、団長の娘と幼馴染の家は隣同士であった。2人は同級生だったが、幼馴染は娘よりも1年早く団長の家でヴィオラのレッスンを受け始める。娘はどうも気乗りせず、両親の期待とは裏腹にほとんど楽器に触れることはなく、友人とのスポーツやテレビゲームなど音楽とは無縁の遊びに夢中だった。だが、練習のために毎日のように我が家に来る幼馴染との中は深まり、やがて親友と思い合える関係になる。最初は演奏ではなく一緒に歌を歌ったり、音楽記号を使った2人だけが分かる暗号遊びをしたりと…その影響で少しずつクラシックに興味を持ち始め、次第に幼馴染と同じヴィオラを父親から習い始めると、めきめきと頭角を現していく。

世界的なチェリストである団長の血を引く娘は、幼馴染から1年遅れて音楽の世界に飛び込んだにも関わらず、数々のジュニアコンクールで最優秀賞を獲得する。一方、音楽家庭の生まれではないが、幼馴染のセンスは目を見張るものがあり、さらには世間一般のそれとは桁違いの弛まぬ努力により中学生ながらも世界的な音楽団体から練習生としてオファーがかかるまでの実力を手にした。2人は親友として、時には良きライバルとして互いを高め合い、音楽家として少しずつ名を揚げていった。

音大生になったころ、娘と幼馴染は楽団の一員となった。大学でも楽団でも、1日中…1年中音楽漬けで、友達や異性と遊ぶこともなく青春をすべて音楽に捧げる毎日だったが、2人は2人だから頑張れたのだ。ハンガリーとベルギーのハーフで筋が通った鼻とブロンドのショートヘアがよく似合う娘は社交的で人見知りをしない。そのせいか、年頃になると男性に頻繁に声をかけられたが、団長である父親がそれを許さなかったし、当の本人も音楽に没頭していて見向きもしなかったのである。一方、腰まであるブラウンのストレートヘアの幼馴染はいつも俯き加減で団長と娘以外とはあまり積極的に会話はしなかった。対照的な部分もあるが、とにかく常に一緒にいて音楽について毎日語り合い音を奏でながら共に成長していったのだ。

その数年後…大人になった2人の信頼関係を大きく揺るがし、これまで築いてきたすべてを引き裂くきっかけとなる"事件"が起きた。

17.苦悩

ある日、世界最高峰とも言われるドイツの楽団から団長の元へ一通の手紙が届いた。内容は、1年間楽団の一員としてコンサートに出演したり他の団員から稽古をつけてもらったりと、音楽家にとっては願ってもない"練習生"の募集案内であった。楽団に認められれば正式な入団も夢ではなく、たとえ1年後に退団したとしても音楽家としての箔が付き、別の楽団からのオファーやその他の仕事につながるまたとない大チャンスである。今回声がかかったのは、団長が向こうの幹部と旧知の中であることと、娘と幼馴染の大きな功績でヨーロッパにおける楽団の知名度が大幅に高まってきたことが理由であろう。

だが、これが苦悩の日々の始まりとなった。練習生の枠は1名…候補者は娘と幼馴染の2名いる。どちらを選んでもどちらかが深く傷つくことは容易に想像できるし、2人で話し合って決めることをお願いしても関係に亀裂が入り、蟠りやシコリが残るだろう。しかも1名は実の娘であり、家族や親戚のこと、娘との今後の関係性などを考えれば考えるほど答えが出ない。回答の期限は3ヶ月後に設定されていて、途中向こうの楽団の幹部である旧友に枠を2名にしてもらえないかと懇願したが叶わなかった。このオファーを団員の誰にも伝えていない今なら、なかったことにもできるのではないかとも考えたが、2人の人生を左右する大きな決断をできないまま2ヶ月が過ぎた。

こうして悩んだ末に団長が出した結論は"オーディション"であった。課題曲を与え、演奏技術がより高いと評価されたほうをドイツの楽団へ練習生として送り出すのだ。期限が迫っていたので急いで2人に事情を説明して2週間後にオーディションをする旨を伝えると、そこから毎日共に練習を重ねてきた2人は一切話すことをやめた。大学や楽団での活動をすべて休止して毎日課題曲の演奏だけに没頭することとなる。この2週間、文字どおり寝る間も惜しんで2人は楽器を弾き続けた。

18.不穏


オーディション当日、この日のために団長が貸し切ったコンサートホールで 2人は2週間ぶりに顔を合わせることとなる。互いに両親に付き添われながら早めに会場へ入り、練習をして楽器の手入れや弦の張り具合もよく確認した。本番は夕方でまだかなり時間があったので、娘家族は気分を落ち着かせるために喫茶店へ行くことにした。本番まで対面することがないよう離れた場所に別々に用意されている楽屋を、会場スタッフに頼んで施錠してもらった。一方、幼馴染家族はずっと会場内に留まり、本番までの時間を過ごした。

