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類は友を呼んだ。

先日、街で一人のじいさんと出会った。野菜を買おうとしてうろうろしている所に声をかけられた。そのじいさんとなんだか意気投合してしまって、一緒にランチをする事になった。

どんな些細な出会いでも、その出会いは必然だ!とよく言う。大切なのは、その偶然の出会い、ちょっとした出会いの中に何を見つける事が出来るのかだと。

私は人と会う時に、その人がどんな人であっても、その人との間に自分との接点を探す。自分と出会う人が皆、偶然ではなく必然だ!とそう言うのなら、自分の目の前にいる人間は自分を知らせる為の重要な存在という事になる。

人間というのは、なかなか自分の事は、自分ではわからない。昔から人のふり見て我がふり直せ!という言葉がある様に、自分を知るには、自分と関わる人をただひたすら観察するしかない。

自分と出会う人。それがどんな出会いであれ、それがほんの一瞬の出会いであれ、その時出会った人は、自分自身を写す生き鏡みたいなものだと私は思っている。

じいさんとランチに行った日、いつもの様にじっくりと、彼の話す事に耳を傾けた。そして考えた。このじいさんと私の間にある接点は一体何なのか?この出会いの中にも必ず、自分を知るためのヒントがあるとそう思って、彼の話す事を1つも取りこぼさない様に聞き入った。

じいさんは、知り合いが詐欺に会い、お金に困っていて、どうしても自分の土地を、家を買って欲しいと頼まれて今の家を買ったといった。さらには、若い女でお金に困っている子がいて、その子に一年で50万ほど貢いでしまったという話をしていた。子供が学校に行っているが、その養育費がなかなか払えないからといい、女は会うたびにそのじいさんから4,5万もらい、昼にはじいさんのお金で食事をし、酒も飲んでいたらしい。

このじいさんの話を聞いていて、私と何か一致する事があるだろうか?とずっと考えていた。

出会いは必然であり、必ずそこには学びがある。そこから何も学ぶことが出来なければ、そこから、自分を発見する事が出来なければ、その出会いは全くもって意味のないものになる。

自分と出会う全てのものが、自分を写す生き鏡。じいさんの話を聞いている間中、この言葉が私の頭を駆け巡った。

そんなに毎日暇ではないのに、わざわざ時間を取って、じいさんとランチに来たのに、此処からも得る事が出来ないとしたら、本当に時間の無駄だ!と思い、とにかくしっかりとじいさんの話を聞いていた。この時間さえも意味のあるものにしたかった。

しばらく聞いていると、そのじいさんの話の中に自分が見えてきた。自分との接点が、じいさんの中に見えてきた。

じいさんには、今の家や土地を買った時も、若い女に貢いだ時も、その行動を取る要因となっていたものがあった。それが、可哀想だからという同情心だった。

じいさんには、一切自分がない。いつも他人を軸にものを考える。相手が先で、自分はその後。

それに気が付いたから、じいさんに聞いてみた。今住んでいる家、土地。それって本当に欲しかったの?と。じいさんは、自分は別の場所に住んでいたから、別にどうでも欲しかったわけではないといった。知り合いが困って、自分の所まで助けを求めてきたから、仕方ない買ってあげたんだとそう彼は言った。

女についても同じ。お金に困っているというから、お金を出した。自分がその女を助けてあげたくて、お金を出したのか?と聞くと、困っていて助けてと言われたから、お金を出したとじいさんは言った。

これだ!!私との接点は!とこの時気付いた。

私も困っている人がいたり、助けを求められると、すぐに行動してしまう。可哀想だと思うと、すぐに自分の行動が誘発される。誰にでもすぐに同情してしまい、その結果、自分でも気付かない内に相手の意のままに動いてしまっているという事が多々ある。

悲愴な顔をして困っています!みたいな顔をされたり、そう言った話をされると、私はいとも簡単にこれまで騙されてきた。色々な話をするじいさんを見て、もっと相手の事をじっくりと観察してから、よくもっと色々な事を吟味してから、色々行動した方がいいよ!じゃなきゃ、相手のいい様に結局利用されちゃうよ!と偉そうに、そんな事をじいさんに言いながら、それは全くもって自分の事だとこの時思った。

何の検証もせずに、あれこれ言われると、その言葉に踊らされて相手の都合のいい様に動いていたのは、私自身だった。この時思った。類は友を呼んだのだと・・・。

全く自分と同じものが自分の目の前に現れて、その出会いがもたらすものが何かを掴むことが出来なければ、又人を変えても同じ様な人間と巡り合うというけれど、今回の出会いで、私は自分自身の重要な部分を彼の中に見出す事が出来た。

いつもいつも、可哀想という思いから、盲目的になり、自分を捧げ、自分の時間も物も犠牲にしてきた。これが、良くない事っだったんだと気が付いた。自分を大切に出来ていない事にも気が付いた。自分に足りないのは、冷静さと客観性だという事にも気づいた。

可哀想だからとか、自分が~しなくてはいけないという使命感、義務感、これが自分の中には強くあり、これを刺激されると、私は反射的に自分が動いている事に気が付いた。

これまでの私は相手の言う言葉に反射していただけ、反応していたのではないという事に気が付いた。それに自分の気持ちより、常に相手の気持ちに比重を置いている事にも気が付いた。

相手ではなく、自分がどうしたいのか?それがとても大事。相手、相手で自分が望まないものを多くじいさんの様に持ってしまってもいけない。

相手が相手がではなく、私に足りないのは、このじいさん同様、自分を軸に考え、決定する力だった。





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