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外部との比較、区別によってもたらされる曖昧な定義。

人間ってのは皆、自分てものをこういうものだとそれぞれに定義している。他のものと区別して、自分というものはこういものだ!と定義している。この自分をこういうものだと他と区別し、そして定義させているその全てがもし何もなかったら、私たちは一体どうやって自分というものを定義するんだろう?

私たち人間というのは、自分の外にある何かと自分を比較して、自分というものをこういうものだと定義する。つまり、自分の外に何か自分と比較するものがあるからこそ、そのものと自分を比較して、自分とはこういうものだと定義する事が出来るという訳だ。

という事は、自分の外部の世界にもし何も自分と比較できるものが無かったら、自分と区別する事の出来るものがなかったとしたら、私たちは一体どうやって自分というものを定義するのだろうか?

外部にあるものと、自分を区別したり、比べたりして、私たちは自分をこういうものだと定義する事が出来るし、自分が何者であるのかも知る事が出来る。という事は、こうした自分たちの外にある世界がなければ、比較したり、区別する事の出来るものがなければ、私たちは、自分をこういうものだと定義する事も出来なければ、自分とは何者であるのか?という事すら、究極認識する事は、出来ないという事になるのではないだろうか?

何かが自分の外部にあるから、そのものと私たちは自分を区別して、自分の事を~であるとそう結論づける事が出来る。でも、この外部に存在するものがもし、何もないとしたら、私たちは一体どうやって、自分というものを定義する事が出来るのだろう?

私たちは、毎日自分の外部にあるありとあらゆるものと自分を比較したり、区別する事で、自分とは~であるという結論を得ている訳だけれど、これってよく考えてみると、こうして導きだされた答えというものは、ただの外部との比較によってもたらされた結論にすぎず、それが本当に確かな答えなのかどかは定かではない気がする。

私たちは、自分の事を人間であると結論づけ、それに何の疑いも抱いていない。けれど、それは外部との比較によってそう結論づけられているだけであって、この私という人間を徹底的に分析したり、解析したりして得られた結果ではない気がする。私たちは、ただ外部との比較によって、自分を人間であるとそう定義しているに過ぎない。自分を取り巻く外部世界と自分を区別する為に、自分を人間であるとそう結論づけたに過ぎない。そんな気がしてならない。

これが人間であると決定づけているその根拠というものが、よくよく考えてみるとあまりに弱い気がしてならない。私たちは、ただ外部との比較、区別によって、自分達を人間だとしているに過ぎない。これが一体何であるのか?それをしっかっりと分析して、そしてこれを人間としている訳ではない。とすると、このものは一体何なんだろう?なんて最近考えたりする。

私たちが、これはこういうものだと定義しているものなんて、こう考えていくと本当に何の根拠もない。それはただの比較と、区別によってもたらされている結論に過ぎない。私たちは、そのものを見てこれは何であるのか?という事を定義している訳ではなく、そのものを他と比べ、その他と区別する為に、そのものをこういうものだとただ自分達に都合よく定義しているに過ぎない。そんなものに、確かと言えるものなど果たしてあるのだろうか?

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