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【読書感想文】気分の波を乗りこなすヒントを求めて 『躁鬱大学』

首が取れそうなくらい頷いた。
とにかく共感しかない!

冒頭から興奮状態で失礼します。
適応障害で休職中ワーママ、みつまめです。

先週購入した『躁鬱大学』を読み終わりました。
読了した興奮状態ですが、その勢いのまま、ほぼ自分のために感想文を残します。

鬱陶しいくらい長いです。
読まれる方は、気になったところだけ読んでください。
あと、なんだか坂口さんに引っ張られて、いつもよりフランクな文体になっています。 
いつもスキくださるお馴染みの皆様、テンションの違いにびっくりされたらすみません。

はじめに ー双極性障害を疑っています

私のいまの診断名は適応障害です。
現在処方されているお薬はビプレッソ徐放錠です。
適応障害で休職している方のnoteではまず見かけない薬剤名。
検索すると、薬効にははっきり「双極性障害のうつ症状を改善する」と書かれています。

一応薬は効いているらしいし、私は双極性障害なんじゃないのかな?と考えています。
(先生からはっきり言われたわけではないですが、これが処方されているってことは、そう見ているのだと思います)

お布団から出られなかった、最も抑うつが酷かった状態を抜け、今は「頑張りすぎ」を止められない事がしばしば出てきています。
そして頑張りすぎた翌日~数日以内に、必ず気分が落ちている事に気づき始めました。
この「頑張りすぎ」って、もしかして軽めの「躁転」なのでは…?
今は復職に向けて、自己否定だけでなく「頑張りすぎ」を止める方法を模索している最中ですが、毎回失敗してしまいます

解決のヒントを探してネットの海を漂っても、自己否定を止めるコツは割と出てきますが、「頑張りすぎ」を止める方法がどこにも見つかりません。

このままコントロールが効かないままで復帰するのはまずい、また同じことになってしまう。
そう考えている中で書店を彷徨っている時、目に飛び込んできた淡いブルーの表紙。
手に持ってレジに直行しました。


『躁鬱大学』の概要

本書は、精神科医の神田橋條治さんが「躁鬱病」について発言をまとめた『神田橋語録』を、双極性障害(躁鬱病)の当事者である坂口恭平さんの体験を交えながら読み解いていくという、大学の講義のようなスタイルで進みます。

『神田橋語録』はこちらから読めます。(PDFファイルです)



本当に大学独特の階段教室のちっちゃい椅子に座り、坂口さんの講義を聴いているような、そんな気持ちで読み進めました。

共感できる部分も、わかるけど私とは違うな、という部分もありました。
あくまでも大学の講義という体裁をとっている為「坂口さんはその説を取っている」という見方で、共感できるのにある程度の距離感を保てるという、絶妙な書籍でした。

※「」で囲まれた太字の箇所は、『神田橋語録』からの引用です。
引用下部に『躁鬱大学』Pxxとあるのは、『躁鬱大学』からの引用です。


特に共感した「特徴」その1 ー躁鬱病は、一種の体質

「躁鬱病は病気というよりも、一種の体質です。」
病気じゃないって、自分でもわかってはいるんです。
『躁鬱大学』P18
超能力でもなんでもありません。ただ僕の行動を事細かに書いているだけです。誰かのことを書いているわけではありません。これが僕です。そして、あなたです(笑)。
つまり、性格じゃないんですよ!
『躁鬱大学』P21

この言葉に、まず共感。
第一章です。のっけから頷きまくりです。笑

矛盾した性質が私のなかに同居していることをはっきりと自覚したのは、就活をしていた時期でした。
自己分析はしっくり来ず、私って何者なのか?とただ混乱するばかり。

半分やけくそで「面白そうだから」と直感にしたがった理由で就職先を決めました。
「躁鬱人」としてはこの行動はある意味正しかった(?)のですが、その結果は、自己紹介記事に書いた通りです。笑
自己紹介記事はこちら

