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いつになったらわかるんだ?人間は!(非難と排除の至上主義世界)

人は自分のわかる事、理解出来る事には強い共感を示し、自分の理解できない事には一切共感しない。

わからないという事を素直に認める事が出来ない人は、その自分のわからない事を徹底的に非難して潰そうとする。

わからない事を言えば、意味の分からない事を言うな!とそう言い、その理解を自分たちのレベルに合わせる事を強要するか、わからない事をいうこの口を閉じる。

この世界には、理解しようと努める事が出来る人が少ない。何でもかんでもいいか、悪いか?とにかく色々な事を間違いか?正解か?でジャッジする。そうしていないといられないみたいだ。

いいとか、悪いとか、そんな事はどうでもいい事なんだけど、皆このいい、悪いという事に日々自分の時間を費やしている。

何が良くて、何が悪い。悪いものが在れば、それを全力で排除しようと努める。はっきりと言うけれど、何が良くて、悪いかなんて判断は、個人の主観でしかない。その人にとって正解でも、それが別の人にとっては不正解かもしれない。何もかもそれをどの位置で、どのように見るか?でそのものの見え方なんていくらでも変わってくる。私たちが日々、相手にしているその殆どに、これが正しいと言えるものなんてない。何もかも皆個人的な主観に基づくもの。

その人は、そう思った。この人はこう思った。そこに違いはあって当たり前だと思うんだけど、それを何でもかんでも1つにしようとする。色々な考え方や、価値観を尊重する世界をとか言いながら、その内実は全く違う。

これが正義だ!とかいうものを振りかざして、皆自分の正当性を訴える。あの人よりも、自分の言っている事の方が確かだ!いや、私の主張する事の方が妥当性がある。そう言って、私たちは、ただ自分たちのマウンティングを繰り返しているに過ぎない。ほんとつまらない。

自分達に理解出来ないもの、事は排除しようという事は大昔からある。

人間ってのはいったいいつになったら全うなものになるんだろう?一体いつまでこれが正解であって、これは間違いだ!という問答を繰り返していくんだろう?誰が正しくて、誰が間違いなのか?という事を繰り返していくんだろう?一体いつこうした事には何の意味もないという事に気づくのだろう?

誰かを批判して排除する。こうした在り方ははっきり言って、もう時代遅れなんじゃないかと思う。あれが悪いから、排除しよう!とか、これが意味の分からない事を言うから、排除しよう!ではなくて、多様性を謳うのであれば、そう言う人を理解するよう努める事こそが一番大切な事なんじゃないだろうか?

誰かを非難して、叩いて、排除したって、何も生まれない。何も生み出せない。こうした在り方は何も生産的じゃない。こうした事に一体いつ気づくんだ?人間は?

非難、排除ではなく、何故、理解を示そうとしない?その人の事を知ろうと努めない?その人の事を知れば、自分がこれまで非難したり、排除していたことが必ず恥ずかしくなる。自分の意識レベルの低さにそこら辺に隠れたくなるはずだ。

何も知ろうとしないで、何の理解も示そうとしないで、ただ一方的にそれこそ、それが正しいかもわからない自分の主観のみで、判断し、それで非難したり、排除したりしていれば、そうした行為がいかにダサい行為であったか?という事をこれから、こういう人は知る事になる。

何がいけなくて、何がいいかなんて相対的なもんなんだよ。一方的にこれが正しいとか、あれが間違いだ!とか、それは個人の主観に基づくもの。そんなんで、私たちを決めつけないで欲しい。

何も理解しようとしないで、批判と排除を繰り返す人間というのは、そもそも他人を理解しようという意識すらもっていないのかも知れない。他人を理解し、その他人の起こした行為に対して、何故?と想像してみるという事も出来ない。何の想像力もない。だから、彼らは非難と排除を行う。彼らには、そうした事しか出来ないのだ。

非難と排除。今のこの世界とはまさにこの非難と排除至上主義。こうした事が最もいいとされている。そんな歪んだ世界。狂った世界。

人間であるならば、その心で他人に寄り添い、そしてその頭を使って、その者についてもっと想像するべきだ。

何もかも決めつけて、非難し、そして排除する事だけが素晴らしい事じゃない。何もかもこうだ!ああだ!と決めつける前に、その眼の前の人間を私たちは理解しようと努めるべきだ!




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