写ルンですが教えてくれた、とりとめのない日々を愛すること
京都にプチ定住をはじめてからはや2ヶ月が経とうとしている。もう6月に何をして何を考えていたかなんて、忘れてしまっている。「感情を味わう」をテーマに生きている私にとって、「そのとき何を感じていたか」を忘れてしまうことは、何よりも悲しいこと。
だからこそ、どうにかして感情を思い出すきっかけを作ろうと毎日日記を書いてみたり、こうやって3日に1回noteを更新したりしているのだけど。もっと、こう視覚的に感情を思い出したいな、という理由で、京都にプチ定住をはじめてから、毎日1枚ずつ写ルンですでシャッターを切り始めた。
ちょうど27枚を撮り終わって現像データを受け取ったので、そんな写真を見ながら「あのとき味わった感情」を思い出していこうと思う。
写ルンですが教えてくれた、何でもない日々の美しさ
写ルンですを日常に取り入れたいと思ったきっかけは、「現像するまで何を撮ったかを確認できない」ことに魅力を感じたから。写真を撮るのが好きな私は、いつだって「いい写真」を求めてしまう。
なんかもっとこう、「ふいに見た景色」を通して感情を味わいたいなあ、と思ったりもして。だからこそ、写ルンですに1日1枚収める写真は、きれいな景色とかではなくて、「本当にささいな、とりとめのない私の視界」を意識して、直感的に「いいな」と思える景色を切り取ってみることにした。
27枚、ちゃんと感情を味わいながら振り返ってみたい。
27日間の何でもない日々の暮らしと感情
ふだんフィルムカメラを使わないので、フラッシュを焚かないと真っ黒になってしまうことを知らなかったとき。品薄だった写ルンですをようやく電気屋さんで見つけて、買った帰り、四条大橋を写したはずの1枚。
京都に「旅行」ではなくて「住む」ことができてよかった理由のひとつに、朝の散歩ができることがある。まだ誰もいない観光地、凜と澄んだ朝の空気、まだ始まっていない人々の生活、なんてことを考えながら、路地を練り歩くのが、とても楽しい。
京都の街には、紫陽花がたくさん咲いていた。大通り沿いにきれいに咲き誇っていて、みんな同じように見えて、種類や色が絶妙に違っていて。その違いやなんとなく儚い色合いにとても強く惹かれるのだと思う。ピントが合っていないのも、写ルンですならでは。ふだんのカメラで撮っていたら、ピントが合っていないからといってすぐ削除していたかもしれない。写ルンですで撮った景色は、「あのとき確かに私の目を通して見ていた景色」に近い。
まだ、フラッシュを焚かないといけないことに気づいていないときのこと。この日はゲストハウスのスタッフの方たちのBBQに誘っていただいて、急遽参加をした。ここの写真は、きっとスタッフの皆さんがお酒を飲みながら話している姿を撮影していたはず。撮れていなくて少し残念。けれど、夜の夏の思い出を振り返るときって、なんだかこんなオレンジの灯りをぽつんと思い出すことが多い気がする。きっと何年後かに思い出すときも、こんな景色なんだろうな。
京都に来てからというものの(来る前からだけど)、本当に街を歩いてばかりいる。この道の先には何があるんだろう、ここを曲がったらどこに繋がるんだろう、とかを考えながら、なるべく地図を見ずにひたすらに自分の好奇心だけで突き進む。そんな時間が好き。そうやって見つけた何気ない景色とか、道ばたに咲いている花とか、そんなものを愛せる余裕をいつでも持っていたいよね。
日中は観光客でひしめく祇園の街も、朝はすっかりと静かで時が止まっているかのよう。「朝、参拝をしに神社に向かう」を日々の暮らしに取り入れることのできる京都が好き。日常に「今日も穏やかに過ごせますように」と祈れる場所がある。たったそれだけで、なんだか強く生きられるような気がする。
「朝に鴨川を散歩する」、は京都に暮らしたいと願ってきた何年も前から憧れの行為だった。それが今叶って、うれしさや心地よさを噛みしめながら鴨川の何気ない風景に、目を細めてみる。歩く人、散歩をする人、自転車で駆け抜ける人、腰掛けてぼーっとする人。どんな自分で居ていい、とおおらかな自由を感じさせてくれる鴨川が大好きだ。
