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ドラマ『マンゴーの樹の下で ~ルソン島、戦火の約束~』と日本の加害責任


もう何度目になるのか、明日8月11日20時15分からNHKBSプレミアムで終戦関連ドラマ「マンゴーの樹の下で ~ルソン島、戦火の約束~」(2019)が再放送される。何度も再放送されているという事は、NHKがこのドラマの出来栄えに相当の自信をもっている事が伺える。

確かに安倍晋三が政権復帰後に築いた腐敗・不正・無能の「2012年体制」の下、政府の広報プロパガンダ放送局と化しているNHK地上波でこのような反戦ドラマが放送された事は、日本の軍事大国化の流れに一石を投じたという意味で一定の意義があるのは事実だろう。

民放各局が2015年を最後に長らく恒例だった終戦関連ドラマから完全に撤退した現在、唯一孤塁を守っているのはNHKだけになってしまっている。しかもこのドラマが太平洋戦争でも最も苛烈悲惨で大規模な戦いが行われたフィリピン戦を取り上げたのだから、本来であれば「NHKよくやった!」と絶賛し高く評価したいのはやまやまではある。

しかるに、この作品には脚本演出共に重大な欠陥があり、反戦ドラマだからと言って手放しで喜べないのが辛いところだ。

日本の反戦ドラマ・映画が抱える根本的欠陥

「マンゴーの樹の下で」で日本の加害責任はどのように描かれたか 

良心的なこのドラマを評価できない理由は、以下の3点。

1 主題 主題が分裂し、視聴者にはっきり伝わって来ない

製作者たちは、このドラマで視聴者に何を伝えたかったのか。「戦争末期、フィリピンでは、日本の民間人がこんな悲惨な目にあいました」ということなのか。それとも、「戦争中の悲惨な体験を乗り越え、二人の女性が力を合わせて戦後を生き抜いてきました」という事なのだろうか。
そうであれば、残念ながらどちらも中途半端に終わっていると言うしかない。

73分というドラマの尺から言っても、両方を十分に描き切るには時間が全く足りない。無理に両方を描こうとしたため、戦中も戦後もどちらも物語に深みがなく、表面的な描写で終わってしまっている。

はっきり言って、 フィリピン戦を取り上げるのなら、「現在パート」は必要なかった。フィリッピンでの主人公たちの収容所生活~内地への引き上げ~敗戦直後の日本での生活などが全く描かれないので、フィリピンでの悲惨な体験と「現在」とがうまく繋がらず、わざわざ「現在パート」にドラマの半分の時間を割く必然性が感じられないのだ。

意味不明の「現在 パート」 を思い切ってカット するか 、どうしても必要なら、プロローグとエピローグに5分程度「現在」のシーンを置く所謂「額縁構造」で十分のはずではなかったか。

2 ドラマのリアリティ

予算の制約もあったのだろうが、フィリピンの山中での逃避行は手抜きかと思えるほど美術がひどく、リアリティ不足のため真実味が全く感じられない。

ドラマの舞台は、熱帯ジャングルの狭い地域に押し込められた十数万の日本兵や民間邦人が、米軍や抗日ゲリラに追い立てられながら、雨期の泥濘の中、食料を求めて逃げ惑う阿鼻叫喚の飢餓地獄だったはずだが、そのあたりの描写が通り一遍で綺麗事すぎるのだ。長期間、飢餓に苛まれ続けたのに、なでしこ隊の中に太った女性がいるのも真実性を大いに損ねている。

NHKBSでも放送された塚本晋也監督の映画『野火』(原作大岡昇平)も低予算映画だったが、それでも悲惨なジャングルの状況を再現するため、美術には精一杯の予算をかけていた。やりすぎて、一部からスプラッター映画と言われたほどだったが、戦争そのものが究極のスプラッター地獄なのだから、本当の戦争を描こうとするのなら、これに力を入れるのは当然の事。『野火』の出演者たちは撮影に入る前に相当減量したらしく、登場する兵隊たちは皆一様にやせこけていた。

ドラマとコラボした2時間のドキュメンタリー版「マンゴーの樹の下で~こうして私は地獄を生きた~」では、もっとむごたらしく凄惨なエピソードがいくつも語られていた。しかし、ドラマでは 「現在パート」 に多くの時間を費やしたためか、その殆どがカットされており、彼女たちが極限状態に置かれていたことが臨場感や迫真性をもって伝わって来ないのだ。