娘は楽屋に戻るとすぐに最終確認のため楽器を手にして弾き始めた。まもなく時間となり、できる限りの準備はできたのであとは悔いが残らないようすべて力を出し切るだけと自分を奮い立たせ、両親と共にホールへと向かう。団長である父は審査員の1人であるため途中で別れ、母と共にステージへの通路を一歩ずつ進んで行く。娘を気遣い、あえて何も喋らずただ側で寄り添うだけであった。舞台袖に着くと遠く反対側には幼馴染家族の姿が見える。後からやってきたほかの楽団員に促され、娘は楽器を指定の位置に置いて母と一緒に舞台へ出た。同じタイミングで幼馴染は父と共に現れ4人は真っ直ぐ客席の方向へ体を向ける。

 2人とも、リラックスして聞いてほしい。これから演奏をしてもらうよ。理由はもう分かっているね。審査員の票が多い方が合格者となり、我が楽団からドイツの楽団へ"練習生"として送り出す。いいね。

 ----はい。

団長から改めてオーディションの目的が説明され、2人は声を揃えてこれに応じた。

 では、順番はコインで決めよう。裏と表を選んでくれ。

幼馴染は表、娘は裏を選択した。団長が委任した審査員のコイントスにより娘が先に演奏することになる。楽団員から舞台袖に置いてあった楽器を受け取ると、娘はステージ中央に移動して軽く音出しをした。手を止めると辺りが静まり返り空気が張り詰める。娘は弦を持つ右手と楽器を持つ左手を一度下ろし、深く息を吸って吐き出したあと、改めて両手を上げて演奏の態勢に入った。その瞬間、音を奏で始める。----娘はすぐに違和感に気付いたが途中で手を止めるわけにもいかず、最後まで弾き続け、終わったあと両手を下ろし項垂れた。

 じゃあ次…

審査員の1人がこう話し始めた時、これを遮る大きな声が聞こえる。

 バカにしないで!こんなのやり直しよ!

幼馴染は怒りを露わにしながら舞台袖からステージの中央へと駆け進む。娘は首を下げたまま動かないでいた。

19.威圧


幼馴染は無気力状態の娘から楽器と弓を取り上げると自身で音を奏で始め、30秒ほど弾いて手を止めた。

 ほら!みんななら分かるでしょう?どんどん音程がズレていくわ。この2弦をよく見て。

幼馴染は熱が冷めやらぬまま声を荒らげ舞台を降りて観客席の前の方に座っている審査員たちに娘の楽器を差し出した。彼らが2弦をよく確認すると、何かで傷をつけられたような跡が複数箇所に見られる。同時に、場内は響めきさまざまな憶測が飛び交かった。

 静かに!

見兼ねた団長の一喝によりすべて人間が声を発するのをやめ、静まり返った。

 いまはオーディションの最中だ。全員集中してほしい。さあ、次は君の番だよ。ステージに戻りたまえ。

周りと同じく多少の動揺はあるものの決して平静を装っているわけではなかった。団長として、いま優先してやるべきことを考えたうえでの言動であり、これにより他の審査員も次第に冷静さを取り戻していく。だが当人である幼馴染は未だ昂りを抑えきれず、娘は放心状態のままで、その場から動くことができなかった。そんな膠着した状況を1人の女性が動かす。コツコツとハイヒールの足音が聞こえたかと思うとステージの中央で止まった。

 さあ、弾くのよ。

 …ママ。

幼馴染は楽器と弓を持ち無表情で仁王立ちする母親の言葉によって我に返ったかのように見え、再びステージへ上がると楽器を受け取った。娘は自身の母親に肩を抱かれながらゆっくりと舞台袖に戻って行く。それはほんの数分の出来事だったのだが、審査員やスタッフにとってはまるで何時間もの長い時に感じられる。幼馴染は何とか気を落ち着かせステージ中央に立つと弦を含めて楽器や弓の状態をよく確認して、問題ないことが分かると軽く音出しをした。審査員たちは幼馴染のタイミングで演奏が始まるのをただ待ち続けている。

 始めます。

幼馴染は自身を鼓舞するためあえて口に出してから楽器を構え、音を奏で始め、さっきのことがまるでなかったかのような、非の打ちどころがない演奏をやってのけた。本当は2人目が終わったあとに1人目の演奏者もステージに戻る段取りになっていたが娘は現れなかった。

 お疲れさま。これでオーディションは終わりだ。近いうちに結果を連絡するから待っていてくれ。

団長がそう告げるとスタッフたちは撤収作業、審査員たちは審議に入るため楽団事務所に戻る準備を開始した。団長はすぐさま幼馴染の元に駆け寄りフォローに入る。

 勇気を出してあの子の楽器のことをみんなに伝えてくれてありがとう。誰にでもできることじゃない、素晴らしいことだよ。

 私は…あの子と正々堂々と勝負して勝ちたいの。そうじゃないと、これまでやってきた意味がないわ。

 あぁ、そうだな。今日は早く帰ってゆっくり休むんだよ。

そうしてメンバーは会場を後にした。団長は楽団事務所に戻り、団長室で1人オーディションのことを考えているとドアをノックする音に気付く。中に入るよう促すとそこには会場の舞台袖で係員をしてた楽団スタッフが立っていた。

20.疑惑


 おお、今日はお疲れさま。何かあったかい?

