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アリはキリギリスの為に働き、キリギリスはアリの為に人生を謳歌する

今現代に生きる私たちは、アリとキリギリスという物語で表す事が出来る。

この物語に出てくるアリは、夏の間にたくさん働いて、冬の為に色々なものを蓄える。夏の間に色々なものを蓄えておかないと冬になって困る。だから、夏の間に色々なものをとにかくたくさん備蓄しておこうとアリはせっせと働く。

でも、そのせいで夏に必死になって働いたアリは、秋ごろになって、その夏の疲れでどっと疲れてしまい、皆死んでしまう。必死になって働き、これからやってくる冬の為に多くのものを備蓄したのに、そのものを消費する前に皆命を落としてしまう。

これに変わってキリギリスは、夏の間はずっとバカンス。自分の好きな歌を歌って、夏を思いっきり謳歌する。冬に向かってせっせと働くアリを鼻で笑いながら、キリギリスは夏を謳歌する。

アリは、常に自身の中に多くの不安を抱えている。だから、先を見越してたくさんのものを蓄えようと必死に働いた。彼らが必死になって日夜問わず働き続けたその力を支え続けたのは、彼らの中にある不安。この不安が彼らをずっと日夜問わず働かせる爆発的なエネルギーを作った。

アリは、常にその心の不安を抱えていた。キリギリスの様に冬になったら、なったで、その時考えればいいやではなく、彼らは、そうした事態がやってくる前に、しっかりとそれなりの蓄えをしておかなければいけないとそう判断し、そして行動した。でも、彼らの中にある不安が、彼らを過剰に働かせる事によって、その過労により、アリは冬が来る前に命を落としてしまう。

自分たちの為に、自分たちが冬を越す為に、必死になって働き蓄えてきたものが、何故か、キリギリスのものになってしまう。

自分たちは、自分たちの為だけに毎日必死になって働いてきたつもりなのだが、結果として、その全てが皆キリギリスのものになってしまったという事だ。自分たちが否定してきたキリギリスのものに、自分たちの汗水たらして得たものが全部渡っていく。

今の私たちも、このアリとキリギリスに見る様に、自分の中にたくさんの不安を抱えていて、それを解消する為に必死に働いている。その全ては全部自分の為であるとそう思いながら、毎日必死になって働いている。でも、この働きすぎが、今私たちのこの体を蝕み始めた。

自分の為に必死になって働いていたつもりが、その必死になって働く事により自分を蝕み始めた。一生懸命働くだけ働いて、私たちは、それにかなった報酬も得られなければ、それなりの評価を得る事も出来ない。そういうものが手に入ると毎日夢を見ながら、必死に頑張るのだが、そうした夢は無残にも打ち砕かれる。

自分の為に、自分の心の中にある不安、これを解消させる為に必死に働き、そうやって働いている自分はなんて偉いんだ!なんて思っていたけれど、私たちは、そうやって必死になって働いている内に、自分の何もかもその全てを知らず知らずの内に失っている。

冬を越す為に、自分の家族を守るために毎日必死になって働き、それで自分というものが、自分でも知らず知らずの内に朽ち果てていく。自分の為にと思って働いていたが、箱を開けてみたならば、それは自分の為ではなく自分以外のものの為、それは自分の家族かもしれないし、自分の属している社会かもしれない。国かもしれない。自分の為の行為だったはずが、実はそうではなくその全てが、自分以外のものの為だった。こうした事を知った時、私たちは、夏に必死になって、秋にその疲れで死んでしまうそのアリと同じ様な現象に見舞われる。

やってもやっても何も評価されない、それに見合ったものは何も手に出来ない。こんなにも自分の為に必死になって頑張っているというのに、一体何故?この時に毎日必死になって自分の為に働いてきたアリは、自分が自分の為ではなく、毎日享楽に耽って面白可笑しく悠々自適に生活しているキリギリスの為に働いていたんだという事に気づく。その時、私たちアリは、その強烈な精神的打撃によって、この命が止まる。息が止まる。これまでの全ての自分に愕然とする。これまで自分の見ていた世界がこの時一気にガラッと違って自分の目の中に飛び込んでくる。