そして今、適応障害にまでなってしまった原因は、これまでずっと蓋をしながらやり過ごしてきた「矛盾した自己」にあるのでは?と考え、ADHDを疑ってみたり、HSS型HSPを疑ってみたり、双極性障害を疑ってみたりしている最中です。
HSS型HSPについて書いた記事はこちら

ADHDも、HSPも、生まれ持ったものです。
そして双極性障害というのも、病気というより「一種の体質」なのであれば、これらはそもそも障害や病気としてカテゴライズする意味はあまりなくて、似たような性質のものとして扱っても良いのでは?と思えたんです。
本人にはどうしようもない症状も、困り事も人それぞれで、それって障害だろうが病気だろうが一緒ですもんね。

結局その時々で、社会的に破綻しない程度に上手いことお付き合いしていくしかないんですよね。
何だかふっと力が抜けた感じがしました。


特に共感した「特徴」その2 ー評価の軸が他人。人の顔色を見て、自分を変形させる。

「心が柔らかく傷つきやすい人たちに多いです。特有の滑らかな対人関係の持ちようは躁鬱病の証拠です。」
心が開いているというのか、いや漏れ出てきてますから、すぐ人と合体します。
『躁鬱大学』P27
普通は家族と他人とはある程度区別されて、他人のことには首を突っ込まないのが通例とされていますが、僕の場合、そういう誰かが作った区別というものがすぐ溶解してしまいます。
『躁鬱大学』P27

場の空気には敏感です。
自分のことではなくても、陰口を耳にしたりすると何とかしなければ、と思ってしまいます。
そして、陰口を言われている側に過剰に共感し苦しくなったりします。
(例えそれが、私に直接関わりがない人だったとしてもです)

ある人の言葉を聞いて、思いつき、新しい発想が浮かべば、躁状態へと少しずつ流れ込んでいきます。
一方、その言葉で傷つけば、自信をなくし、鬱状態へと向かっていくのです。
興味深いのは、そこに「自分がない」ということです。常に評価の基準が他人です。
『躁鬱大学』P33

これについても、納得。
上司や同僚の話が刺激になって、新しい企画書が書けたり、多少耳の痛い話でも「もっといいもの作ってやる!」と発奮してみたり。
ただ、まったく同じ内容でも、自分の調子によっては批判や叱責されたととらえてしまい、「何の実力もない私が考える企画なんて、価値がないんだ」と過剰に反応して落ち込んでいました。

「人の顔色を見て気を使うといった平和指向型なので、他者との敵対関係には長くは耐えられません。」
躁鬱人はまず自分自身よりも、集団という塊に目が向かうんですね。その集団が心地よく構成されているかどうかが気になります。
『躁鬱大学』P38
躁鬱人は徹底的に柔らかいです。だからどんなに空気が悪い現場でも、変形して、なんとなくその場をやり過ごそうとしてしまうんですね。でもそれはとても「窮屈」なことです。そのままにして時間を過ごしてしまうと、だんだんよくない方向に感情が移行していきます。
『躁鬱大学』P46
完全版に無意識でやっているので、変形することに自分でも気づいていません。だから、自分がただの奔放な人なのか、人に合わせてしまって言いたいことも言えない人なのかが分からなくなってしまう。いや、奔放なのはいつも人前だけで、実は自分の意見など全くない透明な人間なんだと思っているところがあります。
『躁鬱大学』P52-53
空気が悪すぎると、まったくしゃべれなくなってしまいます。その場にいる人の空気をすべて読もうと試みてしまいますので、そこで空気がうまく読みとれていない場合、混乱が激しくなってしまいます。
『躁鬱大学』P46

引用が長くなりましたが、この辺りも共感しかありませんでした。

職場の空気が悪いと、頼まれもしないのに何とかしようとして人に話を聞きに行ったり、会社を盛り上げようと社員参加型の企画を考え出したり。

会議が荒れたりしている場合、何とかしたいとは思ってもどうすれば良いのか分からずパニックになり、結局黙って曖昧な笑みを浮かべてただその場にいる、その後何もできなかった自分に落ち込む…というのが、いつものパターンです。