団長は優しく声をかけるが係員はずっと下を向いたまま何も応答がない。両手の拳を強く握り体は少し震えているように見える。中で話を聞こうと誘導してもそこから動こうともしなかった。

 このドアは開けておくから準備ができたらいつでも話を聞くよ。

団長は係員の両肩に指先をそっと乗せ、少し屈んでにっこり笑顔でそう伝えると自席に戻った。それから数分…数十分が経過したところで再びノックの音が聞こえる。

 失礼します。

いつもは威勢が良く楽団の中ではムードメーカーの係員は肩を落とし、声は小さく、まるで別人のような表情を見せた。顔の血の気が引いて青白く、ただごとではない雰囲気を醸し出している。

 おっ、やっと話してくれる気になったか。どうぞ、そこに座って。いまコーヒーを淹れて来るよ。

もちろん彼の異変には気付いているが、あえて明るく普段どおりに接した。団長は自室をあとにしてパントリーへ向かう。来客用のソファに腰をかけた係員は足を広げ腿に肘をつきながら頭を抱えた。自分1人では抱えきれない情報を知ってしまい心がいまにも壊れそうなのである。やがて団長が戻りテーブルにコーヒーを置くと係員の向かい側に腰をかけた。

 今日は色々あって苦労をかけたね。

 いえ。団長もお疲れさまでした。今日のことで、どうしてもお話ししたいことがあります。

 どんな話だい?

 僕は…見てしまったんです。

 何を?

 あ、あの子の母親が…だ、団長の娘さんの楽器に…細工をして、、ました。

 君は確かに見たんだね?

 はい、間違いありせん。皆さんがコイントスで演奏順を決めているとき、僕は1人で娘さん側の舞台袖の係員をしていました。そこには確かに楽器も置いてあって僕は番をしていたんです。

 …ちょっと待ってほしい。間違いがないよう、君がこれから話そうとしてくれていることを文字にして記録させてもらってもいいかな?もちろん最後に君にチェックしてもらうし、君が話してくれたということは絶対に誰にも言わないよ。

 分かりました。ご配慮はありがたいですが、これを知っているのはあそこにいた僕だけです。きっと母親も気付くことでしょう。でも、それを分かったうえで団長に伝えなければいけないと思ったんです。このままオーディションの結果が出てしまうなんて、音楽家として、人間として、僕は納得ができませんでした。

係員の固い決意は、団長へ十分に伝わった。しかし、この決意がさらに事件を複雑にしていくことをまだ誰も知らない。

21.告白


歴代の団長が使用してきた重厚感のある木製のデスクの引き出しからノートパソコンを取り出し、ソファに戻った。係員は手を少し震わせながらカップを持ち上げコーヒーを一口に含み瞳を閉じる。気を落ち着かせるよう意識しながら、話を続けるようだ。団長はパソコンを起動させ文字を入力するソフトを開き、係員が先ほど話した内容を記した。

 待たせて悪かったね。続きを聞かせてくれるかい?

 はい、もちろん。僕の持ち場である舞台袖に待機していると、反対側にいるはずのあの子の母親が現れたんです。そして僕にこう言いました。"とても気分が悪いから水を持ってきて欲しい"と。僕はその場を離れるわけにはいかなかったので、別の係員に電話でお願いしようとしたのですが、母親はそれを静止しました。

 ふむ。どのように静止したのかな?

 …高額のチップを渡されて、"ぜひ君にお願いしたい"と言われました。それで本当は良くないことと思いつつ、その場を離れ飲み物を探しに行ってしまったのです。

 そうか。良く話してくれたね。

 …舞台袖には東側と北側に出入り口がありました。僕は今回の会場にはあまり慣れていなくて、最初東側から出たのですが、たまたま目の前にいた会場スタッフの方に尋ねると、北側から出ればすぐに販売機があると教えてもらい舞台袖に戻ったんです。そしたら----。

 そこで何かを見た…?

 そ、そうです!ナ、ナイフのようなもので娘さんの楽器の弦に傷を付けている母親の姿を見ました!た、たしかに見たんです、この目で!

係員は興奮して急に立ち上がり声を荒らげた。団長はソファに腰をかけ、コーヒーを飲んで落ち着くよう促す。自身も一口含みながらこれまでのメモを見返した。

 取り乱してしまい、すみません。

 そうなっても無理はない。君はそれほど衝撃的な事実を目の当たりにしてしまったんだ。

 …はい。その時、僕は慌てて母親に何をしているのかと尋ねると彼女は走ってその場を立ち去ったのです。

 そうか、ありがとう。これ以上この話を続けるのは君に取って大変なストレスになりそうだ。あとは僕に任せて、家へ帰ってゆっくりしてほしい。

 ありがとうございます。あの、こ、この先は一体どうなるのでしょうか?