この時、私たちは自分の為に必死になって生きていたんじゃない。私たちアリは、自分たちの上に君臨するものを生かす為に働いていたのだという事を知る。自分とは縁の下の力持ちであり、どんなに頑張っても私たちアリが地上の温かい光を浴びる事などないという事をこの時思い知らされる。そして私たちアリは人生そのものに絶望を覚え、その何処までも深い真っ暗な深淵の中に落ちていく。そしてその中で私たちアリの命は止まる。

何もかも全てに於いて全力で生きてきた。全ては冬を越す為。でもその冬を越す為の過剰な努力により私たちは命を落とす。そしてこの命を落とす時に、私たちは、自分たちが何のために生き、何の為にこんなに必死になって我も忘れて働いてきたのか?その本当の意味を知って絶望しながら死んでいく。

これが私たちの末路。

これを回避するには、自分の中にある不安に自分が突き動かされない様にする事だ。自分の中にある不安が一体どういったものであるのか?その不安の源泉が一体何処にあるのか?それをしっかりと突き止めておくという事が大切。不安という漠然としたものに、私たちの人生の支配権を握らせておくと、その不安が、私たちを必ず破壊してしまう。私たちの中にあるこの不安というものは、絶対にまっすぐには進めない。不安は、自分で自分の進む道をコントロールする事は出来ない。

私たちは自分の人生の舵を、自分の中にある未だはっきりとしていない漠然とした不安というものに握らせてしまっている。その不安が、今私たちの人生の舵を握っている。それでは困るのである。

私たちは、自分の中にある不安をしっかりと、明晰にし、そして、その自身の中にある不安を出来るだけ、自分の力で解消しておかなければいけない。何があっても絶対に自分の中にある不安に、自分の人生の舵を握らせてはいけない。自分の中にある不安というものに、自分の人生の舵を握らせてしまうと、その人生はめちゃくちゃになる。

いつの時も、自分の中にある不安が一体どういったものであり、それがどれだけ、自分の心を占めているのか?それが自分の心の中でどの様な動きをするのか?今どのような働きをし、そして自分にどのような影響を与えているのか?それをちゃんと知っておかなければ、何もかも全てが終わり、人生の終わりに私たちは自分の人生に絶望しながら死んでいく事になる。

冬を越す為に必死に働き、秋にその命を落としていったアリというのは、忙しさにかまけて、自分の心に向き合おうとしなかったのだ。彼らは必死に働き、そして色々な事を学び、色々な事はたくさん知っていたかもしれない。そう言った意味では彼らはとてもまじめな存在だったかもしれない。真面目で勉強家、そしてとても博学だった。でも、彼らはただ唯一自分自身についてのみ無知だったのではないだろうか?

今この時代に生きる私たちも、このアリの様に真面目で色々な事をたくさん知っている。日々たくさんの情報が自分の中に大量に流れ込んでくる。だから、知らない事はないと言えるのかもしれない。何もかも全部知っているとそう言えるかもしれない。でも、そんな私たちも自分の事に対しては未だ何も知らない。

このままいけば、私たちは必ず、その自分の足元から腐っていくだろう。

私たちを行動に駆り立てているのは、この心の中にある不安。その不安によって私たちは動かされている。自分自身に対して無知な人間というのは、この不安に自分の人生の舵取りをされている事に気が付かない。

私たちは何もかも主体的に生きているかのように思っているかもしれないが、それは幻。自分の意思で決定し、判断によって行動している。もし、本当に私たちが主体的に自分の人生を生きているとそういうのであれば、この自分の口から不平不満がこぼれる事もなく、自らの人生に絶望を覚える事もないだろう。

私たちは意識的になど生きてはいない。何に対しても無意識的。何もかもわかって生きている様に思えるけれど、実際は何もわかってなどいない。何もわかってなどいないから、この自分ですらもコントロール出来ない。自分の事を何もわからずに、自分の中にある不安、これに自分の人生を支配され、それに基ずいて自分の行動を決める時、それは自分の意思でも判断でも何でもないという事を知ってもらいたい。

これが自分の意思だ!とそう思っても、それは自分の中にある不安が一時的にそう思わせているだけであり、この自身の中にある不安を解消する事が出来なければ、私たちの主体性はいつまでもその整合性を欠いたままになる。私たちは主体的に生きているのではなく、何もかも自分の中にある不安によって、自分の行動を決められている。それに無意識的に従い生きているのが私たち人間という事になる。

私たちもいつか、越冬する為に必死に働いたアリと同じように、目的を達成する前にこの命を落としてしまうかもしれない。


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