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【連載小説】『晴子』24

「それは大変だったね。」
 あの人は、バーのボックス席に前のめりに座ってホットウィスキーを舐めながら私の話を聞いていた。先日の菖蒲ちゃんの話だ。
 結局あの日、あの人と会う予定だったが、菖蒲ちゃんの隣を離れるのが何となく憚られて、彼との予定を延期することにしたのだ。
「それで、僕との約束が流れたと。」
 という彼の表情は、決して不機嫌ではない。
「ごめんね。でも、あのままだったら、あの娘、何しでかしてたか分かんなかったのよ。」
「分かってるよ。麻美も色々頼られてんだね。職場の後輩に。」
 あれは頼られてるのだろうか。仮に頼られていたとしたら、あの夜私は役割を果たせていたのだろうか。あの夜、私がしたことと言えば、泣き崩れんばかりの菖蒲ちゃんを近くの個室の居酒屋に連れていき、彼女が泣き止むのを待って(結局最後まで完全に泣き止むことはなかったが)、泣きむせぶ声の隙間を縫ってポツリポツリと零れてくる彼女の言葉を、何を言うともなく聞いていただけなのだ。
 帰りには少しましな表情になって、駅で別れた。最後に何か言葉を交わしたが、あまりにもナーバスな二人の空気感を抜け出した私は疲れ切ってしまっていて、お互い何を言ったかよく覚えていない。言葉よりも、去り際の菖蒲ちゃんの表情の方がよく覚えている。愛着のある鎖から解き放たれて、清々しさと寂しさの混じった、そして何かを決意した人間の諦念の滲んだような表情を。あんな複雑な表情の彼女を初めて見たからだ。
「心配?」
 あの人が、私の目を覗き込むようにして聞いてきた。
「心配じゃないと言えばウソよ。」
 菖蒲ちゃんから、「彼と別れました。」と聞いたのは、あの夜から4日後のことだった。それ以来、彼女は明らかに変わった。仕事にはいつも通り精を出している。しかし、その様子を見ていると、これまで以上に抜かりがないのだ。今までの菖蒲ちゃんなら、店が混雑のピークを過ぎると、油断して注文を取り違えたりすることがたまにあったりした。注文する常連客が親しく彼女に話かけたと思ったら、キッチンにオーダーを伝える頃には注文を忘れてしまうこともあったりした。店長からも常連客は、若い店員の可愛げのあるミスを大目に見て囃し立てたりしてごまかした。こういうミスが、決して多かったわけではないが、周りの人間はもれなく、彼女の放っておけない雰囲気を愉快に思っていた。
 それが、彼と別れて以来、そのようなミスが全くなくなった。ミスがなくなっただけでなく、以前のような放っておけなさがなくなり、常連客には「あの娘、最近頼もしくなったんじゃないの?」と言われる。明らかに、彼女の中で何か異常が、少なくとも変化は起こっている。
「でも、彼女の変化をどう受け止めるべきかは、まだ分からない。まだ分からないことが多すぎるのよ。」
 私は、ホットウィスキーで喉を湿らそうとした。湯気を勢いよく吸い込んで、軽く咽てしまった。
「告白して振られるのはまだ分かりやすいけど、恋人同士の失恋は色々とややこしいね。」
 あの人が苦い顔をしたので、話頭を転じる。
「そういえば、この間の話、面白かったわ。」
 彼は、何のことか分からないといった顔でこっちを見た。
「名前の話。あなたの子の。」
「ああ。」
「秋葉ちゃんも美夜ちゃんも、いい名前だと思うわ。」
 あの人は何も言わず、マグに入ったウィスキーを軽く揺らしていた。
「名前に生まれた時の情景を刻むって、素敵だと思う。」
「そうかな?」
 彼は、出来て当たり前のことを褒められた時のような反応を示した。
「私はね。名前って、親の願いだと思ってたの。」
 言ってすぐに、自分の口から話すつもりのなかったことを話していることに気付いた。こんなことを、彼に話してどうなるというのだろう?それも、私の本名を知らない彼に。そうして言い淀んだ一瞬、彼はそれを察した。彼はマグをテーブルに置いて、私の目を見つめた。
「いいよ、話して。」
