【小説】2 雨上がり、光の音

 あ、先生の音だ、と思って、わたしはふと足をとめました。
 仕事のあと、ちょっと立ち寄りたいお菓子屋さんがあったのでいつもと違う道を通って帰っていた時のことです。
 そのあたりはつい最近になって新しい家が増えてきたところでしたが、その中に一軒、周りの家よりも前からあったような(ほんとうのところはわかりませんが)、小さいけれども欧風のかわいらしいつくりで、たまご色の壁が目をひく家があります。どこからか聞こえてきたピアノに思わずわたしが耳をすましたのは、その家の前でした。
 残念ながら音はすぐ止んでしまって、その家から聞こえてきたものだったのか、それともどこか近くの家のものだったのかはわかりません。わたしはその家の表札をちらりと見やりましたが、そこに書かれているのが先生の苗字だったかどうか、はっきりとはわかりませんでした。

 小さい頃からずっと、わたしは人と話すのが苦手です。
 本を読むのは好きで、言葉を覚えるのも早い方だったと母から聞いています。文章を書くのも嫌いではありません。けれども、人と話すとなるとどうしても何度も何度もつかえてしまったり、自分が何を言っているのかわからなくなったり、ちゃんと伝わっているか不安になったりして、うまくいきません。ほかの人が話しているのを聞くのは好きなのに、いざ自分が話そうとするとどうにも噛み合わないのです。どうしてこんなに話すのが下手なのかと、悲しく思うのと同時に、不思議にも感じます。
 それでも、幸運なことに、言葉にこだわらなくてもいいんだと教えてくれる人に出会ったことがありました。
 それが先生――わたしが子どもの頃に通っていたピアノ教室の先生です。
 そもそもなぜわたしがピアノ教室に通うことになったのかは覚えていません。母は楽器の経験者というわけではなかったようですし、わたしがピアノを習い始めてからも、一応「ちゃんと練習しなさいよ」と時々言うほかは、練習の中身について口出しすることはいっさいありませんでした。音楽の道を目指してほしいとも思われていなかったことでしょう。
 もしかすると、当時(今もですが)なかなか周りの人とのコミュニケーションがうまく取れなかったわたしに手を焼いた母が、何か習い事でもさせたら変わるのではないかと思ったのかもしれません。あるいはもっと単純に、そんなわたしの面倒を四六時中見るのが大変だったので、週に一日でも誰かに投げたかったのかもしれませんが。
 先生は、歳はいくつぐらいだったかはっきりとはわかりませんが、物腰の柔らかい男の人で、奥さんと、私よりも五つほど年下の男の子と、ラブラドールレトリバーの女の子の三人と一匹で、小学校の近くに住んでいました。先生は学校の先生でもあって、その小学校でも音楽を教えていたことがあったそうです。わたしがピアノ教室に通い始めた時期にはもう別の学校に移っていたので、わたし自身は先生から音楽の授業を受けることはありませんでしたが。
 元々は、その小学校の生徒たちのために放課後や休日に音楽室を開放してピアノを教えていたのが、いつからかこういう形のピアノ教室になったのだと先生は懐かしそうな表情で教えてくれました。先生のご自宅の一室にグランドピアノが置かれていて、そこがわたしたちの教室でした。
 毎週土曜日、初めの数年は三十分程度、わたしが少し大きくなってからはだいたい一時間から二時間ぐらいのレッスン中、先生はただピアノの弾き方を教えてくれるだけでなく、クラシック、ジャズ、時にはロックやポップス、さらには民謡まで、いろいろな音楽の話をしてくれました。ずっしりとしたグランドピアノの蓋を開き、鍵盤の上で自在に指を躍らせて素敵な曲を聞かせてくれたことも、わたしはよく覚えています。
 そうして先生の鳴らす音は、たとえばCDで聴いたピアニストの演奏や、のちに観に行ったコンサートで聴いたどの音とも違っていました。音の粒のひとつひとつが、ちらちらと光ってはじけるような感覚。わたしは先生の音を聴くとき、水と光のある風景を連想しました。うんと小さかった頃、父が運転する車の後部座席から見た大きな川、その水面に瞬く陽光。あるいは学校帰りに天気雨に降られて昇降口で途方に暮れながら見た、白く光る雨粒。それから、いつかの夏の日、母がホースで庭に水を撒いていた時に、偶然できた虹のような、そんなシーンを。わたしにとってそれは、先生の音からでないと感じることのできないものでした。
