祈りの文化を受け継いでいく人びと

未だ収束の見えないコロナ禍で、リモート化だけでなく葬儀そのものが簡略化されつつあります…

祈りの文化を受け継いでいく人びと

未だ収束の見えないコロナ禍で、リモート化だけでなく葬儀そのものが簡略化されつつあります。そんな今だからこそ使命を持って「供養」の本質に立ち返る時に来たと感じています。受け継がれてきたこの「祈りの文化」を絶やさぬよう、お寺と人々の架け橋となるコンテンツとなれば幸いです。

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    東北は山形、最北端に位置する最上地域で、何百年という歴史を重ねながら祈りの文化を受け継いでいくお寺と人びとを紹介しています。

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[修行日記➉] 大庫院(だいくいん)②

 大庫院での修行は食事を作る事です。 一 仏菜(ぶっさい)(仏様にお供えするお膳) 二 修行僧の食事、小食(しょうじき)(朝食)・中食(ちゅうじき)(昼食)・薬石(やくせき)(夕食) 三 戒号膳(かいごうぜん)(お客様用の特別なお膳) この三つを作る事が主になります。  修行僧の小食はお粥・漬物・胡麻塩の三品、中食はご飯・味噌汁・漬物・おかずの四品、薬石はご飯・味噌汁・漬物・おかず二種の五品です。当然、成人男性が一日に必要なカロリーは無いので三か月位は経験したことのない空腹に

    • 定林寺が誇れる宝とは「寺と檀信徒の尊い和合という力」 龍口山 定林寺 2/2

      火災と信仰の戦い 定林寺は過去四度の火災にあうものの、都度、住職と檀信徒が一体となり、伽藍(がらん)の復興にあたりました。現在の本堂は明治三十五年(一九〇二年)の再建、築百十数年の建物になります。  三十一世大應虎俊大和尚(だいおうこしゅん)がこのような言葉を残しています。「幾多の風雨が侵(おか)しても、法燈(ほうとう)、今もなお定林の峰(みね)を照らすは相承(そうじょう)の名徳(めいとく)が介法護灯(かいほうごほう)に尽瘁(じんすい)せられたるが為なり。而(しこう)して、こ

      • 伝説が今も残る寺 龍口山 定林寺 1/2

        現代に語り継がれる 定林寺「龍女(りゅうにょ)伝説」 定林寺の起源は、南北朝時代の永和年間(一三七八年)にさかのぼります。曹洞宗東北の本山としても知られた永徳寺二世瑚海理元(こかいりげん)禅師が開山されたと言われています。  定林寺には、こんな伝説が残されています。 六四〇年前、お寺を建てた夜のことです。禅師様の前にこれまで見たこともないほど美しい絶世の美女が現れました。美女は禅師様にこう言いました。「私を成仏させてください。」禅師様はこう答えます。「その美しい姿は、あなたの

        • [修行日記⑨] 大庫院(だいくいん)①

           上山から約1ヶ月過ぎた頃、修行の場は典座寮(てんぞりょう)(※1大庫院)に変わり、与えられた配役は「典行兼菜頭(てんなんけんさいじゅう)」です。7番上山の8人はこのタイミングでばらばらの寮舎に転役することになります。心細いような、でも少しずつ成長できているような複雑な心境でした。  転役すると約1週間「公務」というその寮舎の仕事内容を徹底的に覚える期間があり、最終日に「公務点検」というテストに合格しなければいけません。当時は一日中立ちっぱなしで鍋磨きをしていました。そして就

        [修行日記➉] 大庫院(だいくいん)②

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          「子どもからお年寄りまで誰もが気軽に訪れる場所として」 神水山 清林寺 2/2

          出会いは大学生の頃 お二人の出会いは、渡邊住職がまだ大学生の頃。東京都世田谷区にある駒澤大学に在学中、同じ駒澤に住んでいた章子さんと出会います。最初はメールのやり取りから始まったそう。お互いのことを少しづつ知っていく中で、ある偶然を機に意気投合します。渡邊住職の通っていたのは戸沢村にある「神田(じんでん)小学校」に対し、章子さんが通っていたのは神奈川県平塚市にある「神田(かんだ)小学校」だったことを知り、お二人は大変驚いたそうです。  平成二十二年、渡邊住職は北海道中央寺へ三

