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それは突然、本棚の一冊から始まった

高校時代、ある日、なぜそうしたかはわからないが、図書室で手に取ったアラビア語関係の本の著者をネットで検索した。

その著者が自分の進学先の大学でアラビア語を担当していることがわかった。


そんな偶然あるのだろうか



私、この人の授業を受けたいー

その2ヶ月後には、顔も声も知らなかったその本の著者から授業を受けていた。

こんなロマンチックな出逢い、舞い降りてきてくれちゃってありがとう。


高校の一室の本棚に潜んでいたその本の著者の授業は、大学の敷地の奥まったところにある小さな教室でおこなわれた。

日当たりが悪く薄暗い。


受講生はというと、アラビア語の授業を選んで来るくらいだから、何か一風変わった学生の集まりだろうと目だけを動かしながら慎重に見渡す。


一番怪しいのは 間違いなく私だろう。


マイナーな言語(といってもアラビア語は国連の公用語だ)を学ぶ人は、「変人」だと揶揄されやすい。
まぁ、確かにあえてそこを突いてくるあたり変なのかもしれない。

しかしマイナーなものを受け入れるどころか積極的に取り込もうとしているわけで、つまり他者への許容度が高く余計な固定観念はあまりない。

受け入れたいし染まりたいしチャンネルを持ちたいのだ。私にとっては宝物を手に入れたような気分になるのだが。


日本でテレビをつければ、アラビア語の登場シーンは大抵1パターンだ。
『砂埃が煙たい瓦礫の建物と顔を極限まで覆った銃を持った武装勢力』。じゃなくてもいいが、そのほとんどは危険な映像とセットで下のほうに真っ黒な蛇のようなアラビア文字が被さっている。

その地域での戦闘や勢力が危ないという情報だけでなく、アラビア語まで危ないヤツみたいな印象を与えかねない演出だ。


試しに周りの老若男女に聞いてみたら、アラビア語...?怖い...と、見事に刷り込まれてしまっている。


という日本でのアラビア語の宿命に乗っかるようなタイプではない私は、魔法の絨毯で夜空を飛ぶような高揚感で授業に臨んでいた。


完全に吸い込まれたのは、先生がかけてくれたアラブ圏の曲だった。
あの最初のタイミングであの曲をかけてくれたのは先生の戦略勝ちと言っていい。

薄暗い教室で、誰もが静まり返り、エジプトで有名な歌手のアラビア語がゆっくりと充満していくあの感じがたまらなかった。アラブの独特さがありながらも現代のポップミュージックだからか馴染みやすい。アラビア語の語尾の伸びが曲の中で存分に生かされている。

もともと吟遊詩人の文化だったからか、言葉そのものが歌のようなのは言うまでもない。
さらに、彼らの音階はかなり細かく区切られており、その僅かな音階の上がり下がりがあの神秘性を醸し出しているのだろう。

その上下はデジタル式では表せないような魅力を持つ。前後の境目がわからないようなアナログさがあるのだ。御線香の煙のように、アラビア語の音は絶妙な線を描く。


そんな"音"で面白いのは、「ダードの民族」といって「ダード」という文字の発音はアラビア語を話す民族にしかできないというものだ。(それほど難しいということ)

「ダード」は調音が複雑で厄介なためか、発音が変わってしまった国もある。広範囲にわたるアラビア語圏においては母語に引っ張られる形で変形してしまうのだ。
これはアラビア語に限らず、どの言語にもあり得る現象だ。

複雑な音は脱落し消えていく運命にある。
文字もそうだろう。

ダードの生き残りをかけて私も参戦すべく、気を引き締めて発音してみたら意外とすんなりできたし、先生からもOKをもらえた。


なんだ、できたじゃん。


こんなに簡単にできてしまっては、せっかくの「ダードの民族」という彼らのプライドを傷つけてしまう気がするので、まだまだ修行中ということにしておこう。実際、アラビア語自体は習得は難しいと思う。


文字を覚えるのは覚悟が必要だ。

結局、週一回の授業を一年かけても文字はよくわからなかった。

だが、全くアラブに関係のない国に短期語学留学をした時、たまたまそこにサウジアラビア人がいて(イケメン)、仲良くなったため帰国後に猛練習して1週間で文字は覚えた。


要はやる気だ。


難しそう?危なそう? 関係ない。


「イケメンのサウジアラビア人と少しでもアラビア語で話したい」
そんな燃えたぎるようなやる気さえあれば、あらゆる言い訳なんて途端に消えていく。そんなもの、最初から逃げるための都合のいい幻覚だ。


あえて強調しておくが、そこにいたサウジアラビア人たちは私たちがニュースで見るような武装もしていないし怪しくないし怖くもない。

優しくて面倒見が良くて、元気だった。

結局は「人」だ。国民性はあるにしても。


アラビア語に魅せられて、結局その先生のアラブ関連の授業は全て履修したと思う。まさか高校で手に取った図書室の一冊の著者と、こんなに時間を重ねると思わなかった。

男女問わず皆に尊敬されていた。


この時に覚えたアラビア語は、のちの東京五輪フィールドキャストとしてエジプトの選手たちとのコミュニケーションで大いに役立った。
本当に簡単なものしか言えないけれど、選手たちは、私を一番気に入ってくれた。


繰り返すが、彼らは武装していないし危なくないし怖くない。お茶目で表現が豊かでちょっと抜けてるところもありつつ、人間味たっぷりだ。


noteの皆さんのように、言葉に対するアンテナが高く言葉を重んじる方々なら、きっとわかってくれるだろう。


そんな安心感がnoteにはある。


久しぶりにまたアラビア語でも紙に滑らせてみるかな。

私のアラビア語エピソードは、この先もまだ幾つか生まれそうだ。

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