「火垂るの墓」は「反戦映画」として作られたわけではなかった
「火垂るの墓」がネットフリックス(日本以外)で配信されたらしい。これは小学校の時、ほぼリアルタイムで学校の授業で観たのが最初で、ふつうの子供向けアニメしか観たことない子供にとってはかなりショックの大きい作品だった。ただ作り手と観客の間には思いのズレがあるのが常でもあり、後に知ったところでは意外なことに高畑勲監督はこの作品を必ずしもいわゆる「反戦映画」として作ったわけではないという。
確かにこの作品は戦時下における空襲の惨たらしさをはじめ、生活の貧しさ、それによって利己的になる人々の冷酷さなどが淡々と描かれている。ただだからといって「だからこうしていこう」「もっとこうあるべきだ」といった直接的なメッセージを語るような人物は登場していない。「反戦映画」として作ったわけでない以上、「はだしのゲン」みたいにプロパガンダに利用されることを好ましくは思わないだろうが、それでも観客が「反戦映画」と解釈すること自体を高畑監督は不本意に思ってはいないらしい。
じゃあ何なのかと言えば、高畑監督の狙いは、戦時下のあの時代を通して今(1988年制作当時)の少年を描くこと、にあったらしい。清太と節子が神戸大空襲で家と母を失い、そこで西宮のおばさんの世話になるわけだが、その西宮おばさんが清太に色々と嫌味を言う。観客目線で普通に見ればおばさんは嫌なキャラという立ち位置だが、高畑監督によれば当時は自分の家族が食べるだけでも精一杯で、あの程度の嫌味はよくあると言えばあることで、おばさんは特段良い人でもないがかと言って特段悪い人でもないのだという。
そして当時の少年ならあの程度の嫌味を受けてもそこで「我慢」をするのだという。確かに良くも悪くも「我慢」で乗り越えるのが当時らしいと言われれば確かに頷ける。ところが清太はそこで「我慢」をしない。おばさんに「横穴にでも入ってろ」みたいに言われると、節子と家を出て本当に横穴(防空壕)に住みはじめてしまう。高畑監督があくまで「今の少年」を描いた、というのはこのあたりに強く表れている。「キレる少年」みたいなのは90年代以降だが、堪え性が無くすぐ「ムカつく」みたいに言う傾向は当時からあったようで、要するに清太はあのおばさんに「ムカついてキレた」という事だ。
公開当時の1988年と言えば超バブル期でもあり、若者も浮かれまくってナンパに、軟弱に堕落していたのは恐らく否めない。高畑監督はそこまで直言してないがあえて「今の少年」を描いた意図は「君たちに果たしてこの時代が生き残れるか」というメッセージだったようにも思えてくる。そう考えるとこの作品はある意味高畑勲版「君たちはどう生きるか」だったのではともまた思えてくる。
尚、宮崎駿によれば、清太がエリートである海軍士官の息子なら、父が戦死した場合軍は探し出してでも食わせてやる筈だから餓死はあり得ない、と突っ込んでいる。