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【悲運の戦国大名🌺筒井氏の深い謎⑪】小説家・筒井康隆氏の新たな挑戦とは?

私は以前、筒井康隆氏が小説『筒井順慶』執筆の際、筒井氏族会を取材したときの様子について書きました。

▼筒井康隆氏の新しい挑戦

康隆氏から、取材の様子を公開してもよいと承諾をいただいた後も、何度か手紙をやりとりしました。

そのうち、康隆氏がこれまでに筒井順慶とその一族についてどんな発言をしていたのかを知りたくなり、康隆氏の作品について詳しい方に手紙を出しました。

その方からの回答によると、これまで康隆氏は、筒井一族についてさまざまな媒体で発言しています。具体的な内容は、これから国会図書館で調べるつもりですが、すでに確認できたものとして、康隆氏のサイト「偽文士日碌」の2月28日付の記述がありました。

そこには、次のように書かれています。

……「多聞院日記」を現代文に訳してやろうではないかと思いついたのだ。実はこの「多門院日記」、本来なら昔「筒井順慶」を書いたときに読んでおくべきだったのだが、難しそうだと思って手が出なかったのである。

なんと康隆氏は、古文書である『多聞院日記』の現代語訳に挑戦しようというのです。

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え~、それはすごい!!
もののふ椿の精、久々の登場です😀)

▼筒井順慶とその一族のことが書かれた『多聞院日記』

『多聞院日記』とは、文明10年(1478年)から元和4年(1618年)にかけて書かれた、大和にある興福寺の僧の日記です。

ちなみに、筒井順慶が病死したのは1584年、その養嗣子の定次が切腹したのは1615年なので、日記にはこの2人のことも含まれます。

『多聞院日記』には、筒井城の戦いや、順慶が松永久秀と争い、東大寺の大仏の頭が焼け落ちた事件など、筒井氏に関することがたくさん書かれています。

昭和43年当時、筒井康隆氏は、この本を読まないまま小説『筒井順慶』を書いてしまったために、「実にいい加減な順慶を書いてしまい、その罪悪感も引きずっていた」といいます。

そして、その罪悪感を払しょくするために、この日記の現代語訳をしようと思い立ったようです。ずいぶん長い間、このことが心に引っ掛かっていたんですね。

▼現代語訳は実現するのか?

……と、ここまで書いたところで、私は、

「ああっ‼️

と思いました。

実は私、つい今しがたまで、この記述が2021年2月18日のものだと思いこんでいたのです。

そしてお節介にも、

これから康隆さんが多聞院日記を現代語訳するなんて、楽しみだなあ。そうだ、私の手元にある資料を送ってあげよう😃」

と思い、昨日手紙を送ったばかりなのです

しかし、ついさっき、上のリンク先のサムネイル画像を見て、「2011年2月18日」と書いてあることに気づきました。

えっ?  つまり、10年前の記事ってこと⁉️

……え、えーと💧

康隆氏の発言から10年たっていますが、果たしてその後、実際に現代語訳はなされたのでしょうか?

いや、私が入手した資料のどこにも、そんなことは書いてありません。ということは、まだ実現していない可能性が大……。

そ、そんな〜。私は手紙に、「ぜひ実現することを願っています」なんて書いたのに。

これじゃまるで私が、

「早く現代語訳してよ‼️もう10年もたっているんだから😠

と催促しているみたいで、ちょっと困ります🥲

まぁ多分、私からのプレッシャーなど屁みたいなもので、全く気にされていないとは思いますが……。

それにしても、今回の私の投稿では、

筒井康隆氏がこれから「多聞院日記」を現代語訳するんですよ、楽しみだなあ😃

という内容の記事になるはずだったのに、なんとも予想外の結末になってしまいました。

でも本当に、今からでいいから、現代語訳に挑戦してくれないかなあ。

あまり期待し過ぎないで、待つことにします……😅

(続く)

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