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生きる

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ー破壊そして再生へー
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#自分

子育てにおける天使と悪魔

ミラレパ(1052年-1135年)は、チベットの仏教業者・聖者・宗教詩人で、一生のうちに仏陀の境地を成就した偉大なるヨーガ行者として、尊敬を集め、万物に愛されている最も有名な一人です。 以下は、そのミラレパが残した言葉。 男の子だけ責めるのは不公平というもの、さらにミラレパはこう語る。 この言葉は、生まれてきたわが子というものに過度な愛情をそそぐ事の愚かさを謳っている。 初めてこの言葉に触れたとき、何故か心をグッとつかまれた。 あまりにもその通りだったからだろう。

混沌は傲慢を生み、秩序は謙虚さを生む

私たち人間というのは皆、自分というものを過信していると最近思う。コロナの事もあるけれど、私たちは自分で自分の事をコントロールする事が出来るというそう言った強い思い込みみたいなものを持っている。 私たちは意外にも、自分で自分をコントロールする事など出来ていない。自分を制御する事が出来ているとそう思うのは、単なる幻想でしかない。実際問題、このコロナ禍にあっても自分の中にある誘惑に負けてしまうという人がわんさかいる。 自分でそれなりに感染対策していれば、それで大丈夫だ!なんてこ

外部との比較、区別によってもたらされる曖昧な定義。

人間ってのは皆、自分てものをこういうものだとそれぞれに定義している。他のものと区別して、自分というものはこういものだ!と定義している。この自分をこういうものだと他と区別し、そして定義させているその全てがもし何もなかったら、私たちは一体どうやって自分というものを定義するんだろう? 私たち人間というのは、自分の外にある何かと自分を比較して、自分というものをこういうものだと定義する。つまり、自分の外に何か自分と比較するものがあるからこそ、そのものと自分を比較して、自分とはこういう

死はキラキラと光っていつでも私たちを魅了する。

私たちは、毎日何かに追われている。毎日、毎日必死になって前に進んでいかなければ、後ろから大きな口をあけた社会という魔物が追いかけてくる。少しでも休んでいたら、その後ろから追いかけてくるその魔物に足を食われる。 私たちは自分ってものを失いたくなくて、必死にこの魔物から逃げる。 私たち人間というのは、この自分の後ろから追いかけてくる魔物から逃げる事しか出来ないのだろうか? 何故、毎日自分を追いかけてくる魔物と私たちは、対峙しようとしないのだろう?私たちは、ただ毎日息を切らし

私たちは思考しているのではなく、ただ目の前の現象に反応しているだけ

私たちは、毎日何かを一生懸命考えている様に思えるが、でも、実際には意外に何も考えていなかったりする。 考えたり、思考した気になっているだけで、意外に私たちは何も考えていない。考えた、思考したってことに満足して、ただその行為している自分に満足しているだけで、頭の中は特に何も考えてはいない。 私たちは、ただ毎日自分の目の前に起こる色々なものから刺激を受け、ただそれに反応しているだけ。私たちはただ反応しているだけで、思考している訳ではない。 ある対象に対して、反応を起こしてい

何かを必要としている時点で私たちは、本来の自分から遠ざかっているのかも知れない。

物も、事も、人間も、自然も何でもそうだが、何もしなければ、そこに在るエントロピーは増大していく。何も手を付けなければ、そこに在るものごとは皆全て、乱雑な状態になっていく。 力をかけ続ける。常に意識をし続ける事でしか、このエントロピーの増大を防ぐことは出来ない。 何事にも、力をかけずに、意識をかけずにいれば、私たちは皆、どんどんと複雑化していき、その姿は乱雑なものになり、自分でも、その自分がわからなくなる。それほどに、私たちは複雑化する。 自分というものに、常に意識を向け

ナルシシズムによる自己確立

私たちは、今自分の目の前にある世界が全てだと思って生きているところがある。木を見て森を見ない生き方だ。もっと言えば、私たちは木すら見ていないのかもしれない。私たちが見ているのは、木に茂っている多くの葉っぱの一枚。その一枚しかもしかしたら見ていないのかもしれない。 私たちが全てだと思ってみている世界は、木に茂った葉の一枚。そんな小さな世界を私たちは意外に全てだと思って生きていたりする。だから、苦しくなって、辛くなって、何処にも人生の逃げ道がない気がして辛くなる。 人間という

