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生きる

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ー破壊そして再生へー
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#毎日更新

私たちには、力がある。(依存ではなく創造へ)。

もっとい色々な事を自分の頭で考えよう。私たちは、毎日考えるという事を少しずつ奪われている。何も考えなくてもいい様に、この社会はどんどんどんどん便利になっている。 私たちは、何も考えなくていいように日々され続けている。何かに注目させたり、新しいものを開発し、それに夢中にさせておけば、人間というのは、他の事を考える事はない。 私たちはいつも何かに関心を向ける様に仕向けられている。どうでもいい事に私たちの意識が上手く捕らわれる様に、この世界は作られている。 今のこの世界を見て

他の有限なる時間を食らうエナジーバンパイヤ

時間というものは、有限であって無限ではない。 この世界には、この有限である時間を無意識的に奪い続ける人たちがいる。 彼らには、自分が相手の有限な時間を奪い取っているという自覚がない。 彼らは、私にしっかりとくっつき、そして思いっきり、私が有している時間というものを吸い取っていく。彼らは、ある意味吸血鬼。 彼らは、私から貴重な時間を奪う。そして、それを自分を生かす為のエネルギーにしているそんな気がする。 人にくっついては、その人の時間を奪う。奪った方は、それで、エネル

我を制し、人生を勝ち取れ。

生きるってそんなに難しい事じゃない。 本当はもっと簡単なんだよな。 お腹が空いたら食べる。 眠くなったら寝る。 甘えたくなったら甘える。 辛くなったら泣く。 たったそれだけの事がいかに難しい事か。 我が入ると、この自然が突然難しくなる。 我とは、私たちをややこしいものにする。 人生とは、この我との長い戦いだ。 この我を制する事が出来れば、私たちはこの人生に完全に勝利する事が出来るのかも知れない。 我とは、大人になるにつれて強くなる。 だからこそ、子供に

ナルシシズムによる自己確立

私たちは、今自分の目の前にある世界が全てだと思って生きているところがある。木を見て森を見ない生き方だ。もっと言えば、私たちは木すら見ていないのかもしれない。私たちが見ているのは、木に茂っている多くの葉っぱの一枚。その一枚しかもしかしたら見ていないのかもしれない。 私たちが全てだと思ってみている世界は、木に茂った葉の一枚。そんな小さな世界を私たちは意外に全てだと思って生きていたりする。だから、苦しくなって、辛くなって、何処にも人生の逃げ道がない気がして辛くなる。 人間という

もうやめたんだ。

何にも面白くないし、楽しくない。むしろ苦痛。でも、私たちはその苦痛の中から抜け出ない。一生懸命作り笑いして、一生懸命何の興味もない話を永遠に聞いている。 何の為に、そこに行くのか?何の為にその人の話を聞くのか?一生懸命その人の話を聞いた所で、その人は自分のことなど何も聞いてはくれない。でも、その人がいつか自分の話を聞いてくれるんじゃないかといった幻想をその胸に抱えて、私たちはというか、私はいつまでも相手の話を聞いていた。 聞いていただけだった。私は気付いた。私のしている事

お金による幸福か?それとも人間としての幸福か?

お金によってもたらされる喜びと、人間としての喜びとは全く別のものなんじゃないかだろうか? お金によって作り出される幸せではなく、人間として創り出す喜び、これを私たちは、この人生に於いて追及していくべきなのではないかと思う。 お金によってもたらされる喜びは一時的なものにすぎず、自分の人生を永遠に保障してくれるものではない。 私たちは、自分の人生を永遠に保障してくれるものを見つけるべき。 お金は真の喜びを与えてはくれない。むしろ、お金は私たちから人生を搾取する。 私たち

VRという大きな魚の腹の中

なんとなく考えてみた。これからの事。これはあくまで私個人の考えだけど、これから、私たちの世界は皆、VRの世界に移行していくんじゃないかな? 私たちの生活圏が皆、VRの世界に移されて行く。VRの世界で自分のアバターを作って、そこに私たちは今あるこの私というものを移していく。 私たちの今住んでいるこの生活圏が皆、VRの世界に移行する。そんな風に最近考えたりする。っていうか実際にもう世界はそうなってきているよね。 自分のアバターを作って仮想世界の中に入る。最初は、その自分のア