3 日本の加害責任

これが、このドラマの一番の問題点。

フィリピン戦での日本軍の死者は約52万人(厚労省)。これに対して、フィリピン人の死者は2倍の100万人以上(一説には111万人とも)。

長年の米国支配に慣れ親しみ、親米の国民感情も強く、1946年の独立に向けて準備が進んでいた矢先の日本軍の侵攻だったので、もともとフィリピン国民は、日本軍を「解放軍」などとは思っていなかった。

そうした下地があったところに、
○「バターン死の行進」
○現地の実情や国民感情を無視し、日本軍にだけ都合のよい方針を一方的かつ高圧的に押しつけたため、軍政に失敗。
・現地通貨の流通を停止、代わりに軍票を乱発して膨大な物資を徴発。
・貿易量の大きな部分を占めていた宗主国米国との貿易が途絶したことも重なり、物資不足が深刻化していたところに信用のない軍票の乱発も重なり、急激なインフレが発生して国民生活が極度に悪化。
・住民の反発を抑えるため、反日と見られる住民を次々に逮捕。ろくな取り調べもせずに投獄・処刑。
・日本軍による日常的な暴力行為の頻発
・フィリピン人を見下して、支配者のように威張り散らす横暴な日本兵

このような日本占領軍に対して
・暴虐を極めた日本占領軍の軍政のために反日感情が高まり、フィリピン人は次々と抗日 ゲリラ部隊に参加。
・抗日ゲリラは米潜水艦から密かに武器供与を受け、各地で日本軍を襲撃。
・これに対抗して日本軍も各地で抗日ゲリラ掃討作戦を実施。ゲリラと民間人の区別がつかない日本軍は、怪しいというだけで多数の住民を虐殺(後のベトナム戦争と同じ状況)。
・これが、さらにフィリピン人の対日憎悪を煽るという悪循環に陥り、ゲリラによる損害が日増しに拡大。

中でも首都マニラの市街戦は、多くの一般市民が犠牲になった最悪の戦いとなった。

シンガポール攻略で有名な第14方面軍司令官山下奉文大将はマニラを放棄する方針だったが、部下の富永中将は従わずに拒否。また、大本営もマニラ放棄に反対したため、もともとマニラ死守の方針だった海軍陸戦隊及び陸軍部隊の一部と米軍との間で熾烈なマニラ市街戦が発生。住民を敵と見なす日本軍による虐殺と米軍の激しい絨毯砲爆撃のため、夥しい数のマニラ市民が犠牲になった。

ドラマで描かれているのは、この時、マニラから北部の山岳地帯に脱出した陸軍部隊と一般邦人。これより少し前、米軍がマニラに迫りつつある情勢の中で、日本領事は在留一般邦人の投降を主張。しかし、陸軍はこれを認めなかったため、一般邦人は陸軍部隊と行動を共にすることを余儀なくされた。

米軍の激しい攻撃により、山岳地帯に立てこもった陸軍部隊は壊滅し、組織的な戦闘力を喪失。近代的な外国の軍隊なら、普通こうなる前、陸海空から包囲され孤立無援となった時点で降伏するはずだ。しかし、日本軍は軍人勅諭で捕虜になることを禁じられており、また、山下大将も本土への米軍侵攻を少しでも遅らせようと、永久抗戦命令を発していた。

そのため、日本が降伏したことを知らされるまで、敗残日本兵は、ただ生きる事だけを目的に一年間以上も飢餓地獄の中を彷徨い続け、その多くが途中で餓死した。

ルソン島での戦死者約22万人のうち、米軍との直接的戦闘による戦死者は約2割程度と推計されており、大半はドラマで描かれていた期間に餓死・戦病死したもの。舞台はレイテ島だが、前述の『野火』でも同じ全く状況が描かれており、こちらは日本兵同士の共食いや人肉を食べてしまったがためのPTSDの問題にも踏み込んでいた。

フィリピン戦全体の経過を見ると、100万人以上のフィリピン人を殺した上に、一カ所の戦闘としては最大の52万人の日本軍死者を出した責任がどこにあるかは明白だろう。

米軍によるフィリピン奪回作戦が開始された1944年10月には、米海軍の無制限潜水艦作戦による艦艇及び輸送船の大量喪失と海上封鎖のために日本の継戦能力は著しく低下し、もはや日本の勝利が絶望的である事はいかな夜郎自大の日本軍中央でも認識していた。

