祈りの文化を受け継いでいく人びと

未だ収束の見えないコロナ禍で、リモート化だけでなく葬儀そのものが簡略化されつつあります。そんな今だからこそ使命を持って「供養」の本質に立ち返る時に来たと感じています。受け継がれてきたこの「祈りの文化」を絶やさぬよう、お寺と人々の架け橋となるコンテンツとなれば幸いです。

祈りの文化を受け継いでいく人びと

未だ収束の見えないコロナ禍で、リモート化だけでなく葬儀そのものが簡略化されつつあります。そんな今だからこそ使命を持って「供養」の本質に立ち返る時に来たと感じています。受け継がれてきたこの「祈りの文化」を絶やさぬよう、お寺と人々の架け橋となるコンテンツとなれば幸いです。

    最近の記事

    [修行日記⑥] 山門

     古参和尚さんの後ろを濡れた草鞋で歩いて行きます。雪を踏みしめる「ギュッ、ギュッ」という音しか聞こえません。しばらく進んでいくと古参和尚さんが「ここに一列に並びなさい。」と言いました。どうやら山門に到着したようです。8人が横一列に並ぶと次に「一人ずつ、木版(もっぱん)※1を三打しなさい。」と言われ一番の私から順に三打していきます。「コーン、コーン、コーン」と木版を三打することで 暫到和尚(ざんとうおしょう)※2が山門に到着したことを永平寺の山内に知らせるのです。古参和尚さんは

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      • 「どんな人をも最期は極楽浄土にお連れする。」助雲山 松岡院 接引寺 2/2

        亡き人を悼み、来世での安穏を願い、今ある命に感謝し、 残された生活の幸いを願う。 助雲山 接引寺 花車英行 上人 昭和47年新庄市生まれ。大正大学仏教学部在学中、大本山増上寺にて修行の後、大学を卒業。平成18年第27世接引寺住職となる。平成26〜28年まで浄土宗山形教区青年会会長を務める。現山形教区議会議員。 葬儀の由来 近年、故人のお見送り方はますます多様化しています。しかし、葬儀には故人と私たちを繋ぐ深い意味が込められていると花車住職は語ります。私たちは、死者を悼

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        • 人々の「縁」が繋ぐ 助雲山 松岡院 接引寺 1/2

          浄土宗 接引寺の由来今から四百年ほど前、寛永二年(一六二五)、良本上人(りょうほんしょうにん)によって開山されました。  戸沢藩初代政盛公が常州松岡(現茨城県高萩市)から羽州新庄に転封された時、同行した上人が沼田城築城の残木を賜り、現在地に接引寺を建立し、羽州街道の南の備えとしました。また、接引寺のこの「接引」とは「どんな人をも最期は極楽浄土にお連れする。」という仏教の意味をもつそうです。  御本尊阿弥陀如来は、もともと真室川町木の下の長林寺に祀られていたのですが、願い出

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          • [修行日記⑤] 覚悟

             地蔵院での2泊3日の間、食事・入浴・お手洗い等あらゆる場面での作法、着物の着方、上山時の口上などを叩き込まれます。古参和尚さんの目を見てはいけない、聞かれたことには基本「はい」か「いいえ」で答え、それ以外の時は話す前に「失礼いたします」話の後に「失礼いたしました」を必ず付けます。話をするときはきちんと相手の目を見て話す事が常識と思っていた事がここでは完全に否定されるのです。そして自分が思っていることを自由にに発言することも許されません。今振り返れば、この様に自分の常識を否定

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            「寺に集まり信仰的な交流を図る 唯一の楽しみがここにあった」 大儀山 会林寺 2/2

