温故知新(30)神功皇后 富雄丸山古墳 尾綱根命(尻綱根) 尾綱眞若刀婢命(志理都紀斗売) ストーンヘンジ 池田茶臼山古墳 倭讃(香坂王) 佐紀陵山古墳 倭珍(忍熊王) 五社神古墳
国内最大の円墳とされる富雄丸山古墳は、元伊勢籠神社と丹生川上神社上社を結ぶラインの近くにあり、ライン上には、彦坐王の墓と推定される桜井茶臼山古墳(外山茶臼山古墳)もあります(図1)。これは、富雄丸山古墳の被葬者と豊受姫命や彦坐王や丹生氏との関係を示している推定されます。
モン・サン・ミシェルと富雄丸山古墳を結ぶラインは、弥生時代後期から末期の大風呂南墳墓群(京都府与謝郡与謝野町)、大呂神社(京都府舞鶴市)、質美八幡宮(京都府船井郡京丹波町)、弥生時代の安満遺跡(大阪府高槻市)の近くを通ります(図2)。また、富雄丸山古墳と聖ミカエルの山を結ぶラインの近くには、豊受大神を祀る眞名井神社(籠神社奥宮)や立岩(京都府京丹後市)があります(図2)。弥生時代から古墳時代の初めにかけて、丹波と大和はつながっていたと考えられます。
船木氏と関係があると推定される沖の白石と丹生都比売神社を結ぶラインは、富雄丸山古墳の近くを通ります(図3)。これは、富雄丸山古墳の被葬者と丹生津姫命や開花天皇との関係を示している推定されます。富雄丸山古墳の埋葬施設からは多くの水銀朱が認められていますが、『播磨国風土記』には、丹生都比売大神が神功皇后へ丹(辰砂、水銀朱)を授けたことが記されています。
日前・國懸神宮と富雄丸山古墳を結ぶラインは、丹生都比売神社とシチリア島のパレルモを結ぶラインとほぼ直角に交差し、丹生都比売神社とパレルモを結ぶラインは、天王山古墳群の近くを通ります(図4)。これらは、富雄丸山古墳の被葬者と日前大神(天照大神 大日孁)や瓊瓊杵尊(饒速日命と推定)との関係を示していると推定されます。
富雄丸山古墳と瓊瓊杵尊と丹生津姫命の墓があると推定される天王山古墳群を結ぶラインは、下照比売命を主祭神とする比売許曽神社(大阪市東成区)の近くを通ります(図5)。下照比売命は、『古事記』では大国主命と多紀理毘売命の娘で、『先代旧事本紀』地神本紀でも『古事記』同様に大己貴神と田心姫命の娘です。
富雄丸山古墳と孝霊天皇の第3皇子の彦五十狭芹彦命を祀っていると推定される稲葉根王子神社(和歌山県西牟婁郡上富田町)を結ぶラインの近くには、櫛玉饒速日神と御炊屋姫神を祀る矢田坐久志玉比古神社(奈良県大和郡山市)、金剛山、高野山奥之院(和歌山県伊都郡高野町)があります(図6)。これは、富雄丸山古墳の被葬者と孝霊天皇(須佐之男命と推定)や、饒速日命との関係を示していると推定され、丹生津姫命と御炊屋姫命が同一人物と推定されることと整合します。
丹生氏と関係があると推定される福井県小浜市遠敷にある若狭姫神社(若狭一の宮 下社)と船玉神社(和歌山県田辺市)を結ぶラインは、貴船神社 奥宮、京都御所、富雄丸山古墳の近くを通ります(図7)。これは、富雄丸山古墳の被葬者が、丹生氏や船木氏や開花天皇と関係があると推定されることと整合します。
初期倭王権の王墓として、箸墓古墳に先立ち、箸墓古墳より小さい墳丘で、前方部が小さく帆立貝のような形状の「纏向型前方後円墳」(帆立貝形古墳)があります1)。初期の「纏向型前方後円墳」には、和珥氏の祖の和邇日子押人命の墓と推定される纒向石塚古墳があります。富雄丸山古墳は「造り出し」がある「円墳」とされ、前方後円墳の「前方部」と「造り出し」は異なるようですが、富雄丸山古墳は、押媛の墓と推定される「纏向型前方後円墳」のホケノ山古墳と似た形状です。祭祀が行われたと推定される「造り出し」が北東方向にあるのは、富雄丸山古墳の南西方向に日前大神(天照大神 大日孁)をまつる日前神宮・國懸神宮があるためと思われます(図4)。