 そんな先生は、生徒を褒めて伸ばすのがうまかったようで、わたしがまだまったくの初心者だった頃からしきりに褒めてくれました。
「あなたの弾くピアノの音にはなんだか人懐っこさがありますね」
「ひとなつこさ?」
「まだ習い始めたばかりなのに、もっと聴きたいと思うような音を鳴らせるのはすごいことですよ。これからが楽しみですね」
 ちいさな教え子にもていねいな言葉づかいで話してくれる人でした。
 とはいえ、わたしはピアノ教室に通い始めてからも相変わらず話すのが下手な子どもで、先生の前でもやはり普段はほとんどまともに言葉を発したことがありませんでした。先生の言葉に対して頷いたり首を横に振ったり、それが、ピアノを弾くこと以外でのわたしの精一杯の意思表示だったといっても過言ではないと思います。ときどき、ほんとうにときどきだけ、こういう曲が弾きたい、とか、ほんとはこういうふうに演奏したいのにうまくできない、とか、何度も言葉に迷いながら、息継ぎしながら、その割にはとても短い文章で、わたしは話したのです。先生はそれを見兼ねてか、無理することはないのだと度々わたしに言って聞かせました。
「そんなに、無理に喋らなきゃ、と思わなくていいんです。あなたの話す言葉は、じゅうぶん誠実で信頼のおけるものだから。あなたは、自分は話すのが苦手だと思っているんだろうけど、それでもよく考えて言葉を選んできちんと伝えようとしているでしょう。伝えたいという気持ちはきっと人一倍強い。だから、大丈夫ですよ、焦らず、無理せず、言葉が出てくるのを待つんです。わかってくれる人はたくさんいます」
 それでもきゅっと口を結んで鍵盤を見つめるわたしに、先生は言いました。
「もし、どうしても言葉で伝えるのが難しいことがあるなら、それでも、あなたは音楽で伝えるという方法も持っています。あれこれ考えてわからなくなってしまったら、音を鳴らしてみてください」
 ほら、こんなふうに、と先生がぽろぽろ弾いたメロディを真似て、わたしもいくつか音を鳴らしました。先生は、そうそう、と笑いました。
「あなたの中にある、伝えたいという気持ちは、あなたの指から、鍵盤をつたって、音楽にのって広がっていきます。あなたはもうその方法を知っているんですよ」
 先生はほんとうにやさしい方でしたが、この時の話については、まだわたしにはピンときていません。伝えたいという気持ちが人一倍強いというのも、それを音楽を通して伝える方法をわたしが知っていたというのも。
 それでも、先生から音楽の話やピアノの話を聞いたり、演奏を聞かせてもらったりする時間はとても楽しいものでした。そして、わたしが言葉では思うように伝えられないと感じていたものを指先で奏でる方法を――少なくとも先生の言葉を信じるなら――知ることができたのも、これから先も時々は先生のように、ゆっくりわたしのことを待って話してくれる人と出会えるかもしれないという希望を、一応は持てるようになったのも、先生のおかげだと思っています。

 高校を卒業したわたしは市役所で働くようになり、それと同時にピアノ教室をやめてしまいました。
 生徒さんたちの中には、社会人になってもピアノを続けている人も少なくなかったようですが、わたしには仕事をしながら練習を続ける自信がありませんでしたし、その頃には一応、多少は人と喋れるようにもなってきて、おそらく母がわたしをピアノ教室に通わせた目的は達成できただろうと思ったのでした。
「あなたにはできれば、習うのをやめてもピアノには触れていてほしいなあ」
 最後のレッスンの日、先生はそう言いました。わたしは小さくうなずきます。
「そうですね……できれば、趣味でたまに弾くぐらいはしたいです。好きな曲もたくさんできましたし」
「プロを目指すために技術を磨くとか、維持しないといけない人であれば、やはり毎日続けないといけないでしょう。でもただ自分が好きで引くぶんには、たまに触るぐらいで何も問題ありませんよ。繰り返し弾いた曲、思い入れを持って弾いた曲というのは案外指がちゃんと覚えているものです」
「そういうものですか」
 わたしはぼーっとしていて忘れっぽいので、せっかくこれまでに練習した曲もすぐに忘れてしまうのではないかと思っていました。
「ピアノをやってきて、どうでしたか、楽しかったですか」