信号がたくさんある街で、わざわざ階段を上ってまで歩道橋を渡る機会は少ないかもしれない。けれど、やっぱりこの景色を見たいから、というたったそれだけの理由で、週に何度かは歩道橋を渡ってみたりする。行き交う車、ふだんとは違う視点で見る街、遠くの景色、すべてを私だけがひとり占めしている気分で、ぼーっと眺める。それぞれの日々の暮らしを、想像してみることができる時間。
毎日見ていたって、やっぱりふと足を止めて眺めていたいと思わせてくれる鴨川はすごい。晴れの日も曇りの日も。飽きずに眺めていられる、鴨川が日常にある暮らしは愉しいな。
相変わらずピントが合っていないけど、おいしい卵トーストとカラフルでかわいい器と、こぢんまりとした空間に惹かれた日。お話をしながらおいしいものを食べるのは、至福。
この日は午前中をオフの時間にして、朝から蔦屋書店で読書を。大きな木々と木漏れ日がとても気持ちよくて、読んでいた本のなかから心打たれる言葉をたくさん見つけ出して。そんな愛おしいひととき。本を読んでいる時間とそのときにふと見上げる外の景色は、思わずセットで記憶してしまうな。
朝の散歩も好きだけれど、仕事を終えて夕暮れどきの街を歩くのも好き。空の色が刻々と移り変わっていく姿を目で追いながら、その下を帰路に向かう車が行き交う。この人たちは家に帰ったら誰とどんな話をするのだろうか、何を食べるのだろうか、とか。考えても何の答えにもならないことをぐるぐるとひとりで考える。
夕方、待ち合わせがある前の少し浮き立った気持ちで歩く鴨川も、心地いい。相変わらず等間隔でいる人たちを横目に、急ぎ足で待ち合わせ場所へと向かう。もっとゆっくりと、もっと遠くへ歩きたいな、と思いながらも、誰かとの約束はいつだってうれしいものだな。
夜に飲んだあとにほろ酔い気分で鴨川を歩きながら帰宅したときの1枚(のはず)。お酒を飲んだ日は、そのときの気持ちにふさわしい音楽を聴きながらのんびりと歩いて帰るのが好き。誰にも邪魔されない世界のなかで、ふわふわとしながら、心地いい風を感じながら、「もう家に着いちゃうな」と寂しくなりながら。
近所に観光客にも人気の「サウナの梅湯」がある。夜にわざわざ銭湯に向かうのがちょっと面倒くさいな、と思ってしまうタイプの私が、ようやく行けた日。日々の疲れとかモヤモヤなんか考えられない、あのサウナの時間が好き。水風呂に入ってぼーっと空っぽになるのも、銭湯帰りの夜道をぽかぽかな気分で歩くのも、そしてそのあとにありつけるビールも、たったひとつ「銭湯に行く」だけで得られてしまうなんて。
前の晩、全然寝付けなくてそのまま朝になってしまった日。寝るのを諦めて朝の散歩に繰り出して。いつもより遠く、鴨川デルタまで歩く。出町柳。いつかここのエリアに住みたい、と思っている。不思議とここに来るといつだってこの周辺にふつうに住んでいる人たちに嫉妬してしまう。純粋にうらやましいな、と思いながら、早く住みたいなあ、と思いながら。
いま住んでいる場所から、鴨川までは歩いてたったの1分。いつだって鴨川を見ていたいから、昼ごはんはわざわざ毎日鴨川を渡った先のコンビニで買うようにしている。仕事で張り詰めた意識を、ふっとほぐしてくれる。天気がいいとうれしいし、また頑張ってもいいかなあ、と思わせてくれる。私にとって、鴨川の存在は大きいね。
この日は大阪へ。「見放題2022」という音楽イベントがあって、たくさんの大好きなバンドの音を浴びた日。音楽はいつだって活力だな。ビリビリとくるどうしようもない感覚や泣きそうになる気持ち、かっこいいとただ立ち尽くしてしまうほどの強い心の揺れ。ライブは「生きている」を感じられる。
この日のことをあまり覚えていないけれど、手帳のライフログには「散歩がてら夜ごはん」と書いてあるので、きっとそのときの帰り道にでも撮ったのかもしれない。このあたりではフラッシュをちゃんと使うようになったはずだけど、やっぱり暗いところでは難しいみたい。ただ、夜の灯りがぽつりぽつりとある姿はきれいだなぁ。
仕事の合間、散歩がてらランチを食べに行った帰り道。とってもきれいな百日紅が咲いていた。ふだん何気なく歩いていると、こういう景色は見逃してしまいがちだけど、ちゃんとひとつずつ、足を止めて味わっていたい。前を向いて歩く、たまに上を見上げてみる。空がきれいだ、花がきれいだ、そんなことをしっかりと味わえる単純さで日々を暮らしたいね。