 彼に促されるまま、とにかく話すしかなくなった。
「名前って、親の願いだと思ってたの。」
 彼は、机に片肘を置いて身体を前に倒して、私の話に意識を集中する。
「小学校の時に、親に名前の由来を聞いて発表するっていうのがあったの。みんなそれぞれ、自分の名前について話していくの。みんな名前の由来を話すと、親の願いが込められてるんだなってよく分かるの。親がこんな風に育ってほしいと思ったからとか、みんなそんなことばっかり話すの。」
「麻美の名前はどうだったの?」
「それは…。」
 それ以上言えなくなってしまった。うっかり自分の本名を言ってしまいそうになった。あの人も、自分の質問の何が私の言葉を詰まらせたのかを悟った。本名を言ってしまえば、私はもうこれ以上あの人の前で麻美ではいられなくなる。そしてそれは彼にとって、私を失う事をも意味した。
「つまり、その、親の願いが込められていたのかい?君の本当の名前にも。」
「そうよ。」
 ほんの出来心で名付けた名前が、私たち二人の間では大きな意味を持つようになっていた。
「それでね、私は不思議に思っていたの。だって、親の願いや期待を意図しないうちに背負わされて、名前という形で刻み込まれるって、何だか変じゃないかしら。私、幼稚園に入って、人に自己紹介をする時にいつも思ってたの。そういえば自分の名前ってこうだったなって。でも周りの子は自信満々に自分の名前を言うの。でも私は違うの。自分の名前がこうだって確信できないの。私の名前ってこんなんだっけ?って、いつも思うの。」
 私がほとんど一方的に話しても、あの人は聞く姿勢を崩さなかった。
「名前って、知らないうちに親から与えられているでしょ。気が付いた時にはもう遅いし。自分の人生を通して、その名前を捕まえなきゃいけないわけじゃない。」
「捕まえる?」
「つまり、私はこんな名前だっていう確かさみたいなものを。自分にこういう名前が付いてるってことを実感しなきゃいけないわけじゃない。」
 彼は少し納得したようだった。
「それに、年を経る毎に、名前に込められた意味が、何となく分かるでしょ。そうなると、なんとなく自分に課せられた期待がうっすらと浮き彫りになるでしょ。自分の名前に実感が持てないと、そういう期待から逃げたくなるの。仮にそんなものがなくて、もはや重要じゃなかったとしても、とにかく逃げ出したくなるの。」
 私とあの人のホットウィスキーは、もう湯気が消えてしまっていた。
「逃げようったって、自分の名前だからね。常に付きまとうものだから、逃げようがないね。」
 あの人は、何となく話を理解しているようだった。彼はぬるくなったウィスキーを一気に流し込んだ。
「僕は君の本名を知らないけど、君は何かしらの理由で、自分にその名前が付いていることが許せないんじゃないのかい?」
 この質問で、彼が私の話を大体理解していることが分かった。私はただ首肯するしかなかった。彼は続けた。
「でも、麻美を見る限り、名付けた親を恨んでいるようには見えない。というか、自分の名前がそうであることを受け入れられないという感じがする。」
 私は、彼が私の言葉を丁寧に咀嚼しているのを感じた。彼の言葉が私の内情を完全に覆い尽くすものかは分からなかったが、それは私も同じく自らの内情を把握できていないからで、やはり彼に話して良かったと思った。
 そして、ふとこんなことを考えた。彼は、私の名前を許してくれるだろうか。私が晴子であるということを。私が、人生の途中まで自分でも許すことができなかったことを。許す以外には、諦めることしかできなかったことを。
 もし許されたら。考えてみた。もし許されたとしたら、それは何か、すごく残酷なことかもしれないと思った。例の菖蒲ちゃんの彼氏みたいに。
「私ね、名前って、この世に生まれて初めに受けた暴力の痕だと思うの。」
「興味深いね。」
 あの人は、深く呼吸し、深く背もたれに身体を預けた。
「そして多分だけど、それは正しいよ。」

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