 いきなり大事な質問をされたように感じて少し戸惑いましたが、わたしはできるだけはっきりと声を出して、はい、と答えました。
「それはよかった」
 先生は目尻に皺を寄せて笑いました。
「あなたは、普段はよく喋る人ではなかったかもしれないけれど、演奏はとても表情豊かで、時々とてもお喋りで、楽しそうだった――いいなあ、こんなふうに弾けるのは、と思うんですよ。私はあなたたちに、どうやって弾いたらいいか説明したり実際に弾いて見せたりもしますけど、どうしても頭で考える理屈が先に来てしまうんです。そうではなくて、あなたのように、内にあるものから鳴らす音までが直結しているような、その感覚がある人というのを、私はうらやましいと思います。そういう人の鳴らす音には、ほかにない魅力がある」
 この時の先生はいつもより少し饒舌で、その声の響きはいつもより少し鋭かったような気がします。
「自覚しているものではないのかもしれませんね。でもそんな音を鳴らすことのできるあなたの感覚や感性というのは、今より少しピアノから離れるようになったからといってなくなりませんよ、きっと」
「でも……やっぱり、今みたいに練習しなくなったら、弾き方も忘れてしまいそうです」
 弾き方のことしか口にしませんでしたが、わたしは、自分でもよくわかっていない感覚や感性というものが、ピアノから離れても残るものなのか、というところも、ほんとうのところは気になっていました。
「もし頭では忘れてしまったとしても、あなたから音楽そのものが消えてしまうということはないと思いますよ。ちょっと鍵盤を触っていたら思い出せます。そうして、たまに思い出してあげるのは、きっとあなた自身にとっても、いいことです」
 先生はいつもの口調に戻ってそう言うと、ちらりと時計に目をやり、じゃあ、あと一回通して終わりましょうか、と譜面に視線を戻しました。
 はい、と返事をして鍵盤に向き直る前の一瞬、先生の髪に白髪が混じっているのが見えて、わたしはここに十年以上通っていたんだなと、急にその年月の長さを実感したのを覚えています。

 思わぬところで「先生の音」を聴いたあと、わたしは久しぶりにピアノを触ってみたくなりました。
 家に帰って、アップライトピアノの蓋を開けて、真ん中のドの音をポーンと鳴らすと、少し濁って聞こえます。
 わたしがピアノ教室をやめてからというもの、それまでのように頻繁にはこのピアノを調律しなくなっていたのでした。特にここ数年はずっとほったらかしになっていて、つまりはわたし自身もその間ピアノに触っていなかったのかと、今さらのように気がついて、なんだか申し訳なくなりました。
 改めて椅子の高さを調節して座り、いつも基礎練習で弾いていたハノンをやってみようとすると、どうにも指が回らず、リズムはガタガタです。わかってはいたけれどやっぱり技術は鈍ってしまうんだなと、わたしは苦笑しました。
「あれ、ピアノ弾いてるの。珍しい」
 音を聞きつけてか、部屋を覗きに来たのは母でした。
「うーん。なんとなく、弾きたいなと思って」
「まだ弾けるものなの?」
「いや、全然。指が動かないや」
「あんたみたいにあれだけたくさん練習してても、やっぱり時間がたつと忘れちゃうもんなのねえ」
 母はわたしが思っていたのと同じようなことを言って出ていきました。
 そうだよなあ、忘れちゃうもんなんだなあ。
 わたしは手のひらを何度かグーパーしてみたり、テンポをかなり遅くして同じフレーズを弾きなおしたりしてみましたが、どうしても「こんな感じではなかった気がする」という引っ掛かりを覚えます。
 先生がうらやましがっていた「表情豊かでお喋りで楽しそうな音」というのを、かつてのわたしはどうやって鳴らしていたのか、まったく見当もつかないのでした。

 春風が気持ちの良いこの時期、早く仕事を終えて帰れる夜は少し散歩がてら回り道をしたくなるもので、わたしは時々、この前「先生の音」が聞こえたあたりを通ってみるようになっていました。けれどもあの音はそれきり聞こえてこないので、一ヶ月ほど経った頃には気のせいだったのかなと思い始めていたのでした。
