見出し画像

水玉消防団ヒストリー第4回 1977年魔女コンサート

取材・文◎吉岡洋美
協力◎松本路子写真事務所
 

カルチャーでつながるシスターフッド


 
  女による女だけのカフェ、新宿「ホーキ星」に出会った’76年の天鼓とカムラ。
 カムラはホーキ星で初めて天鼓に会ったときのことを印象深く覚えている。「とても面白い帽子を被っていて、(女性解放)運動系の人とはちょっと違う匂いと存在感があった」(カムラ)。帽子のデザイン学校に通い、「運動には興味ない」けれど、面白いものには貪欲な天鼓のようなタイプも引き寄せたホーキ星。実際、ホーキ星は当時のウーマンリブ・ムーヴメントのなかに存在し、そのイメージはどこか「おしゃれ」だったという。とりわけカムラには運営の一人で、水玉消防団のメンバーとなる可夜の「文化系」的存在は大きかったという。
 
カムラ「可夜さんはデモとかそういう感じの人じゃなくてカルチャーの人だから、私はそこでもホーキ星に親しみを感じた。それまで私が会った運動系の人たちとはロックの話なんか出来なかったけど、可夜さんとはそういう話も出来たのが嬉しかった。“文化”と結びついている人がいる­—―それが私には重要だった」
 この「カルチャー」的な空気がホーキ星ならではとも言え、例えば女性関連の書籍やミニコミのショップでもある1階カフェに食事をしにふらっと寄ると、「上で勉強会やってるよ」と誰かが教えてくれ、2階を覗けば何かミーティングしているグループがいたりする。例えば、避妊について考える会、女の体を考える会、女性解放の先人の話を聞く会等々…にはじまり、「男の料理を女たちが食べる会」といったイベント企画的なもの、中山ラビをはじめとしたライブ、はたまた「今は足下を明るくする月間」として、カラフルな靴下をドレスコードにするグループがいたり。それぞれに参加するもしないも自分次第だし、誰も拒まない。出入りする女性たちは自由闊達にホーキ星という空間を楽しんでいた。
カムラ「そこにいる女性たちの間で何かが勝手に生まれるという感じ。そんなユルさと自由さがあったし、私よりも年上の女の先輩もたくさん出入りしているので、何か困ったことや分からないことが起きると、相談に行ったりもしていた。皆がシスター。そう、本当にシスターフッドなの」

 そうした空気のなかで開催されたのが、制作スタッフも出演者も基本「女」によるコンサートイベント「魔女コンサート」だ。
 

魔女コンサート


 もともと「魔女コンサート」は’74年に第1回目が日比谷野音で開催され、可夜が参加していた女性のフリースペースの先駆け、スリーポイントの母体会社「レディース・ボイス」が企画制作・主催を行なっていた。コンセプトは「女による女のコンサート」。その初回は中山千夏を司会に、出演者は中山ラビ、安田南、加藤登紀子、花柳幻舟、田中真里ら、応援メッセージにオノ・ヨーコ、ポスターは当時パルコの宣伝を担当していた山口はるみ、小池一子、照明家の藤本晴美、舞台美術に朝倉摂、撮影に吉田ルイ子、松本路子が協力……と、名前を列挙するだけでも一時代が浮かび上がる錚々たる女性クリエイターの顔ぶれである。スピーカー、電源の扱いのみウラワロックンロール・センターの男性たちが協力し、それ以外は出演者も裏方も基本、女性たちによるコンサート。そして、性別年齢問わず訪れた3,000人の観客を得て、大成功をおさめたのである。

●中山ラビ「ねぇ! やめてごらん」(1976)

●安田南「Some Feelings」(1977)

●加藤登紀子「この世に生まれてきたら」(1974)

●オノ・ヨーコ「女性上位万歳」(1973)


 スリー・ポイントなきあと、その制作打ち合わせの場はホーキ星へと移り、企画は「魔女コンサート企画」となる。そして第2回目以降、スタッフは「大体、ホーキ星に出入りしていた人たちが中心になった」(天鼓)という。天鼓とカムラがこのコンサートに本格参加したのは、’76年の第2回に続く、’77年の第3回目だ。
 
