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なにもしないことで、やりたいことが湧いてくる。

「なにもしないをする」。矛盾している、と感じるでしょうか。
なにもしない時間と聞いて、イメージが出来るでしょうか。

なにもしない時間に対してどんなイメージを持っていますか。

私たちの生きる社会は、効率性や成果に対するコミットメントが期待されますよね。移動時間も電車を見渡してみると、"ただ移動している人"は本当に少ない。隣の人と肩が触れ合うような空間しかない電車の中でさえ、パソコンを膝に置き作業をしている人や資格本をひらいて有意義に過ごそうとしている人が大半です。
Time is money.  ひと時も、無駄にしてはならない。そんな考えがベースにはあるのだと思います。


小さな頃から習い事など将来のために今これを身につけておきなさいと教えられます。小学校の夏休みもたくさんの宿題やラジオ体操など細かく「どう過ごすか」を管理され、それがきちんとこなせると優等生と評価されました。宿題をせずにただ夏休みを謳歌して「あ~楽しかった!」と登校すると、先生に怒られて周りからは冷ややかな目でみられました。
大学を卒業し、社会人になってコンサル会社に入社するとプロジェクト遂行にあたって時間単価や作業時間まで細かく管理する風習があり最初は驚きました。社内では時間内に収めることが優秀な社員であり、評価されていました。それが当たり前で、疑う人は1人も居なく、私自身もいつの間にか目の前の仕事に集中しその前提に疑いさえもたなくなっていきました。

こうして、少しずつ知らず知らずのうちに「なにもしないこと」への罪悪感が生まれるようになっていったのです。休日でも、移動時間でも、家事をしながらでも有意義に過ごすことが「かっこいい」と思っていたのです。

そして昨年末、あらゆる仕事を手放し、7ヶ月間の「なにもしない時間」を過ごした今は思います。有意義でなくても、価値発揮してなくても、罪悪感を抱く必要なかったなあ、と。

「やらないこと」に対しては厳しい視線を向けるのに、「やること」で埋めつくされたスケジュールに対しては何も違和感を抱かないのは、なぜでしょう。

私たちは、生き物であり、機械ではありません。
毎日決まった時間に起きて、毎日決まったことをできるなんてほうがそもそもおかしいのかもしれません。体調不良になった時に、「”私の”体調管理不足です。」と申し訳なさそうにする必要は本当にあるのでしょうか。

天気をコントロールできないように、生死をコントロールできないように、
生物は、もっと言うと自然の営みは本来コントロールできないはず。

急に体調が悪くなることもあるし、急に大切な人との別離があり悲しみに打ちひしがれることもある。急に、何かが壊れたり、予定が変わったりして上手くいかないことだってありますよね。生きていれば。

「価値のあること」「意義のあること」「役に立つこと」ばかりに偏重して、自由に過ごす余白は追いやられていたことに、なにもしない時間を強制的にとったからこそ気が付きました。

「やりたいことがわからない」。
そんな悩みを抱える人が多いと言います。心や身体を後回しにしている生き方を続けていたら当然なのかもしれません。
短期的に成果の出るもの、目に見えるものだけを正として生きていたら身体の感覚や感情なども無生産なものと認識され、自分のやりたいことさえわからなくなる。
それは例えて言うなら心や身体が、麻痺している状態です。違和感や直感や好奇心は、心と身体からの重要なメッセージにも関わらず、頭や意志でコントロールする術が身につくほどに、そのメッセージを受け取れなくなっていくのです。

なにもしない時間は、自分の内側の感覚や感性を取り戻す時間だと私は捉えています。

だから1年に1度、自分自身のために、なにもしないをするための時間と空間を確保しています。それは自分の内側を感じて味わう大切な時間。
金木犀が香り、朝晩の空気が冷えるようになる夏と秋の境目に、私は福井のお寺玄性寺を訪れる。今年でもう3度目の来訪になりました。

この記事ではその体験をレポートします。


“なにもしないをする”リトリート、2022年度は6人の仲間と、学生時代からの友人である僧侶たいちゃんと、愛犬ちょことともに過ごしました。(はじめての犬連れ!)

