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2022年10月の記事一覧
【連載小説】『晴子』21
あの人にとって、名前は願いではなく記憶だったのだ。
それを聞いたとき、私は妙な納得と満足の感覚があった。あの人が私に付けた名前に、過不足がなく、私にピッタリな感じを受けたのは、その名前があの時あの人と出会った私と何もかもが等しかったからだ。名前とその時の私という存在が一切の均衡を保っていたからだ(ちなみに、例えば名前負けとかそういう類の現象は、この不均衡から生じるのだろう)。
仕事が終わった
【連載小説】『晴子』23
鶴田のことを思い出した。高校時代の同級生だった彼とは、よくつるんで遊んでいた。放課後を待たずに、昼休みを超えたあたりで仮病を使って学校を抜け出し、高校の近くにあった酒屋の自販機の前で集合した。
待ち合わせ場所に行くと、鶴田は自販機の前のベンチに座って缶のサイダーを飲んでいた。彼は俺を見て言った。
「今日は腹痛か?」
「残念。身体が怠い。」
仮病の時に、教師に何と言って抜け出してきたのかを当て
【連載小説】『晴子』24
「それは大変だったね。」
あの人は、バーのボックス席に前のめりに座ってホットウィスキーを舐めながら私の話を聞いていた。先日の菖蒲ちゃんの話だ。
結局あの日、あの人と会う予定だったが、菖蒲ちゃんの隣を離れるのが何となく憚られて、彼との予定を延期することにしたのだ。
「それで、僕との約束が流れたと。」
という彼の表情は、決して不機嫌ではない。
「ごめんね。でも、あのままだったら、あの娘、何しでか
【連載小説】『晴子』27
3年生のスタートに当たるオリエンテーリングが始まった。学年のはじめに行うオリエンテーションは、年に1回その学年の学部生がほとんど全員集まる珍しい機会だ。そこにはなぜか、井川の姿が見られなかった。あの秋の合コン以来、井川とほとんど話していないことに気付いた。学内ですれ違うことはあるけど、その度にお互いに目を合わせて短い言葉にならない挨拶を交わす程度だ。大概いつも、井川の方は誰か他のやつらと一緒にい
もっとみる【連載小説】『晴子』28
5月に入って、ようやくコートをしまった。
街全体に緑が息吹くような季節になった。日も長く眩しい。
「転勤になるんだ。こんな中途半端な時期に。」
喫茶店の野外テラスに座った私たちは、向かい合って座り、お互いにコーヒーを飲んでいた。葉擦れの音が潤っていた。
「どこに行くの?」
聞いた私の言葉には極めて日常的なニュアンスが残っていて、つまりこの転勤が私たちのこれまでの生活を劇的に変えることは恐ら
【連載小説】『晴子』29
早めの梅雨がやって来た。
部屋の中は心なしか湿気ていて、何を触ってもその表面にぬるい水分の感触があるようだった。髪を短くしておいてとよかったと思う。うなじあたりをなでる空気が、梅雨でも涼しくさっぱりと感じられる。
ラジオからは、雨の続く毎日への憂慮とは裏腹に、来る夏への期待に満ちた話が流れてくる。淹れたての熱い紅茶の入ったマグカップがテーブルの上にある。もうこれも季節はずれになっている。外は
【連載小説】『晴子』30
井川が退学したらしい。
教えてくれたのは島田だった。彼女に言われるまで、俺はそのことを知らなかった。
「竹下さん!」
大学内のカフェで俺に駆け寄ってきた彼女は、髪を短く切っており、一瞬誰か判然としなかった。
「聞いてますか?」
「何?」
「井川さんが、大学辞めたって。」
そういえば、前期の授業が始まってから今まで、井川の姿を一度も見ていない。大学3年になると、同級生と授業の時間割が会うこと
【連載小説】『晴子』31
あの無言電話の次に、今回の失恋のことを話したのは、もちろん菖蒲ちゃんだった。この菖蒲ちゃんへの報告は、もちろんという言葉の表現する必然性とぴったり符合するものを感じていたからだ。
「別れちゃったんですか?私、会ってみたかったのに、月島さんの彼氏。」
少し残念がりながら、菖蒲ちゃんは更衣室の制服に袖を通していった。今日から夏服になる。
「あ、彼氏じゃなくて、元彼氏、でしたね。」
制服から顔を出
【連載小説】『晴子』32
朝から雨が止まなかった。
傘を持って短い髪が湿気で少しベタつくのを気にしながら、私は立ち止まって自分の前を通り過ぎていく人の塊をいくつもやり過ごしていた。昼時の駅は、出勤時や帰宅ラッシュ時の帯のように絶え間ない人の混雑はなく、電車が止まる度にひと塊の人がホームから上がってくる。
今年の梅雨は、例年より早くきて、長く続くそうだ。7月も終わりに差し掛かろうというのに、梅雨明けはまだまだ先みたいだ
【連載小説】『晴子』終
「おい、竹下!お前どこ行くんだよ?」
酔っ払ったバイト先の先輩が俺の服を掴む。
「トイレですって。」
先輩の手を振りほどこうとするが、結構力が強い。
「離してください。」
「なんだよ、俺から逃げようってか?」
「そういうわけじゃないですけど。」
なかなか手を離してくれない。そのあとも、何か言っていたが、若干呂律が回っていないその声は、意味のある言葉というよりも理解不能な鳴き声に聞こえた。