見出し画像

神風特別攻撃隊③ 特攻隊指揮官たちの8.15

8月14日、日本政府はポツダム宣言を受諾、翌日には天皇が玉音放送を行って、日本国民に敗戦を知らしめた。

前回、太平洋戦争末期の特攻隊について書いたが、ここからは視点を変えて、搭乗員たちに自殺攻撃を強要し、4千名近くの若者を殺した陸海軍の航空隊指揮官たちが、敗戦に対してどのような態度をとったのか見ていくことにしよう。

「特攻の父」と呼ばれ、真っ先に特攻作戦を提唱し、主導した海軍軍令部次長大西瀧治郎中将は、降伏に反対して徹底抗戦を主張。         8月13日の陸軍参謀本部・海軍軍令部合同首脳会議でも「2000万人が特攻すれば勝利の道は開ける。」と、最後まで本土決戦を唱えた。     

最終的に主張が入れられなかった大西は、玉音放送の翌日、5通の遺書を残して、介錯なしで壮絶な割腹自決を遂げた。

もし、大西の主張が通っていたら、本土決戦が確定。         「一億総特攻!」状態となって、女性たちまでもが竹槍をもって肉弾突撃したり、子どもたちが破甲爆雷を抱えて敵戦車の前に飛び出して行ったりという地獄図絵が展開したはずだ。

これに対し、玉音放送後の15日、自ら特攻隊を率いて出撃して「自殺」したのが、海軍第五航空艦隊司令長官宇垣纏(まとめ)中将。  

特攻作戦で多くの若者たちを死なせた責任をとって自爆した潔さを評価する向きもある一方、操縦ができない宇垣が乗機の操縦員の他に10機の艦上爆撃機を引き連れて出撃したため、死ななくてもよかった多くの若者たちを徒に犠牲にしたとの批判も根強くある。      

宇垣は部下に自ら出撃するから彗星艦爆を5機用意するように命じたが、「自分たちもお供させてください。」と志願する者が続出。その結果、最終的には2倍以上のの11機で出撃することになった。司令長官自らが出撃するとなれば、我も我もと同行を志願する者が出ることは、分かりきったことでだった。

特攻隊指揮官が決まって口にした「最後には私も諸君の後を追う」という芝居がかった訓示の台詞を実践して見せたと言えば聞こえはよいのだろう。 しかし、宇垣の行動は自分一人の個人的な死に花を咲かせるために、前途有為の多くの若者たちを道連れにして殉死させたに等しいものだ。しかも宇垣の出撃が停戦命令が出た後だったのだから、猶更その罪は重い。 

戦後になって、宇垣の父親が殉死した若者たちの遺族から「なぜ、大西のように一人で自決してくれなかったのか!」と激しく責められたのは当然だ。息子の無事な帰還を待ちわびていた遺族の悲嘆はいかばかりか。宇垣の自爆出撃がなければ、17人もの若者たちが戦争の終わった後に無駄死にすることはなかったのだ。

それでも一応は責任をとった形の大西、宇垣に対して、何の責任も取らずに鉄面皮を通したことで有名なのが、陸軍の菅原と富永の二人の司令官。  

出撃する特攻隊員たちの前で上記のように「決しておまえたちだけを死なせはしない。最後の一機で必ず私はおまえたちの後を追う」と何度も訓示していた第六航空軍司令官菅原道大中将。敗戦処理に忙殺されて、自決のタイミングを失したなどの理屈をつけて、何くわぬ顔で除隊。その後、何と95才まで長生きして、戦後日本の平和で豊かな生活を満喫した。

もっとひどいのが、比島決戦で最高指揮官である第14軍司令官山下奉文大将のマニラ放棄・持久戦方針に反対してマニラ死守を主張、独断で指揮下の部隊にマニラ死守命ずると共に多数の特攻機を送り出したのが第4航空軍司令官富永恭次中将。