 一方で、久しぶりに触るようになったピアノはというと、一度弾いてまたほったらかしというのもピアノに悪い気がして、週末ごとに少しずつ練習してみることにしました。初めのうちは驚くほど回らなかった指は、徐々に動くようになってきています。けれども、どこか、以前はこんな感じではなかったような気がして、何か以前はあったはずのものが抜け落ちてしまったような違和感に首を傾げるのでした。調律が狂ってきているせいかとも思い、調律師さんに久しぶりに来てもらおうと連絡してみたものの、来月でないと予定が合わず、ひとまず見送りになりました。
 そうしている間に、四月も最後の週末になっていました。
 近くの桜並木はもうすっかり葉桜になり、道端をつつじが彩る時期です。わたしはなんとなく陽気になり、そうだ、この前のお菓子屋さんのチーズケーキが食べたいな、と思って、出かけることにしました。
 春というよりは初夏といってもいいような気温で、日差しがまぶしく感じます。歩いていたら少し汗ばむぐらいでした。
 道すがら、あのたまご色の壁の家があるあたりに差し掛かった時、わたしはおや、と足をとめました。
 以前ここで聞いたのと同じ、「先生の音」が聞こえたのです。それも、今度はこの前よりも長く。
 わたしは少しゆっくり歩きながら、その音がどこから聞こえてくるのか探しました。ピアノの音色は何かの曲を奏でているもののようでしたが、それはおそらくわたしの知らない曲でした。
 音はやはり、たまご色の家の二階から聞こえてくるようでした。
 建物の壁を隔てて聞く音はくぐもっていて、それがほんとうに先生のものなのか、たまたまそれらしく聞こえるだけなのかははっきりとはわかりません。確かめようにも、まったく知らない家のインターホンを突然押して、「ピアノを弾いているのはどなたですか」と尋ねるなんて、できるはずがありませんでした。
 どうしようかと思いながら立ち尽くしていると、ちょうどその時、玄関の扉が開きました。
 出てきたのは、杖をついた男性でした。
 先生。
 呼びかけたいと思うのに、わたしは石にでもされたように動けませんでした。
 最後のレッスンからもう何年が経ったんだろう、とわたしは記憶を辿ります。あの時よりも白髪が増えて、少し痩せたように見えますが、間違いなく先生でした。
 でも先生、どうして杖なんてついているんですか。それに、あのピアノを弾いているのは、先生ではないんですか。
 先生は、右手に持った杖を門扉に立てかけ、空いた右手で郵便受けから何通かの封筒や葉書を取り出してそれを眺めると、それを器用に指に挟んでまた杖を持ちました。そして家の中に戻ろうと体の向きを変え――その瞬間に、わたしのほうを見ました。先生の目が少し見開かれたように思いました。
「……こんにちは」
 先に口を開いたのは先生でした。先生は一度見開かれた目を細めながら続けました。
「ああ、驚いたなあ。何年ぶりですかね」
 わたしは黙ったまま、少し頭を下げました。先生が覚えていてくれたとわかって嬉しい反面、なんでもないような調子で話しかけられたことに、わたしは少し戸惑いました。それでも先生に声をかけてもらって、わたしは辛うじて石から人間に戻りました。
「お久しぶりです、あの、先生は、こちらに住んで……?」
「一昨年引っ越してきたんです。前の家では大きすぎて……」
 先生はそこで初めて、少し言葉を継ぐのをためらうようなそぶりを見せました。
「ちょっと、身体を壊してしまったんです。それで教室も閉めてしまいました」
 静かに、苦笑いのような照れ笑いのような表情を浮かべて先生は言いました。
「ピアノは……」
 そう聞きかけた瞬間にわたしは、迷った挙句にいちばん口にすべきではない言葉を選んでしまったのではないかという不安に襲われました。喉の奥のほうが凍りそうに冷たくなりました。
「もう、弾いていません。うちの二階に置いてありますが、なかなか、階段を上るのもしんどいので――今は息子が弾いています」
 先生は、かすかに首を横に振り、穏やかな口調と微笑を保ったまま答えました。喉の奥から氷が広がって、体の内側を覆いつくしていくようでした。

 時間があれば家族にも会っていきませんか、と先生は声をかけてくれましたが、わたしは、すみません、また今度、と答えるのがやっとでした。
 先生は、そうですか、またいつでも顔を見せに来てください、家族も、昔の生徒たちに会えると嬉しそうですから、と、表情も声のトーンも以前と同じ調子のままそう言って、家の中に戻っていきました。ずっと体の脇に添えられたまま動かない先生の左手が、わたしの目に映りました。
