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フィクション疲れ

私たちは一体何を信じてこれからの時代を生きて行ったらいいのだろうか?

私たちが信じている何もかもがフィクションであり、そのフィクションは常に作り変えられる。常にアップグレードされて行く。昨日まで信じていたストーリーが、今日になったら全く違ったものに書き変えられる。こういった世の中で一体私たち人間は何を信じて生きて行けばいいのだろうか?

私たち人間というのは、いつも自分の信じる事の出来るストーリーというものを常に追い求めている。そしてその自分の信じるストーリーの元に私たち人間は1つにまとまろうとする。

でも、このストーリーが今はこの世界に溢れすぎていて、何を信じたらいいのかがわからなくなっている。

色々な情報が飛び交うこの世界で私たちは今自分の拠り所になる情報を持たない。これが良いかと思って信じていれば、それが偽りであったり、これは偽りだと思っているものが真実であったり。私たちはこの過剰な情報社会の中でもう相当疲れ切っているのではないだろうか?

これまでは何が真実であるのか?という事を私たちは強く追及してきた。でも、その真実を追求しようといった意思の様なものが今の私たちにはなくなってきた気がする。あまりにも雑多な情報が溢れすぎて、その中から真実と言われるものを見つけるのが億劫になってしまったのだろう。

もうなんでもいい。どうでもいい。だってどこを探したって信じらるものなんてないんだから。そう言って、私たちは今何もかも諦め始めている。そんな気がする。

色々と見たり、聞いたりして、一旦はそれらを強く信じようとする。でも、その作られたストーリーが崩れてしまうと、もう何もかもが嫌になる。もうどうだっていいという事になってしまう。

私たちは自分たちが信じる事が出来るストーリー、虚構というものを創り出してそのたびに、自分達を一つにまとめあげてきたというようだが、今の私たちには、もうその虚構というか、フィクションを作る力すらないのかも知れないと思ったりする。

どんなフィクションを作った所で、そのフィクションとは絶対ではなく、必ずいつか崩れてしまう。だとしたら、そんなフィクションをわざわざ作り出す必要などあるのだろうか?という事なのではないだろうか?

私たち人間というのは、もうこれ以上虚構というものを作りだしたくはないのかも知れない。コロナ疲れという言葉に似せるなら、今現代に生きる私たちは虚構疲れ、フィクション疲れしているのではないだろうか?

これがこうだと言われれば、それを信じ、あれがああだと言われれば、あれを信じと、もうそういった事に私たちはほとほと疲れてしまったのではないだろうか?

今この世界に生きる私たち人間というのは、ある意味、もう何も信じたくはないのかも知れない。何もかもその全てが、私たち人間が自分達に都合よく作り出したフィクション。だとしたら、もうそんなものに、私たちは振り回されたくないのかもしれない。

もう虚構はいい。自分たちに都合よく書きあげられたフィクションはいいというのが、今この現代に生きる私たちの本音なのかも知れない。

私たち人間というのは、いつも何か壮大なストーリーを作って、それを信じる事で一致団結し、そして今あるこの人間としての地位を築いてきた。でも、こうした在り方が本当に良かったのかどうか?それが今この時代に入り、今一度見直されようとしている。

私たちは、自分たちに都合のいい筋書きを作り、それを信じる事で、ここまで大きく発展してきた。何もかも計算されて、その上に私たちは乗せられ生きてきたという事になる。

もういい加減私たちは、誰かの書いた筋書きの上に載せられ生きる事をやめなければいけないのかも知れない。

誰かの作ったストーリーを信じ、それに盲目的になることを私たち人間は止めなくてはいけないのかも知れない。

同じ考えや、思いを共有し、そして一致団結する事が素晴らしい事だと私たちは教えられてきた。でも、この皆で一緒にというこの考えが、考え方によっては悪になりえるという事もあるという事を私たちは今知るべきなのではないだろうか?

私たち人というのは、自分たちに都合よく書かれた筋書きの中で生かされる事に、もうそろそろうんざりしてきたのだ。

一致団結する事が素晴らしい事だ!という事は、もしかしたら、これも又誰かが作り上げたフィクションなのかも知れない。そして私たちはそのフィクションを信じているからこそ、誰かと一致団結して事を成そうとし、それに同調しない人間を排除する。

私たちが良かれと思って作り上げてきた多くのフィクションは、もしかしたら、今この世界に生きる私たち人間をただただ苦しめるものにしただけなのかも知れない。

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