2023年1月25日に、富雄丸山古墳の「造り出し」にある埋葬施設から、国宝級の盾形の銅鏡と蛇行剣が出土したという報道がありました。「蛇行剣」は、南九州で多く見つかっていて、隼人の剣ともいわれています。埋葬施設からは、長さ5.3メートル以上のコウヤマキの「割竹形木棺」が出土し、その後の調査で、「三角縁神獣鏡」の可能性がある銅鏡や竪櫛も発見され、女性(巫女)が埋葬されたのではないかと推定されています。
富雄丸山古墳と神功皇后と夫婦と推定される品陀真若王の墓と推定される作山古墳は同緯度にあり、これらを結ぶラインは、宮簀媛の墓と推定される白水瓢塚古墳や、成務天皇(稚足彦尊)の陵墓と推定される築山古墳の近くを通ります(図8)。
富雄丸山古墳は、建稲種命や宮簀媛命が祀られている熱田神宮と大仙陵古墳(伝仁徳天皇陵)のある百舌鳥古墳群を結ぶライン上にあります(図9)。
丹生川上神社上社とイギリス南部ソールズベリーの近くにあるストーンヘンジを結ぶラインは、図1のラインとほぼ重なり、図9の熱田神宮と百舌鳥古墳群を結ぶラインとほぼ直角に交差し、交点付近に富雄丸山古墳があります(図10)。丹生川上神社上社とストーンヘンジを結ぶラインの近くに、元伊勢籠神社があります(図10)。
豊受大神宮(外宮)とストーンヘンジを結ぶラインは、百舌鳥古墳群と熱田神宮を結ぶラインとほぼ直角に交差し、豊受大神宮(外宮)と百舌鳥古墳群を結ぶライン上に檜原神社(桜井市)があります(図11)。
4世紀初頭のメスリ山古墳の被葬者が神功皇后の父と推定される建稲種命(狭穂彦王と推定)とすると、高句麗好太王の石碑から、神功皇后は4世紀後半に新羅征伐に向かったと推定されるので、4世紀後半の築造と推定される富雄丸山古墳には、建稲種命の娘の金田屋野姫命(神功皇后と推定)が葬られている可能性が高いと思われます。見つかった銅鏡は、邪馬台国の女王・卑弥呼(倭迹迹日百襲姫命と推定)の使者が魏から授けられた三角縁神獣鏡が含まれると推定されます。
「蛇行剣」には、曲がった部分が7か所程度あるようなので「柊剣」「比比羅木之八尋矛(ひひらぎのやひろほこ)」で、百済の近肖古王(在位:346年ー375年)から神功皇后へ献上されたと推定される「七枝刀」やシュメールの「七枝樹」と関係があるかもしれません。セイヨウヒイラギには、古くから魔力があると信じられていたようです。セイヨウヒイラギは、ヨーロッパでも数少ない常緑樹(常磐木)の一つで、冬に緑を保つ植物は神が宿る木と考えられ、赤い実は血の象徴と女性を意味し、白い実をつけたセイヨウヤドリギは男性の精液のシンボルとして、二つ合わせてクリスマスに飾ることで新しい生命が生まれるとされたようです。セイヨウヒイラギは、日本の在来のヒイラギとは全く別の植物で、原産地は、西アジア、ヨーロッパ南部、アフリカ北部なのでシュメールにもあったと思われ、シュメール神話に出てくる「七枝樹二神」にある「生命の樹」は、セイヨウヒイラギかもしれません。
日本でかなり出土している蛇行剣は、インドネシアからマレー半島の、悪霊を鎮めるために神に捧げる祭りで演じられるランダの舞で使用される蛇行剣が起源ではないかともいわれています2)。クレタ島のイラクリオン考古学博物館に展示されている剣(写真1)は、蛇行剣に似ているように思われ、蛇行剣は、紀元前1,500年頃のクレタ(ミノア)文明の「蛇をもつ女神」と関係があるかもしれません。クレタ島のクノッソス遺跡では、体に蛇を巻きつけた大地母神や、両手に蛇を持った大地母像が発見されています。「漢委奴国王」と刻まれた金印の鈕(ちゅう、「つまみ」)は、蛇が頭を持ち上げて振り返る形に作られた蛇鈕で、南方諸民族に与えられた可能性が高いとされています。
「ひひら木の八尋矛」の「尋」は周尺で八尺にあたりますが、「八尋」には非常に長く、大きいという意味があります。橿原考古学研究所の岡林孝作・学芸アドバイザーは、「蛇行剣」の2メートル37センチという長さに意味があり、当時(魏尺)の1尺が24センチなので、ほぼ10尺の1丈(=10尺)剣であるといえると述べています。柄の部分がほぼ10分の1の1尺とすると、刃長で見ると9尺剣と推定されます。蛇行剣とともに鼉龍文盾形銅鏡が見つかっているので、被葬者は龍信仰だったと考えられます。鳳凰に代表される長江文明の吉数は八か六で、龍に代表される黄河文明の吉数は九であるといわれ3)、九頭龍とも関係があると思われます。「造り出し」部分の被葬者が金田屋野姫命(神功皇后)とすると、中心部の被葬者は、近親者で有力な天津神と推定されます。
