適応障害で退職し、転職した職場を3日で辞めた僕がヒモから主夫になり起業するまでの話012
自分に賛同、同情してもらえるような話し方をしてしまうことがある。
例えば前職を辞めた話を友達や家族にする時。
「それはその上司が悪いよ」
「そんな会社は辞めて正解だよ」
「辛かったね、しんどかったね」
そんな答えが返ってくるように仕向けているように、自分で思うことがある。
それに対して罪悪感を持っている。
本当は色んな側面があって、多角的に見れば僕も悪いし色んなことが複合的に組み合わさって先ほどの例なら「僕が会社を辞めた」という事実はできあがる。
けっして白黒は付けられない。
けれどそれを強引に、勝敗がつくように誘導したコミュニケーションを取っているように感じる。
本当はそれすら見越して諭してくれたり苦言を呈してくれる人を待っているのかもしれない。
言い方次第でひどく落ち込んでしまうと思うけれど。
けれど、同情してくれたらそれはそれで
「この人はわかってないな」
「僕は嘘をついている」
という気持ちになってしまう。
先ほどの「白黒つかない」という話で言うと、
僕の話を鵜呑みにして「会社や上司が悪い」と言うことも
僕の同情誘発コミュニケーションに対して「お前は嘘をついている」と断罪することもできない。
ただ「この人の言っていることは少し被害者意識が強いのかもしれないな」
くらいの考えは持った上で聞いてほしいのだ。
ないものねだりだろうか。
親身になられ過ぎると辛いのだ。
この人がこんなに心配してくれて、自分のことのように憤慨してくれているけれど、
本当は自分も悪くて…
と罪の意識に苛まれる。
自分もこれから誰かの話を腐る程聞くことになるはずだから、気を付けようと思う。
純度100%の同情や励ましを求めている時とそうでない時があること。
100%肩を持って寄り添われたらしんどいこともあるということ。
僕だけかもしれないけれど。
普通は誰かが寄り添って味方をしてくれたら嬉しいのだろうけど。
100%喜ぶことはできない。
僕も悪いのに、という罪の意識と、本当に僕をわかってくれているわけではないという意識。
同情誘発コミュニケーションをする自分を責める気持ちとそれに付き合わせてしまうことへの申し訳無さ。
嘘をついているという気持ち。
それに反して「理解してもらえていない」という気持ち。
そしてその「申し訳無さ」と「理解してもらえない不満」を同時に抱えていることへの罪の意識。
なんでもかんでも罪と捉え過ぎだろうか。
コミュニケーションなんて所詮そんなもの。
この文章も人、立場、境遇によって無限の捉え方があり、
自分の意図した理解を相手に促すのはコミュニケーションとして当たり前で、
むしろそれを達成しているのは「良い」コミュニケーションではないのか。
それもそうだと思う。
そんなこと言ったって、
嘘をついているという意識も
わかってもらえないという不足感も
拭えない。
こうも思う。
「そうだね、辛かったね」
という言葉を誘導するために吐き出す言葉は、
結局はありのままを伝えたときに起こる
「それってあなたも悪いのでは?」
という言葉への恐怖の証である、と。
事実(主観でものを言っている以上は客観的事実なんで無いこともわかっている)をありのまま伝えると自分に味方してくれていたその人が自分のリングサイドから離れて反対側に行ってしまうことが怖いのだ。
先ほどの例で言うと
僕の誘導コミュニケーションによって
「それは会社が悪いね。辞めて正解だよ」
と言ってくれていた人が、
ありのままを伝えると
「それは会社だけでなくあなたにも責任はあるよね?」
となってしまう。
それが怖いのかもしれない。
こんなことをうだうだ考えているからうつになるのだ。
とこれを読んでいるあなたは思うかもしれない。
ただ、これはもう辞められない。
どれだけ考えてもコミュニケーションへの渇望も不足感も拭えないし、
それでも生きていくうえではコミュニケーションを取らざるを得ないし、
生きていかざるを得ない。
小野トロ
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