祈りの文化を受け継いでいく人びと

コロナウイルスの流行によって、リモート化だけでなく葬儀そのものが簡略化されつつあります…

祈りの文化を受け継いでいく人びと

コロナウイルスの流行によって、リモート化だけでなく葬儀そのものが簡略化されつつあります。そんな今だからこそ使命を持って「供養」の本質に立ち返る時に来たと感じています。受け継がれてきたこの「祈りの文化」を絶やさぬよう、お寺と人々の架け橋となるコンテンツとなれば幸いです。

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    東北は山形、最北端に位置する最上地域で、何百年という歴史を重ねながら祈りの文化を受け継いでいくお寺と人びとを紹介しています。

最近の記事

[修行日記⑫] 修行二年目突入

 平成27年、上山から一年が過ぎ転役したのは「参禅係」でした。当時は3泊4日の参禅研修というものがあり参加者への作法の指導やお世話をする部署です。前回紹介した「参籠」と同じく永平寺に宿泊するのですが滞在中の過ごし方は全く異なります。まず携帯電話、時計、化粧品などはすべて袋に入れ預け、着物と袴に着替えます。起床から就寝まで修行僧とほぼ同じ行程で過ごしますので覚えなければいけない作法もたくさんあります。廊下の歩き方から食事に使う応量器の扱い方、食事の作法、トイレやお風呂に入る時の

    • 「多くの人の想いが込められた葬儀は人生最後の大切な儀式」 菩提山 龍雲院 2/2

       多くの人々の心に寄り添い続けてきた矢萩住職には、かつてお世話になった禅師様からのお言葉が今も心に深く刻まれていると言います。  「お葬式をきちんとやれる坊主にならなきゃ駄目だよ。葬式坊主と呼ばれてもいいから真面目にやりなさい」。 葬儀は人生最後の大切な儀式。多くの人々の想いが込められた葬儀を、決して当たり前のこととして受け止めず、真摯に取組むように心掛けているのだと。 若い頃は「葬式坊主」と呼ばれることが嫌で嫌で仕方がなかったという住職。しかし禅師様の「汗水流して浄財をいた

      • 伝統を紡ぐ心の拠り所 龍雲院 1/2

        戦乱を越えて龍雲院の創設と歴史 龍雲院は曹洞宗の寺院であり、元和二年(1616年)に清水大蔵公家臣矢口能登の菩提寺として本寺興源院六世澄嶺舜皎大和尚により開山されました。矢口能登は戦国時代に活躍した武将で、清水大蔵公の家老格である升形楯主でした。戦乱の時代に活躍した矢口能登は、龍雲院の創設後まもなく亡くなり、彼とその妻の位牌は現在も寺に安置されています。  龍雲院は、地域の教育にも貢献してきました。1875年には龍雲院に升形小学校が開設され、1891年までの間、寺院が学校と

        • [修行日記⑪] 接茶寮(せっちゃりょう)①

           大庫院での修行は約六ヶ月続き、一度衆寮に戻りました。そして次に配属されたのは「接茶寮」  接茶寮の仕事はわかりやすく言えば「永平寺のホテルマン」です。  永平寺は事前に予約さえすれば一泊二食(精進料理)付きで宿泊する事ができます(参籠という)。旅館ではないのでのんびりとくつろぐことはできませんが凛とした空気に包まれて食事をし、講話・坐禅等を体験することができます。翌朝は80名を超える修行僧がお経を読む朝課を参拝し焼香していただきますが参籠者の方々はこの体験が特に印象に残って

        [修行日記⑫] 修行二年目突入

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          36本

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          最上三十三観音 第二十四番札所「上ノ畑観音」2/2

          最上巡礼その始まりは 伝説「光姫物語」 上ノ畑観音を含め最上三十三観音という所にはある伝説が残されています。  山形城主最上家の五代目城主の最上頼宗(もがみよりむね)のひとり娘に「光姫」という方がおりました。光姫は熱心な観音信者で、その美しさ故に光姫をめぐる争いが絶えませんでした。それを憂いた光姫は出家をし、観音霊場を巡礼する旅へと出かけます。ある時、巡礼の経路も分からず途方に暮れていると、山中で老人と出会い、温かい宿を提供され、老人から霊場の道筋を教えてもらいます。翌朝の

