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【連載小説】『晴子』30

 井川が退学したらしい。
 教えてくれたのは島田だった。彼女に言われるまで、俺はそのことを知らなかった。
「竹下さん!」
 大学内のカフェで俺に駆け寄ってきた彼女は、髪を短く切っており、一瞬誰か判然としなかった。
「聞いてますか?」
「何?」
「井川さんが、大学辞めたって。」
 そういえば、前期の授業が始まってから今まで、井川の姿を一度も見ていない。大学3年になると、同級生と授業の時間割が会うことは少なくなっていき、定期的に会う同級生と言えばゼミの連中くらいだから、誰かがいなくなっても気付きにくい。
「そうなの?知らなかったな。」
「そうなんですか…。竹下さんなら何か知ってると思ったんですけど。」
 あいにく、俺は井川の消息について何も知らなかった。井川がよくつるんでいたやつらが井川の退学について何か言っているのも、仄めかしているのも聞いたことがない。
「美里ちゃんは誰から聞いたの?」
「サークルの菊池さんです。」
 菊池は俺や井川の同じ学部の同級生だ。島田が所属するサークルの副部長をやっている。菊池とも最近会っていない。菊池が井川と親しかった記憶はないが、顔見知りではあるから何かの拍子に聞いたのだろう。
「そうか、菊池から何か詳しいこと聞いてる?」
「いえ。さっきすれ違いざまに聞いたので。でも、菊池さんでも理由とかは分からないらしいんです。」
「そっか。」
 別に、今になって井川の身の上話を聞いても仕方がない。これ以上、井川の退学事情に探りを入れるのは止した方が良さそうだったし、そうしたいとも思わなかった。
「分かった。まあ、なんと言うか、ありがとう。」
 これ以上何を返していいか分からず、ぎこちなくなった。
 これで会話を終えたつもりだったが、島田はまだ去っていかない。島田は、何か言いたげに俺の方を見ている。
「どうしたの?」
 立ち去ろうとしない島田に聞いた。
「竹下さん、清々してます?」
 島田が俺に疑うような上目遣いを向けてくる。
「ううん…。どうだろう…。」
 返答に詰まる俺を、島田は表情で追い詰める。まるで自分が納得する返答を得るまで、この場を立ち去るまいと冗談でも言うように。
「でも、寂しくはないかな。」
 俺は微笑んで返した。これは本心だ。清々したと言えばそうだが、あいつには何かしらのゾクゾクを期待していたところもあった。それでも、やはり寂しくはなかった。
「そうですよね。私もです。」
 そう言って島田は意味ありげな表情を俺に向けた。それはある秘密を共有している者同士に交わされるそれだった。
「そろそろ行かなくていいのかい?」
 島田の後ろに見える席では、彼女を待ちかねてホットドックを頬張り始めた彼女の友人たちがお喋りに興じていた。
「あ、そうですね。そろそろ行きます。また。」
「また。」
「あ、そうだ。」
 彼女は、俺の右耳に口を近寄せ、囁くように言った。
「私、一つだけあります。心残り。」
 彼女が初めて見せる色気の滲む振る舞いに、俺は思わず身構えてしまった。意味ありげな間を空けて、彼女は言った。
「あの夜、私も井川さんのこと蹴飛ばしておけばよかったと思ってます。」
 彼女は言い終えると、友人の待つ席の方に歩いて行った。途中、俺の方を振り返って、悪戯っぽい笑顔を向けて首をすくめた。その仕草には、俺と彼女との間になる、ある種の共犯関係を暗示するようだった。半ば呆気にとられながらも、お嬢様も成長するもんだな、と思った。
 彼女が席に戻ってしまうと、俺はトレーの上に置いた丸めたホットドックの包み紙とまだ半分残っているホットコーヒーの入った紙コップを見つめた。
 昨日、晴子に電話をした。それもあの女、泣いていやがった。
 涙の理由は恋人との別れといういたってシンプルなもののはずなのに、泣いている本人は事態を複雑だと思っているらしい。
 恋人に名付けられた偽名を失いたくないという旨のことを言っていた気がするが、それは失恋全般に共通することではないのか、と思う。恋人といる時の輝かしい自分を失うことによる空虚さへの不安や恐怖なんて、そんなに珍しいものではない。
 晴子にとって、麻美という偽名は記憶だということも、確か言っていたような気がする。もちろん、名前に記憶が刻まれていくことは往々にしてある。麻美というのが、恋人との間の記憶に名付けられたものだとしたら、確かに彼女の言う通り、その記憶は凍結されるのだろう。
 でも、記憶というのはそういうものではないのか。過ぎ去った瞬間にそれは凍結されて、匂いも手触りも輪郭も厚い氷を隔ててぼやけていくものではないか。晴子は俺より年上の感じを受けたが、そんなことが彼女にとっては新鮮なのだろうか?そう思うのは、俺が麻美の記憶を全く知らないからだろうか。
 昼頃のカフェの雑音を遮りたくて、俺はイヤホンを耳に突っ込んだ。急な思い付きが、何を聴こうか考えながらiPodを操作する俺の手を止めた。
 そういえば、晴子は俺に本名を明かしたのだ。俺はあの女を呼ぶとしたら、晴子より他にその名前を知らない。彼女の苗字も知らないし、俺が麻美と呼べば、彼女は違和感を隠さないことは明らかな気がした。もっとも、俺の方から名を呼ぶことはないだろうし、相手もそう思っているだろうが。
 いや、そうであればなおさら疑問が残る。なぜ、名を呼ばれることどころか、返答さえ特に期待できない相手に、大して好きでもない自分の本名を明かす気になったのか。特に理由がないのだとしたら、俺をこうして迷路に陥れて楽しんでいるのか。でも、そういう態度と昨日のように泣いた晴子が、つながりそうにない。これは直感的な判断で以て、ということである。
 しばらく操作をしていなかったiPodの画面が消えて真っ暗になった。それなりの時間、俺は考え込んでいたようだ。ろくに選曲もできなくなっているみたいだ。今の気持ちに合う音楽が俺のiPodにも入っていないというのもあるが、この世界のどこにそんな曲があるのかさえ俺には分からない。
 急に、頬が緩んだ。急にバカらしくなった。いや、バカらしいというのとはまた違うかもしれない。電話の向こうの誰か分からない、そして恐らく今後も直接会う事はないであろう、女のことをこうまで考えているのだ。自分にもまだ可愛いところが残っているのだ。思えばさっきの島田のあの悪戯っぽい微笑みには、そんな俺の可愛さへの嘲笑が少し含まれていた気がする。
 もう一つ、晴子について分からないことがあった。それは、ゾクゾクするような何かを求める俺の期待を鮮やかに裏切っておきながら、それに対する失望感が一切なかったことだ。


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