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風姿花伝/世阿弥(読書記録)

Point

  • 物事を学ぶには段階があり、その時々に適した学び方をする。

  • 初心を忘れず継続して道を究めていく人が大成する。

  • 秘すれば花。珍しさや緩急に人の心は動く。

はじめに

何かを表現するということは、大なり小なり多くの人が避けられないこと。
日本の総合舞台芸術である能。
その能を大成させた世阿弥という方の、約700年前の著作。
私は仕事からプレゼンをする機会があるが、その時に通ずるものがあった。

本のこと

  • 現代語訳 風姿花伝

  • 世阿弥、水野聡

  • PHP研究所

「風姿花伝」は能の大成者・世阿弥が約20年の歳月をかけて著した、至高の芸術論にして人生論。わかりやすい現代語訳として提供する。

『風姿花伝』は能の大成者・世阿弥が著した、日本最古の能楽論である。『花伝書』の名称でも知られる本書は、「花」と「幽玄」をキーワードに、日本人にとっての美を深く探求。体系立った理論、美しく含蓄のある言葉、彫琢された名文で構成される、世界にも稀な芸術家自身による汎芸術論である。原文の香気が失われぬよう、かつ自然な現代語としてスラスラと読めるよう、工夫を凝らした現代語・新訳として提供する。七歳から年代順に具体的な稽古要領を記した「年来稽古條々」、物真似の本質を把握し表現する「物学條々」、Q&A形式の「問答條々」。そして、「花」の本質を説いた「別紙口伝」。章立て・語り口はあくまで明快、シンプルである。大陸伝来の文化から袂を分かち、日本人自ら育て、咲かせた最初の美しい「花」――。風姿花伝は700年を経た今日でも、広く表現に携わる方々はもちろん、人生訓としても読める懐の深い名著である。 https://www.amazon.co.jp/現代語訳-風姿花伝-世阿弥/dp/4569641172

Memo

稽古の要点

一、 好色、 博打、大酒への 三重 戒。亡父、 観阿弥 の掟である。 一、稽古は強くあれ、しかし 慢心 はもつな、との教えである。
ピンク色のハイライト | 位置: 81

第一   年来 稽古 條 々

7歳)自然に任せて心のままにやらせてみる。大人があれこれ言うと、やる気を失い止まってしまう。
12歳)自覚が出て、上手くなってくる。基本を大切に教える。
17歳)落ち目に入る。しかし「一生の分かれ目はここだ」と覚悟し、人の目は気にせず鍛錬に励む。
24歳)結果に繋がりだす。しかし思い上がらず、初心を忘れない。
34歳)能力のピークを迎える。しかしより一層慎んで物事に当たり、将来を考える。
44歳)後継者を育てる。能力は落ち目に入り、自分の役割を認識してパフォーマンスをする。50歳)
「しない」ことを意識する。豊富な経験を活かし、世に役立てる。

結果が出たときこそ、初心を忘れない

この時の花こそ 初心 のたまものと認識すべきなのに、あたかも芸を 究めたように思い上がり、はやくも見当違いの批評をしたり、名人ぶった芸をひけらかすなど何ともあさましい。たとえ人にほめられ、名人に競い勝ったとしても、これは今を限りの珍しい花であることを悟り、いよいよ物真似を正しく習い、達人にこまかく指導を受け、一層稽古にはげむべきである。  この一時の花をまことの花と取り違う心こそ、真実の花をさらに遠ざけてしまう心のあり方なのだ。人によっては、この一時の花を最後に、花が消え失せてしまう 理 を知らぬ者もいる。初心とは、このようなものである。 一、 公案 を尽くし考えるべし。自身の芸位と格を客観的に心得るなら、もとある花は死ぬまで失せない。しかし本来の実力以上に思い上がるなら、もともと備わっていた花をも失ってしまう結果となる。よくよく心得ること。