記録映画「陸軍特別攻撃隊」           
32分24秒あたりで、訓示する富永中将の姿が写っている。

富永も菅原のように「諸君らは既に神である。君たちだけを死なせはしない。本官も必ず最後の一戦で後を追う」と繰り返し訓示していたにも関わらず、その舌の根も乾かないうちに、ルソン島リンガエン湾から米軍がマニラ目指して上陸して来ると、大本営どころか、山下軍司令官の許可も得ずに無断で部下を見捨てて安全な台湾に敵前逃亡。

自分と側近たちの乗機の安全のために貴重な戦闘機の護衛まで付けさせた上、一説には大量の高級ウィスキーとお気に入りの芸者も一緒に乗せていったという話も。富永中将の敵前逃亡後にその事実を知った山下司令官は激怒しましたが、後の祭り。

取り残された形となった1万人に上る第4航空軍隷下の各部隊は、指揮官逃亡という前代未聞の混乱状態の中で絶望的なクラーク飛行場防衛戦やマニラ市街戦、北部ルソン島の地上戦闘に投入され、大部分が戦死。その結果、10万人以上のマニラ市民が日本軍に殺されたり、日米両軍の激しい市街戦に巻き込まれて亡くなっている(マニラ大虐殺)。

初めて組織的に特攻隊を編成して400機以上の特攻機を次々に出撃させ若者たちを自殺攻撃に駆り立てたのも富永中将で、敗戦後、逮捕を恐れて東南アジア各地を逃げ回った有名な陸軍の高級参謀辻政信にひけをとらない卑怯者の戦争犯罪人。

普通、敵前逃亡罪は銃殺刑だが、陸軍中央は富永の敵前逃亡の事実を知りながら軍法会議にもかけずに、台湾への無断逃亡を「撤退」としてあっさり事後承認。

一般兵士が敵前逃亡しようものなら一発で銃殺刑。下級兵士の場合、例えば塚本晋也監督の映画『野火』で克明に描かれたように、人肉食まで行われたという悲惨なフィリピン戦では、飢餓に苦しむ日本兵が食料を求めてジャングルをさ迷ったが、食料を探しに行く行為が敵前逃亡とみなされて、多くの兵士が軍法会議にもかけられず銃殺刑になっている。

フィリピンでは局地戦としては最大の50万人以上の軍人軍属の戦死者を出しているが、首都マニラのあるルソン島での死者22万人の内、直接戦闘での戦死は2割程度に過ぎず、残りは補給の途絶による餓死。フィリピン戦全体での餓死者は8割40万人と推定されている。

多くの部下を置き去りにして敵前逃亡した富永に対して下された処分はというと、何と予備役に編入されただけという軽いもの。これだけで済んだのは、富永が、陸軍の最高実力者東条英機の一の子分だったからという説もある。

富永の卑怯な行動は、「白骨街道」で有名になった無謀なインパール作戦を強行した陸軍第15軍司令官牟田口廉也中将といい勝負だ。牟田口は、後方からの食糧補給が全く途絶して、これ以上の進撃は無謀だと判断して撤退を進言した三人の前線部隊師団長を「抗命」だと決めつけて次々に解任するという前代未聞の事件を起こしている。

しかし、インパール作戦の惨敗によりビルマ戦線全体が崩壊。英印軍が司令部のあるラングーンに迫り今度は自分の身が危なくなると、富永のように前線での作戦指揮を放棄して安全な後方にさっさと「脱出」。内地に戻った牟田口に対する事後処分は、軍司令官を解任されて一時的に予備役に編入されただけ。

しかも予備役編入はインパール作戦失敗の責任を取らされた訳ではなく、サイパン島陥落に伴う東条英機の失脚に伴う政変に東条派の牟田口が巻き込まれたと言うのが真相。事実その後、すぐに再招集されて陸軍予科士官学校長に返り咲いているので、インパール作戦の惨敗は事実上おとがめなしだった事が分かる。