天鼓「コンサートあり、トークあり、“女の人の文化を皆で楽しもう”という感じで魔女コンサートを一緒に面白がって楽しんでいるうちに、ずるずると(ホーキ星の)仲間に入っていた(笑)。それこそ’77年は会場になった日比谷野音の日程を私が抽選に行って押さえたりして。(制作は)特に誰かが“中心になって”というわけではなく、やりたい人が集まってやるというかたちでしたね」
カムラ「そう、本当にそのやり方は革命的」
 その「革命的」な進め方について、カムラが説明する。
カムラ「上から下に命令系統でやるんじゃなくて、皆、同じ横並び。誰が偉いとかリーダーはいなくて、私たちが自分たちでやりたいことをどういう形で一緒にやっていくか。ホーキ星では皆がいつも、そう言っていた。だから、やたら時間はかかる。例えば、音響をやりたければ『音響のことわからないけれど、やりたい』とか誰かが申し出る。そうして未経験同士で音響担当グループが出来上がり、どうやれば音響を知らない私たちが扱えるようになるのか、イチから考える。例えば『プロの人に聞いてみよう』とか。そういう分科会みたいなものが自然と出来上がって、皆が全然知らないことにチャレンジする。で、気がついたら当日出来ちゃうんだよね」
 “やたら時間がかかる”というように、準備は1年以上前からホーキ星を中心に参加したい人を募って準備し、2階のフリースペースで「魔女コンサートをつくろうミーティング」を重ねる。最終的には延べ30人ほどになったという参加者。そこでは、人のアイデアを制御する人は誰もいなかったという。
カムラ「誰かが誰かを押し止めようとする人は一人もいなかった。誰かが何かやりたいと言ったら“それはどうやったら出来るんだろう”という方向に向かう。魔女コンサートも3年目だからといって、前回の担当者が今回も担当するわけじゃないんですよ。3回目だろうが基本、皆、初めての素人。当時、私は喫茶店のバイトぐらいしか仕事したことがなくて、そういう女たちが集まって『私も何かやりたい』と話し合って作っていく」
 そうして3回目の魔女コンサートは’77年5月、日比谷野音で開催される。出演者は1、2回目に引き続き中山千夏を司会に、中山ラビ、パントマイムの草分けヨネヤマ・ママコ、マジシャンの松旭斎廣子しょうきょくさいひろこらのバラエティに富んだパフォーマーたちに加え、小西綾、牧瀬菊枝らの女性解放運動、女性史研究の先達もステージに上がった。女に関する書籍、ミニコミ、フードなどの販売ブースも全国から集まり、カムラ曰く「思想性なんて問わない。女なら誰でもOK」という正に「女」の一大フェス。今回も山口はるみがイラストを手掛けたポスターの謳い文句は第二回目同様「くもりない眼で、納得いく生き方を選ぼうとするとき、女に着せられることば魔女。ならば魔女こそ魅力的です。」


「魔女コンサート」の当時のポスター。’74年、’77年は日比谷野音で、’76年は目黒・杉野講堂で計3回開催された。ポスターはパルコの広告で一斉を風靡した山口はるみが全ての回のイラストを手がけた。[撮影:松本路子]

 全国からこの日のために訪れた女性たちも含め、第3回も日比谷野音に満員の観客を集め、大盛況となる。そんななか、実に天鼓はここでステージデビューを果たしている。
天鼓「マジシャンの松旭斎廣子さんが『人間ロケット』というマジックを行ったんですね。野音のステージから人間が入ったロケットを飛ばすというもので、何故か(ロケットに入るのは)私がいいんじゃない? って言われて手伝うことになった(笑)。ステージ上から私の入ったロケットがバーンと飛ばされる。そして、私が突如現われるのは観客たちの真後ろ、会場の一番後ろの段。もちろんタネも仕掛けもあるマジックですから、どういう仕掛けかは永遠に松旭斎さんと私の秘密。だから、今だに誰にもタネは言えない(笑)」
 ロケット発射とともにステージから遠く離れた場所に現れた天鼓に、会場中がどよめいたというイリュージョン。後にステージに立ち続ける天鼓だが、その初ステージは3,000人を驚かせ、人前に立つ面白さを実感するものだった。
天鼓「皆、あんなに驚くかというほどで大変でしたよ。まあ、確かに自分が観客だったらビックリするよな、と思いますが(笑)。でも、人を驚かせるのは面白いと思いましたよね。楽しいことで皆が驚いて一体化する。それっていいじゃないですか。もともと、そういうお祭り好きなんです。人前で何かやるということは、その空間にいる人たちと一緒に何かをやることでもある。一人きりでいきなり何か始めても作品は作れるかもしれないけれど、人と何かを作るならステージに立つのが一番手っ取り早くて面白い。やるんだったらちゃんとやりたいし、同じやるなら面白いほうがいい」
 

その松旭斎廣子による第3回魔⼥コンサートの「人間ロケット」の様子。天鼓はシルバーのボディスーツ姿でステージに登場し、ロケットの中に入る。松旭斎廣子(1916-2007)は、明治後半から昭和初期に活躍した女性マジシャンの草分けの旭斎勝一に師事し、先駆的な大道具を使った「大魔術」ショーで人気を博した。[撮影:松本路子]

