見出し画像

【連載小説】『晴子』29

 早めの梅雨がやって来た。
 部屋の中は心なしか湿気ていて、何を触ってもその表面にぬるい水分の感触があるようだった。髪を短くしておいてとよかったと思う。うなじあたりをなでる空気が、梅雨でも涼しくさっぱりと感じられる。
 ラジオからは、雨の続く毎日への憂慮とは裏腹に、来る夏への期待に満ちた話が流れてくる。淹れたての熱い紅茶の入ったマグカップがテーブルの上にある。もうこれも季節はずれになっている。外は夜になっていて、あるはずの雨粒が見えない。夜の雨音は、そこに雨があることを疑わしくさせる。
 恋愛関係の終わりが明確に予定されたのは初めてのことだ。というより、失恋が予定されるということ自体、あまりポピュラーなものではないだろう。お互いに恋の終わりをどことなく察している場合でも、前もって別れを予定することはないはずだ。
 それでも、彼が私との関係を丁寧に終わらせようとしてくれているのは、私にとってこの上なく嬉しいことだった。私たちの関係が試されるのは関係の継続においてではなく、その終わりにおいてなのだ。この破局には、麻美という名前をどうするかという問題も待ち受けているのだから。私にとっても、あの人にとってもだ。
 この問題は、恐らくそう多くの解答は用意されてはいないように感じた。そのまま記憶として私たちの間にとどめておくのか、あるいは本名を名乗ることによって疑似的な麻美という存在を壊してしまうか。
 あの人はどちらを選ぶだろう。私には、どちらを選べばどうなるのか、まったく予想がつかなかった。いや、厳密に言えば、その予想に意味を見出すことができないように思えた。どちらを選んでも、変わらないのではないか?
 スマホが細かく震動した。画面を見ると「公衆電話」とだけ表示があった。
 聞いていたラジオを切って、電話に出る。
「もしもし。」
 もうこの電話がかかってくるようになって1年近く経つだろうか。はじめは気味が悪いと思っていたが、私もこの無言電話の静かさに安らぐようになり、今では積極的に話すようになった。この壁のように無言な相手に一方的に話すことが、今では私の中の何かを支えているような気がする。
「ねえ、聞いてよ。」
 この前のこの電話に向かって、私は本名を明かしたのだ。それはこの電話にだけは、麻美でも「月島さん」でもなく、晴子として名乗り、晴子として話していたことを明確にしたのだ。この電話には、珍しく名前しか明かしていないのだ。私が、一番捕まえたかった晴子という名前だけしか。
「私、恋人と別れることになったの。」
 私が、晴子として対峙していたのが、この無言電話だけだったことに虚しさはなく、むしろ救われているような気持ちになっていた。あの人が私にとって逃避のための場所だとしたら、この無言電話は私にとって名前との対峙だった。これまで私一人で自分の名前と向き合う時にはなかった、ある種の緩やかさがこの対峙にはあった。
「彼は転勤するの。今の時代、遠距離恋愛なんて珍しくないけど、でも私たちの関係は成り行きであるべきなの。分かる?遠距離恋愛は成り行きに逆らうこと、つまり不自然なことなの。少なくとも私たちにとってはね。」
 テーブルの紅茶をゆっくりと啜る。なんだか急に電話の向こうに雨の音を聞かせたくて、私は立ち上がって、ベランダに通じる窓を開けに行った。
「それでね、彼は私の本名を知らないでしょう?彼は私のことを麻美って呼ぶし、私も麻美としてふるまうの。でも、彼と会えなくなったら、それも終わり。麻美を失うのは、あの人だけじゃないの。私もなの。」
 外の雨は一向に止む気配はない。ベランダから見える街灯が雨粒の線状の形をしっかりと捉えている。
「ねえ。私は、私たちはどうすればいいと思う?つまりは、麻美という名前を。あなたに聞いてもしょうがないかしら。」
 私は今、この上なく孤独だと思った。今、麻美でもなく「月島さん」でもない、晴子としての私は、どうしようもないくらい孤独だ。——あの人がいなくなったら?
「あの人がいなくなったら、私はどうすればいいのかしら?」
 気が付くと言葉は出ていた。麻美でいることが永遠に失われた私には、もしかしたら、この無言電話しか残らないかもしれない。それは、私とあの人が麻美をどうしたとしても、決して避けることのできないものだ。
「麻美という名前は、少なくとも凍結されるの。もう二度とその名前で呼ばれることはないの。ううん。そうじゃなくて、あの名前は、あの人がそう呼んで初めて意味があるの。だから、もう二度と解凍されないわ。」
 もう、私は電話の向こうで聞いているはずの誰かを見失い、半ば自分のために、自分の置かれた状況に言葉を与えるために話し続けていた。
「これは、私にとってレッスンだったのかもしれないわ。自分とその名前が完全に重なって、ゆるぎないもので繋ぎ止められている感覚を知るための。この数年間、私はそういう感覚を、少なくともあの人の前では確かに持っていられたの。」
 段々、涙が出てきた。理由は失恋だけではない。あの人が与えてくれた未体験の感覚を失うことへの、寂しさと恐怖だった。
「ねえ、私はこれから孤独なのよ。愛着も何もない空虚な名前で呼ばれて、それに虚ろな返事して生きていくのよ。」
 涙は止まらなかった。どんどん溢れ出してきた。声は徐々に、心もとなくなっていく。
「ねえ、あの人ね、名前は記憶だって言ったのよ。あの人は自分の子どもに、生まれた時の景色とか、そういう記憶を名前に刻んだの。もちろん私のもそうよ。」
 電話が切れた。無情な機械音が、一定のテンポで聞こえてくる。
「こんなに幸せな記憶が残されたまま生きていかなきゃいけないの。残酷でしょ?」
 電話の向こうからは、もう無言は聞こえない。
「ねえ、聞いてる?」
 気が付くと、私は電話の向こうに縋ろうとしていた。こんなことは初めてだし、予想だにしていなかった。
「ねえ、応えてよ…。お願い。応えて…。」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?