          「子どもからお年寄りまで誰もが気軽に訪れる場所として」 神水山 清林寺 2/2

          人々の幸せを繋ぐ寺 神水山 清林寺 1/2

          「三心-さんしん-」 私には人生おいて忘れたくない三つの心があります。道元禅師(どうげんぜんじ)様が書いた典座教訓(てんぞきょうくん)という食事を作る心構えを記した書物の中にそれはあります。これは人が人と関わり合って生きる上で大切なものであると私は信じています。一つは「喜心(きしん)」。喜心とは、今ここにある事、出来る事を喜ぶ心の事。一つは「老心(ろうしん)」。老心とは、親が子を思うように相手を思い遺り慈しむ心の事。一つは「大心(だいしん)」。大心とは、どんな人、どんな物事に

          人々の幸せを繋ぐ寺 神水山 清林寺 1/2

          [修行日記⑧] 衆寮(しゅりょう)

           旦過寮に入り7日程経った頃、入堂 ※1 が許されました。入浴が許され全身が石鹸の香りに包まれました。そして温かいお茶とすりこぎ羊羹 ※2 を一本頂きます。「まずはミッションを一つクリアした…それにしても羊羹が美味しすぎる!!」と少しだけほっとした瞬間でした。  僧堂の裏手にある衆寮に移り、最初にいただく配役は「鍾洒」です。鍾司兼洒掃の略で鐘を鳴らしたり掃除をすることがおもな仕事です。修行僧は時計を身に着けていません。起床から食事、掃除、法要、就寝などすべて鐘や太鼓、大梵鐘等

          [修行日記⑧] 衆寮(しゅりょう)

          「色々な方の力をお借りしながら、このお寺を守って行きたい」 八向山 積雲寺 2/2

          母を安心させたくて 私が僧侶になろうと決意したのは、今から十二年前、大学生の時でした。  突然、母が末期がんだと告げられたのです。治療は対処療法くらいしかできないほどでステージ4まで進んでいました。これまで沢山苦労をしてきたから、きっとそのせいで病気になったのだと思いました。その時です。母を「安心させたい」という想いもあり、誰にやれと言われた訳でもなく、自分自身の意思で僧侶になろうと決めました。母が生きてる内に、決意のすべてを母に話をしました。「私がお寺を継ぐから」「頑張るか

          「色々な方の力をお借りしながら、このお寺を守って行きたい」 八向山 積雲寺 2/2

          新たな時代を担う寺 八向山 積雲寺 1/2

          積雲寺の住職として 曹洞宗八向山積雲寺は、天正六年(一五七八年)、会林寺三世秀山宗建大和尚が開山された四百数十年の歴史を持つ古寺です。宝暦九年と嘉永二年と二度の火災にあうものの、それから仮本堂で百四十数年、長きに渡る本堂落慶の願いの末、平成六年新本堂が建立されました。 積雲寺の境内には、新庄市指定文化財に指定されている「閻魔堂(旧観音堂)」や、松尾芭蕉の足跡を訪ねた俳人・歌人の正岡子規歌碑が建てられています。  令和四年十一月、晋山結制を終え住職となられました小笠原住職にお気

          新たな時代を担う寺 八向山 積雲寺 1/2

          [修行日記⑦] 旦過寮(たんがりょう)

           一時間以上山門に立ち、やっと上山を許されて案内されるのは「旦過寮(たんがりょう)」です。この段階で私はまだ正式な永平寺の修行僧にはなっていません。「暫到和尚(ざんとうおしょう)」と呼ばれ、暫く泊まる事が許されただけの客僧としての日々が五月の新到掛搭式(しんとうかたしき)まで続きます。まず旦過寮に入る時にも、ひとつの儀式があるのでその流れを古参和尚さんに教えてもらいます。七番上山の一番の私に課せられたのは維那(いの)※老師を前に、香炉に線香を一本立て「御開山拝登(ごかいさんは

          [修行日記⑦] 旦過寮(たんがりょう)

