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軍人・軍属全戦没者の約6割140万人を餓死させた日本軍の大罪

はじめに

個人的な話で恐縮だが私の父親は戦時中、スラウェシ(セレベス)島で連隊本部の通信兵をしていた。

ニューギニアへの転属命令が出たが、直前に乗船予定の輸送船が米潜水艦に撃沈され、代わりの船がないので転属は取りやめに。「あの時、『運よく』輸送船が沈められていなければニューギニアで死んでいたはずで、お前も生まれてはこなかった。」と語っていた。

父親から色々と戦争の話を聞かされていたせいか子ども時代から戦争には関心があり、ヒモトタロウの貸本戦記漫画やジュニア向けの戦記ものなどをよく読んでいた。勝っても負けても日本軍が連合国軍と真正面から勇ましく戦う話ばかりだったので、当然戦死者は激戦の中で「名誉の戦死」を遂げたものとばかり思っていた。

しかし、成長して大人向けの戦記などを読むようになると、だんだん旧日本軍の粗が見え始め、戦死者も戦闘中の戦死ばかりではなさそうだという事に薄々気が付くようになっていった。

そうした疑念を決定的にしたのが、図書館から借りて読んだ藤原彰氏の「餓死(うえじに)した英霊たち」。何とそこには日本軍人・軍属戦没者230万人の内61%140万人が戦闘中の戦死ではなく、飢え死と書かれていたのだ。

この本を読んでまさに天地がひっくり返ったような衝撃を受け、以後、世界に類を見ない大量の餓死者を出した日本軍と言う特異な組織に疑いの目を向けるようになったのは当然の成り行きだった。

調べて行くうちに、日本軍と言う官僚組織が自国の兵士を人間扱いしない上に組織自体が腐敗堕落した無能極まりない最低の集団である事が分かって来て愕然となった。

更にアジア諸民族に対する加害者である日本兵は、同時に自国民を大切にせず消耗品として使い捨てにする大日本帝国という軍国主義の化け物の被害者、犠牲者でもあることにも気が付いた。

戦争中、最も多くの日本兵を殺したのは米軍ではなく、実は日本軍だったのだ。

6割140万人が餓死という恐るべき数字は、「英霊」「名誉の戦死」「戦没者たちの尊い犠牲のおかげで今の日本の発展がある」「尊い犠牲の上に、今の平和がある」「日本の戦争はアジア解放戦争」「日本の戦争は八紘一宇を目指した聖戦だった」など、事実の粉飾隠蔽と美辞麗句で美化し飾り立てた夜郎自大の「靖国史観」など一瞬で吹き飛ばす程のインパクトがあった。

遠い異国の地で無残に屍となった餓死者たちは、日本軍の「棄兵政策」によって殺されたのだ。彼らは、自分たちを見捨てた祖国を心底恨んで死んでいったに違いない。

補給を軽視した日本海軍

前の記事「海上護衛戦シリーズ①」で見てきたように、主に米潜水艦による日本軍のシーレーン破壊は南方資源地帯から本土への物資輸送を途絶させたと同時に、日本から離れた戦地への補給物資輸送も不可能になった事を意味する。

元々猪突猛進の攻撃一本鎗で補給を軽視していた日本軍の輸送能力は、著しく脆弱だった。東京から3200㎞離れた占領地米領ウェーク島への補給でさえ四苦八苦していた日本海軍が本土から5000㎞以上も離れたソロモン諸島やミクロネシアなど南太平洋の島々、東部ニューギニアなどの戦地に食料や軍需物資を輸送するのは余りにも荷が重すぎ、日本軍が優勢だった時期でも補給は滞りがちだった。

日本軍兵士の大量餓死

餓島と呼ばれたガダルカナル島の戦い (2万人中1万5千人が餓死) から始まった補給や兵站能力を無視した無能無謀な作戦計画による日本兵の餓死者は、膨大な数に上る。

東部ニューギニア戦では9割の約11万5千人、「白骨街道」で有名なインパール作戦を含むビルマ戦線全体では約8割の14万5千人、一つの戦場としては最大の50万人の戦没者を出したフィリピン防衛戦も8割の40万人が餓死。

文字通り「ジャワの極楽、ビルマの地獄、死んでも帰れぬニューギニア」と歌われた通りだ。

戦局の悪化に伴い制空制海権を喪失した日本軍の南方占領地への補給は米潜水艦によって輸送船どころか護衛の駆逐艦や海防艦、しまいには護衛空母さえ次々に撃沈されて先細りとなり、ついには全てのシーレーンが破壊されて完全に途絶。

撤退も降伏も許されず米軍の飛び石作戦で後方の島々に置き去りにされた日本兵を待ち受けていたのは、食料やキニーネなどの医薬品の枯渇による飢餓とマラリヤやアメーバ赤痢、デング熱などの熱帯病の猛威だった。

