"なにもしないをする"玄性寺リトリートご案内
こんにちは。美月です。
「"なにもしない"をする」ーこの言葉を聴いて、どう感じるでしょうか。
ちょっとそわそわしそう
そんなことできるかな…
わ~、そんな時間がほしい!
などなど、それぞれの感覚が湧き上がってくると思います。そのすべてをありのままに感じてください。何が湧いていても、何を感じていても大丈夫です。
その上で、少し私の話をさせてください。
私がはじめて玄性寺を訪れたのは2019年の秋でした。
バリバリ働いて、3連休や長期休みに旅行をする。
仕事も好きだし、毎日充実している。そんな日常の中で玄性寺を訪れました。
旅行好きの私は、福井に着くと同時に「どこ行こう~!」と意気込んでいました。福井に向かう電車の中でも、観光スポットやお洒落なカフェをググったりなんかして。
そうしているうちに最寄り駅に到着しました。駅には玄性寺僧侶であり学生時代からの友人である太樹さん(以下、たいちゃん)が車で迎えに来てくれていました。「よく来たね~!」と満面の笑みで迎えてくれたたいちゃんの車の助手席に乗りこみ、初めての福井にわくわくした気持ちでした。
玄性寺へ向かう車中で私が「福井はどこがお勧めなの~?」と尋ねると、
たいちゃんは微笑んで
「え、どこにも行かないよ?」
と軽く返事をしました。
私はその言葉を聞いて、一瞬かたまりました。わざわざ3時間近く時間をかけてはじめての土地へ来て"なにもしない"という選択肢を全く想像していなかったからです。
同時に、たいちゃんのヒトコトで、
「旅に出たら、何か新しいものを得なきゃいけない。」
「せっかく来たんだから、観光名所に行かないと。」
と無意識に力んでいた自分に気が付きました。
ああ、そうか。なにもしないんだ、と聞いて、いきなり真っ白なキャンバスを目の前に置かれた気持ちになりました。
玄性寺に着いてからは、お寺をぐるっと案内してもらって、
お互いに会っていなかった期間に起きたことや感じたことを夜中まで対話しました。
感じたままに言葉を交わしその日は「もう眠い~」と布団に吸い込まれるように寝ました。そして本当に久しぶりに、目覚ましなしで好きなだけ寝ていました。気持ちよい鳥のさえずりとともに四度寝をし、もう寝れないなあと、とぼとぼ起きたら時計はほとんどお昼をさしていました。
本当になにもすることがなく(笑)、飽きるくらいギターを弾いて、縁側でごろごろしました。時間がゆっくり流れていく心地よさを味わいながら、本堂の屋根の上でまんまるオレンジの夕陽を観ました。
あんなに寝たくせにまた眠くなってきて、畳のにおいに包まれながら気持ちよくうとうとしました。
夜は縁側でキャンドル灯して、お酒をお供に語りあいました。
特に何か役立つことをしたわけではありません。
だけど、そんな無駄な時間に、余白に、心が満たされていきました。
ふと、そうか…何も欠けていないんだなあ、という感覚に包まれました。
こんなにも豊かな自分の心と、身体と、時間と、つながりがある。
玄性寺を通じて、今すでに自分に「ある」ものやコトが、心いっぱいに溢れてきた。
なにもないからこそ、すべてがある。
そんな体験を心いっぱいに感じることが出来たのです。
”なにもしない"をする価値とは?
