全(ての人が)正義(を語る)時代(に、僕らが持つべき視点とは何ぞ?)
僕らはみんな、自分が正義だと思って生きているのかも知れない。ずっと何か正しいと思うものを信じて生きてきたけど、それは間違いだってことに気付いた。「正しい」は自分の主観的な尺度にしか過ぎなかった。
SNSがないころは、きっと居酒屋だったり職場だったり、友だちに彼氏彼女にそんな話をするだけで良かった。テレビでワイドショーのコメンテーターのコメントに一喜一憂する思いをただ胸に秘めるだけで済んでいた。
でも今はどうだろう? SNSが出来てしまったおかげで、誰も彼も特に匿名性がよりそれを助長するように自分の「正義」をあからさまに吐露するようなことが多くなってしまった。
そうみんな自分が正義だと思っているから、この世には悪はいない。みんなベクトルが違う正義しか持っていない。だからそこに妥協なんて存在もせず、ただただ炎上の業火へと退路を絶たれる道しか残っていない。
そう30歳ぐらいまで自分が正しいのだから、それをなぜ他の人はしないんだろう的なマインドになっていた。なぜ間違っていることをやっているんだ、正しいことをやればいいのに!という考え方に陥ってしまっていた。
でも違う。全然違っていた。間違ったやり方をしていると感じていたほうは、彼らは彼らでそれが正義だと思っているのだった。だから考え方を改めるわけがなかった。本当に最近の世の中はそんなことばかりが起きている。売り正義に買い正義。みんな己こそが正しいと思っている。
だから自分はこう考えた。そうかそういう意見もあるかと。こっちの意見、向こうの意見。どれも尊重しないといけないのだ。「正す」という行為が間違いだったのだ。全ての正義と共存する道こそが実は最善なのかも知れないと気付いた。もしくは全く違うベクトルの正義とは距離を取ることだ。
別に無理にあちら側を変えようとすることに挑まなくてもいい。挑めば挑むほどロシアの冬将軍に真正面から立ち向かうぐらい激しい消耗をするだろう。
いびつな正義が生まれる原因はやっぱりリベラルアーツ的な取組や情報リテラシーの醸成で防げる部分が多いと思う。いま圧倒的な受動な態度が結局いびつな正義を生み出してしまう土壌になっている気がする。
でもまだこれが答えというものはなく、ただただ目の前にたくさんある正義とどう共存を図るのかを考えるところから考えていかないといけない。
これだけ情報のノイズが多い時代に、自分の指針となりうる正義をしっかり見つけ出すリテラシーも問われている。
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