戦略的に無価値となり取り残された南太平洋の島々では戦闘や爆撃による戦死者は少なかったものの、補給の途絶により推計で10万人近くの日本兵が故国の土を踏めずに飢餓地獄の中で苦しみ抜いて死んで行った。

驚くのは、日本本土に近い中国戦線での戦没者約45万6千人の半数約23万人が食料不足による餓死または戦病死とされている事。これは僅かな食糧しか待たせずに中国奥地まで猪突猛進、食料は現地住民を殺して奪えばよいとするに日本軍の「現地調達主義に」起因する。中国側は、日本軍の現地住民に対する残虐行為を「三光作戦」と呼んだ。

ロジスティクスを無視した「現地調達主義」の日本軍は近代的軍隊の体を成しておらず、現地住民への略奪・残虐行為なしには存続できない野蛮人の群れだった。

中国民衆にとって日本軍は大群でやって来ては取りついた土地の食料を根こそぎ食い荒らし、一帯を焼け野原のようにしながら進軍して行く「サバクトビバッタ」のような連中でまさしく「蝗害」そのもの!

※「三光作戦」=焼光(焼き尽くし)、殺光(殺し尽くし)、搶光(奪い尽くし) 中国共産党八路軍根拠地の住民を標的にした根絶やし掃討作戦

中国での日本軍の残虐行為ー侵略と加害ー

中国側の調査報告『日本侵略軍在中国的暴行』軍事科学院外国軍事研究部編著)では、1937~45年の8年間に7つの中国軍根拠地が受けた被害だけで「318万人が殺され、276万人が連れ去られ、1952万軒の家屋が焼かれ、5745万トンの食料、631万頭の耕作用家畜、4800万頭の豚・羊などが失われた」とする。多少の誇張があったとしても中国の民間人に凄まじい被害を与えた事に変わりはない。

殺害された人数の中には日本兵にレイプされた後で殺された夥しい数の中国人女性も含まれている。例えば、妊娠中の中国女性をレイプした後、腹を裂いて中の胎児を取り出し、銃剣で刺して殺したとの元日本兵のおぞましい証言まである。

家庭では子煩悩で優しい父親が戦争と言う集団的狂気の中に放り込まれれば、あっという間に良心の呵責もなく平気で無抵抗の住民を殺し回る悪鬼羅刹に変貌してしまうのだ。日本軍は、中国住民から「東洋鬼」と呼ばれて恐れられていた。

『人間の条件』の梶のように、民間人に対する残虐行為に疑問や嫌悪感を持つ良心的な兵士がいたとしても、上官の命令に逆らえば抗命罪に問われ凄惨な暴力や辱め、重営倉が待っている。今度は自分の身が危うくなるので、心ならずも残虐行為に加担せざるを得ないのが戦争なのだ。

戦後、「三光作戦」は中国国民党が中国共産党軍に対して行った作戦名であり、日本軍は「三光作戦」など実施していないとする歴史修正主義に基づくプロパガンダが行われた。

しかし、中国戦線から帰還した元日本兵自身が自分たちが行った民間人への数々の暴虐行為 (住民を皆殺しにして村ごと焼き払う、暴行、拷問、強姦、略奪、男は労働奴隷・女は性奴隷にするために拉致・監禁 他) を手記やインタビュー等で赤裸々に告白・証言している。日本が強制労働させた民間中国人は約4千万人、死者は約1千万人と推定される。

NHK「隠されたトラウマ~精神障害兵士8000人の記録」

  日本軍兵士の精神障害、戦争PTSDが最も多かったのは中国大陸。

日本軍の中国大陸における鬼畜のような所業については昭和天皇の末弟で支那派遣軍総参謀だった三笠宮崇仁もこれは氷山の一角としたうえで、「南京の総司令部に赴任したときに、日本軍の残虐行為を知らされました」、「多数の中国人捕虜を貨車やトラックに積んで満州の広野に連行し、毒ガスの生体実験をしている映画も見せられました。」と証言している。(『古代オリエント史と私』) 

勿論、中国だけでなく、日本軍は侵略した東南アジア各地でも蛮行を繰り返しており、アジア全体で2千万人以上がその犠牲となった。

死ぬまで降伏を許されなかった日本兵

上記のように伝統的に攻撃一本鎗でロジスティクスを軽視した現地調達主義}
の日本軍の補給体制は、著しく貧弱だった。それにもかかわらず自軍の能力を過信し、初戦の勝利に陶酔し、勢いにまかせて明確な戦略方針もないまま泥縄式にガダルカナルのようなキャパシティ以上の遠方にまで戦線を拡大したのがそもそもの間違いだっだ。