"なにもしない"をするリトリートの価値をヒトコトで言うならば、
足るを知る感覚を体験し、自分だけの心地よさを思い出すこと
です。
普通に生きているだけで、私たちはたくさんの情報を受け取っています。SNSやネットニュースだけでなく、自分の働く組織の雰囲気、評価基準、上司部下、同僚、家族など身近な人との関係性…。
それは時に刺激的な情報として、自分を新しい世界に連れて行ってくれるかもしれません。ちなみに私は好奇心と学習欲が高いので、自己啓発系の講座を受けたりオンラインコミュニティに入って自分が知らなかった情報を得たりすると「その視点、面白い~!!」と脳が活性化する感覚があります。
それは刺激的なので、やみつきになります。「もっと新しい世界を発見したい」とどんどん意識が外に外に向いてしまうのです。
それ自体に良い悪いはありません。そして私の喜びのひとつでもある、大切な欲求です。
一方で、外側にばかり刺激を追い求めると、いつの間にか自分が置き去りになります。自分がほんとうに心地よいと感じること、日常のなんてことのない1ページに感じるしあわせを「当たり前」としすぎたり、そんなことよりも緊急度の高い問題を解決しなきゃいけなかったりで、日常のささいな心地よさは、意識にさえあがらなくなっていく。
たとえば、いただきますの後のひとくちめの満たされる感覚、夏から秋にかけて漂う金木犀の香りを吸い込んだときのあの気持ち、夕陽が沈んでいく西日の切なさとあたたかさ…。
そういった日常に当たり前にある心地よさと自分の感覚を感じるには、時間的にも、空間的にも、精神的にも、そして関係性的にも、余白が大切なのです。
その余白を心と身体いっぱいに感じられる体験が、"なにもしない"をするリトリートにはあります。
足るを知る感覚を十分に味わって、それぞれの日常に戻ったとき。
その時に、あなたの人生はちょっとラクに、そして彩り豊かに感じられるかもしれません。
"なにもしない"をするお寺リトリートは誰のためのものなのか
どれかひとつでも当てはまればこのリトリートに参加してほしいな、とわたしたちは思っています。なにもしないことの尊さは、いくら頭で説明しても「わかる」までは至りません。なにもしないを体験し尽くすからこそ感じられるのです。
玄性寺は、ノイズがない場です。
自分とゆっくり向き合って、「今、私は何したい?」をひとつひとつ丁寧に掬い上げていく時間と空間が玄性寺にはあるからこそ、自分の感覚や感情に耳を傾けたい人はぜひご参加くださいね。
"なにもしない"をするリトリートに参加すると、どうなっていくのか
実際にリトリートに参加してくれた人の体験の一部をご紹介します。
■「玄性寺での時間で、まるで子どもに還ったような気持ちになりました。」
Mさんは、繊細で洞察力が高く、それがゆえに周囲に気を遣える一方で自分が疲れてしまうタイプでした。調和を大切に、周りの人にいつも笑顔でいてほしい。そんな気持ちが強いため自分を後回しにしてしまうような人です。
そんなMさんは玄性寺を訪れ、"なにもしない3日間"を過ごしました。好きな時に好きなことをして、一瞬一瞬自分に湧き起こる「今はこれがしたい」「今はこれはしたくない」と自分の主観を丁寧にを感じながら過ごしました。
Mさんは、玄性寺に日常生活で背負いすぎてきた色んなものを置いていったと言います。
「普段の生活では、周囲を気にしたりちゃんとした自分であろうとして生きていることに気が付きました。玄性寺では、ほんとうに何をしていても何をしていなくてもよくて、だからこそちょっとわがままで、自由な私で居ることができました。そんな自分で居ると、まるで子どもに還ったような、そんな感覚があります。もっとこうやって自分として生きていいよね、って普段頑張っている自分を受け入れつつ、これからはもう少し自分の疲れたなとか今は自分を優先したいなという気持ちに気が付いてあげられるような気がします。」
Mさんは来た時よりもすっきりした表情で帰っていきました。
■「自分が死ぬときは、こうやって死んでいきたいなというイメージが明確になったからこそ生きることをまっとうしようと思いました。」
Aさんは、玄性寺でのリトリート中に死の体験旅行ワークショップを受けました。玄性寺では希望者にリトリート期間中に死の体験旅行ワークショップを実施します。
夜の本堂で真っ暗な中にろうそくの火を灯し、自分の死ぬ瞬間をイメージします。自分の身体が少しずつ動かなくなり、大切に握りしめていたものを手放していく臨死体験をつくっています。
死の体験旅行をしたAさんはその体験を語ってくれました。
「あんなに涙を流したのは久しぶりでした。父の葬儀以来ですかね。なんだか上手く言葉にできないんですけど…。死って、もっと怖いものだと思っていたんです。だから向き合いたくなかった。でも、このリトリートで死の旅行をして、こんな風に死んでいきたいなと死を明確にイメージすることが出来ました。死と対峙することで、自分が人生で何を大切にしたいかが明確になりました。ただなんとなく生きていたけれど、私これが大事なんだったらもっとちゃんと大事にしながら生きたいなって思って。自分でもびっくりしたんですけど、私は人生の最期まで音楽がとても大事だったんです。死をイメージすることで、生を全うしたい、大切なものを大切にして生きたいってそう感じたんですよね。」
大切にしたいものをちゃんと大切にしたいと話しているAさんの声色は力強く、生きることへの決意のようなエネルギーを感じました。
"なにもしない"をするリトリート概要
”なにもしない"をするリトリート概要は以下のとおりです。
お申込みの流れ
現在は、友人限定で招待制の形式をとっております。
もし友人ではないけれど興味があるよ、という方はこちらまでその旨のメッセージをください。
Google mapでの口コミ(一部抜粋)
Google mapに掲載されている玄性寺の口コミを一部ご紹介します。気になる方はぜひ口コミを調べてみてください~。
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