 カムラはヨネヤマ・ママコのパントマイムに感銘を受けたと言う。
カムラ「ママコさんは『主婦のタンゴ』という作品を魔女コンサートのために作ってパフォーマンスしてくれた。主婦が仕事しながら疲弊していき、ある瞬間にそんな自分に気づいて自分のなかの自由に目覚める、という短いスケッチ。とても素晴らしい作品だった。ママコさんはウーマンリブを標榜している人じゃないけれど、パントマイムというジャンルのなか一人屹立した女性で、その生き方自体がウーマンリブそのもの。でも、魔女コンで主婦をテーマにしたその舞台パフォーマンスの深さとリアルさを見て、ママコさんのような女性でも男性社会のプレッシャーはすごく大きかったのかな、とも思った」

●ヨネヤマ・ママコ(1961.3.28.NHK「ジェスチャー」)


「フェミニストでいいんだ」(カムラ)
「ひとつの大きなはじまり」(天鼓)

 
 カムラは、この魔女コンサートで改めて自分が「女」の当事者であることに気づき、それを共有できたと話す。
カムラ「出演者の皆のことは確かに“点”では知っている。ヨネヤマ・ママコさんのことも中山ラビちゃんのことも。でも、皆をフェミニズムという切り口で見たら、皆同じ苦労、障壁があって、乗り越えなければいけないことがある。思えばそれは私も同じで、そんな色々な(女である)ことを共有することができたんですよ。それまでは、そんな風に人と自分を結びつけてはいなかった。だから、私は魔女コンサート、ホーキ星で気付かされて学んだんです。『ああ、そうか、自分は“フェミニスト”でいいんだ』と」
 ホーキ星という空間から始まったからこそ、思ってもみなかった女性たちとつながれたとも言う。
カムラ「ホーキ星は、ただカフェみたいなものをポイッと作って、そこでいろんなことをやろう、という発想でしょ。そこには、すごく政治的なテーマで女の問題を主張する団体の人や個人活動で問題提起する花柳幻舟さんといった、言ってみれば“リブ戦闘家”のような女性もいた。幻舟さんに『家元制度反対!』と言われて『そ、そうなんですか…』と思いながら、逆に言えば、運動や思想だとなかなかつながれないけど、カフェ、コンサートという場だと、皆何かしらの形でつながれる。皆が平らな関係で横につながっていくのが女のやり方なんだ、それをやっていこうよ、と。どういう風にすればそれが形になるのか、それはまだ世の中に存在していなかったから誰もわからない。でも、その志に立つことが皆の共通認識としてあった」
 
 天鼓は、ホーキ星と出会い、魔女コンサートはじめ、数多くの女性と時間を共にしたことは、「ひとつのはじまり」だったと言う。
天鼓「あれだけの一つの大きいコンサートイベントを作るということは、すごく勉強になるわけです。ヘルプで助手的な男の人はいるけれど、基本は女の人がメインで動く。そういう体験って今までなかった。というか、そもそもそんな場がなかったわけですよね、女の人の場合。今でもあるのかどうか…。どうしても何か色々なことで体験を狭くされちゃうわけで。でも、出演者の人選から、ポスター作り、会場手配……全部自分たちで決めて、一緒にやる。そうしてるうちに『あんなことも出来るんじゃない?』と思えてくる。それは自信になりますよね。どんなことが出来るのか試しながら、毎日ホーキ星に行って話し合って。本当に色々な人が来るので、色々な女の人と話すのは楽しいことだったし、でも“楽しい”だけじゃなくて“大変”なことを一緒にやる。それこそが面白い。当時、そうしたことが出来たのは、私の人生のなかでも大きなことの一つだと思います。一番、世の中のことを何も知らない20代の最初の頃、女の人たちと一緒に『あんなこともこんなことも出来る』ことを知ったのは、それ以降、私のなかではすごく大きなことになっていった」
 

