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心を蝕む怒りの感情

誰にでも優しく、謙虚で礼儀正しく何もかもしっかりしている人というのは意外に多い。こういったタイプの人たちというのは、いつもニコニコしていて愛嬌があって、人あたりもいい。でも、そんな人たちの心には強い怒りの感情がある。自分の中に激しい怒りという未消化な感情がある。けれど、その人たちは、そうした感情が自分の中にあるという事に一切気づいてはいない。

自分が一体何に激しい怒りの感情を持っているのか?という事が殆どわかっていない状況にある。何かに激しい怒りの感情は持っている。けれど、それが何かわからない。

何もかもその全てを自分の中に閉じ込めてしまう。激しい怒りを感じていながら、それを自身の内に閉じ込め、外に表出させようとしない。

自分の中に激しい怒りの感情を持ちながら、それを見ない様にしてしまう。自分の中にある怒り、それを露わにしてはいけないとそうどこかで思ってしまっているのではないだろうか?

自分の中に起こってくる怒りの感情をいけないものだとして、自分でその感情を批判してしまっている。怒りという感情、それを露わにすること、それはとてもいけない事であり、悪い事であるとそう思っている所がある様に思う。

怒り=悪い事、してはいけない事とそう認識してしまっている。だから、そうした怒りの感情を自分の中から、完全にシャットアウトしてしまっている。

怒りという感情を持つ事、それはいけない事だとそう思っていると考えるが、正当な怒りならば、むしろ怒りとは持つべきものだと言える。理不尽な怒りは否定し、排除すべきだと考えるが、正当な怒りならば、それを自らに持ち、その感情を外に向けて露わにすることも、時に大切な事なのではないだろうか?

心がいつも穏やかで、めったに怒りを露わにしないとそう言われがちだが、それは大きな間違いだと声を大にして言いたい。このタイプの人たちというのは、ただ単に怒りというものを外に表出させないだけと言える。

怒りという感情を、自分の中で全否定して完全に抹消してしまっている可能性が大いにある。皆と同じようにこうした人たちのなかにも怒りの感情はある。ただ、その感情をこうした人たちは自分の中に押し込んでしまっているに過ぎない。

自分の中にある怒りの感情をまずは否定しない様にしてほしい。怒りという感情。そうしたものを自分も皆と同じ様にもっていいんだとそう自分に許可を与えてもらいたい。

怒りという感情は、決して悪いものではない。その全てを否定するのではなく、その怒りの感情、これを受け入れて欲しいと思う。

こうしたタイプの人たちというのは、幼少の頃から怒りという感情を表に表す事、それを親に禁じられてきた可能性がある。親に怒りの感情を持つ事、それはいけない事、ダメなことだと教育されそう言った考えを刷り込まれてきた可能性がある。

怒りを露わにすれば、きっと悪い子だ!と言われ、罵られてきたのだろうと考える。こうしたタイプの人の親というのは、子の自然な感情の流れ、これを完全にストップさせてしまったのだと言える。子が怒りたい時、怒りの感情を持ち、それを外に表出させる時、いつもそれを親が近くにいてそういった感情を抑え込んできたと言える。こうした人たちの心の中には相当なフラストレーションがたまっていると想像に難くない。

怒り=悪い事、いけない事というそう言った認識がしっかりとこびりついてしまっている。

何でもかんでも自分の中にある怒りの感情を否定し、自身の中に抑え込んでしまうのではなく、正当な怒りはもっと外に表出させるべきだと考える。正当な怒りというのは、人を正しい方向へと導く強力な力を持っている。

いつも自分の中にある怒りを外部にあるもの、(ここでは親)に理不尽に押さえつけられてきたのだと言える。あなたの親は、あなたの自然な反応、その全てを否定し、押さえつけてきたと言っていい。怒りを露わにすべき所、怒って当然と言える所で、わりとヘラヘラと笑っている事が多い。心の内には、激しい怒りの感情を持ちながら、その顔ではヘラヘラと笑ってしまうのだ!!心と体の反応の取り方が全く別物になってしまっている。この時点で心と体が上手く連動していない事は一目瞭然といっていい。

怒りというものをずっと、自分の中で否定してきているので、それが幼少期、青年期、成人期を経て大人になったとしても怒りというものが何なのか?正しく認識する事が出来ない。まるで自分の中から怒りそのものを失くしてしまったように見える。怒りをずっと否定して生きてきた。だから、もはや怒りというものが何であるのかすらわからない。自分の中で怒りという感情を完全に封じ込めてしまった。だから、怒りという感情が何なのかがわからない。

怒りという感情、それは時に自分を守るものになるという事をこうした人たちには知ってもらいたい。自分という存在、それを守るために怒りという感情を持つ事はとても重要な事だといいたい。自分を傷付けない様に守るために正当な怒りの感情を持つという事は必要不可欠なことだと言いたい。

怒りの感情というのは、自分の事を守るために必要な行為であると考えるが、こうしたタイプの人たちというのはその自分を守るための怒りを露わにはしていけないとそう親に教育されてきたという事になる。

怒りを露わにしていいのは、子ではなく親だけが持つ特別な特権だ!そう親は言う。子にはそのような権利は与えられてはいないとそう親は言う。つまり、親は怒りの感情を何処までも露わにしてもいいが、子供は自分のその身を守るためにその感情をあらわにしてはいけないという訳だ。こうした理不尽な環境の中で生きてきた可能性がある。

子供は何をいった所で傷ついたりしない。だからそんな子供が怒りという武器を使って自分の身を守る事などない!という訳だ!!子はどうでもいい。もっと言えば、別にどうなったっていい。でも、親である自分たちの身は守られなければいけない。だから、親には自分のその身を守るために怒りという武器を持つ事が許可されているとそう親は言う。こうした理不尽だらけの環境の中で育ってきたという可能性がある。

怒りの感情、それを自分の中に封じ込めてしまったせいで、怒りというものがなんであるのか?という事すら認識できなくなってしまっているといっていい。怒りという感情を押し込めて、使わなくなったせいで、その機能が完全に機能しなくなってしまっているということになる。もっと言えば、破綻してしまっているともいえるのかもしれない。

怒りを露わにしている他を見ても、何故その人がそんなに怒りを露わにするのかが理解できない。怒る事の意味、それすらこういう人にはわからない。怒りという感情をどういう時に機能させたらいいのか?どういったときにその感情を起動させたらいいのか?それすらもわからなくなってしまっていると言える。

怒りの感情をあらわにすれば、ただ自分が疲れるだけなのにとこうした人たちはいう。怒りの感情を持ち、それを露わにすることは無駄なエネルギー消費だ!!と。そういって、自分は自分の中に怒りの感情を封じ込めて自分の事を守っているとこうした人達はいい、自分の在り方を正当化する。しかし、怒りというのは感情であり、その感情は体の中に抑え込んでしまえば、その感情が正しく外に表出されなければ、その感情は自分の心の中で動き回り、自分の心を徐々に壊していくという事を知ってもらいたい。




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