フィリピン防衛自体が無理な事は初めから分かっていたにも関わらず、天皇と国体を守るための「一撃講和論」に固執した大本営は絶望的なフィリピン防衛戦を発動。なけなしの連合艦隊残存艦艇と約53万人の陸軍兵力を送り込んだ上、世界史上初の組織的特攻作戦まで行っている。

その結果、日本軍は事前の予想通りなすところなく一方的敗北を喫し、フィリピンを失った上に海軍は最後の正規空母瑞鶴や戦艦武蔵他の艦艇、航空機及び搭乗員を大量喪失。生き残った数少ない艦艇も殆どが損傷状態で海軍が組織的戦闘力を失った事は誰の目にも明らかだった。

前述のとおり、52万人に上る死者のうち直接戦闘によるものはごく一部で、約8割が補給の途絶による餓死。天皇と国体を守るため負けると分かっていた地獄の戦場に大量の兵士を送り込み、約40万人近い皇軍兵士を飢え死にさせた大本営の罪は限りなく重い。

犠牲になったのは陸海軍兵士だけではない。無謀な戦闘に現地住民や在留民間邦人を巻き込み、その多くを死に追いやったのだ。

それだけではない。兵員や軍需物資をフィリピン各地に送る輸送船が不足していたため、海軍は日本の民間漁船を乗組員ごと強制的に徴発。この中には大人の漁船員が徴兵された穴を埋めるために乗り組んでいた14~18歳の少年たち65名が含まれていたが、12隻全てが米軍機の攻撃により沈没。戦闘に巻き込まれた53名の少年が死亡するという理不尽な悲劇まで引き起こしている。

確かにフィリピン防衛戦を直接指揮した山下司令官は、フィリピン人大量殺害などの責任を問われて、現地の軍事裁判で死刑となった。しかし、無謀なフィリピン戦全体の作戦を立案・指導した陸軍参謀本部・海軍軍令部の指揮官や高級参謀たちは何の責任もとらず、戦後ものうのうと天寿を全うしているという不条理。

あまつさえ、山下将軍のマニラ放棄の方針に反対して、部下にマニラ死守を命じた富永中将などは、自分の身が危なくなると多数の部下を置き去りにしたまま、山下軍司令官には無断で安全な台湾に敵前逃亡。

側近の参謀だけを引き連れ飛行機で、しかも貴重な戦闘機の護衛まで付けさせた上に、大量のウィスキーとお気に入りの芸者まで一緒に乗せて逃げたという証言まである。富永中将の敵前逃亡後にその事実を知った山下司令官は激怒したが、後の祭り。

取り残される形となった1万人に上る第4航空軍隷下の残存部隊は、指揮官逃亡という混乱状態の中で絶望的なクラーク飛行場防衛戦やマニラ市街戦、北部ルソン島の地上戦闘などに投入され、大部分が戦死または餓死。その結果、前述の通り10万人以上のマニラ市民が日本軍に殺されたり、日米両軍の激しい市街戦に巻き込まれたりして亡くなっている(マニラ大虐殺)。

富永恭次については、こちらにも書いている。

NHKのプロデューサーは、何のためにフィリピン戦を取り上げたのだろう。確かに、満州やサイパン島と同じようにフィリピン戦でも知られざる民間邦人の悲劇があったことをドラマで描くことにも一定の意義がある事は確かだろう。

しかし、二度とあのような惨劇を繰り返さないためには、自国の被害を描くだけでは全く不十分なのだ。知られざる事実を広く世に知らしめようとするならば、その原因や責任をしっかり究明し明らかにすると共に、日本が占領した地域の住民に甚大な人的・物的被害を与えた加害の事実を描くことにも、きちんと時間を割くべきなのだ。

戦争には加害と被害、戦争を起こして利益を得る存在の三つの側面があるのだが、ドキュメンタリー版では、少なくとも抗日ゲリラや現地住民にに対する日本軍の残虐行為に関しては前半でしっかり言及されていた。これに対してドラマ版では、どうだったのか。

戦後に作られてきた夥しい反戦映画・ドラマを振り返ってみると、日本の下級兵士や銃後の国民の被害や艱難辛苦を描く事には非常に熱心だった事が分かる。だが、加害責任については等閑視する傾向が強かったのではないのか。日本軍の侵略によって2000万人以上のアジアの人々が犠牲になっているにも関わらずその事実を取り上げた作品は極めて少数で、日本軍がアジア諸国民に与えた人的物的加害の具体的事実を描く事を避けてきたとしか思えないのだ。

