1 2年半ぶりの南米 【コルドバ編】 「しあわせの花束とゲバラを探して——南米大陸縦断の旅」|北澤豊雄
これが南米流お出迎え
タクシーを降りると乾燥した濃い闇に包まれた。
目の前の小さなホテルのガラス張りの扉の取っ手には重々しい鎖が幾十にも巻かれて訪問者を立ち止まらせている。夜の底に腹を空かせた犬の鳴き声がどこからともなく鋭く聞こえてきた。僕は全身をこわばらせながら周囲と扉周辺とに目をやっている。インターフォンらしきものはなく、扉の向こうの暗闇にレセプションの影もない。タクシーを待たせておけばよかったと後悔したが後の祭りである。闇が一段と重くのしかかり、背筋に冷たいものが走った。
2022年6月3日の深夜3時過ぎ、僕はアルゼンチン第二の都市コルドバにいる。コパ航空101便の到着が遅れ、ダウンタウンのやや郊外に位置する予約済みのホテルに到着したのがこの時間になったのだ。
吐く息は白く冷気が体を締め付けているがそれどころではなかった。日本を発ったばかりで、すべての荷物を持っている。初めての土地で深夜、一人であてどもなくさまようことは避けたかった。目を懲らすと扉の横に小さな貼り紙があった。「ホテルの入口はリバデオ1560番地です」。僕は舌打ちして天を仰いだ。
ブッキングドットコムで予約したこの「ホテルペティト」(Hotel Petit)の住所は「ヘロニモ・ルイス・デ・カブレラ237」だ。この二つの距離がどの程度のものかまるで想像がつかない。日本から持ってきたスマホはあるがアルゼンチンで使用可能なシムカードはまだ手に入れていない。ブッキングドットコムの住所はおそらく最新のものに更新されていないのだ。ホテルにはあらかじめ深夜の到着になるとメッセージまで送っていたのに。
僕はバックパックを背負ったまま裏の方へ回った。そう遠くはないだろうと祈った。うしろを振り返りながら、暖色系の頼りない街灯の下を早足で歩く。車一台通らない。人の気配もないが、犬の鳴き声がしだいに近づいてくる。「ペティトホテル」の看板や表示は見当たらないが、「コンチネンタルホテル」(Continental Hotel)という看板はあった。そこを通りすぎて更にワンブロック進んだところでふいに踵を返した。僕を狙う無数の目が暗闇に潜んでいるような気がして駆け込むように「コンチネンタルホテル」のガラス張りの扉を叩いた。扉の向こうには微かな明かりと人影がみえた。
「こんばんは! 開けて下さい! お願いします!」
ブーッというブザー音が聞こえ、扉を押すと、精悍な顔つきに革ジャン姿の若い男が出て来た。人に会えてほっと息をつくと、僕は「ペティトホテルはどこですか?」と尋ねた。
男はきょとんとした表情を浮かべた。
「ここだけど、君はもしかして、予約のトヨオ・キタザワですか?」
僕は目を見開いて頷いた。
「ようこそコルドバへ。お待ちしておりました」
いったいどうなっているんだ。住所もホテルの名前も違うじゃないか。僕は口を尖らせた。
「ブッキングの住所が違う。ホテルの名前も二つあってよく分からない」
「でも、無事に着いたから問題ないでしょう」
とたんに肩の力が抜けた。南米らしいといえば南米らしい。
旅の初日を一泊25ドルのこのホテルにしたのには理由があった。経済的なホステルは基本、深夜の到着を受け付けていない。0時7分にコルドバの「アンブロシオ・タラベジャ国際空港」に到着予定だった僕は、夜間対策のためやむを得ず初日のみ24時間フロント対応のこのホテルを予約していたのだ。その夜間対策に足元をすくわれそうになり、肩すかしをくらった気分だった。アルゼンチンは近年「セグンダ・ベネズエラ」(第二のベネズエラ)と呼ばれて経済が安定していないという噂があり、身構えていたのである。
だが……。二年半ぶりの南米の感覚にぐいっと引き戻されてもいた。思い通りに事が運ばないのが南米だ。なにしろこれから4、5ヶ月かけて、南米6ヶ国を陸路で渡っていく。チェ・ゲバラの若き南米旅行紀『モーターサイクル・ダイアリーズ』のルートを辿る。それも、マッチングアプリを使いながら婚活していく旅だ。
ゲバラはコルドバでマテ茶を飲みながら、のちに一緒に南米を回るアルベルトと共に旅の計画をした。二人は「ポデローサ2号」というバイクで出発した。僕はバイクに乗れないからバスでそのルートを辿っていく。「ポデローサ2号」の代わりに、マッチングアプリを相棒に、各地で女性たちに会って行くのだ。
部屋のベッドに潜り込むと、緊張から解放されたせいか、またたくまに睡魔が襲ってきた。明日から、いよいよ活動開始だ。
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