老人の演技

ただ、老い木に花の咲かんがごとし。

プレゼンのコツと同じ

神事、貴人の 御前 などの申楽で、大勢の客が詰めかけ、会場がいまだざわついていたとする。こうした時シテは客席が静まるのをじっと待つ。観客は申楽の開始を待ちわびて、数万人の心がひとつとなり、今や遅しと楽屋に意識が集中する。この時を見計らって登場し 一声(注一) を謡いだすのだ。すぐに客席も時の調子に移って、万人の心がシテの振る舞いに 和合 し、しみじみとなる。こうなれば、何をしようともその日の申楽はもはや成功だ。

昼と夜に演じるときの違い

そもそも一切のものは、陰、陽和するところの境に成就することを知るべきである。

序破急

問い 能において、 序破急(注三) をどのように定めるべきであろうか。  答え これはたやすく定めることができよう。一切のことに序破急があるが、申楽も同じである。

過去にすがっていると花を失う

すなわち最も肝要なことは、能の命は花にあり、ということ。すでに花の失せてしまったことも悟らず、元の名望にのみすがり続けること、返す返すも年取ったシテの誤りである。

人には得手不得手があり、立場を問わず、互いに尊重して高め合うべき

上手は下手の手本、下手は上手の手本とわきまえ工夫すべし。下手の良いところを、上手が自分の得意芸の中に取り入れることはこれ以上ない理想的な方法である。人の悪いところに気付くだけでも自分の勉強になるというのに、ましてや良いところについては、言うまでもない。「稽古は強くあれ、しかし慢心はもつな」とは、まさにこのことである。

花は心、種はわざ

この 理 を悟るにはいかがすべきか。はたして別紙の口伝にでもあるものだろうか。ただいたずらに 穿鑿 すべきものではない。まず七歳よりこのかた年来稽古の條々、物真似の品々をよくよく心中に当てて分かち覚え、能を尽くし工夫を究めて後、この花の失せぬところを知るべきである。この物数を究める心が、すなわち花の種となる。されば花を知りたくば、まず種を知ること。花は心、種はわざ(芸) である。

自分の芸を究めるには、数も必要だ

己 の芸風の 本 を 疎かにする者に能の命は決して宿らない。これは弱いシテである。自己の芸を究めてこそ、あらゆる芸風をも知ることができるのだ。様々な芸に目移りして自身の基本を疎かにしているようでは、自分の芸もわからず、ましてや他の芸風を確かに身につけることなど叶うはずもない。されば能も弱く、花の命も短くなる。花の命が短いということは結局いずれの芸風も知り得なかったと同じことである。されば第三 問答條々、花の段にも「物数を尽くし工夫を究めて後、花の失せぬところを知るべきである」といったのだ。

花は散る

そもそも花というもの、 万木 千草 四季折々に咲くものであって、その時を得た珍しさゆえに 愛でられるのである。申楽においても人の心に珍しいと感じられる時、それがすなわち面白いという心なのだ。花、面白い、珍しい。これらは三つの同じ心である。いずれの花でも散らずに残る花などあろうか。花は散り、また咲く時があるゆえ珍しいのだ。能も 一所 に 常住 せぬところを、まず花と知るべきだ。一所にとどまらず他の姿に移り行くことが珍しいのだ。

知られてしまえば、花は散る

秘する花を知ること。秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず、という。

時の用に足る

経典 に「 善悪不二、 邪正一如」とある。本来良い・悪いなど何をもって定めるのか。ただ時により用に足るものを良い、足りないものを悪いとするだけのこと。この芸の品々というものも、その時代の人々所々によりその時の 遍き好みによって、受け入れられるものが用に足りるため、花となるのだ。ここではこれこれの芸がもてはやされ、かしこではまた別の芸が愛される。これぞ人それぞれの心に咲く花である。いずれがまことの花であろうか。ただ時の用に足りるもの、それを花と知るべきである。

風姿花伝とは

能の大成者、世阿弥が亡父観阿弥の 遺訓 を基に著した、日本最古の能楽理論書

感想

能を教え、学ぶことについて書かれているけれど、人生訓のようにもとれる。
人にはその時々の『花』がある。
それに驕らず、初心を忘れず、鍛錬を続けていける人こそ、生涯『花』を持ち続ける。
私自身もそうだが、息子との接し方についても、この本の教えを忘れずにいたい。

おわりに

ありがとうございます。

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