これに対して、兵士の生命や人権を大切にし十分な補給体制を整えて侵攻した米軍は、地獄のガダルカナル戦でも一人の餓死者も出していない。前大戦全体を通しても餓死者は皆無。

普通の国の近代的軍隊なら孤立無援となり補給が途絶した段階で降伏するのが当たり前だが、日本兵は「戦時国際法」の存在すら知らされていなかった。

その上、東条英機が1941年に示達した「生きて虜囚の辱めを受けず」(捕虜になる事は許さない)という人権・人命無視のバカげた「戦陣訓」に縛られた日本兵に降伏は許されておらず、「バンザイ突撃」と言う名の自暴自棄の自殺攻撃か自決、餓死などによって犬死するしかなかった。部隊から不名誉な捕虜を出さないために重症者や自決を拒む傷病兵は、上官の命令によって次々に殺害されていった。

人肉食の横行

飢餓に陥った各地の日本兵の間では、おぞましい人肉食まで行われていたのは周知の事実。

飢餓のために軍紀が崩壊した南方戦線では部隊からの逃亡が頻発し、逃亡兵たちは生きるために屍肉を漁り、徒党を組んで弱った日本兵を襲って殺し人肉を食らうといった友軍相食むまるで盗賊のような犯罪行為まで行われていた。

大岡昇平の有名な小説を映画化した塚本晋也監督の『野火』(2014)では、フィリピン戦末期の飢餓地獄の中で起きた日本兵同士の共喰いの実態と共に、人肉を食べてしまった主人公が戦後、激しいPTSD(戦争後遺症)に苛まれる姿が生々しく描かれている。

深作欣二が1972年に監督した映画『軍旗はためく下に』(原作結城昌治)でも戦争未亡人がニューギニア戦で「敵前逃亡」とされて処刑された夫の死の真相を探っていくうちに、飢餓地獄の中で日本兵同士の殺し合いや人肉食が行われていたことを知り驚愕する姿が描かれていた。

「名誉の戦死」ではなく、実態は「不名誉の餓死」

日本軍人・軍属の戦没理由を実証的に研究した元陸軍将校で中国戦線に従軍した歴史学者藤原彰氏は、著書「餓死(うえじに)した英霊たち」の中で、次のように書いてている。

「太平洋戦争において戦没した日本軍人・軍属約230万人のうち、その過半数の140万人は戦闘行動による「名誉の戦死」などではなく、食糧が補給されないために起きた飢餓地獄の中での野垂れ死にであり、日本兵大量餓死の原因は、補給無視の作戦計画、兵站軽視の作戦指導、作戦参謀の独善横暴などにある。」

孤立無援の絶望的状況に陥っても撤退や降伏を許さず「玉砕」と言う名の全滅や自決を強要し、自決を拒む傷病兵は生きて捕虜とならないように殺害。ろくに補給も行わず大量の日本兵を飢え死させておいて、何が「名誉の戦死」か。

実態は「不名誉の餓え死」で、兵士たちは飢餓地獄の中で祖国を呪い悶え苦しみ抜いて死んでいったのだ。人権を無視し、人命を軽視していた軍部は日本兵を守らず、6割以上140万人を戦闘ではなく飢えさせて殺したのだ。これは自国の国民に対する重大な犯罪行為、国家犯罪に他ならない。

なお、これは餓死ではないが、兵員移送中の輸送船などが撃沈されたことにより、陸海軍兵士合計約36万人が海没死している。

陸海軍を合算すると日本軍人・軍属の死者230万人の15.6%が大量の武器弾薬、食料、医薬品などの軍需物資と共に無為に海没死した計算になる。

餓死と合わせれば直接戦闘による戦死者は僅か23.4%に過ぎなくなり、残りの76.6%が飢え死にか輸送中の海没死。この異常な数字だけでも日本の軍隊組織が近代的軍隊の体をなしておらず、内部に根本的な欠陥を抱えていたことが分かるだろう。

なお、この他に大量の民間人船員が犠牲になっている事も忘れてはならない。敗戦までの民間徴用乗組員の犠牲者数は、陸軍徴傭船:27,092名、海軍徴傭船:17,363名、陸軍配当船・海軍指定船:15,043名、社船:833名、合計:60,331名に上り死亡率は約43%。これは陸海の20%、海軍の16%を遥かに上回る恐るべき死亡率である。

この大被害は、日本海軍が輸送船の護衛を軽視しなおざりにしていた事と制空制海権のない海域で無理やり強行突破を図ろうとした無謀な作戦計画に起因する。輸送船が撃沈されたことによる将兵の海没死者数は、第二次世界大戦全参戦国中日本が断トツのトップである。