 先生の姿が見えなくなると、わたしは家の前を過ぎて、とにかく歩きました。お菓子屋さんに行こうと思っていたのもすっかり忘れて、とにかく、止まったらいけない、としか思えずに足を進めました。
 立ち止まったら、その拍子にわたしの中で凍りついているものに大きなひびが入って、そこから粉々に割れてしまうような気がしたのです。
 その時の感情をどう言ったらいいのかわかりません。それは、「先生」という呼びかけが出てこなかった瞬間に、もうわたしを捕らえていました。なんとか飲み込まれないようにするのと、自分の中で凍っている何かが割れてしまわないようにするのと、その両方で、わたしはただ歩くしかなかったのです。
 行くあてがあるわけでもないので、何も考えずに、ずっと道に沿って、時々思い出したように曲がったりしながら歩いていました。同じところを何度かぐるぐる回ったりもした気がします。首筋を汗がつたいましたが、暑さも喉の渇きも感じませんでした。少し寒気がするぐらいでした。指先が冷たくなっていました。
 どれぐらいの時間そうしていたのかわかりません。ふと、「ああ、疲れたな」と思いながら上を見上げると、いつの間にか初夏の日差しは消えて、大きな雲が空を覆っていました。我に返って辺りを見回すと、そこは小学校の裏の神社でした。この神社の目の前が、ピアノ教室のあったところ、かつての先生の家なのでした。見ると、まだ建物はありましたが、もう先生はここにはいないし、ピアノの音も聞こえてはこないのです。どっと全身の力が抜けて、わたしはそこにあったベンチに座り込みました。
 俯いた時、膝の上に水滴が落ちました。それが、降り出した雨なのか自分の涙なのかを考える気力もありませんでした。

 この季節にしては珍しく、雨の日が続きました。ゴールデンウイークの天気も危ぶまれるようです。わたしは特にどこへ行く予定があるわけでもないものの、やっぱり爽やかな五月晴れが恋しく思われます。
 天気が悪くなりかけていたあの日、先生と鉢合わせた後、わたしはひとしきり歩いて、歩き疲れたところでどうやらひとしきり泣いて、それからどうやって家に帰ったのかは覚えていませんが、何を思ったのかピアノの前に腰かけてぼんやりしていたようです。
「あら、いつの間に帰ってたの? チーズケーキは?」
 母に声をかけられて初めて、わたしは自分が出かけた目的を思い出しましたが、どちらにせよ買ってきていないのでかぶりを振りました。
 母は少し怪訝な面持ちで、ふうん、と言って部屋を去ろうとしましたが、「あ、そうだ」とこちらに向き直りました。
「調律師さんに連絡しといたからね。五月中旬になるっていうけど、予約取れたから」
 それだけ言い残して母は出ていきましたが、わたしにとって、それはもうどうでもいいことに思えました。
 もうピアノは弾いていない、と先生は言いました。わたしが先生の音なのではないかと思ったのは先生の息子さんが弾いていたものでした。先生が鳴らす音そのものは、もうどうしたって聞けません。
 この時、わたしがかつてピアノを弾けたのは、先生の音に応えたかったからで、そうしてわたしの音に先生がまた次の音で、あるいは言葉で、応えてくれていたからなのだと、いまさらのように知ったのです。
 平日はもとより、月が変わって連休が来てもピアノに見向きもしなくなったわたしを見て、母もさすがに心配になったのかもしれません。天気が悪い中、わざわざこの前のお菓子屋さんに行って、チーズケーキと、それからいくつか焼き菓子を買ってきてくれました。
「ああ、そういえばね、さっきびっくりしたんだけど」
 チーズケーキを食べ終えて紅茶を飲んでいると、母が思い出したように話し始めました。
「このお店でケーキ買って、帰る途中でさ、どこかのおうちでピアノ弾いてるのが聞こえてきて」
 わたしはどきりとしました。母が次に何を言い出すだろうかと思うと、少し怖くもあり、でも先生の弾くピアノを母はあまり聞いたことがなかったはずだからきっと別の話だろうとも考えながら、続きを待ちました。
「その音がね、なんか、あんたのピアノみたいでさ」
「え?」
 思ってもみなかった話でした。
「あんたがまだピアノ習ってた頃のこととか思い出しちゃったの、そうそう、こんなふうに、くるくる表情が変わる子どもみたいに弾いてたなって」
