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[理系による「文学」考察] 森鷗外"阿部一族"(1913) ➡"世間体・同調圧力による死"のみごとなエンタメ化

世間体・同調圧力が人を死に至らしめることは今も昔も変わらない、ことが分かる小説です。が、見事にエンタメ化しているため、読み終わった後の気分はなんだかスッキリします!(暗い気持ちになりません。)

小説内で具体的に書かれている内容は、江戸時代初期における"殉死"と"その当時の功名(つまり何が評価されるのか)"についてです。

まず、"殉死"に関してです。殉死の意味は"主君の死を追って臣下が死ぬ(死に殉じる)こと"になり、今の価値観だとなぜそんなことをするのかさっぱり分かりませんが、
①主君に仕えることにより本来なら得られない良い生活ができた
②本来死罪になるべくところを主君の特別な恩赦によってそれを免れた
人が、殉死を行っていたようで、自殺する理由は世間体・同調圧力になります。

具体的には、主君の存在により、人よりも良い生活が得られている、もしくは、もともと死すべきところを生きながらえている、つまり、"主君が生きているという条件下で特別に生きていられる"という世間の認識の中で、逆に"主君が死んだら生きる条件が満たされないので死ぬのが当然だ"、という当時の同調圧力の中で、君主の死後、生き続けるのは死ぬよりつらい、となり、殉死という形で残された家族の世間体を保つ、といった背景だったようです。

次に"功名"です。当時の価値観としては、戦にて自身の死を恐れた行為と周りから認識されることは何よりも恥ずかしく、それは戦に直接参加していない家族も含めて生き恥をさらすことになり、それぐらいであれば死んだほうがよい、といった空気だったようです。

よって、阿部家の女性・子供は、阿部家の男性の戦いに際し、男性陣がもはや後には引けない状態になるために・自身の死を恐れぬ状況に自らを追いつめるために、同じ家族に殺されます。仮に逃げたとしても、それは死を恐れた行為と認識されるため、世間体から生きていられるわけもなく、どうせ死ぬなら家族の手にかけられたほうが良い、の認識もあったと思います。

また、近所の見知った仲間も、実際の戦闘となれば、当時の功名という価値観の合意のもとになんの躊躇もなく殺し合います。で、死を恐れぬ行為で結果を出したものが評価され、褒美をもらいます。

自身の文章力だと上記は残酷に読めるのですが、そこは森鷗外のテクニックにより、なぜかあっさりと気持ちよく読めるのがこの作品の奥深さなのですが、時代の価値観・同調圧力を含む世間体、で人間は死を選びうるところは、今も昔も変わらないことが分かる作品でもあります。


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