こうして死ななくてもよかった兵士たちを大量死させにもかかわらず、無謀無能な作戦を立て命令を出した責任者である陸軍参謀本部や海軍軍令部の高級参謀、上級指揮官たちの殆どは何の責任も取らず、その大半が敗戦後ものうのうと生き延びて天寿を全うしている。

次の記事は特攻隊指揮官の場合だが、一事が万事で軍中央の高級指揮官・参謀たちの無能無責任ぶりは飛び抜けており、日本の軍隊は階級が上になればなるほど作戦失敗の責任を取らなくて済むように出来ている。失敗の責任を押し付けられるのは最前線で指揮を執る陸海軍大学を出ていない中下級指揮官たちだ。

「自国民に対する戦争犯罪人」を処断出来なかった日本人

こうした軍中央に蔓延った「責任逃れの無責任体制」は敗戦で終止符が打たれた訳ではなく、責任感や倫理観、遵法精神というものが完全に欠如している反社組織犯罪政党自民党の腐敗ぶりを見ても分かるように、その悪しき伝統は現代の日本にも連綿として受け継がれている。

「無責任体制」を生き延びさせた最大の原因は、自分たちの無能・過失によって日本兵を大量餓死させた「自国民に対する戦争犯罪人」を日本人自身の手で処断できなかった事にある。

東京裁判で裁かれたのは連合国に対する戦争犯罪であり、「日本国民に対する国家的戦争犯罪」は放置されたまま今日に至っている。 仕方がなかったで済ませられる問題ではない。

空と海の特攻で8千名以上の若者を殺し、140万人以上の日本兵を餓死させた原因と責任を追及究明するためにも関係した日本の戦争指導者を告発し、刑事事件として「戦争犯罪容疑者」を被告席に立たせ、責任のある被告人は東京裁判と同じく絞首刑にするべきだったのだ。

これは軍人だけでなく米国の政治的思惑で東京裁判を免れたカルト宗教国家大日本帝国の最高権力者天皇をはじめ、政治家や高級官僚、戦争に協力して大儲けした財閥などに対しても同じ事が言えるはずだ。

ファシズム国家大日本帝国の最高権力者であった昭和天皇は戦争責任を取るされるどころか退位さえしておらず、単に神がかりの「現人神」であることをやめ、国名も「日本国」と看板を架け替えただけだ。

国家元首であり、最高責任者である天皇は何の戦争責任もとらず、筆舌に尽くしがたい惨禍を与えたアジア諸民族や戦争の犠牲になった日本国民への謝罪の言葉さえ一言も口にしていない。

当時の軍幹部や指導者層にしてみれば、(形式的には)天皇の命令に従っただけの自分たちが戦争の謝罪をしたり、責任を取らされたりする謂れはないとの理屈なのだろう。彼らからすれば、自分たちの戦争責任を回避し保身を計るためにも、絶対に天皇に謝罪させたり、退位させてならなかったのだ。

1948年頃から東西冷戦激化に伴ってGHQが政策を転換。「逆コース」によって公職追放されていた戦争犯罪人や戦争協力者たちが一斉に大手を振って公職復権する一方で大量のレッド・パージが行われた。日本の民主化はストップし、急速に後戻りし始める。
(映画ノート⑯ 『コリーニ事件』 より引用)

こうして明治以来の全体主義・権威主義・無責任主義体制は、戦後も温存されることになった。だから日本は今でも形だけの民主主義で偽装した「権威主義的全体主義国家」のままなのだ。

変わったのは、敗戦から80年近く経っても、この国の頂点には天皇の代わりに宗主国米国が居座り続けている事だけだ。

日本軍の侵略戦争に巻き込まれた「大東亜共栄圏諸国」の災禍

飢餓は日本軍や日本国内だけの問題ではなく、日本軍占領下にあった「大東亜共栄圏」諸国でも起きている。

現地の輸送船の多くを日本軍に徴用された上に海上輸送ルートや港湾なども連合軍の攻撃にさらされて東南アジア諸国間の交易が激減。日本軍の徴発も重なり生活物資欠乏のため各国のインフレが加速して、国民生活が急速に悪化。

占領下の過酷な軍政による略奪と飢饉、強制労働、抗日ゲリラに対する掃討作戦、日米の戦闘の巻き添えなどにより、日本軍に侵略されたアジア諸国では敗戦までに約2000万人が犠牲になった。
                                  特に北部ベトナムではコメの凶作に日本軍とフランス・インドシナ政府による食料の強制的徴発、連合軍の爆撃による南部仏印から北部への輸送ルートの切断、シーレーンが封鎖されて近隣国からの緊急輸入が不可能などの災厄が重なり、1944年から45年にかけて大飢饉が発生、約200万人が餓死したと推定されている。

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