            「坐禅会」と「講」による寺の布教活動  寺の宗教活動としてご葬儀やご法事等はもちろん、「坐禅会」「講」があります。坐禅会は、先代が昭和33年から始め40年くらい続けておりました。私の代になり、今から5年ほど前まで毎月朝6時〜7時まで1週間、市内の方を中心に若い方からご年配の方まで15名ほど集まって開催、大事な交流の場としておりました。 平成半ば頃まで、この地域には「講」と呼ばれる信仰団体がありました。「念仏講」、「地蔵講」、「観音講」といったグループで、毎年毎月、観音様の縁日

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            「古き良き文化が残る」 大儀山 会林寺 1/2

            時代に即した布教活動こそ次の世代が担う務め  会林寺は、清水城(最上郡大蔵村)の五代孫二郎義高其の母を開基として、城外比良の地に永正十七年(一五二〇年)七月に建立、本寺西来院八世宏岳青隣大和尚によって開山。貞享四年(一六八七年)九月二十九日に火事にあいますが、元禄五年(一六九二年)に再建されました。そんな歴史ある会林寺の第二十八世住職として、60年近く地域を見てきた後藤信而老師へ、今と昔の葬儀についてお話しを伺いました。  家族はもちろん親族・知人・友人のみで執り行う家族葬

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            [修行日記④] はじまりの地蔵院

             私は門前の「かいど※1」という食事やお土産を販売するお店で上山の身支度をさせてもらいました。「かつ丼でも食べて元気つけてったら~。当分食べられんよ~」とすすめられましたが、緊張と不安でもう何も口にすることができない状態でした。お店を出るまでの間、「頑張って修行してこい!」と送り出してくれた師匠、両親、兄弟、祖母、友人、お世話になった方の顔を思い浮かべ、遠く離れた場所で自分の修行を応援してくれている人たちがいるんだ、と自分を励ましていました。スマートフォン、財布など修行に不要

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            「悲しいも、楽しいも分かち合える場 お寺をコミュニティのひとつに」 寶光山 英照院 2/2

            寶光山 英照院 深瀬清光(ふかせせいこう)老師 昭和49年新庄市生まれ。駒澤大学仏教学部禅学科卒業。平成9年3月から平成10年3月まで大本山永平寺にて修行。平成20年10月第33世英照院住職となる。 葬儀本来の意味  葬儀というのは、亡くなった方のご冥福と、極楽浄土への到達を祈る儀式であるのと同時に、残された方々が悲しみから立ち上がるための儀式の一つでもあリます。英照院では、供養の理解を深めていただくためのパンフレット「葬儀のしおり」を作成しています。葬儀の前半は、故人に

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            「開かれたお寺」 寶光山 英照院 1/2

            伝統を守りながら時代の最先端を行く仏教  英照院は、江戸時代の始め一六五八年に創建された由緒あるお寺です。「縁結びのお姫様」とも呼ばれる新庄藩の宮子姫が祀られておりますが、古来よりお姫様をお参りすると、「幸せになれる」「恋愛が成就する」「良縁に恵まれる」との言い伝えがあり、現在でも若い女性やカップルの参拝者が後をたちません。また、伝統的仏教文化と現代文化が調和した荘厳な造りが特徴的な英照院の建築は、各方面で注目されています。  今から7年前、平成26年に台風で旧本堂の屋根が

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            [修行日記③] 修行の決意

             震災後しばらくすると通常の学生生活に戻りました。仏教学部禅学科では主に坐禅・曹洞宗の経典について学んでいました。当然、曹洞宗寺院の息子である友人も多く、「お寺の長男」としての相談話につきあうこともありました。その中でも「本山での修行」は彼らにとって一生に一度といっていいほどの大問題です。実家のお寺を継いでいくには絶対に避けては通れない難関なのです。大問題・難関と書いてはいますが、なかなか一般の方にはご理解いただけないかと思います。これから、私の永平寺修行時代をいくつか紹介す

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            [修行日記②] 震災で訪れた転機