まさに、「自分がただの奔放な人なのか、人に合わせてしまって言いたいことも言えない人なのかが分からなくなってしまう。」

私という人間の矛盾が、しっくりくる言葉で言語化されていると感じました。
頷きすぎて、第三章辺りで既に首が取れそうです。
HSS型HSPとも被る性質だと読んでみて感じました。

坂口さんは、このあたりは「躁鬱人の特徴です」と言い切っています。
そこに自分の姿が重なるということはやはり、私も「躁鬱人」なんだろうと思います。


躁鬱人は「窮屈」「退屈」NGらしい

本書では頻繁に「窮屈」「退屈」はだめ、という言葉が出てきます。

空気を読み、無意識に人に合わせて我慢しがちな特徴がある躁鬱人ですが、そもそも「我慢」して何かをするという性分ではないのだそう。

そして

「資質に合わない努力はしないのが良さそうです。『きちんと』とか『ちゃんと』とかは窮屈になるから駄目です。」

と神田橋語録にあるように、

ちゃんとしなきゃと感じるのはどういうときかというと、簡単に言うと、やりたくないときなんですよ。そして、飽きたときなんですね。もう満足した。一回やってみて、自分としては心地よくなって、どういう感触になるかはわかった。それでもう満足なんです。
『躁鬱大学』P58-59
それなのに、「人として、威厳のある大人として、飽きたからといって、やりたくないからといって、すぐに放り投げるのはどうなのか?」という言葉が頭をちらつくじゃないですか。あれ「人として」ではないです。「非躁鬱人として」ってことです。
『躁鬱大学』P59

とあります。
そもそも「躁鬱人」の感覚は一般的ではないため、「非躁鬱人」に合わせるために我慢してしまうので窮屈に感じ、能力が発揮できないそう。

これ、自分でも気づいていなかった部分でした。

自分が立案して、力をいれて調査分析し資料を作って、熱の入ったプレゼンをして、そして見事通った企画に突然興味を失ったり、明らかにトーンダウンしたりする現象がしばしばあります。
そして、「私はなんて無責任なんだろう」と自分を責め、「ちゃんと」やろうとします。

これは、企画が通った時点で認められたと感じて満足してしまったようです。
そして、満足して「飽きた」という事みたいです。
目から鱗でした。

また『神田橋語録』には

「『この道一筋』は身に合いません」
「やってみて良くなかったら止めたらよいだけです。
生活が広がるほど波が小さくなります。
用心のためと思って、それをしないでじっと我慢していると中々良くなりません。
窮屈がいけないのです。
一つの事に打ち込まずに、
幅広く色んなことをするのが良いでしょう」

とあり、「非躁鬱人」に合わせて、何かを成し遂げようと1つの事にしぼって集中し、他のことを捨ててしまうと、「退屈」し元気をなくしてしまうそうです。

確かに、私のポジションはずっと「何でも屋」さんです。
1つのことを極限まで高める職人に憧れているのに、一定レベルまで来たら熱が落ち着いてしまい、何でも「広く浅く」でやってきました。

前職ではずっと営業で好きな仕事でしたが、長男を妊娠した際「配慮」を受けて営業を外れ、事務仕事を割り当てられてました。
最初は頑張っていたのですが、ある程度仕事を覚えた辺りでたちまち元気を失くし、はた目にもぼんやりして、妙なミスをしたりしました。
同期には「本当に営業が好きなんだね」と笑われました。
でも、私は事務も決して嫌いではなかったんです。
単調な業務が続き、さらに社外の人と話す機会がなくなり「退屈」だったんですね。
その時は、誰よりも早く電話に出て取り次ぎでもいいから社外の人と話す機会増やし、職務以上に懇切丁寧にお客様対応し、販促資材のクオリティに凝り始めたりして、産休までの期間をしのぎました。
また、自分には何のメリットもない「正義感」を発揮しすぎて上司と衝突したこともありました。

