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現場、その土を踏むこと

アート的作品を制作しようとする時、わたしは、どうしても頭でっかちになってしまう。頭で考えていることの一割も実物に出来ないのは何回も経験済みなのに、いつまで経っても学ばないというか、机上の空論だけはそれっぽく見えるような個人的に苦手なウザい自分がくそうざい企画書を書いてしまう。正直自分に呆れる。コンセプチュアル・アート未満というか、作品未満というか…。自己完結に終わってしまい、見る人に対して、不誠実・不親切になってしまいがち。(決してコンセプチュアルな作品を否定している訳では無いです。それらとの関わり方を自分の中で模索中の時期です。)


↑プロトタイプの検証不足で、結局何が言いたいのか伝わらなくなってしまったとても悔しいもの(だから何…?みたいなもの…(× × ))


私を実際に生かしている(お金を貰う)のは、とても有難いことに(なんで自分がそれでお金を貰えるのか分からない。タイミングが良かった、運が良かった?努力してなれるものなのだろうか?わからない。でも他のお仕事ができない。運転も出来ないし接客はもういやだ、レジ締めがいつも出来なかったから事務は多分怒られるし、大きい音と眩しい照明が苦手だし、つらい、こわい、笑顔は大切)今はたまたま、デザインというコミュニケーションツールを扱うことなので、自己完結型の表現をそこで行うと、上司的存在の人はOKを出さないし、思考がズレてるヤツになるし、プロジェクトは停滞し、肩身が狭くなる。また、考え方は良くても、それをビジュアル化する際の技量(単純な練習量)不足で、パッと見て分からないもの、プレゼンを長々としないと伝わらないデザイン未満のものになってしまう。私はそうなりがちで、よく、「考え方は良いんだけど…」と言われていた…。今はましになった方だ。(とおもう)

↑佐藤卓というデザイナーが、「影響を受けたデザインはありますか」と聞かれて、「蛇口をひねると水が出ること」みたいなことを答えていたのを本で読んで、すげーと思った記憶がある(それまでインフラをデザインと捉えたことが無かった。自分が目立つことしか、、考えて、、、無かった…)


だから余計に、コンセプチュアルなものには批判的(critical)になってしまう。「批判的」という言葉自体は作品の善し悪しを決めるものでは無いし、critical thinking自体は、私は必要な事だと思うけど、、。(AIUのcompositionという必修科目ではそれが一番大切な事だとprofessorが何回も繰り返していた)←AIU生にありがちなルー語構文


このように、思考や言語は、場所もお金も時間もかなり無限に使えるから、それらに脳が騙される感覚がある。五感を全く介さなくても完結してしまう怖さがある。


最近、その怖さを払拭する領域のひとつ(二つだけど…)が、医療+福祉だと感じる。医療と福祉の領域は、インフラであり、現場だから、恐らく思考よりも行動に重きが置かれることが多いような気がする。また、言語という伝達ツールなんか使い物にならない事も多いだろうし、看護や介護などはリモートでは出来ない部分も多いと思われるから、常に場所とお金と時間のことを考える必要があるだろう。そしてそれは、嗅ぎたくもない他者の排泄物、見たくもないセクハラパワハラ、触りたくもない排水溝の汚れ、聞きたくもない陰口や暴言、口にしたくもない冷めたペースト食たちとの交流の連続だと、傍から思っている。(こーゆう傍から見て偉そうに分析して口出しする自分の行為が一番嫌い)

これめっちゃおもしろい



そんなこと考えなくても良くね?てか余計なお世話だよねっていう自分もいるんだけど、正論がどうでも良くなるくらい、惹かれているし、もっと知りたい気持ちが抑えられない。過去に私が距離を測り間違えたが故に傷ついた思い出がたくさんあるのに、そんなのどうでも良くなるくらい、やっぱりどうしても気になる。身近なものとして、存在をチラつかせてくる、、(まさか医療や福祉に沼るとは…)


インフラとして私の生活に組み込まれているから、忘れようとしても忘れられない。今度は距離感を間違えたくない。でも、やっぱり怖くて、供給される側からなかなか出られない。様子見でつついたりしか、出来ないすね…今は……

なんかー、もうちょっとライトに関わりたいんすよね、ふわっとかるーくというか。ガチオタになるのってエネルギーいるし、他のジャンルも見たいし…
的な。。今ってガチオタの方が珍しくない?にわかでも好きは好きに変わりないんだから、、ナカーマなのに……古参の圧を感じるというか、いや気持ちは分かるけど、、



それを繋げられる可能性があるのが、デザインそして芸術なのかもしれない???


今まで、プライベートな表現ばかりしていたけど、遂に自分の中のものを表現しても、尽きてしまった(飽きた)感覚があり、イラスト、写真、彫刻という表現から、家具、建築、場所、公共空間という、よりパブリックな表現にひらいていきたいと強く思う。

閉じていることは無くてはならないし、自分を大切に大切にしていきながら、ひらいて行くことを少しずつやっている。ひらくって、めちゃくちゃ地味で、ものすごくめんどくさくて、遅くて、むむむと思うことも多いけど、実物であるモノや場所と対話している感覚は、確実で私に確かな安らぎをくれる。でも本音は、自分の頭の中に自分を閉じ込めてしまうことが怖くて仕方なくて、モノたちに頼っているんです。思考は本当に底がなくて、いつの間にか自分を飲み込んでいて、冗談ではなく自他の生命に関わっているから。

(ふつーにひろゆき好きというか、面白いと思うんだよね…)

頭を使うんじゃなくて、頭に使われている感覚がある、というか。
その状態から逃げたくて仕方がない。

その土地を歩き、空気を吸い、足で地面を踏む感覚を強くする。ヒトと関わる。モノと話す。コトを見る。時間の流れ、空間、ぎこちなさ、スマートさ、暑苦しさ……その場所に集うヒトモノコトを感じた瞬間、自分の世界から解放される

これが私にとっての現場……


☆文中の「ひらく」は、校正用語で、漢字をひらがなにする、という意味…らしいよ


inspired by




おわり

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