仮に取り上げたとしても物語の中の一つのエピソードとして語られる程度で、主題として真正面から日本軍の暴虐を描いた作品は一本もない。辛うじてややそれに近いのは、連続TVドラマ『人間の条件』(原作五味川純平)、小林正樹監督の映画『人間の条件』とドキュメンタリー映画『東京裁判』、山本薩男監督の『戦争と人間』三部作、ドキュメンタリー映画『蟻の兵隊』、黒沢清監督の『スパイの妻』などだが、それでも十指に満たない。

三要素の三つ目の「戦争を起こし利益を得る存在」については取り上げる事自体が極めて稀で、前記『戦争と人間』と『東京裁判』くらいしか見当たらない。

映画やドラマではないが、権力者や日本会議、統一教会などの極右が「はだしのゲン」を敵視し激しく攻撃するのは、このマンガがこの三要素を真正面からリアルにきっちり描く事で大日本帝国の暴虐の本質を暴露し鋭く糾弾しているからに他ならない。

日本軍による加害の事例として「マンゴーの樹の下で 」が取り上げたのは、飢えた日本兵が現地の農民が栽培している芋を奪うワンシーンのみ。これでは、ドラマの「フィリピン戦パート」の最後で、捕虜となった日本人にフィリピンの群衆が石を投げつける理由付けとしてはあまりにも弱すぎる。

日本軍の加害責任が、現地の農民が栽培している芋を奪った程度の描写で済まされていいはずはないのだ。

映画も含めて日本の反戦ドラマは日本人の被害を描く事には熱心だが、侵略したアジア各地の住民への加害の事実をスルーするという弱点がこの作品にも色濃く表れていると言わざるを得ない。

脚本はこれまで主に演劇の台本を書いてきた長田育恵。ドラマはこの作品が2本目なのだそうだ。戦後パートが舞台っぽいのが気になったが、なるほどである。

日本の加害責任の問題は、こちらの記事でも取り上げている。

ドラマ「マンゴーの樹の下で~ルソン島、戦火の約束~89分スペシャル版」

よくある事だが、後日、 BSプレミアムで 地上波版より16分長い分拡大版が放映された。脚本演出に致命的な欠陥があるので、16分長いだけではあまり期待は持てなかったが、一応観てみた。

結論から言うと、いくつかの短いシーンが付け加えられていたが、微修正の範囲に止まり、このドラマ全体の評価に影響を与えるものではなかった。

新たに付け加えられた部分で唯一目を引いたのは、熱帯雨林の中で邦人少女の死体を見つけた主人公たちがショックを受けていると、なでしこ隊の一人が「捨てたのよ。」とつぶやくシーン。

延々と続く逃避行の中で飢餓と疲労に耐え切れず背中の我が子の死を願う母親、母親が足手まといの子どもをジャングルに遺棄したことなどが生々しく語られるドキュメンタリー版の凄惨な場面が一瞬蘇った。

あとは、「現代パート」での主人公二人の女性の親密さが拡大版では、より一層強調されていたこと。

地上波版でもちらっと頭の隅をよぎったのだが、戦前だって当然LGBTの人たちはいた訳だから、助け合って戦火を生き抜いた二人がそういう関係であっても別におかしくはない。しかし、ドラマは少しだけ匂わせる程度で特にこの部分に踏み込む訳でもなく、「戦争責任」や「加害責任」と同様、こちらも曖昧にぼかされたまま終わっている。

そうした点も含めて、この作品は全てに渡って中途半端の極みなのだ。
素人でも分かるひどい脚本と不十分な演出に、チーフ・プロデューサーがよくOKを出したものだとあきれてしまう。

演出の柴田岳志は、ドラマ「透明なゆりかご」や「夏目漱石の妻」ではよい仕事をしていたのだが、戦争ドラマはどうも向いていない監督のようだ。

確かに、NHKは、予算の承認やトップの人事を国会に握られ、常に与党からの政治的な圧力にさらされ続けている。

冒頭に書いたように右傾化を強めつつある政治・社会情勢の中でそれなりの予算をかけ、悲惨な負け戦であるフィリピン戦をドラマで取り上げる(それは、即反戦ドラマにならざるを得ない)こと自体難しかった事は理解できる。現場のスタッフからすれば反戦ドラマをよく思っていない局上層部の圧力と闘い、製作・放送にまで漕ぎつけただけでも意義はあると言いたいのかもしれない。