よくよく思い起こせば、高校時代の部活(演劇部)は舞台監督、大道具、役者、たまに照明、さらに部長と明らかな「何でも屋さん」(人手が慢性的になりない事情もあったけど)
大学でも専門だけでなく、興味の赴くまま必要ない他学部の講義まで聴講していました。
卒論はテーマに対しての切り口を広げすぎ、教授からは「何が言いたいかよく分からない、もう少し焦点を絞りなさい」と致命的なことを言われ、そのあと明らかにやる気をなくしたりしました。笑

私が一番知りたかったこと ー結局「躁」に入ってしまったらどう抑えるべきなのか?

私は企画職の端くれです。
「躁」と企画を考えるパワーってかなりリンクしているんです。
「躁」と言っていいのか専門家でもないので分かりませんが、企画を考えて資料に起こしている時は、ハイな状態であることは明らかです。
火事場の馬鹿力が、わりと頻繁に起こる感じ。

「躁」を抑えて低め安定で過ごすって、要するに「企画を出すような職種はもう諦めろ」ってことなのかな…と色々な方のnoteや書籍を読んでは絶望していました。
ですが、この書籍を読み進めると、そもそも「躁」を抑える、という事を推奨していませんでした。笑

躁鬱人は自信を持って行動しないかぎりうまくいきません。少しでもおびえてしまうとすべてが控えめになり、せっかく素晴らしいパフォーマンス能力を持っているのにうまく発揮できなくなってしまいます。
『躁鬱大学』P207


あなたが奇跡の力を使えば使っただけ、のちに疲れて鬱となります。
(中略)
じゃあどうすればいいんだよ、力を抑えればいいってこと?と疑問に思われるでしょう。それも無理です。力を抑えたら、退屈になります。退屈は鬱の入り口です。だから力は好きなだけ出したほうがいい。
『躁鬱大学』P247


躁は抑える必要はなくて、自信過剰でも、法さえ犯さなければ好きなだけやっちゃえ、という事でした。
私は坂口さんのように才能も発想力もない凡人なので、「自分が世界最高の人間だと思いましょう」はなかなか実践が難しそうですが。笑

会社勤めをやめられない人はいるでしょう。その方はもう、鬱にならないということは諦めて、鬱にはなるけど、どうやってやり過ごすかってことのほうに集中しましょう。
『躁鬱大学』P255

の一文には笑っちゃいました。

私にはフリーランスで稼げるような才覚も人脈もないし、基本的に自分が動く事が好きです。
フリーランスになろうものなら、家族や自分の身体すら省みずに仕事をしそうです。
そのため、適切なブレーキをかけるためにも勤め人でいることは必須と思っています。

気分の波を「乗りこなす」という事は、躁の後には必ず鬱が来ることを「そういうもの」と開き直って、鬱をうまくやり過ごす事なんですね。
躁の最中も休息をよくとることだけ気を付け、人に迷惑をかけないよう文書化する事にまずパワーを使い 、躁を走り切った後で鬱に入ったら「どうやってやり過ごすか」に集中すればいいんだ。

坂口さんだからできる方法もあるので、これが私にとっての最適解なのかは分かりません。
出来ればうつ状態にはなりたくないし。

ただ、こんな捉え方って見たことがなかったので面白くて、肩の力が抜けた感じがしました。

さいごに

とりとめもなく興奮状態で感想を書いてしまいました。
復職を考える段階に入ってから、「自分らしく、無理せず」仕事がしたいのに、そもそも自分らしさがよく分からないし、「無理しない」仕事のレベルもよくわからない、何がしたいのかもよく分からない、と悩んできました。

その1つの答えとして「気分の波が人より極端なのが私」とまず認め、鬱のやり過ごし方を確立しておく事、躁で他人に迷惑をかけない工夫をした上で、思い切り振りきっちゃう事が大切なのかな、と思えました。

結局元々担当していた企画職は、私に向いているんだろうと言うことも自覚でき、勇気付けられた気持ちです。
復職面談前にこの本に出会えて良かったです。

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