社会的タブー

いい大学に入って、いい会社に入って、良いパートナーと出会って、結婚して、子供を産んで、子育てをして、我が子を立派に育て上げて、その我が子が、孫を生んで自分は年寄りになって、皆に見守られながら最後を遂げる。 こうした形というかスタイルは一体誰が作ったんだろう?こうした生き方こそが、人間として最良の在り方だとそう提唱した人は誰なんだろう?もっといえば、こうした日本人共通というか、世界共通の意識を作ったのは誰なんだろう? 良きパートナーに出会って、そのパートナーとの間に子供をも

共感を拒み、理解を求める私の芸術

人受けのいいもの、人に評価されるもの。そう言ったものを書いていたら、自分ってものが消えていった。 人に見られる事、評価される事。そればかりを思って、物を書いたり、形あるものを作っていたら、そこから自分ってものが消えていった。 表現とは、自分あってのものだけれど、その自分がいつしか自分から消えていった。 みんなに見られるために、皆に理解してもらう為に、こうした事に必死になって、私は私を失っていった。自分を失っていった。 人受けのいいもの、人に評価されるもの、人に求められ

私っていう人間

とても不思議な事を書いてみようと思う。 私たちはもともと皆同じ。今こうして私が人間であるのは、たまたま私が人間って形で生まれてきたからに過ぎないと思う。 私ってのは、そもそもこれといった形などないと私は思っている。たまたまその時、人間であったり、動物であったり、植物であったというだけの話。 今、私はとりあえず人間って形として生きてはいるけれど、それは自分が自分の事を人間だとそう認識しているから、私は人間な訳で、もし、この私が自分の事を人間ではないとそう認識した場合、自分

私たちが求めて止まない自己存在証明

私たちは、働くという行為を通して、ここに自分があるという事を証明する。だから、この働くという行為を奪われてしまうと、私たちは、この自己アイデンティティ―というものを、一体どうやって維持したらいいのかがわからなくなる。 私がここに在るという事の自己存在証明みたいなものが何もなくなる。これまでは働くという行為が自分がここに在るという存在証明になった。でも、仕事を失えばそれが無くなる。 人間っていうのは、自分がここに在る。存在しているという自己存在証明みたいなものをいつも必要と

創造という行為の中で溶ける私

物を書いたり、作ったりしていると、その行為の中で自分というものがどんどんと溶けていく。私というその形あるものが溶けていく。 この時、私とはその全てが幻想だったんだと知る。 自分が自分だとしていたその全てのものが、自分の創作という行為の中で消えていく。そこには何一つ自分だと思っていたものは残らない。 自分が自分だとしていたその全てのものが創作という行為の中で消えていき、その先に全く想像も出来ない未知なる力というものが立ち現れてくる。 その力に自分としているものがのっとら

2D人間と3D人間(一般人の思考と大富豪の思考)

物事を平面的にしか捉えられない人は、2D人間。 物事を立体的に捉える事が出来る人は3D人間。 この両者が互いに理解し合う事は難しい。 2Dの眼で世界を見ている人に、3Dの世界の事を話したとしても、その人にとっては、それを2Dの認識でしか受け取れない。 お互いに話せば、理解し合えると言われるけれど、物事を平面的に捉えている人に、いくら立体的な話をしたところでそれらを彼らが理解することは出来ない。 見ている世界が全く違う。持っている視点が全く違う。だから、この両者が相容

書くという行為の先にある偉大なる力

書いて書いて書きまくる。そうすると、自分ってものが段々と消えていき書くという行為をしている私という主体が消えていく。 するとある瞬間から、その自分で書いていたはずの言葉がどんどんと自分から離れていきそして、自分で書いているはずの言葉や文章が自分のものではなくなっていく。今まで自分が主体だったのに、いつの間にか客体になって、言葉自身が勝手に語る事を自分が聞いている、受け取っているという奇妙な関係性が出来上がる。 文を書く事で私が消えていくという事はつまり、その中にある力の位