事前に危惧されていた通り、作戦開始後早期に兵站が崩壊したインパール作戦の戦没者約3万人の内8割が餓死とされているが、ここでも生き残るために兵士たちの間で凄惨な人肉食が行われたと言われている。

無謀な作戦によって死ななくても済んだはずの多くの兵士たちを餓死・戦死に追いやった牟田口は、戦後、イギリス軍に戦犯として逮捕されたが訴追される事もなく、釈放後は77歳まで生き永らえた。

下級兵士に対しては冷酷非情に厳罰を下すのに、軍上層部や身内に対しては信賞必罰などどこへやら。軍規などそっちのけで、軍上層部の犯罪行為にはには手心を加えてかばう温情主義や縁故主義。

こうした悪習は現代の日本にも脈々と生き続けているが、この一事をもってしても、「ダブル・スタンダード」という言葉がきれいに聞こえてしまうほど、日本の軍隊が腐敗・堕落しきった組織だったことがよく分かる。

大戦末期の日本軍は士気が極度に低下し、抗命や敵前逃亡、隊内での犯罪などが多発していたと言われるが、軍上層部がこんな不公平でデタラメなことをしておいて、軍規を保てると思う方がどうかしているし、これが軍歌に歌われた「栄光の無敵皇軍」の実態だと思うと本当に情けなくなる。

さて、富永だが予備役に回されて終わりかと思ったら、とんでもない。驚くことにまだ続きがあるのだ。

その後、再招集されて満州の第139師団長として現役復帰した富永は、敗戦時、自決もせずにおめおめとソ連軍に投降。兵士たちには捕虜になることを許さず、自殺を強要した「生きて虜囚の辱めを受けず」という究極の人権無視とも言うべき「戦陣訓」だが、高級軍人たちに対しては適用外で何の関係のないものだったらしい。

その後、シベリア送りになった富永は悪運強く10年後に生還、1960年まで生き延びた。

有名な大西、宇垣の他にも玉音放送後に自決した高級軍人はいたがその数はごく少数にとどまり、菅原、富永、牟田口、辻たちのように何の責任も取ることなく、「自分も君たちの後を追う。」という訓示などなかったかのように、戦後ものうのうと天寿を全うした指揮官たちのほうが圧倒的に多かった。

国家元首であり、日本の最高責任者であった昭和天皇でさえ何の戦争責任もとらず、単に現人神であることをやめただけ。筆舌に尽くしがたい惨禍を与えたアジア諸国民や犠牲になった日本国民への謝罪の言葉さえ一言も口にしていない。

当時の軍幹部や指導者層にしてみれば、天皇でさえそうなのだから、(形式的には)その命令に従っただけの自分たちが戦争の謝罪をしたり、責任を取らされたりする謂れはないとの理屈なのだろう。だからこそ、自分たちの保身のためにも何としても天皇を退位させてはならなかったのだ。

航空隊指揮官ではないが、その代表格は、何と言っても「生きて虜囚の辱めを受けず~」で有名な「戦陣訓」を作った張本人の東条英機。時の内閣総理大臣として米英に宣戦布告、日本を無残な敗戦に導いた軍と政府の責任者だが、敗戦後は責任も取らずに早々と私邸に閉じこもり、GHQがいつ自分を逮捕しに来るかと戦々恐々の日々。

9月に入ってGHQが戦犯容疑で逮捕状を出すことをいち早く知った東条は、俄かに慌てふためいて拳銃自殺を図ったものの、傷は浅くて自決未遂。

公家出身の文官で日中戦争を始めて太平洋戦争の原因を作った近衛文麿が逮捕前に服毒自殺したのに対し、東条は軍人のくせに見事に自決に失敗。これが日本の最高権力者だった男のやることかとその醜態ぶりが世間の笑いものになったあげく、その後の東京裁判で絞首刑。

靖国神社にまつられている「英霊たち」、中でも「餓え死にさせられた英霊たち」が、高級軍人たちのの恥知らずな背信行為を知ったら果たして何と言うだろうか。  

関連記事

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?