81年の1stアルバムリリース前の頃の水玉消防団。左からまなこ、カムラ、天鼓、可夜、みやもとSAN

●天鼓 1979年より女性のみのパンクロックバンド、水玉消防団で音楽活動を開始、80年代のニューウェイヴシーンで10年間活動を行う。同時に80年代初頭にNYの即興演奏に誘発され、声によるデュオの即興ユニット、ハネムーンズをカムラと結成、活動開始。その後、ソリストとして活動を続けるうち、86年頃よりヴォーカリストではなく「ヴォイス・パフォーマー」と称するようになる。「声を楽器に近づけるのではなく、より肉体に近づけるスタンス。あるいは声と肉体の関係を音楽のクリシェを介さずに見つめる視点。“彼女以前”と“以降”とでは、欧米における即興ヴォイスそのものの質が大きく変質した」(大友良英)。85年のメールス・ジャズ・フェス(ドイツ)以降、世界20カ国以上でのフェスティバルに招聘されている。これまでの主な共演者は、フレッド・フリス、ジョン・ゾーン、森郁恵、大友良英、内橋和久、一楽儀光、巻上公一、高橋悠治など。舞踏の白桃房ほかダンス、演劇グループとの共演も多い。水玉消防団以降のバンドとしては、ドラゴンブルー(with 大友良英、今堀恒雄 他)アヴァンギャリオン(with 内橋和久、吉田達也 他)などがある。15枚のアルバム(LP /CD)が日本・アメリカ・カナダ・スイス・フランス・香港などでリリースされている。演奏活動の他、各地で即興・ヴォイスや彫塑、空間ダイナミックスなどのワークショップを数多く行っている。

◆天鼓ライブ情報

「GIGANOISE〜SPIN-OFF ギガノイズ スピンオフ」
11/28(月)@秋葉原CLUB GOODMAN
出演者:天鼓、内橋和久、坂田明、巻上公一、山川冬樹、doravideo
OPEN:19:00  START:19:30
前売り:¥3,000 当日:¥3,500


●カムラアツコ 
80年代、日本初の女性パンクバンド「水玉消防団」で、ボーカリスト、ベーシストとして音楽活動開始。日本パンクシーンの一翼を担う。同時に天鼓との即興ボーカル・デュオ「ハネムーンズ」にて、ニューヨーク、モントリオール、ヨーロッパで公演、ジョン・ゾーンはじめニューヨーク・インプロバイザー等と共演。その後、英国に渡りポップグループ「フランクチキンズ」でホーキ・カズコとペアを組む。オーストラリアを始め、ニュージーランド、アメリカ、カナダ、ヨーロッパ、ソビエトなどツアー。90年代は、ロンドンで始まったレイブシーンでダンスミュージックの洗礼を受ける。2000年以降、「I am a Kamura」、「Setsubun bean unit」でフォーク、エスニック、ジャズ音楽の領域に挑戦。現在の自身のプロジェクト「Kamura Obscura」では、Melt, Socrates' Garden、Speleologyのアルバムをリリース。エレクトロニクス、サウンドスケープ、即興の渾然一体となったさらに実験的な新作「4AM Diary」を2021年末にリリース。同年秋、イギリスのポストパンクバンドNightingalesの満席完売全国ツアーをサポートする。2019年にはバームンガムの映画祭Flat Pack Film Festival、2022年10月にはポルトガル・セトバルの映画祭Cinema Charlot, in Setubal, Portugal にて、日本の前衛映画の名作「狂った一頁」の弁士を務めた。

●水玉消防団 70年代末結成された女性5人によるロックバンド。1981年にクラウド・ファンディングでリリースした自主制作盤『乙女の祈りはダッダッダ!』は、発売数ヶ月で2千枚を売り上げ、東京ロッカーズをはじめとするDIYパンクシーンの一翼となリ、都内のライブハウスを中心に反原発や女の祭りなどの各地のフェスティバル、大学祭、九州から北海道までのツアー、京大西部講堂や内田裕也年末オールナイトなど多数ライブ出演する。80年代には、リザード、じゃがたら、スターリンなどや、女性バンドのゼルダ、ノンバンドなどとの共演も多く、85年にはセカンドアルバム『満天に赤い花びら』をフレッド・フリスとの共同プロデュースで制作。両アルバムは共に自身のレーベル筋肉美女より発売され、91年に2枚組のCDに。水玉消防団の1stアルバム発売後、天鼓はNYの即興シーンに触発され、カムラとヴォイスデュオ「ハネムーンズ」結成。水玉の活動と並行して、主に即興が中心のライブ活動を展開。82年には竹田賢一と共同プロデュースによるアルバム『笑う神話』を発表。NYインプロバイザーとの共演も多く、ヨーロッパツアーなども行う。水玉消防団は89年までオリジナルメンバーで活動を続け、その後、カムラはロンドンで、天鼓はヨーロッパのフェスやNY、東京でバンドやユニット、ソロ活動などを続ける。

◆天鼓 Official Site

天鼓の公式サイト。ヴォイスパフォーマーとしての活動記録、水玉消防団を含むディスコグラフィーなど。

Kamura Obscura

カムラの現プロジェクト「Kamura Obscura」の公式サイト。現在の活動情報、水玉消防団を含むディスコグラフィー、動画など。

◆水玉消防団ヒストリー バックナンバー


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?