 まずはあの子とうちの娘の精神面をケアすることを最優先にしたい。そのうえで、君の話を参考にしながら、あの子の家族とも話をしてみることにするよ。勇気を出して話をしてくれて本当にありがとう。君が話してくれなければ真実に辿り着くのは難しかったかも知れない。

 わかりました。もし何かあればまた話しますのでいつでも言ってください。

 ありがとう。あ、最後に。他にこの話を打ち明けた人は?

 家族にだけは話しました。誰にも言うなと言われましたが団長にだけは話さないといけないと思ったんです。

 そうか…よく話してくれた。本当にありがとう。

そうして係員は団長室をあとにしたが、それは団長が目にした彼の最後の姿となったのである。数日後、遺体となって発見され警察には自殺と断定された。団長は彼からの告白と死に因果関係があると思い、警察へ調書を提出すると共に、一部の楽団幹部にも事のあらましを共有した。しかし、母親が楽器に細工した物的証拠はなく、自殺との関係性を立証するには至らない。その間、幼馴染は楽団を辞め、後を追うように娘も退団して、ドイツの"練習生"の話は自然消滅となる。団長が苦悩の末に出した"オーディション"は何とも悲惨な結果で幕を閉じたのだった。

22.豹変


赤縁メガネの女性は"事件"の経緯を話を終えるとカップに口をつけた。

 すっかり冷めてしまったわね。淹れ直してくるわ。

女性は立ち上がりカップを下げトレイに乗せると、赤いピンヒールをコツコツならしながら部屋を出て行った。"犯人はきっとあの子ではない?いや、あの子かも知れないし、全く無関係の人間かも知れない"…様々な考察が生まれては消え消えては生まれるが、無論、真実に辿り着くには事実を積み上げるほかなく、想像、妄想、空想、予想、推測、勘、運、思い込みの類は一切を排除しなければならない。ただし、仮説を立ててそれを立証していくことはむしろ必要で、人類は"かも知れない"からこれまでの文化を築き上げてきたのだ。そして、ただ机に向かって考えるだけでなく、常に行動することも重要なのである。

コートも脱がずに話を聞いていたソナタは左ポケットに入っている紙の裏側に要点を書き留めていて、それを見ながら赤縁メガネの女性の話を思い返し次のアクションを考え、やがて一つの仮説に辿り着いた。自信なさげな男性は足を広げ両肘を太ももに置き、組んだ手を額に付けて目を瞑ったまま動かない。

 ところで変装名人さん、いつまでそうしているつもり?

男性は体勢はそのままで、口角を上げニヤッとした笑みをこぼした。

 あの子は見たことないけど新人さんなのかしら。

 とても優秀なんだが話が長くていけないな。ゆっくり話している時間がなくなったよ。続きは車の中で。

その男性は顔を上げてそう答えると入口のドアを開け部屋を出るよう促した。自信なさげな雰囲気は消え、別人のように堂々とした男性に先導され裏口から外へ出ると、2人は目の前に止まっている車へ乗り込んだ。助手席に座ったソナタが隣の男性を見ると見知った表情の旧友へと変わっていたが、変装が解かれることはなかった。

 それにしてもあなた、よく私の居場所が分かったわね。GPSも何もかも取り上げられたって言うのに。

 何もかもぉ?俺を見くびってもらったら困るなぁ。ちゃんと君の体内に入っているじゃないかぁ。

 あなた、まさか…

23.盤石


 おや?珍しく感が鈍いなぁ。

 あんな小さい紙にGPSが混入されているなんて気付くわけないわよ…。しかも何日前の話?いつまでも体内に残るなんて恐怖ね。

 紙を飲み込んだら証拠隠滅…なんて時代はもう終わったってわけさぁ。何でも飲み込むクセ、もうやめたらぁ?

 はいはい、あなたの発明が優れているのはもう分かったわ。さあ、事件解決をしましょう。

 …ソナタ、思っているよりも状況は相当悪いんだ。まもなく君に国際指名手配がかかる。

 な、何ですって?!一体…何が起こっているの?

筋骨隆々、目尻が下がったハの字眉毛でブロンドの短髪がよく似合う旧友はどうやら喋り方のクセが強いらしい。だがシリアスな話になるとキリッとした表情でハキハキと言葉を口にする。あえて使い分けているのか、それとも素なのか…それはもはや本人にしかわかるまい。

 ネパールからベルギーへ不法入国し、最も有名な音楽家の1人を殺害してその場から逃亡した…という容疑だ。遺体とともに殺害現場にいる場面から、室内を物色して施設から脱出するまでの一部始終がSNSにアップロードされたのさ。

 何者かが私を嵌めようとしている----それは間違いないようね。

 ああ、なかなか手強そうだねぇ。このまま2人でどこかの山奥で暮らそうかぁ?

 相変わらずユーモアのセンスがないわね。とにかくいまは自分のことより受けた仕事を最後までやりきらないと。

 ははは、君らしいねぇ。だが俺が"上"を黙らせておけるのにも限界があるなぁ。警察よりも早く君を探せとの指示だよぉ。

 とんだ人気者ね。私何か悪いことでもしたのかしら?