          最上三十三観音 第二十四番札所「上ノ畑観音」2/2

          歴史と信仰が息づく寺 宝沢山 薬師寺 1/2

          奇跡の再興、銀山 薬師寺の歴史 宝沢山薬師寺は山形県尾花沢市上柳渡戸にある曹洞宗の寺院です。  薬師寺は大治五年(一一三〇年)に創建され、その起源は後に開発された国指定の史跡である延沢銀山と深く結びついています。元々は天台宗の寺院で「薬師堂」と称されていましたが、天文五年(一五三六年)に暗室関牛(あんしつかんぎゅう)大和尚(円照寺第五世)によって曹洞宗の寺院に改宗され、寺号が薬師寺に変更されました。  本尊の薬師如来立像は、鎌倉時代中期に彫刻された木彫りの一本木造で、昭和四

          歴史と信仰が息づく寺 宝沢山 薬師寺 1/2

          [修行日記➉] 大庫院(だいくいん)②

           大庫院での修行は食事を作る事です。 一 仏菜(ぶっさい)(仏様にお供えするお膳) 二 修行僧の食事、小食(しょうじき)(朝食)・中食(ちゅうじき)(昼食)・薬石(やくせき)(夕食) 三 戒号膳(かいごうぜん)(お客様用の特別なお膳) この三つを作る事が主になります。  修行僧の小食はお粥・漬物・胡麻塩の三品、中食はご飯・味噌汁・漬物・おかずの四品、薬石はご飯・味噌汁・漬物・おかず二種の五品です。当然、成人男性が一日に必要なカロリーは無いので三か月位は経験したことのない空腹に

          [修行日記➉] 大庫院(だいくいん)②

          定林寺が誇れる宝とは「寺と檀信徒の尊い和合という力」 龍口山 定林寺 2/2

          火災と信仰の戦い 定林寺は過去四度の火災にあうものの、都度、住職と檀信徒が一体となり、伽藍(がらん)の復興にあたりました。現在の本堂は明治三十五年(一九〇二年)の再建、築百十数年の建物になります。  三十一世大應虎俊大和尚(だいおうこしゅん)がこのような言葉を残しています。「幾多の風雨が侵(おか)しても、法燈(ほうとう)、今もなお定林の峰(みね)を照らすは相承(そうじょう)の名徳(めいとく)が介法護灯(かいほうごほう)に尽瘁(じんすい)せられたるが為なり。而(しこう)して、こ

          定林寺が誇れる宝とは「寺と檀信徒の尊い和合という力」 龍口山 定林寺 2/2

          伝説が今も残る寺 龍口山 定林寺 1/2

          現代に語り継がれる 定林寺「龍女(りゅうにょ)伝説」 定林寺の起源は、南北朝時代の永和年間(一三七八年)にさかのぼります。曹洞宗東北の本山としても知られた永徳寺二世瑚海理元(こかいりげん)禅師が開山されたと言われています。  定林寺には、こんな伝説が残されています。 六四〇年前、お寺を建てた夜のことです。禅師様の前にこれまで見たこともないほど美しい絶世の美女が現れました。美女は禅師様にこう言いました。「私を成仏させてください。」禅師様はこう答えます。「その美しい姿は、あなたの

          伝説が今も残る寺 龍口山 定林寺 1/2

          [修行日記⑨] 大庫院(だいくいん)①

           上山から約1ヶ月過ぎた頃、修行の場は典座寮(てんぞりょう)(※1大庫院)に変わり、与えられた配役は「典行兼菜頭(てんなんけんさいじゅう)」です。7番上山の8人はこのタイミングでばらばらの寮舎に転役することになります。心細いような、でも少しずつ成長できているような複雑な心境でした。  転役すると約1週間「公務」というその寮舎の仕事内容を徹底的に覚える期間があり、最終日に「公務点検」というテストに合格しなければいけません。当時は一日中立ちっぱなしで鍋磨きをしていました。そして就

          [修行日記⑨] 大庫院(だいくいん)①

          「子どもからお年寄りまで誰もが気軽に訪れる場所として」 神水山 清林寺 2/2

          出会いは大学生の頃 お二人の出会いは、渡邊住職がまだ大学生の頃。東京都世田谷区にある駒澤大学に在学中、同じ駒澤に住んでいた章子さんと出会います。最初はメールのやり取りから始まったそう。お互いのことを少しづつ知っていく中で、ある偶然を機に意気投合します。渡邊住職の通っていたのは戸沢村にある「神田(じんでん)小学校」に対し、章子さんが通っていたのは神奈川県平塚市にある「神田(かんだ)小学校」だったことを知り、お二人は大変驚いたそうです。  平成二十二年、渡邊住職は北海道中央寺へ三