 わたしが先生の音だと思ったものが、母にはそう聞こえたのでしょうか。それとも、母が聞いたのはまた全然違う人のピアノだったのでしょうか。
「それって、どこ?」
「うん?」
「それ、どのへんで聴いたの」
「どのへんだったかなあ、なんか、新しい家ばっかりのところがあるでしょう。その中だったと思うな。あ、そうだ、一軒だけ黄色っていうかクリーム色っていうか、かわいい色のおうちがあって、ああこういう壁の色いいなって思いながら見てたの。そのあたりかな」
 母が聞いて、わたしみたいだと思ったというピアノの音は、ほとんど確実に、わたしが先生の音だと思ったもの――先生の息子さんが弾いているはずのピアノの音でした。
「どういうところが、似てた?」
 ほんとうは、先生がピアノをもう弾いていないという事実を未だに受け入れたくなかったし、だからあの音のことを思い出すのも嫌でした。それなのに一方ではなんだか気になってもいたのです。
「どういうところ? さっきも言ったけど……思いのままに表情が変わってく感じっていうか。わたしは楽器やってないし、詳しいことは知らないからね。でも、なんだろうねえ、あんた昔は今以上に喋らない子だったでしょう。でもあんたの弾くピアノ聴いてるときは、いろんな感情がきらきらしてて、こう、カラフルな、踊ってるみたいなイメージ、それがね、好きだったんだけど。お母さん、あんたのピアノのファンだったんだから」
 母からわたしのピアノについての感想を聞くのは初めてで、先生が以前話してくれたことと重なるところもあって、わたしはぽかんとしてしまいました。
「発表会でもね、もちろん技術的にはあんたよりずっと上の人はいっぱいいたのよ。音も、もっと力強い音からやさしい音まで幅広く使い分けられる人だっていたし。でも、あんたの音がいちばん好きだったな。聴いてて自然とこっちの顔も動いちゃうの。先生といい勝負だった」
 先生、という単語に、わたしの心臓は大きく跳ねました。
「わたしの音、先生と似てた?」
 口に出してから、そんなことを聞くつもりではなかったのに、と思いましたが、あるいは、もしかしたらわたしがほんとうに聞きたかったことはそれだったのかもしれません。
「ううん、単純に似てたかって言うとちょっとわからないけど……でも、何度か聞いた先生のピアノと同じぐらい、あんたのピアノは、そうだなあ、なんか、弾いてる人の持っているものが全部、音楽になってるって感じがしたね。下手したら先生よりも、あんたの音のほうが、子どもだからかわかんないけど、素直で瑞々しかった気がする。親バカかもしれないけどね」
 わたしは黙ったまま、マグカップの底に残った紅茶の葉を見つめていました。
「ピアノ習わせてよかったなって、思ってたのよ。物静かな子だけど、こんなにきらきらしたものを、ちゃあんと持ってるんだって、そうでなきゃわからなかったかもしれないでしょう」
 あの音と同じような響きが、わたしのピアノにあったのかもしれない。それはわたしの胸を高鳴らせました。とはいえ、母は音楽に疎いので、単純にピアノの音といえばわたしが弾いていた音を連想したというだけなのかもしれません。きっとそちらの線のほうが強いでしょう。
 それでも、わたしはもう一度、あの音を聴いて確かめたいと思い始めていました。

 あの音をもう一度聴きたい、とは思ったものの、やはり改めて先生の家に向かうのは、わたしにとって相当な勇気を要するものでした。
 連休も残り二日になった日、朝起きて窓を開けると、空はまだ雲に覆われていますが、久しぶりに雨は止んでいました。雲間からうっすらと滲んでくる陽光で、昨日までよりも少しだけ空が明るく感じます。だからといって特になんの根拠にもなりませんが、わたしはその空を見て今日ならいけるんじゃないかと思いました。
 直感のままに家を出てみましたが、ほんの五分ほど歩いたところで急に苦しくなってきました。先生のところへ行って、わたしはどうするつもりなんだろうか、先生に何を話したらいいんだろうか、あるいは最初の時みたいに漏れ聞こえてくるピアノの音だけを聴いて、それで帰ってこようか、と、ぐるぐると考え出しました。でも、最初の時もこの前も、たまたま通りがかった時にピアノが聞こえてきたとはいえ、今日また同じようにわたしが通るタイミングで、誰かが、いや、先生のお子さんが、ピアノを弾いているとは限りません。そうしたら、ちゃんとインターホンを押して、先生に会わないと、ただその家の前まで行って帰ってくるというだけになってしまうかもしれない……。