人生に屈するな、戦え。

往生際の悪さ。 私という人間は何処までも欲深い。自分というものを何処までも追求していきたい。今あるこの自分というものに、私はそう簡単に納得する事が出来ない。 周りを見ていると、皆いとも簡単に自分の人生に納得しているかのように見える。納得しているというか、もう自分の人生と闘う事を諦めてしまっているのか? 自分を生きると考えた時、そう簡単に自分の人生に納得する事が出来るだろうか?私は、自分のこの人生に負けたくはない。だから、一生この自分と闘い続けるつもりでいる。 これが自

いついかなる時でも自分を問う

私たち人間というのは、しっかりと色々な事を意識して生きていないと、この心というか、精神はすぐにバラバラに砕けていく。自分を一つの塊として維持していくには、その1つの塊である自分を常に意識し続ける事が必要になる。 何もせずにただこの流れる時間にその身を委ねて生きて行けば、自分というものは維持する事が難しい。エントロピーの法則ではないが、私たち人間というのは、常に自分に意識を向け続けなければ、この私というものは、簡単に複雑化し、乱雑になる。 自分の部屋も、常に自分で綺麗にしよ

私たちが求めて止まない自己存在証明

私たちは、働くという行為を通して、ここに自分があるという事を証明する。だから、この働くという行為を奪われてしまうと、私たちは、この自己アイデンティティ―というものを、一体どうやって維持したらいいのかがわからなくなる。 私がここに在るという事の自己存在証明みたいなものが何もなくなる。これまでは働くという行為が自分がここに在るという存在証明になった。でも、仕事を失えばそれが無くなる。 人間っていうのは、自分がここに在る。存在しているという自己存在証明みたいなものをいつも必要と

私たち人間が受けなくてはいけない報い(コロナの裏で)

幸せすぎる国に生きているから、私たちは危機を感じない。明日一体どうやって生きて行ったらいいのか?というようなそう言った危機を私たちは味わったことがない。 明日という日が怖くて、その身を震わせながら、夜を超えた事もない。その重い銃を自身の肩に背負った事もない。そうやって自分の身を一睡もせずに夜通し守ったこともない。 毎日温かい布団に包まれて、私たちは眠る。いつどこで誰が襲ってくるのかわからないそう言った緊張状態の中で私たちは生きた事がない。だから、自分を守るといった防衛本能

愛とは相対的なもの

愛とは相対的なものであって、絶対的なものじゃない。 その時の感情によって、愛の価値などコロコロ変わる。絶対的な愛だと思っているのは幻。 私たちは相手が自分にとって都合がいいと感じる時、それを愛と呼んで、その相手を慈しむ。 でも、自分に都合が悪い時は、その相手を自分の元から振り落とす。そこに絶対的な愛などない。 絶対的な愛なんてない。あるようでそんなものはない。どこを向いても、そこにあるのは、自分勝手な相対的な愛。 その相対的な愛を、私たちは皆知りながら、それを認めた

苦しみへの憧憬

私たちは知らず知らずの内に自分を苦しめて、そこから快感を得ている。 自分を苦しめる事で、自分の中から一種の快楽を得ている。 自分の事を苦しめたくない。追い込みたくないとそう言いながら、日常ではそんな自分を苦しめ、追い込んでいる。そうやって、自分の中に快楽を作り出している。 自分を苦しめる事。自分を極限まで追い込む事、そうする事で、自分の中に一種の快楽が生まれる。どこまでも、自分をいじめ尽くす事で、私たちはそこに一種の心地よさを覚える。 人間というのは不思議なもので、不

ぞうきんみたいにその身を固く絞った事があるか?

ぞうきんを絞る様に、自分のその身も絞る。そうすると、ぎゅうぎゅうに絞ったその自分の身から出た汚れで、バケツの中の水が真っ黒になる。 その真っ黒なものが自分のその心を形成してる。 バケツの中に出たその汚れは、バケツの中で1つの形成物になって、1つの人格を備えて私の前に立ち現れる。その姿は私がずっと否定してきた私の醜い姿。 その姿が自分の前に立ち現れて、この今ある私を殺そうとする。その汚れきった私に殺される事無く、自分を変えるなんて出来ない。彼らの苦しみをこの身に受けずに自