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アザレア



 私は歯磨きが嫌いだ。正確に言うと歯磨きをしている時の顔が。歯を磨く時は皆、例外なくばかげた顔になる。それが嫌でも鏡に映るのだからなおのことだ。
 けれど習慣とは恐ろしいもので、私は今日も洗面台に立ち、間の抜けた仏頂面と対面しながら歯ブラシを左右に動かしている。
 半ばルーチンワークのような手付きで手短に歯を磨き終え、洗ったブラシを元の場所に戻した。口の中に残るミントの後味が堪らなく不快だったので、繰り返し口を濯ぎラックに掛けてあったタオルで口元を拭いた。
「いってきます」
 誰に言う訳でもなくそう呟き家を出た私は、見慣れた通学路を歩きながら線路沿いの小径に目をやった。
 眩しい日差しの中、夥しく咲く躑躅の花は、陰鬱とした日々を送る私を更にうんざりとさせた。
 
 学校に着き、荷物を教室に置いた後は、特に用があるわけでもないのに図書室に寄ったり、廊下の水道で必要以上に時間を掛けて手を洗ったりした。教室には必ず授業の直前に戻ることにしているので、時間を潰せれば何でもよかった。
 授業時間外の教室は、私にとって酷く居心地の悪い場所だった。
 どうしてかと言うと、ひとところにかたまって立っている男子生徒たちが、うそだろ、とか、ばかじゃねえの、とかをやけに大きな声で叫んでおり、それがとても怖かったからだ。
 特に罵声の類の言葉は、それが自分に向けられているわけでもないのに、嫌気がさすほど耳に残った。
 
 周りと自分に明確な違いを感じ始めたのは、中学生の頃だった。
 ある時期を境に、それまで仲良くしていた友達がひとまわり幼い子供のように思え、一緒に居てもどこか疎外感を抱くようになった。
 徐々にそうなっていったのか、急に変わってしまったのかは、今となっては分からないが、それ以来、どこにいても浮くわけではないが馴染むことも出来なくなった。
 高校に進学した後もそれは変わらなかった。話しかけられれば相手はしたが、お世辞にも愛想が良いとはいいかねた。そのせいで、友達と呼べるような人は次第に少なくなり、学校ではひとりで過ごすことが多くなった。普通以上に元気な若い生徒たちの中で、私は少し風変わりな生徒だった。
 
今もなお口内に残るミントの後味に顔をしかめながら図書室で文庫本を読んでいると、スピーカーから授業開始五分前の予鈴が聞こえたので、私は読んでいた本を棚に片付け、ゆっくりと教室に戻った。
 教室に着いた私は一限目が現代文であることを確認し、教科書と筆記用具と、退屈しのぎ用の文庫本を机の上に準備し、席に座った。
 しばらくすると、いつものように現代文を担当している初老の教員が教室に入ってきた。隣にひとりの青年を連れて。
 見慣れない青年を見て生徒たちは当然のように騒ぎ出し、教室が一気にざわついた。
「えー、皆さん静かに」
 生徒たちの喧騒は、先生が頃合いを見計らって静止するまで数秒間続いた。ほどなくして、教室が静まり返ったことを確認すると、先生は青年を教壇に立たせた。
 青年は一分ほどの短い挨拶を済ませると教壇から下りた。彼は国語科の教育実習生らしい。良くも悪くも当たり障りのない無難な挨拶だった。生徒たちは早速、芸能人の誰に似ているだとか、あだ名を付けるとしたらどうとか、彼を使って好き勝手に大喜利を始めた。当の本人は照れくさそうに笑っており、緊張しているのかややそわそわしているように見えた。
 
 その日、私にしては珍しく休み時間を教室で過ごした。
 いつもの私なら、休み時間になるや否や、人気のない場所で手短に昼食を済まし、朝と同じように時間を潰す。けど、今日は違った。教室で生徒たちに囲まれ談笑している教育実習生の彼を、もうしばらく見ていたいと思ったのだ。
 会話に混ざりたいとかそういうわけではなかった。彼の何が私にそうさせたのかは自分でも分からないが、見ていると妙に胸をつかれた。
 ふと彼と目が合い、私は咄嗟に視線を逸らした。そのまま、見ていることが悟られないように自然な仕草で教室を見渡し、今度は彼の声に耳を澄ませた。
 低く心地の好い声をしていた。
 