この日もすごく暑かったことを覚えている。なのに、昼間のうだるような暑さのなか、散歩に繰り出したときのこと。モクモクと浮かぶ入道雲と、青空と、この暑さ。あぁ夏だなあ、と暑さは嫌いなはずなのに気持ちは浮き立っていく。きのこ帝国の「パラノイドパレード」が聴きたくなる。
この日も暑かったけれど、朝から下鴨神社へ鴨川沿いを歩いたオフの日。下鴨神社は、市街地ということを忘れてしまうくらい、緑が多くて、そこからの木漏れ日がきらきらしてて、歩いているだけでパワーをもらえる場所。スッと息を深く吸い込んだりしてみたくなる。この写真は、下鴨神社から出町柳に向かう途中の橋から。写ルンですでは伝わらないけど、川に空が反転していて本当にきれいな青空だったことを覚えていたくて、シャッターを切った。ちゃんと覚えていたね。
この日は悲しいことがあって、すがるような気持ちで八坂神社へ向かった。18時頃。仕事帰りの人が参拝していて、生活のなかに「神社へ立ち寄る」ことが根付いている暮らし、とてもいいなあ、と感じた。辛いとき、とくにその辛さが自分ではどうしようもできないことであればあるほど、「すがる対象」があるだけで、心はだいぶ落ち着けると思う。
6時半、建仁寺で坐禅をする。朝から「無」の時間を過ごして、落ち込んでいた気持ちも少し和らぐ。坐禅が終わっても、まだ8時。ずっと気になっていた喫茶店にモーニングへ。大きな窓から光が差し込んでいて、コーヒーを飲みながら、梨木香歩さんの「西の魔女が死んだ」を読み進める。それでもまだ9時。坐禅に行く、神社に行く、カフェで本を読む、そんななんでもない、とりとめのない時間を愛する気持ちを忘れたくないね。
この日も朝から坐禅とサウナに行って、スッキリとした気持ちで1日を過ごした。これは昼過ぎに立ち飲み屋に行った帰り道に撮った1枚。青い空が視界いっぱいに広がって、京都駅に反射していたのが、きれいだったなあ。坐禅を行ったことで、気持ちがだいぶ穏やかになった。
2日間写ルンですを撮っていなかったみたい。仕事に忙しくてまとまった散歩の時間を取れていなかったよう。そして、7/13。この日から毎日のように通うことになる祇園祭に触れた最初の記念すべき日だ。街中に溶け込む山鉾、釘を用いずに縄を使って組み立てていく姿、ふつうのサラリーマンが立ち止まって山鉾の写真を撮っていく姿。すべてに心打たれて、もっともっと祇園祭のことを知りたくなった、そんな日。
7/14、15と山鉾を見に行っていたはずなのに、写真は撮っていなかった。貴重な期間だったのに…。この日は、巡行前の宵山。うっすらと灯りがともる、お囃子が響く、ざわざわと人が行き交う、久しく感じていなかったお祭りの雰囲気に気持ちが浮き立つ。いつのまにか追うようになっていた放火鉾。この貴重な祇園祭の過程をじっくりと味わうことが、この頃の最優先の出来事だった。
とりとめのない愛しい日々の暮らしを大切に
1日1枚(忘れていた日もあったけれど)写ルンですでシャッターを切ってみて、こんなにもとりとめのない日々が愛おしく感じるものなんだ、ということに気づいた。
1日1枚しか撮ることができない、しかも、現像するまでどんな風に撮れているかは確認ができない、そんな状況のなか。なぜこの景色を見てシャッターを切ろうと思ったのか、こうやって現像されたデータを見てみるとちゃんと思い出せることに自分でもびっくりしている。
特別な日も、もちろん大切だしかけがえのない瞬間。けれど、この何でも無さにこそ、愛おしさや揺れる気持ち、心動かされることが詰まっていると思うと、日々の本当にとりとめのない暮らしを愛してあげよう、と実感するのだ。
なにもない、わけじゃない。なにもない、のなかにこそ気持ちの揺れ動きや心地いい感情が、しっかりと根付いて眠っている。そんな美しさを、写ルンですは教えてくれた。とりとめのない日々の暮らしを、これからもしっかりと愛そう。
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