「ひひら木の八尋矛」は、『古事記』によると倭建命(成務天皇 稚足彦尊と推定)が東征の時、景行天皇から賜っていて、この時に同行した建稲種命が亡くなっています。品陀真若王(出雲建)が「ひひら木の八尋矛」を受け継いだ後、后だったと推定される神功皇后が持っていたのではないかと思われます。西殿塚古墳には、巫女と推定される姥津媛(台与と推定)と「きょうだい」の彦国姥津命が共に埋葬されていると推定されるので、富雄丸山古墳には、巫女と推定される金田屋野姫命(神功皇后)と兄の尾綱根命が共に埋葬されたと推定されます。尾綱根命は応神朝大臣の尻綱根で、壬生部を定めたとされます。
池田茶臼山古墳(大阪府池田市)は、古墳時代前期の4世紀中葉頃の築造と推定されていますが、宮簀媛の墓と推定される白水瓢塚古墳と同様に建稲種命の墓と推定されるメスリ山古墳の約4分の1の相似形で、白水瓢塚古墳とほぼ同形です。池田茶臼山古墳は、富雄丸山古墳とギョベクリ・テペを結ぶラインの近くにあり、シラクサとメスリ山古墳を結ぶラインの近くにあります(図12)。池田茶臼山古墳の被葬者は、神功皇后や建稲種命と関係があると推定されます。
金田屋野姫命(神功皇后)の姉の志理都紀斗売(しりつきとめ)は、『先代旧事本紀』では、尾綱眞若刀婢命です。籠神社の『海部氏系図』(国宝)では、志里都岐刀邊(しりつきとべ)となっていて、シリウスと月を表しているように思われます。元伊勢籠神社の絵馬にある太陽と月を囲む籠目紋はシリウスを表しているのかもしれません。池田茶臼山古墳とスカラ・ブレイを結ぶラインの近くに元伊勢外宮 豊受大神社があります(図13)。池田茶臼山古墳の前方部は「柄鏡式」で、前方部を南東方向に向けているのは、前方後円墳が豊受大神社の方向を向いているためと思われます。これらのことから、池田茶臼山古墳の被葬者は、尾綱眞若刀婢命(志理都紀斗売)と推定されます。
宮内庁により神功皇后陵に治定されている奈良市山陵町にある五社神古墳(ごさしこふん)は、佐紀陵山古墳の近くにありますが、佐紀陵山古墳は、神功皇后や応神天皇と対立した倭の五王の讃で、仲哀天皇(讃王と推定)の子と推定される香坂王の墓と推定されます。五社神古墳はこれに後続するヤマト王権の大王墓と目されているので、倭讃(香坂王)の子の倭珍(忍熊王)の墓と推定されます。神功皇后に従って忍熊王の反乱を鎮圧した弟彦王は、和気神社(岡山県和気郡和気町)に祀られていますが、尾綱根命の子の尾治弟彦かもしれません。
鳥取市にある多加牟久神社は、大己貴命と八上姫(開花天皇の母)とが契りを結んだ場所とされ、多加牟久命を伊福部氏の祖の武牟口命とする説があるようです。白水瓢塚古墳とパレルモを結ぶラインの近くに多加牟久神社や青谷上寺地遺跡があります(図14)。伊福部氏は、宮簀媛と血縁関係があると推定されます。
富雄丸山古墳と、熊野那智大社や南宮大社がレイラインでつながっている古代都市セリヌス(Selinus Ancient City)を結ぶラインは、因幡国一の宮宇倍神社の近くを通ります(図15)。宇倍神社の祭神は武内宿禰命ですが、本来は伊福部氏の祖神を祀ったとみられ、『神祇志料』では祭神を『先代旧事本紀』「国造本紀」にある因幡国造の祖先、彦多都彦命(ひこたつひこのみこと)としています。伊福部氏は、神功皇后とも血縁関係があると推定されます。
文献
1)中公新書編集部編 2018 「日本史の論点」 中公新書
2)臼井洋輔 2022 「備前刀前史」 刀剣画報「備前の刀」p42-47 (株)ホビージャパン
3)安田喜憲 2001 「龍の文明・太陽の文明」 PHP新書