ただ、さんぽをする。

福井へは、東京から約4時間かかるんです。ものすごく面倒な道のりが、いつもの自分から少し距離を置く時間になり、意味があると私は思います。
長い道のりで、残ってしまった仕事を終わらせたりして焦りや力みをひとつずつ手放していく。
1時間に1本、2両編成の超ローカル線を降りると空気の美味しさに思わず両手を空に伸ばして深呼吸~。
地方に行くと毎回、当たり前に吸い込んでいた東京の空気がどれだけ曇っていたかに気付きます。澄んだ空気を肺いっぱいに吸い込んで、ゆっくり吐く。それだけで、心が満たされていく。ほんとうに来てよかったと思いました。

空気が澄んでいると、いつもは遅くまで寝ていても不思議と朝早くに自然に目が覚めてお散歩に行きたくなります。
玄性寺にいるあいだは、あぜ道の朝露の匂いを嗅ぎながら、愛犬と一緒におさんぽをするのが日課となりました。


広い空と田園と犬

空が広いおかげなのか。ただのお散歩が、シンプルで、贅沢。

道端に、カラフルな石の集いを発見!普段気にも留めない石の集いに気が付けるのも余白のおかげ?

石にも個性がいっぱい


空気が澄んでいる場所にいる私のからだは嬉しそうで、機嫌(体調)が良いんだなあ、とふと気が付く。身体が喜んでいるのを感じる。

人生のおやすみ期間をとってから頭だけでなく、自分の身体をリスペクトするようになりました。何も指示しなくても動き続けてくれる心臓、内臓や自律神経など、本当にすごいです。かつ、身体の声は意志で騙せないので、より本心に近いと思っています。

目に留まる雑草がすごく綺麗で、花屋で花を買わなくたって綺麗な花は道端に生き生きとしているんだよなあ。

寄り道して、目で見て、触れてみて、匂いを嗅ぐ。

引っこ抜こうとしても意外と抜けない強さがある

ただ、散歩のための散歩をしたら普段見落としていたたくさんのあたらしい景色と自分の感覚に出逢いました。

死と向き合い生を感じる"死の体験旅行"

1日目の夜に、毎年恒例の死の体験旅行ワークショップを実施しました。
普段、当たり前のように明日を生きれると思っている。この時間がずっと続くと思っている。
そんなに日常にあえて時間をとって、「本当に、人生の最期の瞬間が訪れたとき、私は何を大事にしたいのだろう」という問いを静かに、深く問う時間です。

体験をした方からの感想を一部ご紹介します。

参加するまでに、座禅をくみにいったり、自分の葬儀体験に参加したことがあり、自身と向き合うことをしてきたつもりだったのですが、どこか表面的で浅かったように思っていたり、過去に遺書を2回ほど書いたことことがあったのですが、どこか作業的なところがあったのですが…、今回参加して自身の大切な人・物・事はもちろん、逆に疎かにしてきたムダなことが具体的かつ鮮明となり「死」を大切に考えることができました。

私はこれまで、長生きなんてしなくてよいと39年間考えていたのですが、その考えが180度変わったかもしれません。はたらくことや人とのコミュニケーションを通じて、誰かの支えになることを中途半端に諦めるような人生だけは送りたくない、それを感じられるようになるまでは生きたい。と。

大きな解放感があります。

死と向き合い、自分の生を感じる。
「生ききる」とはどういうことかを、感じる。

体験後の静かな対話な時間も、胸にぐっとくるゆたかな時間でした。

ひとりでいても、みんなでいても。

玄性寺のリトリートで大事にしていること。それは、ひとりでいても、みんなでいても、どっちでも良いということ。

人は誰でも、ひとりの時間もみんなとの時間も大事な生き物です。

みんなと一緒に居すぎると、自分の"したい"が満足にできない瞬間が出てくる。
でも、一人で居すぎると安心感が得られず寂しくなる瞬間が訪れる。

自分の内側で起きていることを感じるための、1人の時間。
自分のからだを労わっている人も、自分を振り返る日記を書いている人も、ピアノを弾いている人も、リトリートで感じたイメージや感覚を絵で表現している人もいました。


