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【連載小説】『晴子』21

 あの人にとって、名前は願いではなく記憶だったのだ。
 それを聞いたとき、私は妙な納得と満足の感覚があった。あの人が私に付けた名前に、過不足がなく、私にピッタリな感じを受けたのは、その名前があの時あの人と出会った私と何もかもが等しかったからだ。名前とその時の私という存在が一切の均衡を保っていたからだ(ちなみに、例えば名前負けとかそういう類の現象は、この不均衡から生じるのだろう)。
 仕事が終わった水曜日の夕方、途中まで菖蒲ちゃんと歩いて帰った。コートに身を包み、マフラーで分厚く首を、何なら鼻の真ん中まで覆った菖蒲ちゃんは、背が低い分歩きにくそうにしていた。私も別に急いでいなかったので気持ちゆっくりとした歩調を合わせた。
「月島さんは、失恋ってしたことありますか?」
「どうしたの?唐突に。」
「彼と別れるかもしれません。」
 私の並んで歩く彼女は、真っすぐに前を見据えていた。
「あの例の彼と?どうしてまた。何かあったの?」
 彼女はその質問に答えることはなかった。でも、何も語らないその表情は反応として多くを語っているように見えた。目に涙を溜めているわけでもなく、唇が怒りに震えているわけでもない。多分——
「これといって明確な理由はないんです。」
 ほらね。
「なにか喧嘩があったとか、そういうわけではなくて。なんというか。」
 煮え切らない彼女に、助け船を出してみようと思った。
「性格の不一致?」
「仲は良いと思うんです。」
「冷静に考えたら好みじゃなかった。」
「それはないと思います。」
 それもそうだ。少なくとも2年は関係が続いているわけだ。冷静になって好みかどうかを悟るには十分すぎる。悟っていたことが正しかったとしても、約2年の月日が過ぎたということは、そんなこと承知の上のはずだ。
「じゃあ、他に好きな人ができたとか?」
「どっちにですか?」
「どっちかに。」
 彼女は黙った。それは考え込むためでもなければ、図星をつかれたためでもないことは、顔を見れば分かった。普段はあんなに表情が分かりやすい彼女が、今日は目一杯複雑な何かを考えている。
「なんというか。言葉にしづらいんですが…。このままでいいのかなって考えることがあるんです。」
「というのは?」
 彼女がまた、押し黙る。それからしばらく、私たちの間に言葉はなかった。問い詰めたみたいな口利きになってしまったか、瞬間心配した。
 角を曲がって大通りに出る。都会の巨大な駅は今、駆け足でやってきた冬の夕闇に光を放って、私たちの真正面に待ち構えるかのように佇んでいる。そこにきて菖蒲ちゃんは立ち止まった。それに気付いたのは、私の横を歩いていた彼女が後ろに流されていったように見えたからだ。
「どうしたの?」
 振り返って声をかけた。彼女は、茫然と駅の方を見ていた。駅を見ていたと言えないのは、彼女の目が特定の何かを捉えているようには見えなかったからだ。
 引き返して、彼女の元に戻る。彼女の眼には、涙が溜まっていた。
「私…。」
 私は彼女を大通りの端に導いた。
「あの、私。彼が優しい人なのは分かるんです。」
 彼女の目からはとうとう涙が垂れてきていた。
「私、彼のことが好きで。嫌いになったとかは絶対に違くて…。でも、」
 彼女の言葉はもう、とりとめもないものになっていて、そこには継ぎ目のない思考はなかった。
「私は、月島さんみたいに、カッコよくないし、オトナじゃないし、笑えないタイプのドジだし。でも、彼が私のことが好きなのはわかるけど。でも、それが辛くて。」
 私は彼女の背中に手を添えて、彼女の次の言葉を待った。涙に沿って、彼女の化粧が少し剥がれていく。
「彼といると、幸せだし、楽にいれるけど。でも、それと引き換えに何かが失われていくように思うんです。彼は、いつも私を許してくれるんです。自分では絶対に許せないって思う自分も、あっさり許してしまうんです。それが…なんというか…。その度に、私、擦り減っていくんです。」
 ここまで言ってしまうと、菖蒲ちゃんは言葉が切れて、マフラーに顔を隠した。
 私たちの前を通り過ぎていく仕事終わりのサラリーマンや、学生服を着た若い男女の何人かが、こちらを一瞥していく。何人かは、私が泣かせたと勘違いした人もいるかもしれない。
 菖蒲ちゃんの恋人は、きっと彼女には優しく、どんな彼女でも許してしまえる。でも、一方で菖蒲ちゃんには、なりたい自分というのもあるのかもしれない。でも、菖蒲ちゃんにとって、自分でも許せない自分を許してくれることは、なりたい自分でいさせてくれることを意味するわけではないし、許される度に、それを目指す試みが挫かれるように感じるのだろうか。
 2月の地面に叩きつけられた靴の音が、私たちの前を過ぎていく。菖蒲ちゃんのちんまりした身体の周りだけ、不思議と柔らかく暖かかった。

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