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私が私を手繰り寄れるまで、ありとあらゆる武器を使って生きるのです。

私が私としての肉体のまま歩き続けれる保証も、これから幾千も拾うであろう石ころを磨き、そして真心と愛情の狭間で手を加えた産物を世の中に放つとき確かな光明を放ちながら人の胸の中でさえ、淡い壁を隔てたとしてもしっかりと心の目で見れるものを作れる自信が、私にはこれっぽっちもないのです。

その思いは恐らく生涯を通じて有り続けるであろう負の遺産なのだと思います。そして私には生きるテーマや目標もないのです。仮に見定めた理ですら、流れるように体の内側から引っこ抜いて部屋に転がる紙くずに丸め込んでゴミ箱に捨ててしまうような人間であること、そして私という存在すら時に忘却の彼方へ投げうって朧げな頭で自分自身の輪郭を探る始末な愚かで己ですら冷笑を送ってしまう、そんな人間です。

つくづく私という存在が嫌になります。それは大きな感情の塊で、自分では抱えきれずに誰かにその思いをいっその事吐き捨てて多摩川の冷水にじわじわと身体が冷え込んでいく感覚を覚えながら、ゆっくりと脈拍のリズムに遊ばれながら死への片道切符を切りたいと切に願うばかりですが、人生どうにもこうにも人間というものは悲しくも勇敢で足が川へとは進まないのです。なぜだろうか、人間。結局のところ人間は本質的なところで死、すわわち幾ら死の戯言を口八丁手八丁で語るがいざ”死”そのものを傍観出来る立場からひっくり返った時、死をから逃れるようにして生に縋りつくようにして転がり込む。死にたい理由は差ほど大それたものではない。私の場合、私という存在が嫌いで、現実の私を知る人間の数だけ私という存在が形成されていく過程があまりにも辛く、心苦しく、本来の自分が他者に牛耳られている感覚が自分の首を締め付けるような日常の圧迫感に苛まれている、と。そんな些細な誰しもが持つようなちんけな理由なのです。こうしてまた私は同様に一つ私を殺し、また言葉を紡ぐ過程で新たな自分が生まれ、次の言葉で私を同じような手法で殺す。川にも山にも海にも、ありとあらゆる自然や人工物。そんな人と自然が混みあった環境ではおそらく私は死ねない。死ねるはずがない。というよりも実際の話、私は死にたいのかも怪しくなってきました。

わからない。

私の所在。

ここ最近、私が私である証拠を探している。
教科書や名簿や私自身が歩んできた人生。

そんなものに手を伸ばしても、きっとそれらは時代と共に消えていって、いつかは形すらなくなって思い出せなくなっている。そこではないの。絶対的な私をわたしとして認識できて、そっとそれに触れた時安心して不安な夜を掻き消せるぐらいの核心的な代物。それを私は探している。

私なの。でも私がわたしを語る時、私じゃないような気がして辛いの。読書感想文や講演会、その他諸々、何かを私という母体を通して言葉を選びながら一つのものに仕上げる過程で私がおぼつくの。言葉の裏で沢山の私がどもるの、これが私だよって先生に伝えるのが怖い。
だから何事にも私を省いた”プロット”だけで構成された文章を作り上げて、他人に見せて終わる。それが一番良いことだと知ったの、最近。

きっと私は臆病なんだと思う。
本当の私を紐づけてくれる存在に出会ってしまったら私どうなのかわからない。

私が死んでしまったら。
私の肉体に閉じ込めれた魂。
もしかしたら、それが本当の私なのかも。

でも私は臆病だから、いまは実行できないと思う。

だから今日も昨日と同じように体を折りたたんで、眠る。

本当の自分を知りたいと喚いているくせに臆病で、ごめんなさい。

もし仮に私を見つけられたら、どうなるんだろうか。

今なら、私わかるよ。



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