 さあねぇ?自分の胸に聞いてみるといいよぉ。まぁとにかく、捜査は終わりにしてこれからのプランの話をしようかぁ。あとはさっきの新人が何とかしてくれるはずだしねぇ。

 新人でも彼女が正式な"上"の人間なら、この事件だけの話で言えば私の出る幕はないわ。でもいまは状況が違う。ルンビニとアントワープ…この2つの事件を紐解いてそこから得られるヒントを基に私たちは次のアクションを考えるべきよ。

 ふ〜ん。まぁ推理力に関しては君の方が格段に上なのは認めているからねぇ。次の目的地に着くまでの暇つぶしにもなるし話だけは聞こうかぁ。

 相変わらず鼻につく言い方ね!…まあいつものことね。

ソナタは彼のペースに乗せらそうになっていることに気づき我に返った。アントワープの街を後にして2人を乗せた車は田舎道をひたすらに走り続ける。警察から、そして間もなく"上"からも追われる身となるソナタと、唯一の味方である旧友の間にはどうやら強固な信頼関係が築かれているようだ。

24.良計


 ルンビニとアントワープ。そしてそれよりも前に発生した数々の"著名人殺し"には共通点がある…恐らくはこんな感じね。

 第1階層:ターゲット
 クライアントが殺害したい人物。
 事件の被害者。

  第2階層:マリオネット
 自身の意思でターゲットを殺害した(する)
  と思い込んでいるが、実際はプランナーの
 策略により殺人を実行するよう仕向けられ
 ている人物。事件の実行犯。
 ※ルンビニの事件の実行犯は妻ではなく夫

 第3階層:クライアント
 プランナーへ殺人計画を依頼する人物。
 事件の真犯人。

 第4階層:プランナー
 クライアントへ殺人計画を授ける人物又は
 組織。一連の"著名人殺し"の黒幕。

 へぇ。面白いねぇ。じゃあ今回の事件もそれに当てはまるってことかぁ。詳しく知りたいねぇ。

 その前に、私と団長の娘を引き合わせた人物の話をするわ。それは…あなたね!

 おぉ。やっぱりバレてたかぁ。

 殺人現場から脱出した直後にたまたま団長の娘と遭遇することなんてあり得ない。ってことは、唯一私の正確な居場所を知っているあなたか、私を嵌めたプランナーのどちらかの策略ってことになるわ♪

 策略なんて人聞きが悪いなぁ。なんで俺だと分かるんだい?

 目的は2つ。1つ目は私のボディガードとして。2つ目は犯人の手がかりを見つけること。

 ん〜どういうことかなぁ?話が見えないよぉ。

 あなたの"お惚け"は久しぶりね!受けて立とうじゃない♫

自身の推理を披露する時のソナタは普段にも増して明るくポジティブな雰囲気になるのは彼女のクセだろう。そして旧友の"お惚け"もまたいつものことのようだ。

 私は常にプランナーに追跡されている身。その理由も、なぜ生かされたままなのかもまだ分からないけど、方針が変わり殺される可能性だってある。あなたのことだからそれを察して彼女をボディガードに付けた。

旧友は静かにソナタの推理を聞くモードに入ったようだ。いや、これは彼のクセなのだろうか。

 もう一つは私が現場から得た情報と彼女が持つ情報を掛け合わせて、私が事件解決に繋がる手がかりを見つけ出すことを狙ったのね!実際に私は彼女の身の上話などを知ることで、ターゲットの手帳を利用したトリックを解き明かすことができて捜査は進展し、"あの子"が何らかの関与しているのではないかと仮説を立てることができた♪

 …。

 さらに、"過去の事件"についてあなたたち2人がわざわざ楽団員に扮して私に長々と語ったのも理由は同じ。警察よりもいち早く事件を解決したかった。プランナーの手がかりを得るために。警察よりも先に真相に辿り着かなければ犯人への尋問もできないし、プランナーに逃げられてしまうリスクが高まるもんね♫

 …。

25.優先


ソナタの推理が冴え渡るほど旧友のテンションはみるみる落ちていくようだ。2人を乗せた車はただただ無言で道なき道を直走る。目的地も分からぬままに…。

 お惚けの次は無言…この感覚ほんとに久しぶりだわ♫

 …。

 そして、あなたは警察だけでなく、"上"より先にも真相に辿り着こうとしているわ…だから単独行動をしている。すべては私のために…国際指名手配がかかろうとしている私を逃すのと、その手配を解除するために…ね♫

 "自分のため"とそこまで自信をもって言えるのは君らしいねぇ。でも根拠がないなぁ。想像の域を出ないし、プランナーも殺害現場からの君の動きはすべて把握しているはずさぁ。

 …もうお惚けはいいわよ。ルンビニへ行く前にあなたが私へ渡したメモには3つの目的があった。1つ目はロンドに関する調査結果の報告、2つ目は私の体内へのGPSの投与、そして3つ目は…緊急時のメッセージ♫