            ―3.11、その日  香花堂で店の手伝いをしていた時に地震がおきました。激しい揺れではありましたが店舗の商品にはほとんど被害はありませんでした。ただすぐに停電になり、電動シャッターを下ろすことができず施錠できなくなってしまい、停電が復旧するまで店舗で寝泊まりをしていました。 地震から一週間程たったころ霊柩事業者の団体から「被災地で霊柩車が必要なので協力してほしい」という内容のFAXが届き、その数日後、身の回りの物やパン・飲み物等を搬送車に積み込み、父と被災地に出発しました。

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            [修行日記①] 葬儀社を営む家族の暮らし

            ―幼少期のこと 小中学校まで新庄にいました。その時代は自宅やお寺で葬儀をすることが多かったので、祭壇をトラックに積んで一緒に運ぶ手伝いなどをしていました。夏休み中は新庄祭りの山車の花を作ることもありました。 ―両親の仕事を見ていて 父は葬儀全般、母は香花堂の担当でした。夜中でも早朝でも車庫のシャッターが開く音がすると「仕事に行ったんだな」というのがわかります。葬儀の連絡が入ると家族旅行を途中で切り上げて帰ることもありました。 ―学生時代のこと 東京の高校に進学し、夜は天ぷ

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            「廣際院のこれから」 八幡山 廣際院 2/2

            廣際院のこれから  廣際院がある角川地域は山間部にある大きな集落です。敷地の広い廣際院の周囲の手入れや草刈りなども、瀧田住職が一手に担っています。頭にタオルを巻いて作業する姿は、農業が盛んなこの地域にも溶け込み、親しみやすさを感じさせます。  「人の心の中には生まれた故郷に対する想いがあります。人と地縁を守る砦がお墓、そしてお寺であると思っています。今は別の土地に住んでいても、お墓とお寺にお参りに来る方々がいます。彼らが帰ってきたときに、いつでも安心して訪れることができるお

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            「角川と共に歩む」 八幡山 廣際院 1/2

            角川地域の葬儀の変遷  新庄市内から車で約30分、戸沢村角川地区に廣際院はあります。  永禄元年(1558年)大蔵村清水にあった清水城主六代清水孫三郎義氏の命により、興源院住持三世花陰俊英大和尚が月窓院を建立しました。義氏公は日頃から仏法を厚く信仰し、天正14年(1586年)逝去し戒名が「廣際院殿霜岩雪公大居士」となったことから、月窓院の寺号を廣際院と改めたのが始まりです。  「角川は助け合いが強い地域なので、葬儀に関してもお互いに助け合ってきたと思います。その精神は時代

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            「長泉寺を受け継ぐ人」 亀棲山 長泉寺 2/2

            長泉寺を陰で支える寺族としての役割 - 結城住職が副住職だった頃に長泉寺に嫁いできた伸子さん。当初は義母の役割だった経理・電話対応・接客などの仕事を徐々に受け継ぎ、現在は、家族のスケジュール調整なども含め、管理業務全般を担っています。また、曹洞宗の梅花流という御詠歌を次の世代に伝えるための「長泉寺梅花講」の副講長でもあります。「梅花流御詠歌は、結婚後に地域の曹洞宗のお寺で寺族の仲間と学びました。平成元年頃から、30年以上続けています」と伸子さん。コロナ禍の前は月1回、長泉寺

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            「伝説を今に伝える」 亀棲山 長泉寺 1/2

            葬儀本来の意味を- 未来に繋ぐ 長泉寺の開創は永禄年間(1558〜1569年)といわれ、令和まで約460年余の歴史があります。現在のご住職は22世である結城俊道老師。檀家は新庄市内外に点在しています。  結城住職は、曹洞宗宗議会議員という要職に就いています。平成30年10月から2年間は、東京の宗務庁で出版部長の役職に就かれていました。全国の状況を知る結城住職は、「自宅葬から葬儀場で行う葬儀が増えたことも大きな変化ですが、もうひとつ、近年小規模な葬儀が全国的に広がっています

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