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伝説が今も残る寺 龍口山 定林寺 1/2

現代に語り継がれる 定林寺「龍女(りゅうにょ)伝説」

 定林寺の起源は、南北朝時代の永和年間(一三七八年)にさかのぼります。曹洞宗東北の本山としても知られた永徳寺二世瑚海理元(こかいりげん)禅師が開山されたと言われています。
 定林寺には、こんな伝説が残されています。
六四〇年前、お寺を建てた夜のことです。禅師様の前にこれまで見たこともないほど美しい絶世の美女が現れました。美女は禅師様にこう言いました。「私を成仏させてください。」禅師様はこう答えます。「その美しい姿は、あなたの本当の姿ではないのでしょう?。本当の姿を現したら成仏させてあげましょう。」すると、美女はたちまち龍の姿に変身し、本当の姿を現しました。「本当の姿を現してくれましたね。ありがとう。」そう言うと禅師様は、龍の姿を描いた掛け軸を作り、授戒の儀式(お釈迦さまの弟子になった証明書である血脈(けちみゃく)をお渡しすること)を行い、龍女を成仏させました。成仏した龍女は、禅師様に「これで思い残すことはありません。ありがとうございました。ありがとうございました。」とお礼を言い、龍(たつ)の口(くち)の岩山にスーッと消えて行きました。
 それ以降、どんな日照りの日でも、禅師様が描いた龍の掛け軸をかけると、必ず恵みの雨が降ったといわれます。それは成仏させてもらった龍女によるお礼の行いだったのでしょう。その掛け軸は残念ながら火災で失われてしまいましたが、模写した龍女の絵は定林寺開山堂の天井絵になっています。
 この伝説から、定林寺は「龍口山(りゅうこうざん)定林寺」と呼ばれるようになりました。


定林寺「龍女伝説」 瑚海理元禅師が描いた龍女画

龍女を成仏させるために瑚海理元禅師が描いたとされる龍女画を模した天井画。瑚海理元禅師の眠る開山堂の天井に掲げられています。


名工作「山号額の龍」

幕末から明治にかけて数多くの作品を残した希代の名工で彫刻師の髙山文五郎の息子専蔵と富重。父の薫陶を受け、県内外に優れた作品を残しています。2人の作品はいずれも鮮烈で仲間から嫉妬や反感を買い不遇を強いられていましたが、定林寺授戒会に戒師として来山された禅師様の目にとまり、ご本山おかかえの彫刻師として活躍することになりました。

髙山專蔵・富重が残した彫刻「山号額の龍」


曹洞宗 龍口山 定林寺(りゅうこうざんじょうりんじ)
場所/ 山形県西村山郡河北町谷地辛172-2
電話/ 0237-72-3013
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