 そうして頭の中で右往左往しているうち、わたしの足は先生の家から遠ざかっていました。時折水溜まりを避けたり、そこに映った雲が風に流れていくのを見つめたりしながら、またこの前のようにただ歩いて、気づいたら、わたしはまた、昔の先生の家のほうへ来ていました。
 あの神社と、先生の家だったところの間を抜けて、わたしはなお歩きました。少し行くと小学校があります。
 正門の見えるところまできて、わたしは足をとめました。
 門の傍らに立っている人影がふたつ。一人は杖をついています。もう一人は、高校生か大学生ぐらいの男性です。
「先生?」
 わたしはつい声に出して呟いていました。おそるおそる、そのまま正門のほうへ向かいます。ほんの数十メートルが、途方もなく遠く思えました。
 先生がこちらを見ました。隣に立っている男性も。先生は、おや、という顔をして、それから少し照れたように笑いました。
「また偶然ですね。見られてしまったな」
「先生、どうして……」
 どうしてこんなところに。
「一種のリハビリなんですよ、息子に付き合ってもらって」
 そう言って先生は笑います。わたしは呆気にとられたまま、先生と、それから隣の男性の顔を見比べました。この人が先生の息子さん? そういえば、小さい頃の面影があるような気もします。
「職場まで歩いて通勤できるようにね」
 職場? わたしはまた混乱しました。
「そう。今年から、またこの学校で音楽を教えるようになったんです」
「えっ……」
「身体がこういう状態になってしまって、もう私は自分で演奏はできません。でも、音楽の話は幸いまだできます。ほかの先生や児童たちの助けも借りながらにはなりますが、うまく工夫すればまたやっていけそうだと――それで、戻ることにしたんですよ」
 そう話す先生の面持ちは、ピアノ教室でいろいろな音楽のことを話して聞かせてくれていた時と同じであるような気がしました。
「ただ、恥ずかしい話、なかなか自分の足で通勤するのはしんどくて、妻や、息子に頼ってしまっていたんですけどね――こうなるなら引っ越さなくてよかったのにと家族にもさんざん言われました」
 先生が苦笑交じりにそう言いながら息子さんのほうを見やったので、わたしもつられて彼のほうを見ました。彼はなぜか妙に恐縮した様子でぺこりと頭を下げました。
「彼も、もう自分の進む道を決めたようなのでね、私も改めて、自分で歩けるようにならなくてはと思ったんです」
 わたしは、まだぽかんと口を開けたまま、何と答えたらいいのかもわからずに立っていましたが、息子さんを見る先生の目がやけにいたずらっぽく、楽しそうで、徐々に緊張がほぐれてきました。
「ピアノをやっていくそうですよ、彼は」
 息子さんは、余計なことを話さないでくれよとでも言いたげに顔をしかめましたが、小さくうなずきました。
「あの、この前のピアノも、そうなんですよね」
 思わず聞いてしまってから、言葉足らずだったかなと反省しましたが、彼が気まずそうな顔をしながらももう一度うなずいてくれたので、少しほっとしました。
「そうだ、この間、うちの前で話した時には彼が練習中でした……私が言うのもなんですが、いいピアノを弾くんですよ。あなたの音とも少し似ていますね、感情の乗せ方や、音から感じられる色合いのようなものが」
 先生が母と同じようなことを言うので、わたしはまたはっとしました。
「わたしは……先生の音に似ていると、思いました」
「彼のピアノが、ですか」
 わたしはゆっくりと、大きくうなずきました。先生は少し意外そうな顔をしてから、ははっと軽く声を上げて笑います。
「私のピアノが、あなたにそう聞こえていたのなら、それは嬉しいですね」
 そう言って、少し上を向いて目を細めました。朝のうち空を覆っていた雲の大半は、気づけばどこかへ流れていったようです。風が吹き抜けるたび、水溜まりの上にさざなみが立って、太陽がちらちら反射します。
「あなたがうちの教室に通うことになった時、あなたのお母さんに言われました。あなたは話すことが苦手だから、ピアノの前では安心して自分の好きに表現できるようにさせてあげてほしいと」
 それはわたしには初耳でした。