縁側でおひさまに包まれながら絵を描く渓ちゃん


ちょこを可愛がってくれてありがとう


本堂でピアノを奏でるかずさん


共同体感覚を感じられるみんなとの時間では、「美味しいね!作ってくれてありがとう」って言いながらご飯を食べたり、爆音BGMを流しながら大声で歌ったり、露天風呂で語り合ったり、本堂でなにも語らずに一緒にごろごろしていたり。そんなゆたかな時間がただ流れていました。

些細なことでも「ありがとう」を伝えあうって、すごく大事。

思い思いにごろごろ
夕陽が落ちるのを見送る
料理好きがつくって、食べる好きが食べる

ひとりと、みんなと。
私と私自身との対話の時間。
私と他者とのともにいる時間。

どちらか一方じゃなく、どちらも大事にできる。
その感覚が体感でわかる、そんな時間でした。

そんなこんなで玄性寺で"なにもしないをする"リトリートは、今年も心身ともに満たされて幕を閉じたのでした。

自分が"今、本当にしたいこと"に耳を澄ます

玄性寺のリトリートだけで終えようと思ったのですが、せっかくなのでなにもしないことのその先に何があるのかについても書いてみます。

私たちの頭は、いつも様々なはたらきをしてくれています。
何かを記憶したり、重要な意思決定をしてくれたり、上手くいったことを再度やるために思考したり、リスクを計算し同じ過ちを繰り返さないように未然に防いでくれたりもしている。

普段、仕事でつかっている大部分は頭ですよね。
一方で、頭に意識を集中しすぎると、無自覚に頭に身体や心までもを支配されてしまいます。本当にやりたいことは頭で"考える"ものではなく、"感じる"もの。

違和感や直感の正体は、実は心や身体からの重要なサインであることは冒頭に述べました。この仕事をしていると逃げたくなるとか、この食べ物の味付けが好きだとか、物事の好き/嫌いや自分にとっての心地よい/心地よくないに対してアンテナを立てているのは心や身体です。
けれど、目の前の仕事の納期や、留まることがゆるされない周囲の環境によってそういった小さな違和感は素通りされてなかったことにされてしまう。

だからこそ、なにもしなくていい時間を過ごすことで、自分の本当にしたいことが明らかになる、と私は思います頭での「~すべき」が極力排除された状態ではじめてゆっくりと身体や心に意識が向いて"感じる"ことが出来るから。


いま、なにを感じているのだろう?

なにもしない、とは物理的になにもしないのではなく、"感じる"(心・身体感覚)に市民権を与えるための入り口です。
だから、逆に言えばなにをしていてもいいんですよね。

なにもしないと言い切っているのは、「~すべき」「~が正しい」が蔓延する情報から一旦離れて、時間と、空間(環境)と、関係性を確保する必要があるから。
これを書いていてふとこの情報も「なにもしない時間をとるべきだ」と受け取る人がいるかもしれないと気が付きました。もしそう感じているのであれば、これを読むことを中断し、一旦立ち止まって自分の心と身体に意識を向けてほしいです。「本当は今、何を感じている?」と。
感じることが、本当にしたいことに耳を澄ますということかもしれません。
感じた結果、今は読み進めたくないとの声が聴こえたら、その声に従ってみる選択肢もあります。唯一無二の正しい答えはなく、すべての選択権は自分にあるのです。


心と身体の優先順位をあげてすこやかに。

私は、2021年末で一旦すべての仕事を手放し、なにもしない時間を7か月と意識的にとりました。あらゆる肩書を手放し、何者でもない自分に還りました。
(この空白期間の話はまた別で記事にまとめようと思っています。)