 ははは!肉眼でほとんど読めないような文字によく気付いたねぇ。…なんてねぇ。

 あなたはカメラアイを持つ私であれば気が付く仕掛けをした。ルンビニの前のメモには"a"、アントワープのホテルでは"b"と、ほぼ視認できないようなサイズで書き記し、この2つは同一人物…つまり、あなたからのメッセージであることを私に伝えたかった。あの紙袋がプランナーの罠ではないことを証明するためにね♫

 …。

 万が一、初見でメモを見過ごして処分したあとでも、私なら何度でも脳内で正確に再現ができるからね。こうしてあなたはプランナーに悟られることなく楽団事務所に自分がいることも暗に示すことができた。私がアルファベットに気付くことも、アントワープのホテルから楽団へ行くことも100%ではないはずなのにね。一般的には不確定要素があっても、あなたはこのやり方は私のことを熟知しているからこそってところかしら♫

 はいはい、何でもお見通しですごいねぇ。お利口お利口ぉ!

旧友は昔から、何かもずば抜けた能力を持つソナタをよく茶化した。周りのほとんどの人間はこれを妬むか、神童として崇めるかの二極化だったのだが、ロンドとこの旧友だけは対等にソナタと接してよくイジって遊んでいたのだ。

 ところで、"長話"からなんかヒントは得られたのかい?

 ええ…"ママ"のところへ連れて行ってほしい。私の仮説が正しければ、きっとそこで答えに辿り着くのに必要な最後の情報が得られるはずだわ。

 残念だけどそれはできない。君はもう"逃亡者"だ。だがいま逮捕させるわけにはいかない。君には君のやるべきことがある。

 プランナーの正体を暴き出すこと…ね。でも一度関わった事件を投げ出すなんて私の性に合わないわ!ルンビニの事件だって中途半端なままなのに----。

旧友の口調が変わり、ソナタは事の重大さを改めて噛み締めたが事件コンサルタントの仕事を全うすることもまたソナタの中では重要なことなのだ。

26.核心


 俺らの会話はさっきの赤縁メガネが聞いている。アントワープの事件の捜査は彼女に任せるんだ。

 ----殺害現場には被害者の手帳のほかにメモがあったわ。そこにはこう書かれていた。

"pfpp fff ppff fppf fppf"

 …。

 2人が幼少期に遊んでいた暗号遊びの1つじゃないかしら。さっき聞いた過去の事件の中で言ってたわね。

 その言い方だともう解読ができているようだな。

 まあね。よくある簡単な暗号よ。あのとき、団長の娘と名乗る女性に手帳のことかメモのこと、どちらを話すか迷ったわ。とても良くしてくれたとはいえ、完全に信頼できるかどうかの判断を下すには時間が足りなかった。でも情報を出さないことには事態が前に進まない。一瞬のことではあったけどそんな葛藤の末、まずは情報量が多い手帳の話を持ち出した。

 …。

 きっとこれで良かった。団長の娘にメモのことを言っていたら、彼女はすぐその意味に気付いて1人でクライアントの元へ向かっていたかも知れない。

 う〜ん、もう少し順序良く話さないと赤縁メガネがついてけないよぉ。

旧友の口調が戻った。どうやら彼は極めてシリアスな会話の時だけ語尾が伸びるクセがなくなりハキハキと話すようになるようだ。

 私はあなたの部下の教育係じゃないわ。それはあなたの仕事。そんなことより、過去の事件を知ったうえでメモにあった暗号を解けば、捜査線上に新たな人物が浮かび上がる。つまり、私は最初から"答え"につながる情報を持っていたってことね。

 へぇ。

 しかも、あなたは私に隠してることが少なくてもまだ2つある。1つは極めて重要なことよ。

 …。

 1つ目。あなたは団長の娘をボディガードとして私に近づけた。ただ一般人の彼女にそれは務まらないし、彼女自身にも危険が及ぶ可能性もある。あなたのことだから、彼女のことも私のことも守ることができる策を考えたはずよ。

 …。

 お得意の変装。彼女に代わる誰か…赤縁メガネさんなのかほかの人なのかは分からないけど、"上"の人間を彼女に変装させ送り込んだ…いや、送り込もうとした。

 おやおや、気付いていたんだねぇ。

 私を騙そうなんてあなたも偉くなったわね。私が一般人と"上"の人間の違いを見抜けないとでも?

 まぁ、そう簡単に見抜けるのは君とあと数名しかいないだろうけどねぇ。部下には厳しく教育しておくことにするよぉ。

 つまり、"上"の人間に団長の娘の変装をさせて、私のボディガード兼アントワープの事件を解決に導くパートナーとして送り込もうとした。だけど、結果的に私の元へ来たのは団長の娘本人だったということ。

 ご名答。相変わらずやるねぇ。

 2つ目。これからの私たちにとって極めて重要な事実であり、早急に明らかにすべき重大事項よ。

 …。

 いくらあなたがGPSで私の位置を特定できたとしても、団長が殺されてからその娘を私に近づけるまでの段取りをここまで素早くできるわけがない。----そう、この事件が発生することを事前に知っていない限りね!!