 午後の授業が終わった。
 私は手短に帰り支度を済ませ、帰路に就いた。部活動に入っていない私は、放課後の学校に用はない。
 なんとなく帰る気分になれない時は、稀に図書室へ立ち寄ることもあるが、貸出し不可の本以外であれば、読書は自宅でも出来る。そういうわけで、私はいつも授業が終わると同時に帰ることにしている。寄り道も殆どしない。傍から見れば模範的な生徒に見えるだろう。
 けれど、建前上の模範的な姿は「高校生らしさ」という側面から見れば、まるで模範的とは言い難かった。
 
 家に帰った後は、特にやる事もなかったので食事の準備に取り掛かった。私は高校へ進学してから一人暮らしをしているので、食事は毎日のように自分で作っている。生活費は十分な額の仕送りがあるので、何も律儀に毎日自炊する必要もないが、私はきっと料理が好きなのだ。
 
 台所に調理器具を用意した私は、冷蔵庫から出した食材を並べた。
 玉葱、馬鈴薯、人参、牛肉、それからトマト。
 まずは野菜の皮を剥き、正味の状態にする。まな板の上に並べたそれらを、包丁で適当な大きさに切る。少し小さめに切るのがいい。その方が鍋の中で煮溶けて野菜の旨味が出るからだ。
 切った野菜を圧力鍋の中に入れ、水を加える。そして、火にかけながらゆっくりと掻き混ぜ、鍋の中に黒胡椒を振り撒く。鍋の中身がほんのり薄暗く染まるのと同時に、香辛料特有の食欲を唆る匂いが顔中に立ち込めてきた。
 私は鍋に十分な火が通ったことを確認し、蓋を閉めた。圧力鍋で煮込むと野菜が煮溶けて甘味が増し、尚且つ食材の芯まで熱が通る。
 数分後、蓋を開け牛肉を解しながら入れると、再び蓋を閉めた。次に蓋を開ける頃には牛肉が口当たり良く柔らかくなっている。
 更に数分後、もう一度蓋を開け、最後にルーを入れる。少しずつ溶かしながら、とろみがつくまで掻き混ぜれば完成。ビーフシチューのできあがりだ。
 私は早速、炊飯器を開け皿に白米をよそい、ビーフシチューをかけてテーブルに着いた。出来立ての料理らしく良い具合に湯気が立ち込める。自分で作る料理は、作る過程で刺激される食欲と達成感が又とない調味料となり、いつだって本来以上に美味しい。

 けたたましい目覚ましの音で起床し、ゆっくりと重い身体を起こした私は、朝の身支度に取り掛かった。
 顔を洗い、肌に下地を馴染ませた後は、ファンデーションを塗る。私は派手なメイクがあまり好きではないので、化粧品は基本的な物しか持っていない。しゃれたチークだの香り付きのリップだのには興味が無く、化粧品自体も薬局で最低限の物だけを買い揃えた。
 フェイスパウダーでベースメイクを仕上げた私は、アイメイクに取り掛かった。風紀委員と教師が煩いので、マスカラとアイラインは控えめにしている。どんなにばかげた校則でも、校則は守らなければならない。

 学校は今日も退屈だったので、授業中は文庫本を読んで暇を潰した。
 私は本を読んでいる時、しばしば登場人物に自己を投影する。大概は、物語の中で最も自分に近い立ち位置の登場人物であることが多い。私は本を読みながら、登場人物の台詞や行動を自分自身のことのように捉え、物語に入り込むことが好きなのだ。そうすると、自身の存在が主観性を失い、妙に俯瞰した気分になれる。
 読んでいた本は、ちょうど私くらいの歳の若者の話が幾つか綴られた短編集だったので、物語は私にとてもよく馴染んだ。
 
 放課後、図書室に寄ってみた。
 特に用があったわけではなかったが、退屈なので今日読んだ本と同じ作者の小説でも探してみようと思った。うちの図書室は、室内のコンピュータで蔵書検索ができるので都合が良い。私は早速、鞄から文庫本を取り出し、表紙に書かれている著者名をコンピュータに打ち込んだ。すると、アンソロジーなども含めた数十件ほどの検索結果が表示され、それなりに人気のある作家だと分かった。
 本棚に向かい、表示されたタイトルの中から興味を持った幾つかの本を探していると、屈んでいたせいで前をよく見ておらず、突き当りの角で人とぶつかってしまった。
「大丈夫?」
 微かな声だった。前を見ると、あの教育実習生が立っている。澄んだ、綺麗な眼をしていた。
 私はどうしていいか分からず、その場に立ったまま制服の裾を抓み、指の腹で擦りながら茫然としていた。すると、痺れを切らしたのか、彼の方から再び口を開いた。
「何か探してるの?」
 彼は、小さな子供に語りかけるように、優しい顔でにっこりと笑ったが、私はそれがとてももどかしかった。
「えっと、本を探してて」
 私はなんとか言葉を出したが、それは自分でも驚くほどに、消え入りそうなか細い声だった。けれど、彼は安心したように、
「そう」
 と、短く答えた。
「俺も本を探してるんだ。司書の先生に頼まれてさ」
 彼は訊かれてもいないのに、そう話し始めた。きっと、少しでも場の雰囲気を穏やかにしようとしているのだろう。けれど、そういう気遣いが私にとっては煩わしく、同時に申し訳なくもあった。
「そうですか」
 再び沈黙が続く。少し気まずい。
「手伝いましょうか?」
 私は他に良い返答が思い付かず、何気無くそう言った。きっと彼は断るだろうから、早くこの場を去ろう。そう思っていたけど、
「いいの?」
 彼の返事は、物の見事に私の予想を裏切った。
 