TV全体の終戦関連ドラマ枠自体が絶滅危惧種になってしまった現在、もしそうであるのなら、なおさらよいドラマにして欲しかったと言う残念な思いがつのるのを禁じ得ない。

民放局最後の終戦関連ドラマ

民放各局は、2015年の「レッドクロス~女たちの赤紙~」(TBS系)と「妻と飛んだ特攻兵」(テレビ朝日系)を最後に終戦関連ドラマからは撤退してしまった。

両作品とも大変優れた反戦ドラマだったのだが、最前線の従軍看護婦として軍部に強制徴用された女性たちの運命を描いた「レッドクロス」は前後編合わせて4時間、中国ロケまで敢行し「ドラマのTBS」が自信をもって世に問うた長時間ドラマ。しかし、視聴率は前後編平均9.5パーセントで、局の期待を大きく下回る結果に終わってしまった。

爆弾さえ枯渇する中、ソ連軍の侵攻を少しでも遅らせるため敗戦直後に妻を載せて敵戦車に体当たりした実在の人物谷藤徹夫少尉をモデルにした「妻と飛んだ特攻兵」。こちらも豪華出演陣を揃えたり、実物大の97式戦闘機のレプリカを新たに制作したりした2時間半の大作だったが、視聴率は9.1パーセントと低迷、最低限の10パーセントにも届かずに惨敗。

こうしたことから、戦争ドラマは制作費がかかる割に視聴率が取れないとの評価が各テレビ局に定着。

また、反戦番組を放送すると、すぐに「日本を貶めるのか!」「番組内容が反日的だ!」などの、組織的な電話(ネトウヨによる電凸)が大量にかかってくる他、与党筋からクレームが入ることもあり、局側は毎回政治的圧力への対応に苦慮していたという側面もある。

これにNHKも含め、総理と定期的に会食しているTV各局上層部の間で大はやりの「政治的な忖度」も加わり、作ること自体にリスクを伴う戦争関連ドラマが敬遠されるようになったものと思われる。

視聴率第一主義の民放と違ってNHKは国民の受信料で成り立っているのだから、本来はスポンサーや視聴率などを気にせずに良心に従った番組作りが出来るはずなのだ。

「マンゴーの樹の下で」は作品としては残念な結果だったが、政治的な圧力や忖度をはねのけて、今後も「終戦関連ドラマ」を作り続けていってほしいと願わずにはいられない。

実際、NHKには、2018年の終戦関連ドラマ「夕凪の街 桜の国」(こうの史代原作)のような、映画版に比肩する反戦ドラマの傑作を生み出す力があるのだから。

ドラマ「夕凪の街 桜の国」

幼少期に被爆し原爆病発症の恐怖に怯えつつも、明日を信じてけなげに生きる若い女性の日常を描いた青春ドラマ。原作の二部構成をプロローグとエピローグの現代編の間にメインとなる「1950年代編」を嵌め込む三部構成=額縁構造に改変。

これによって、平和な現代と悲惨な過去を対比させ、戦争や原爆の残酷さをより強調することに成功している。この他にも、淡々と描かれる主人公の日常生活の中に不意に挿入される原爆投下直後の怖ろしい悪夢が、主題を表現する上で大きな効果を上げている。

さらに、主人公の体調の急激な悪化と唐突に訪れる死の瞬間が、本人自らの視点から描写される(しかも死の場面のみ白黒)ため、観る者を激しく戦慄させる。その描写があまりにも生々しく衝撃的であるため、主人公に対する哀惜の情と同時に、原爆や戦争に対する強い憤りを観ている側に呼び起こすのは、計算され尽くした見事な演出と言う他ない。

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気分転換に森田童子を3曲。

「男のくせに泣いてくれた」

1993年の大ヒットドラマ「高校教師」の挿入歌。            それにしても、森田童子がなかにし礼の姪 (小説「兄弟」に描かれている「事業に失敗してなかにしに莫大な借金を背負わせた兄」の次女) だったとは驚いた。数年前に告知された森田童子の評伝本がお蔵入りになったトラブルと関係があるのだろうか。   

                                  「サナトリウム」

長い前奏の後、唐突に「漱石の本投げ出して口づけした」という歌い出しがなかなか鮮烈。素人っぽいか細い声が森田童子の魅力なのかもしれない。                                 

「ラストワルツ」

森田童子のラストシングル。楽曲のリズムにワルツを多用した森田童子の文字通りの「ラストワルツ」。

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