          お寺は生きることを捉え直す場所、それを支えるのが住職の務め 東岩山 秀林寺 2/2

          僧侶という生き方 昭和五十三年、山形県酒田市に生まれ高校を卒業し、駒澤大学に進学した後、曹洞宗総合研究センターにおよそ六年間在籍。その間、大本山永平寺に一年ほど修行して参りました。  もともとはお寺の出身ではなかった私が、高校生の頃に、小説家である吉川英治氏の書かれた小説『親鸞(しんらん)※』という本に出会い、親鸞聖人 が人生のいろいろな問題に悩み苦しむ人々と、一緒に悩みながら生きる僧侶という生き方に感銘を受け、この道に進むことを決意。そうして平成十一年四月、山口県にある真福

          お寺は生きることを捉え直す場所、それを支えるのが住職の務め 東岩山 秀林寺 2/2

          「生きる」を支える寺 東岩山 秀林寺 1/2

          寺の役割と住職の務め 曹洞宗東岩山秀林寺(とうがんざんしゅうりんじ)[瑞雲院(ずいうんいん)末寺]の創建は元文三年(一七三七年)勅特賜仏心大光禅師天巖詮尭大和尚(ちょくとくしぶつしんだいこうぜんしてんがんせんぎょうだいおしょう)により開山されたと言われます(大本山總持寺の記録では一六七八年には存在していたと記される)。その後、文久元年(一八六一年)に全焼、明治十二年中渡大火で類焼と二度に渡り火災に見舞われますが、大正十年に本堂が再建され今に至ります。そんな歴史ある秀林寺の第十

          「生きる」を支える寺 東岩山 秀林寺 1/2

          [修行日記⑥] 山門

           古参和尚さんの後ろを濡れた草鞋で歩いて行きます。雪を踏みしめる「ギュッ、ギュッ」という音しか聞こえません。しばらく進んでいくと古参和尚さんが「ここに一列に並びなさい。」と言いました。どうやら山門に到着したようです。8人が横一列に並ぶと次に「一人ずつ、木版(もっぱん)※1を三打しなさい。」と言われ一番の私から順に三打していきます。「コーン、コーン、コーン」と木版を三打することで 暫到和尚(ざんとうおしょう)※2が山門に到着したことを永平寺の山内に知らせるのです。古参和尚さんは

          「どんな人をも最期は極楽浄土にお連れする。」助雲山 松岡院 接引寺 2/2

          亡き人を悼み、来世での安穏を願い、今ある命に感謝し、 残された生活の幸いを願う。 助雲山 接引寺 花車英行 上人 昭和47年新庄市生まれ。大正大学仏教学部在学中、大本山増上寺にて修行の後、大学を卒業。平成18年第27世接引寺住職となる。平成26〜28年まで浄土宗山形教区青年会会長を務める。現山形教区議会議員。 葬儀の由来 近年、故人のお見送り方はますます多様化しています。しかし、葬儀には故人と私たちを繋ぐ深い意味が込められていると花車住職は語ります。私たちは、死者を悼

          「どんな人をも最期は極楽浄土にお連れする。」助雲山 松岡院 接引寺 2/2

          人々の「縁」が繋ぐ 助雲山 松岡院 接引寺 1/2

          浄土宗 接引寺の由来今から四百年ほど前、寛永二年(一六二五)、良本上人(りょうほんしょうにん)によって開山されました。  戸沢藩初代政盛公が常州松岡(現茨城県高萩市)から羽州新庄に転封された時、同行した上人が沼田城築城の残木を賜り、現在地に接引寺を建立し、羽州街道の南の備えとしました。また、接引寺のこの「接引」とは「どんな人をも最期は極楽浄土にお連れする。」という仏教の意味をもつそうです。  御本尊阿弥陀如来は、もともと真室川町木の下の長林寺に祀られていたのですが、願い出

          人々の「縁」が繋ぐ 助雲山 松岡院 接引寺 1/2

          [修行日記⑤] 覚悟

           地蔵院での2泊3日の間、食事・入浴・お手洗い等あらゆる場面での作法、着物の着方、上山時の口上などを叩き込まれます。古参和尚さんの目を見てはいけない、聞かれたことには基本「はい」か「いいえ」で答え、それ以外の時は話す前に「失礼いたします」話の後に「失礼いたしました」を必ず付けます。話をするときはきちんと相手の目を見て話す事が常識と思っていた事がここでは完全に否定されるのです。そして自分が思っていることを自由にに発言することも許されません。今振り返れば、この様に自分の常識を否定