 彼の仕事は、手伝いを引き受けたことを後悔してしまうくらい、地味で面倒な仕事だった。
 図書室で貸し出された本は普通、返却手続きを経て、本棚に戻される。しかし、手続きを行わず本をそのまま棚に戻してしまう生徒が、どういう訳か一定数居るのだ。
 それらの本は、当然コンピュータ上では常に貸し出し中になっており、放っておけば延々、返却扱いにならない。そこで、返却期間が過ぎてもなお、貸し出し中になっている本を探し、返却扱いにするのが彼の仕事だった。
 小一時間後、二人で手分けして探したこともあり、大方の本は見つかったが、どうしても見つからない本が二冊あった。恐らくは借りた生徒が未だに持っているのだろう。こうなってしまってはもうお手上げだ。この二冊に関してはただただ返却を待つしかない。
 
「ありがとう、助かったよ」
 彼はそう言うと、スーツのポケットからチェルシーのヨーグルトスカッチを取り出し、一粒を私に手渡してくれた。
 私は無言でそれを受け取り、包み紙を剥くと、口の中に放り込んだ。飴の表面が舌の上で溶けだし、途端に口内が甘酸っぱい風味で満たされた。
 近くの椅子に腰を掛け、窓の外を見ると、運動部の生徒たちが精力的に練習に励んでいるのが見える。私の目には、それがどこか現実味のないものとして映り、まるで一枚の窓を隔て、内と外が別の世界のように思えた。
 放課後の学校で誰かとこうやって過ごすなんて初めてかもしれない。そんなことを考えながら横目で彼を見ると、何故だか、彼もこちら側なんだと、半ば直感的にそう感じた。
「そういえばさ」
 不意に話しかけられ、反射的に息を飲んだ。
「君も本を探してたんでしょ?」
 彼はそう言い、申し訳なさそうな顔でこちらを見つめてきた。
「いえ……大丈夫です」
 私は出来る限り愛想良くそう答えた。けれど、そのせいでこれ以上この場所に居る理由が無くなってしまった。気にしないで、という意味で大丈夫だと答えたつもりだったが、そう言った後で改めて本を探すのもなんだか小恥ずかしい。そういうわけで、私は彼に軽く会釈をし、図書室を後にした。
 
 本当のことを言うと、本を探していたのは元々ただの暇潰しだったので、正直どうでもよかった。借りたければ別の日に借りればいいだけだし、家に帰れば未読の本だってまだ残っている。それに、どちらにせよ今の私は、落ち着いて読書なんてできやしない。
 私は足早に帰路に就き、放課後の通学路を小走りで下校した。空は既に燃えるような赤紅色に染まっている。線路沿いの小径に視線を落とすと、夕陽を浴びた躑躅の花が真っ赤に彩られ、妖しいほどに毒々しく、それでいて華やかに咲き乱れていた。

 家に着いた私は、制服からゆったりとした部屋着に着替え、ベッドの上に寝転がった。それから、彼との会話を反芻し、彼の言葉を紡ぎ出しては、それらを丁寧に編み合わせて揺籠を作った。
 出来上がったそれに横たわると、恍惚と安寧が心の内側から溶けだし、体温と共に心地好く体中を巡った。

 記憶の中の彼の言葉はぜんぶ、グラスの表面に瀝る水滴のように清潔だった。彼にとっては取るに足らない言葉でも、そのひとつひとつが私には何よりも耽美で、事実、彼の言葉は何にでも変容できた。宝石のように集めることも、花束のように束ねることも――。
 ただ、それらは手で触れようとした途端に、形而上の概念へと昇華してしまうほど儚いものでもあった。けれど、形の無いものは、きっといつまでも色褪せない。そう思う方が私は好きだった。


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