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私がヨガを続ける理由

先日、本当に久しぶりにヨガのレッスンを受けに行った。郡山の駅前エリアの、普段は空きスペースとなっている商業ビルの一角にて、ブルーシートを敷いただけの簡易的なヨガスタジオだった。
実にゆうに二年ぶりのレッスンだった。

講師の先生のことは以前から知っていて、というよりもご挨拶をした流れでなぜか一緒にご飯も食べたこともある、という関係性だった。先生のスタジオには残念ながら未だに行けていないし、それ以降はリアルで会うこともなかった上に、初対面の時にはする必要のなかったマスクをつけての再会だったので、先生は私に気付くことなくレッスンを進めた。私としては純粋にヨガに集中できるそのフラットさが、かえってやりやすかった。


ヨガが変わってしまった頃

東京にいる頃、というか東日本大震災が起こってから、私の関心事は「豊かな衣食住って何か」と「身一つで生きれる術はなにか」ということに集中していた。「身一つ」の中でも続けられたことが、「書くこと」と「ヨガ」だった。特にヨガは、震災直後の鋭敏になりきっていた私の心身にとって、優しく支えてくれる漢方薬のような存在となっていた。それまで体を使って何かをするという経験が皆無だった自分にとっては、ヨガから得られるひとつひとつの学びが、新鮮で愉しいものだったのだ。

いつからだろう。ヨガが楽しくなくなったのは。
3.11以降、全国あちこちで暮らすということをした後に、今一度東京に戻ってみようと再び上京した私は、そこでもやっぱりヨガを続けた。3.11前後と変わったのは、ヨガが以前よりも流行となり、大手のヨガ教室なるものが現れて、都会のネオンの中に大きなヨガ教室の広告が混ざるようになったことだろうか。仕事をしながら通いやすいという理由で、その中のひとつに通い始めた私だったが、前にはなかった違和感に気付くのにそう時間はかからなかった。

ヨガが目指すことを、本当に知っていますか?

「ヨガをしています」という人に出会って、皆さんはまず始めに何を思うだろうか。ヨガ経験者なら「私も!」と声に出して喜ぶかもしれない。では全くヨガに関わったことのない人はどうだろう。「体が柔らかい人がやるもの?」「ダイエットに最適?」「なんかキラついてて近寄りがたい」etc. すべて憶測だが、当たらずとも遠からずといった印象を、ヨガに触れたことのない人たちの多くはお持ちではないだろうか?

そしてこれらの印象は、残念ながら半分を「イエス」と認めざるを得ない。
“半分”とするのは、現状が実際にそのようになってしまっているからというYESと、でも本当のヨガとはそういったものではないというNOが入り混じっているからである。私が東京の大手ヨガ教室で感じていた違和感の正体も、実はここにある。

ヨガは「結ぶ」ためにある

私も不勉強で踏み込んだところまでは分からないが、ヨガとはサンスクリット語で「結ぶ」という意味を持っていると記憶している。何を結ぶのかと言えば、これまた本当に簡単にまとめてしまうと「身と心」をということになるだろう。私の学んだところでは、私たち人間のマインドを「馬」と例え、放っておくと時には暴れ馬になってしまう心(マインド)の、その手綱を引くのがヨガだと教えていた。例えや教義は様々でも、つまるところヨガとは、私たち自身の「心と体をひとつにし、中庸であるため」に行うものだというのが私の理解である。

そして、「心と体をひとつにし、中庸である」状態をつくるのに最も適した行い(修行)が、「瞑想」とされている。ここまで“ヨガ”と一言でまとめてきてしまったが、現在広く認識されている“ヨガ”とは、ヨガの中でも体を使って行う修行「アーサナ」だけを指していることが多い。本来の目的である「健やかな瞑想の状態」を目指すために、ヨガには何段階かの修行があって、アーサナは中でも一番初めに行うものとされている。つまり、難しいポーズをとることが「ヨガ」はなく、本来の目的は体を整えたその先にある、精神的中庸にあるのだ。逆を言えば、精神的な中庸を獲得するために瞑想をしたい⇒その瞑想を正しい姿勢で長く行うために必要な準備運動が必要⇒それが「アーサナ」である、ということなのである。

そうゆう言う訳で、「難しいポーズを取ること」がヨガの最終目的と思っているうちは、正しくヨガを理解できていないことになるのだが、残念ながらそこをはき違えてしまっている講師が、今の日本には掃いて捨てるほどいる。

なぜ、心身の調和が必要なのか?

そもそもなぜ、精神的中庸が必要なのか。このことについては、私みたいなペーペーにはまだまだ言葉には落とし込めない。でもその重要性について感覚的には理解しているつもりでいて、それをあえて言葉にするなら、「平和のため」ということになるだろうか。飛躍した答えなので、順を追って読み解いていこう。
ヨガとは「心と体をひとつに調和する修行」のことだというのは、先に述べた。ではなぜ心身の調和(中庸)が必要なのかと言うと、それが幸せにいたる一番の道筋だからだと私は考えている。「幸せ」なんて言ってしまうと胡散臭いが、それは言い換えると「満たされた状態である」ということになるだろう。満たされた状態とは、例えば「あれも欲しい、これも欲しい」とかいう底なしの欲望や、「いいなーあの人、私よりもたくさん持ってて」などの隣の芝生が青く見える病から解放されている、ということだ。つまり「今の自分と状況に満足していて、身も心も穏やかにいられる」というのが、心身の調和がとれた状態なのである。そしてこうした調和のとれた穏やかな個人が増えたとき、社会や世界ははじめて平和へと向かうのではないだろうか。
これがヨガをすることの本来の目的なのではないかと思う。

自分が満たされた先にあるもの。平和。

郡山の駅前ビルのブルーシートの上でアーサナを取りながら、私は久々にこのことを感じていた。考えるのはなく、感じていた。それはまさに体を使ってだからこそ得られる気づきで、先生のリードと教えのひとつひとつが、二年もの間、ヨガ不足だった私の体に染み渡っていった。普段使われていない背骨の一個一個、足裏の骨のひとつひとつ、腹部の深層筋がみきみきと力を得て動き始めたし、それによって筋肉や血液が温かくなっていくのを感じた。自分でも気づいていなかった体のこわばりをほぐすことで、それまで知らずに固執していた考えや感覚に気付くこともできた。私って本当にまだまだなと改めて思うことができ、そしてそのことがとても嬉しかった。

平和とは、ひとりひとりの幸せに拠るものだ。そしてひとりひとりの幸せとは、どこからも誰からも何も奪わずに、一個の人間の中で完結し得るものなのだと思う。
その実践のために、ヨガはあるのだ。

2023年2月6日
満月の日に
佐藤 美郷

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