27.嘱託

 君はいつも話が早くて助かるねぇ。

 どういうこと?

 おや?やっぱり最近疲れてるのかなぁ?勘が鈍くなったねぇ。

 大きなお世話よ!ムダ口はいいから本題に入りなさい。

 おっとぉ…もうすぐ目的地だからねぇ。軌道修正感謝するよぉ。まずはダッシュボードを開けて、右上奥にあるスイッチを探してくれ。

旧友の言われたとおりダッシュボードの奥に手を伸ばすがすぐに突起物のようなものには触れられなかった。指先の感覚を頼りに少し時間をかて丁寧に感触を確かめると、やがて針先ほどの小さな窪みに気付く。しかしとても手指では届かないような穴のサイズである。

 スイッチか分からないけど何かの窪みがあるようね。

 その窪みの奥にあるスイッチをこれで押すんだぁ。

旧友は自分の髪の中からシャープペンシルの芯ほどの太さと長さの棒状のものを取り出した。強度は高く手で簡単に折ることはできないようだ。

 特殊な材質でできてるから、そのスイッチを起動させるにはこれでしかできないんだなぁ。

 あなたの"そういう技術"には私でも勝てないわ。

ソナタはそう呟きながら"棒"を受け取り、再びダッシュボードへ手を伸ばして窪みに突き刺す。するとダッシュボードのちょうど真上の天井の一部がパカっと開き、助手席に座るソナタの足に手のひらサイズのタブレット端末が落ちてきた。訝しむソナタを横目に旧友はタブレット端末を左手に取ると自身の指紋、虹彩、静脈を読み取らせたあと20桁の数字を声に出し、その直後に端末が起動して画面が点灯した。旧友はソナタの人体情報と新しいパスワードを端末に登録し終えると話を続けた。

 ソナタ、これがプランナーの正体に近づく鍵だ。俺はこのエリアで事件が起きる可能性があると分かっていた。"上"が開発したこのアプリによってね。

 こ、これは…予想を遥かに超えてきたわね。私もまだまだだわ。

 この端末を君に託す…何とかして著名人殺しの真相究明を進めてほしい。理屈は不明だがこのアプリの情報は正確だ。0.5刻みで表示される"星の数"を頼りに事件が発生するエリアを絞り込み捜査をする…俺らはこれまでそのやり方を繰り返してきた。星1や1.5のエリアでは一向に事件は起きないが2.5や3ではほぼ間違いなく"著名人殺し"は起きる。だが残念ながら事件を未然に防ぐまでには至っていない。いまの仲間の数でターゲットの候補者全員に24時間見張りをつけることはできないんだ。

 ま、まるで予言書ね。あなたですらも解明できないロジックを組み、"上"はこのアプリを開発した。ここについても調査が必要なようね。

 あぁ、そういうことだ。あと2つ注意をしてくれ。タブレットはその"棒"でしか操作ができないこと、そして…アプリの使用は"上"から許可されていない。それは俺が無断でコピーしたものだ。これから君と接触してくる者はすべて敵とみなし、アプリのことは決して口外しないように。今回のことで改めて感じたが、君は人を信じすぎる。

 はいはい、ご忠告ありがとうございまーす。

ブスッとした表情を見せたが自分のことを思って言ってくれることは分かっているので素直に聞き入れることにしたようだ。

 さぁお喋りは終わりだ。ソナタ…しばらく俺の支援は期待できないと思ってくれ。逃亡生活をしながら1人で捜査を続けることを託して本当にすまないが、これは君にしかお願いできないことだ。

 あなたの無茶振りはいまに始まったことではないからいまさら驚かないけど…あなたはこのあとどうするつもり?

28.媒鳥


 俺には俺のやるべきことがあるってことさ…。

辺りがすっかり暗くなるころ、2人を乗せた車は木々が生い茂る山奥へと入った。車体が見えなくなるほど密に、そして背が高く伸びた草木を掻き分け、旧友はある地点で停車した。

 時間がない。追手はすぐそこまで来ている。もう一回同じスイッチを押すんだ。

ソナタが旧友に言われたとおり実行すると後部座席の足元から音が聞こえた。足を置く部分が水平に開き、草木が生い茂る地面が露わになる。旧友は後部座席に移動してそれらを掻き分けると人間1人分がギリギリ通過できるほどの竪穴と縄梯子が見えた。

 梯子を降りた最終地点には金属の扉がある。いまから解錠するから扉の向こう側に入ったらすぐに鍵を閉めてくれ。最奥部まで進めば俺の部下が待っている。

 ----わかったわ。

 君の推理…マリオネットとクライアントが誰かを聞きたいところだったが時間切れだ。この通信機で最奥部に向かう道中、君から直接赤縁メガネに知っている限りの情報と君の仮説を話してほしい。これなら地中深くでも途切れることなく会話できる。

 …ねえ、1つ教えて。あなたはなぜそこまでして"著名人殺し"の真相にこだわるの?

