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【小説】またいつかその日には

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連作短編集。喋るのが苦手な少年や、音楽の才能はあるのにプロにはならないと決めた先生や、ことば以外の方法で表現するのが得意な少女、そんなひとびとのゆるやかな繋がりの話です。
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記事一覧

【小説】14・完 今日のよき日に

 もうすぐ三月で、暦の上では春が近いはずだというのに、雪が降りそうな寒さだ。こういう夜は部屋の中にいても、外の空気が凍りそうにしんとしているのが感じられる。時計の針は十二時を回っていた。
えらいことになったもんだなあと思いながら、その割には何を考えるでもなしに、ぼくは机に向かって頬杖をついていた。

 三、四時間前のこと。夕食を終えて皿を洗っていたら、お父さん、ちょっとお願いがあるんだけど、と息子

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【小説】13 ぼうけんのつづき

 年内の授業が終わり、街中の華やいだ気分もどこかへ去ったあと、晴れた空はぽかんと気の抜けたようにも見える。図書館の窓から差し込む光はあたたかみをもって僕の手元を照らしているけれど、それでいて外の空気はぴりっと乾燥して冷たいんだろう。
 年明けの授業では何の話をしようかと考えながら、楽器の資料集を眺めてはノートを取っている。右手だけでページを繰り、書き物をするのにもだいぶ慣れた。最近はタイピングもス

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【小説】12 あるピアニストの回想

 何をどう間違ったとしても、俺は音楽の道には進まない。そう思っていた。
 だって、俺よりもずっと上手い人たちがその道に進めなかった、もしくは、進まなかったのを知っているから。昔ピアニストを目指していたという伯母さんの演奏は、直接聴いたことはないけれど、高校時代に出たというコンクールでいいところまでいっていたのを知っている。それでも音大には受からなかったという。その伯母さんが「あの子は天才だ」と思っ

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【小説】11 これからの逆転劇のために

 カランとドアの開く音がして顔を上げたら、義妹が私に気づいて会釈するのが見えた。私も右手を挙げて答える。約束の時間を五分ほど過ぎたところだ。
「すいません、ちょっと電車が遅れて」
「ああ、いいからいいから。何にする?」
「ええっと……」
 彼女はメニューの書かれたカードを上から下まで丹念に眺める。ひととおり目を通すだけではなくて、たぶん何往復も見ている。そんなに時間をかけるほど選択肢が多いわけでも

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【小説】10 次回作のプロット

「明後日には引っ越すって人の部屋だとは思えないなあ」
 ぼくの部屋に入るなり、妹は呆れたように言った。
「なかなか荷物をまとめる時間がなくて……」
「まとめるっていうか、それ以前にもうちょっといらない物を捨てたりとかしたほうがいいんじゃないの」
「いや、そうしたいところだったんだけど、いらない物っていうのがほとんどなくてね……」
「こんな積み方してる本とか雑誌とか、ほんとうにいるの? 読むことある

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【小説】9 人形の夢と目覚めと、その続き

 あんたと同じぐらいの歳の女の子が、えらい難しい研究でなんや大発見いうて新聞に載っとるよ、ようわからんけどすごいねえ、という母からの電話に、ニュースで見た見た、すごいねえと返しながら、そんなんで私にかけてこんでええやん、と内心では顔をしかめる。同じぐらいの歳だからって、ニュースを見たら私とは全然違う世界の人間だって、一目瞭然だろう。私でも名前を聞いたことあるぐらい有名な都内の高校を出て、最難関の大

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【小説】8 連なる偶然、繋がる縁

 相変わらずこの喫茶店の飲み物は値段に見合った味なのかどうかわからないなあと思いながら、私はオレンジジュースを啜る。隣に座った娘は、席の横に飾ってあったミニカーをくるくる走らせて遊んでいた。勝手に触っていいのかとちょっと心配していたのだけど、アイスコーヒーを運んできた店員さんに聞いたら、ああどうぞ、好きなだけ遊んで構いませんよと言ってくれた。店員さんがアイスコーヒーを置くと、向かいに座った幼馴染は