          「子どもからお年寄りまで誰もが気軽に訪れる場所として」 神水山 清林寺 2/2

          人々の幸せを繋ぐ寺 神水山 清林寺 1/2

          「三心-さんしん-」 私には人生おいて忘れたくない三つの心があります。道元禅師(どうげんぜんじ)様が書いた典座教訓(てんぞきょうくん)という食事を作る心構えを記した書物の中にそれはあります。これは人が人と関わり合って生きる上で大切なものであると私は信じています。一つは「喜心(きしん)」。喜心とは、今ここにある事、出来る事を喜ぶ心の事。一つは「老心(ろうしん)」。老心とは、親が子を思うように相手を思い遺り慈しむ心の事。一つは「大心(だいしん)」。大心とは、どんな人、どんな物事に

          人々の幸せを繋ぐ寺 神水山 清林寺 1/2

          [修行日記⑧] 衆寮(しゅりょう)

           旦過寮に入り7日程経った頃、入堂 ※1 が許されました。入浴が許され全身が石鹸の香りに包まれました。そして温かいお茶とすりこぎ羊羹 ※2 を一本頂きます。「まずはミッションを一つクリアした…それにしても羊羹が美味しすぎる!!」と少しだけほっとした瞬間でした。  僧堂の裏手にある衆寮に移り、最初にいただく配役は「鍾洒」です。鍾司兼洒掃の略で鐘を鳴らしたり掃除をすることがおもな仕事です。修行僧は時計を身に着けていません。起床から食事、掃除、法要、就寝などすべて鐘や太鼓、大梵鐘等

          [修行日記⑧] 衆寮(しゅりょう)

          「色々な方の力をお借りしながら、このお寺を守って行きたい」 八向山 積雲寺 2/2

          母を安心させたくて 私が僧侶になろうと決意したのは、今から十二年前、大学生の時でした。  突然、母が末期がんだと告げられたのです。治療は対処療法くらいしかできないほどでステージ4まで進んでいました。これまで沢山苦労をしてきたから、きっとそのせいで病気になったのだと思いました。その時です。母を「安心させたい」という想いもあり、誰にやれと言われた訳でもなく、自分自身の意思で僧侶になろうと決めました。母が生きてる内に、決意のすべてを母に話をしました。「私がお寺を継ぐから」「頑張るか

          「色々な方の力をお借りしながら、このお寺を守って行きたい」 八向山 積雲寺 2/2

          新たな時代を担う寺 八向山 積雲寺 1/2

          積雲寺の住職として 曹洞宗八向山積雲寺は、天正六年(一五七八年)、会林寺三世秀山宗建大和尚が開山された四百数十年の歴史を持つ古寺です。宝暦九年と嘉永二年と二度の火災にあうものの、それから仮本堂で百四十数年、長きに渡る本堂落慶の願いの末、平成六年新本堂が建立されました。 積雲寺の境内には、新庄市指定文化財に指定されている「閻魔堂(旧観音堂)」や、松尾芭蕉の足跡を訪ねた俳人・歌人の正岡子規歌碑が建てられています。  令和四年十一月、晋山結制を終え住職となられました小笠原住職にお気

          新たな時代を担う寺 八向山 積雲寺 1/2

          [修行日記⑦] 旦過寮(たんがりょう)

           一時間以上山門に立ち、やっと上山を許されて案内されるのは「旦過寮(たんがりょう)」です。この段階で私はまだ正式な永平寺の修行僧にはなっていません。「暫到和尚(ざんとうおしょう)」と呼ばれ、暫く泊まる事が許されただけの客僧としての日々が五月の新到掛搭式(しんとうかたしき)まで続きます。まず旦過寮に入る時にも、ひとつの儀式があるのでその流れを古参和尚さんに教えてもらいます。七番上山の一番の私に課せられたのは維那(いの)※老師を前に、香炉に線香を一本立て「御開山拝登(ごかいさんは

          [修行日記⑦] 旦過寮(たんがりょう)