 ふん。君と俺、そしてロンド…3人で交わした言葉…それを信じ続けているだけだ。さぁ!行け!この車は2分以内に爆発する!

すると団員の格好をしていた旧友は瞬時にソナタそっくりの姿へ変貌を遂げた。そのまま車を降りて鬱蒼とした森の奥へと走り出す。旧友の強い思いを胸に、ソナタは即座に縄梯子へ手足を掛け地中深くへと降りていく。50mほど下ったところで耳を劈くけたたましい砲声のような音がしたが気にせず手足を動かし続けた。縄梯子は壁面にしっかりと固定されているため影響はない。真っ暗な竪穴をさらにしばらく降るとようやく足が地面に付いた。タブレットの明かりで辺りを照らすことで辛うじて歩いて進める高さと幅の横穴を見つける。ソナタはゆっくり一歩ずつ前に足を進めた。しばらくすると爪先に何かがあたり横穴の中にガンッと音が響く。ソナタは"金属の扉"に辿り着いたのだった。

29.模糊


事件当日、幼馴染と団長は楽屋で話をした。

 本当に久しぶりだね。元気そうで何よりだよ。

 団長、ご無沙汰しています。その節は母が大変なことをしてしまい、どうやってお詫びをしていいのか…申し訳ありません。

 …私にも大きな責任がある。だがいまの立場を退かないことにしたのは、その"責任"から逃げないためだ。ところでいまも音楽は続けているんだろう?

 ええ。でも今日はそのお話ではないんです。これをあの子に渡してほしくて来ました。

団長が受け取った手のひらサイズの白いメモ用紙には"pfpp fff ppff fppf fppf"と書かれていた。このあと、幼馴染はすぐに楽屋を退室し、程なくしてアントワープの事件が発生したのだ。これは、音楽記号のp(ピアノ/弱く弾く)とf(フォルテ/強く弾く)を使ったモールス信号である。モールス信号とは、短い点と長い点を掛け合わせ言葉を作ることができるもの。彼女たちはpを短点、 fを長点に置き換え幼少期に暗号遊びをしていた。

今回の暗号を読み解くと、"かれのまま"となる。つまり、"彼のママ"…誰のことだろうか。それは、幼馴染の母親ではなく、自殺したと見られる舞台袖にいた係員の母親であると考えられる。ソナタは過去の事件と暗号のメッセージを結びつけ、係員の母親が事件に関与している可能性を見出した。しかし、幼馴染がわざわざ団長宛に暗号化したメッセージを渡した理由、"彼のママ"の関与を知っている理由は、ソナタもまだ解き明かすことができていない。これ以上ソナタ自身による捜査は不可能であり、赤縁メガネの女性に託し自分のやるべきことに注力することにした。それが、息子やロンド、メライ、バルカ…大切な家族を守ることに繋がると、ソナタはもう確信している。しかし、旧友から託されたタブレットがあるとはいえ、相手の姿はボンヤリと…いや、いまの時点では見えていないと考えた方が良いだろう。そんな相手との対峙はソナタの頭脳をもってしても簡単なことではないのだ。

アントワープの事件のクライアントは"彼のママ"、マリオネットは幼馴染の母親、ターゲットは団長…仮説が正しいのであればこういうことになる。だが、この誰もが物語の登場人物に過ぎない…すべては"著名人殺し"の首謀者"プランナー"の筋書き通りにコトが進んでいるだけだ。憎悪の火種に薪を焚べ、その炎を大きく、そして黒く…深い闇の色に育てていく。こうしてクライアントやターゲットに恰も自分の意思で事件を引き起こしていると思い込ませる。これがプランナーの完全犯罪の手立てだ。ただ今回に至っては急遽ストーリーを書き直し、マリオネットの演者をソナタへ変更したようだ。なぜ彼女が狙われているのか、それもまだ謎なのである。

旧友は団長の娘の替え玉を用意しようとしたが、父親が殺害された事件の捜査に何とか協力したいという本人の達っての願いにより、自分自身でソナタと接触した。すなわち、彼女たちのやり取りにウソはなく、短い間ではあったが彼女たちの間に確かな信頼関係が芽生えたことだけは、紛れもない真実であった。

ロンドの旅Part2ソナタの旅 Chap3へ続く

#ロンドの旅
#ソナタの旅
#ロン旅
#ソナ旅
#ミステリー小説
#ソナタ
#ロンド
#カクヨム
#小説家になろう
#金賀こう
#斉田キョウ
#ミステリー
#小説
#新感覚
#新感覚解決しないミステリー
#解決しないミステリー
#解決しないミステリー小説
#キョウ
#こう
#メライ
#バルカ
#インスタ小説
#japanesenovel
#konovelchannel
#moteruchannel
#RondosJourney
#mysterynovel
#mystery
#novel
#モテルちゃんねる
#ミステリー小説部門

この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?