自分が何者でもなくなることは、正直怖かったし、不安でした。
自分がこの世界に何も貢献していないような気がして、無力感を抱いた日々もありました。(平日は子育てママかおじいおばあしかいないんだもの)

でも、最初の方に抱いた絶望感を過ぎると、ようやく真の休息が取れるようになってきました。それまでは自分のやっていることに、管理者のような厳しい自分が評価判断をしていたことにも気が付きました。例えば、「知識のインプットは良くて、ひたすら動画観ているのはダメだ!」といったジャッジメントをしている存在がいたのです。
おやすみ期間で内なる管理者とも統合した今、ただ目の前に起きていることを楽しみ、味わえるようになっています。(最近のお気に入りアニメはSPY×Family★👈どうでもいい)

そして、真の休息を取り自分を満たしきってみると、今度は休むこと、何もしないことに飽きてきました。
(人間は本来好奇心の生き物だし、回復力も誰もが持っているんです!)

これまではないものねだりでキャリアアップやスキルアップなど獲得していくことに躍起になっていましたが、休息後は自分がすでに持っているリソース(才能や魅力など)に意識が向き、自然とそれを社会と関わって活かしたいと思えたのです。
なにもしてもしなくても世界は変わらないし、私も、私の周囲も何も変わらないという安心感でいっぱいになったときにはじめて、社会に対してもっと自分を活かしたいと心から感じました。
そうしてはじめて、頭(~すべき)(有意義だから)ではなく、心や身体から「居場所づくりがしたい」「自然体の自分を活かして生きる人を増やしたい」という真の欲求が湧き上がりました。

私があえてなにもしない休息期間をとってやったことは、身体の感覚(身体症状含む)に市民権を与えること、そして心をふたたび目覚めさせることだったのです。

長らく頭に支配されて従順になってしまった心を再び目覚めさせるには、子どものように、「わがままになる」プロセスが生じます。(これを進化の前の一時的な退化と呼んでいます)
何がしたいのかわからなければ、したくないことを探してとにかくそれをやめていくのもアリなのかもしれません。
そうすると、「こんなことやっても意味が無いし…」などと頭に支配されていて出てこれなかったが人間に本来備わっているはずの純粋な好奇心のためのスペースができていく。
スペース(よはく)さえ出来れば、好奇心は居場所を取り戻し、「本当はこれをやりたい」「これをやっている時が意義が無くても楽しい!」などと好奇心に再び意識を向けられるようになります。


文字文字したからなんとなく写真を入れてみた(家族写真みたい)

頭や意識の限界を受け止めること。(すべて自分でコントロールなんてできない)
心と身体(感覚)の優先順位をあげ、心と身体がやりたいと感じていることに許可を与えること。

これがなにもしない時間をとることによって、体感知としてわかってくることだと私は感じています。

そして、心と身体の優先順位をあげることがすこやかに生きることにもつながっていきます。なにもしない空白期間をとることで、嘘みたいに生きやすくなりました。

なにもしないをしたい人は、どうぞ。

玄性寺で過ごしたレポートを書こうと思ったのに、脱線してなにもしないこと、人生の空白期間についてたくさん綴ってしまいました。

何かしら今の人生に違和感を抱いている人や、ジャッジメントの限りなく少ない世界でなにもしないをしてみたい方は、ぜひ私のインスタをフォローしておいてください。
(そのうち情報源を統一したいのですが、サボっています…。)

玄性寺のリトリートだけでなく、ありのままで居られるホームパーティや、人生おやすみ期間の集いのコミュニティ「スナフキンたちのよはく部屋」、個性を理解するのではなく体感する自然体セッションや、人間理解のためのミニ講座などなど、自然体で居られる場づくりやイベントのご案内などをしております~。

それでは!

本堂は、厳かで、美しい。








あなたが自然体で、心地よく過ごせるのが一番のサポートです💐