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【小説】7 撮りたかったもの、出会った人

 風景や建物の写真のほうが好きだけど、コンクールに出す写真の被写体に植物を選んだのは、美術館に行ったついでにその近くの植物園を覗いてみたら思いのほか楽しかったのと、去年までは街の風景を撮って見事落選していたので、ちょっと違う種類の写真に今年は挑戦してみようと思ったからだった。
 植物のことはあまり知らないので、初めのうちは花の名前もわからないし、どの樹もおんなじように見えるというような調子で、「題

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【小説】6 蝉時雨とハーモニカ

 夏休みだからといって都内に遊びに行きたがる奴らに付き合って来てみたはいいが、たいして見るべきところがあるわけでもないし、その上今日に限ってとにかく暑くて、果ては頭がガンガンしてくるので、僕は途中で離脱して適当に住宅地をぶらぶら歩いていた。
 よく知らない高そうな店が並ぶ大通りだとか、やたらと人の多い繫華街みたいなところよりも、僕はどこにでもありそうな街中のほうがしっくりくる。何時間でも歩いていら

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【小説】5 その日までお元気で

 拝啓。
 ようやく梅雨が明けて、あなたは夏の到来をさぞかし喜んでいることだろうと思っています。強い日差しが景色にくっきりと陰影をつけるこの季節には、植物の生命力がその色や形により強くあらわれてくるということに、ぼくは最近気づきました。
 どうしてまた突然こんな手紙を書くのかと、あなたは不思議に思うでしょうか。
 理由はとても単純で、きのう帰り道で自転車を走らせていたらにわか雨に降られて、その時、

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【小説】4 植物観察のしかた

 天気雨の中で、傘も差さずに佇んでいる。
 むせ返るような緑の匂いと、濡れた路面の匂いが混じる。夏の匂いだ。雲の隙間からやわらかい橙色の光が差し込んで、空中で水滴に反射してきらめく。とめどなく降る雨は強く地面を叩く。ばらばらと音が響く。私は西の空を見上げる。顔に雨粒が当たるが不思議と痛くはない。上空をすごい速さで雲が流れていくのが見える。体ごと振り返って東の空を見る。不気味なほど黒い雲を背にして、

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【小説】3 セーフティ・ピアノ

 あんたって子はほんとうに、長続きしないねえ。
 夫と別れることにしたと告げたら、電話口から風圧を感じるぐらいの母の溜息が聞こえてきた。
 ほんとにどうしてあんたはそうなんだろうねえ、と、母は私がかつて少し齧ってはすぐにやめてしまった数々の習い事や、昔は仲のよかった友人たちの名前、学生時代に付き合っていた男の子の名前、などなどを並べたてる。よくもまあそんなに覚えているもんだ。たぶん母のほうが私より

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【小説】2 雨上がり、光の音

 あ、先生の音だ、と思って、わたしはふと足をとめました。
 仕事のあと、ちょっと立ち寄りたいお菓子屋さんがあったのでいつもと違う道を通って帰っていた時のことです。
 そのあたりはつい最近になって新しい家が増えてきたところでしたが、その中に一軒、周りの家よりも前からあったような(ほんとうのところはわかりませんが)、小さいけれども欧風のかわいらしいつくりで、たまご色の壁が目をひく家があります。どこから

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【小説】1 ぼうけんのきろく



 熱があるというので昨日早退していたらしいから、今週末の「ぼうけん」の計画は延期か、もしかすると中止だなと思って、ぼくはちょっと、いや、実を言うとかなりがっかりしていた。それで、朝起きるなり「電話よ」と呼ばれた時も、今日はいけないよという話かと思ったのだけど、真逆だったのでびっくりした。
「時間ちょっと過ぎるけど、いまから行くから」
 それだけ言うと電話は切れた。少し不思議に思いながら、とり

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