「でも、私が敢えてそうしようと意識するまでもなく、あなたの弾くピアノの音には、いきいきとした、色鮮やかで瑞々しい感情が、もう吹き込まれていました。いつかあなたにもそう言ったことがありませんでしたか。あれはほんとうに、私の本心からの羨望です」
 ピアノをやっていくという先生の息子さんもいる前でそんなふうに言われて、今度はわたしが少し気まずい顔をする番でした。くすぐったいような、泣きたいような、おかしな気分でした。
 グラウンドで少年サッカーの試合か何かが始まったようで、ボールを蹴る音と、わあっという子どもたちの声が聞こえてきます。先生の息子さんは、居心地が悪かったのか気を遣ってくださったのか、少しわたしと先生から離れて、グラウンドへ歩み寄って試合の様子を見ています。先生もグラウンドのほうを振り向いて、しばらくわたしたちはそのまま立ち尽くしていました。
「先生、もう、ピアノは全然触っていないんですか」
 こんなにすんなりと、聞きたくても聞けなかった質問が自分の口から出てきたことに、わたしは驚きました。ややあって、先生は「ああ」と溜息のような声を漏らし、それから話し始めました。
「左手が動かないんです――自分で好きに弾くだけなら、右手だけで弾くこともできるかもしれません。でもそれでは、私は『ピアノの先生』としてじゅうぶんな仕事ができない。だからピアノ教室はやめにしてしまいましたし、私はもともとピアニストでもありませんから、教室をやらないなら、敢えて右手だけで弾き続ける理由もないと思ったんです――この前話した通り、ピアノは今の家の二階にあって、そこに上がるのも私には一苦労ですからね」
 先生はグラウンドのほうを見つめたまま答えます。
「わたしは、先生が好きに弾く音をまた聴きたいです」
 怒らせてしまうかもしれない、傷つけてしまうかもしれない、という不安が一瞬頭をよぎりましたが、それよりも先に、言葉が出てきていました。いま、わたしの前には鍵盤はないし、あったとしても以前のようには弾けない。だから、言葉でしか伝えられないんだと覚悟しました。
「わたしも、もう一度、弾きます。だから」
 だから。だから? ――勢い込んで話し始めたのに、わたしはそこに続くものを見つけられずに止まってしまいました。先生は黙ったままです。グラウンドからピーッと鋭い笛の音がしました。
 気を悪くされたのかと思いかけて、すぐに、あ、違う、と気づきました。教室に通っていた時もそうでした。先生は、わたしが話の途中で行き詰まってしまうとき、こうして待ってくれていたのでした。わたしは絞り出すように言葉を継ぎました。
「先生と、また、ピアノで話したいです。習ってた頃に比べたら、ずっと下手になってると思います。でも、また、聴きたいし、鳴らしてみたいです」
 ボールを蹴る音に続いてひときわ大きな歓声が上がりました。ゴールが決まったのかもしれません。
 不意に先生がわたしの名前を呼びました。はい、と言おうとしたら咄嗟にうまく声が出せず、息が抜けただけのような「はい」になってしまいました。先生は少し笑って続けます。
「あなたはきっと、前とはもしかすると違うかもしれない、でもやはりいい音を鳴らせると思います。それに応えるだけのピアノは、今の私には弾けないでしょうけど……それでよければ、話しましょうか」
 先生の言葉にうなずいた時、なぜか突然、今なら昔のように弾けるんじゃないかという予感が――ほとんど確信に近いような、そんな予感がしました。もちろん、速く弾こうとしたら指がもつれてしまうかもしれないし、かつて暗譜した曲もすらすらとは弾けなくなっているでしょう。それでも、わたしの弾き方を、わたしがすんなりとは言葉にできなかったものを音にするその方法を、わたしはまだ思い出せる、ちゃんと覚えている。最後のレッスンの日に、先生が言った通りに。

 グラウンドからもう一度歓声が上がって、両チームの点が決まったのを見届けたらしい息子さんが、こちらに歩いてきます。
「せっかくだから、彼の演奏も聴いてあげてくださいね」
 先生の提案に、彼はまたちょっときまりの悪そうな顔をしましたが、「よかったら」と小さく呟くように言ってくれました。わたしは、今度ははっきりと、はい、と答えました。
 そうしてわたしたちは、陽光がきらめく雨上がりの道を、ゆっくりと歩き出したのです。

書くことを続けるために使わせていただきます。