見出し画像

【連載小説】『晴子』終

「おい、竹下!お前どこ行くんだよ?」
 酔っ払ったバイト先の先輩が俺の服を掴む。
「トイレですって。」
 先輩の手を振りほどこうとするが、結構力が強い。
「離してください。」
「なんだよ、俺から逃げようってか?」
「そういうわけじゃないですけど。」
 なかなか手を離してくれない。そのあとも、何か言っていたが、若干呂律が回っていないその声は、意味のある言葉というよりも理解不能な鳴き声に聞こえた。
 俺は力づくでなんとか先輩の手を振りほどいて、トイレに向かった。
 学生バイトの飲み会は、大体学期末に行われる。前期の授業が終わり、期末試験も乗り越えたというのでバイトメンバーが集まって飲み会をしていた。学生バイトで成り立つバイト先にとって、学期末は山場なのだ。みんな試験対策やレポートに追われ、シフトの交代も相次ぐ。そんな中で、何とか人手を確保し、店を回すことができるか。この時期は何かと店の中がシビアな空気になる。それを乗り越えたことを労おうという名目で、学期末にバイト仲間で飲み会が企画される。
 今夜は、一次会が広い座敷のある大衆居酒屋で、二次会がこのちょっと小洒落たバーに来たのだが、大学生には早かった場所かもしれない。店に入った時には、なんとなく店の雰囲気を察して静かにしていたのだが、酒も入るとみんな饒舌になり、声も大きくなる。今では、思い思いの音量で思い思いの話をしている。派手な喧嘩でも起こらなければいいが、と思う。
 今日はみんな結構飲んでいる。4年生の先輩は、一番奥の席で最近始まった就活の愚痴を後輩に撒き散らしている。恐らく、本人はアドバイスのつもりで。彼を取り囲む後輩の愛想笑いを見ていると、彼らも安心して酔っ払えやしないなと思う。
 用を足してトイレから出る。カウンターの方に向かう。煙草を吸いたかったのだ。
「すみません。灰皿、あります?」
 カウンターでカクテルを作っていたマスター風の男は、俺の前に銀色の灰皿を静かに差し出す。
「ありがとうございます。なんか、すみません。向こうが騒がしくて。」
 申し訳なさそうに言った俺に、男は穏やかな表情で首を横に振った。返答はそれだけだった。
 俺は煙草に火を着け、一口目の煙を深く吸って、長く吐き出した。こういう時は、今時の若者らしくスマホでもいじりながら黄昏るもんなのだろうか。ふとそう思い、すぐに「しゃらくせえ」と思った。
 後ろからヒールが床を打つ音が聞こえた。
「いらっしゃいませ。」
 さっきの男が頭をゆっくりと下げる。
 俺の右側に一つ席を空けて座った女は、髪が短く、服装は白いシャツに淡いブルーのスキニージーンズというこざっぱりしたものだった。年は俺よりも上に見え、派手な印象はなく、落ち着いた雰囲気だった。
 俺は女の姿を認めると、それ以上は特に気にせず煙草を吸い続けた。
「今日は賑やかなのね。」
 女が、カウンターの向こうの男に話しかける。常連なのかもしれない。
「今日は、団体のお客様が予約で入っておりまして。何か打ち上げのようですね。」
 男が穏やかに返答し、俺の方を見た。男の視線を女も追った。俺は、彼女と目が合った。
「あの、なんかすみません。今日は賑やかで。」
 気まずそうに返す俺に、女は顔の前で指の長い手をひらつかせて言う。
「いいわ。たまには悪くないわ。こういうのも。」
 いつの間にか、女の前にグラスが置かれていた。
 女が俺の近くの席に着いたことで、煙草の煙に気を遣わなければいけなくなった。
「あの、離れた方がいいですよね?煙、嫌じゃないですか?」
 正直、煙がたつ席の近くに来たのはそっちの方だろとは思いながらも、丁寧に聞いた。俺がカウンターの一番端を選んだのは、後から来た客が逆サイドを選べば煙からある程度離れられるからだ。一応、俺の方では気遣った。そこを選んだあんたが、俺の気遣いに鈍感なだけだ。内心ではそう思いながら。
「全然。大丈夫よ。」
 意外な返答に俺は驚いた。今の時代、煙草にここまで寛容な人にそう出会えるわけじゃない。みんな大体顔をしかめたり、鼻をつまんだり、わざとらしく咳き込んだりして俺を牽制する。喫煙者の俺でも、それは正常な反応だと思う。煙の臭いは人間に火事とか焼身といった命の危機を想起させるからだろう。「昔はよかった」なんて言う老人もいるが、喫煙者の俺にもその主張は理解できない。
「ねえ、一本もらっていいかしら?」
 これもまた意外だった。別に、女が煙草を吸うのが意外なのではないが。今目の前にいる彼女の見た目からして、煙草を好みそうではなかった。煙草を一本やることに関しては特段嫌なわけではなかったので、一本吸い口を出して、彼女の方に差し出した。
「ありがとう。」
 女は煙草を取り出して口に咥えた。
「煙草、吸われるんですね。」
 聞きながら、俺はライターで彼女の咥えた煙草の先に火を着ける。
「たまにね。」
 火が付くと、女は煙を吐き出して右手に煙草を挟む。
 俺の後ろのボックス席が集まるところから、バイト仲間のはしゃぐ声が聞こえる。何かの話で盛り上がっているようだ。
「あなたもよくこんなの吸ってるわね。最近の若い人は、あまり吸わないんでしょう?」
「まあそうですね。初めて吸った時は、こんなの二度と吸わないって思ったんですけどね。」
 不思議と、この女とは初対面の感じがしなかった。でも、自分の記憶をどれだけ辿っても、彼女の顔をどこにも見出せない。
「あんまりバカバカ吸うもんじゃないわよ。こんなの。」
 彼女は煙をふかしながら言う。この女と出会ってから、なかなか彼女は俺と目を合わせない。このセリフだって、カウンターの向こうの棚に並ぶ酒瓶を見ながら言った。
「それもそうですね。」
 彼女の声に不思議と親近感を感じながらも、それ以上俺は何も話せなくなった。でも、それはなぜか俺たちの本来的なコミュニケーションの形であるかのような、親しみのある沈黙だった。
「ねえ、私たち。どこかで会ったことない?」
 唐突に女が言った。瞬間、虚を突かれたのは、俺が感じてこそいたが言い出さなかったことを、相手が言葉にしてしまったからだ。
「やっぱり、私の勘違いかな?」
 しばらく返答に戸惑っていると、先に彼女の方で完結させてしまった。俺も同じように感じてました、と言おうと思ったが、タイミングを逃した。
 俺と彼女はほぼ同じタイミングで煙草を吸い終わった。
「ありがとう。」
「いえ。」
俺はカウンター席から立ち上がった時、後ろの方から声が聞こえた。
「竹下!早く戻って来いよ!」
 俺がついたため息を女は見ていた。女は少し憐れむような微笑みを俺に向けていた。
「今戻るよ。」
 そう返して、カウンターの後ろの男と、その女に軽く頭を下げて戻ろうとした。
「ねえ。」
 女に呼び止められた。俺は振り返る。女はイスを回して俺の方に身体を向けていた。
「これは私の勘だけど、私たち、いい友達になれそうじゃない?」
 俺は何も応えず、ただ微笑み返した。そして背を向け、自分の席に戻って行った。
 でも、確かにいい友達になれそうだった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?